070 学校・噂・遭遇
メアは水浴びをし、昼食を取り、夕方の魔術特訓のために休憩する。胃の中の内容物を消化するまでに始めてしまうと酷いことになるためだ。夕食の時間がやや遅くなってしまうが仕方なし。だらだらとした長時間訓練より負荷の高い詰め込みがいい、とレオゥは言っていたため、時間の問題はない。
寝台に寝転び図書塔で借りてきた本を読んでいると、同じように寝台に寝転がっているヴァーウォーカが話しかけてきた。
「なあなあ、メアなんかすごいことになってるらしいな」
「凄いことって?」
「負けたら奴隷の大勝負をするらしいじゃん。組内の不良を更生させるためにさ」
メアは本を閉じた。知られていることは許容範囲だったが、だいぶ情報が歪んで伝わっている。
「ちょっと違う。人に迷惑かけるなって言いたいんだ。それだけ」
「何も違わねーぜ? いやはや男気溢れるというか、真面目ちゃんというか。そんなに余裕そうなんだ?」
「余裕ではないよ。ってかなんで知ってんの?」
「花組の変な話し方するやつ、フッサだっけか。宣伝してるぜ。俺も張らないかって誘われた」
「フッサめ……アウェアに許されたと思って好き勝手してるなぁ」
さすがにそこまで面白がられるとメアにとっても多少は不快だった。金儲けのために他の組にまで喧伝されていることも。ただ、フッサなら仕方ないか、という諦めもある。そのため、メアはため息を吐くに留めておいた。
直後、メアの下の寝台から声がする。
「俺も聞いたぞ。あの下民め」
キュッフェだ。まだ明るいとはいえ、キュッフェが世間話に乗ってきたことにメアとヴァーウォーカは目を白黒させる。
「そ、そう。虹組にも行ったんだ」
「あの勢い、下手すると上級生にまで行ってそうだったからな」
「お騒がせしてごめん。フッサ、ちょっと欲望に忠実で調子に乗るところがあって」
「全くだ。不快過ぎて殺そうかと思ったぞ」
「落ち着けキュッフェ様。いくらキュッフェ様とはいえ殺人はもみ消せないだろ」
「だから我慢した。ウィドドンミョーザ領内だったら適当に理由つけて獄中死させていた」
メアとヴァーウォーカは口を噤んだ。二人はキュッフェがどの程度権力を持っているのかは知らないが、本気でやってもおかしくないとは思ったからだ。
乾いた愛想笑いをしながら、ヴァーウォーカはメアの方に視線を戻す。
「にしても、一体なんでそんなに? 気になる女の子が手を出されたりしたのか?」
「いやー、別に」
「下僕は虐めが気に要らんらしい。下々の争いなど放っておけばいいものを、難儀な性格だ。ザイカ、だったか? あの卑劣な臆病者の名は。まったく、世の偽善者が聞こえのいい言葉を吐くがゆえに、被害者ぶっていれば誰かが助けてくれるなどと驕る馬鹿が生まれるんだ。滅べ」
「そんな言い方はないよ、キュッフェ様」
あまりの言い様に、メアは思わず強い口調になってしまった。だが、キュッフェから返答はなく、メアが下段を覗き込むとキュッフェは布団を頭まで被っていた。どうやら本気で寝る体勢に入ったらしい。
メアとヴァーウォーカが顔を見合わせていると、部屋の扉が叩かれた。どうやら時間らしい、とメアが寝台を降りて扉を開けると、案の定レオゥが立っていた。
「ごめん、今行く」
「おう。メア借りてくな」
「特訓がんばっちくりー」
メアはヴァーウォーカの覇気のない応援を背に、寮を出た。
いつもの敷地へと歩いていると、レオゥがぽつりと呟いた。
「ザイカのためなのか?」
メアは、立ち聞きしていたのか、と聞き返したりはしなかった。部屋に入る前に耳に入ったのだろう。別に効かれて困る話ではなかったし、レオゥにもそのうち話そうと思っていたことではあるからだ。
「まあ、それも原因の一つではある」
「……はあ、急に突っかかるから何かあるだろうとは思ったが、そんなことか。メアって本当にお人よしだな」
「えっ、そこまで呆れられるようなことなの?」
「だって別にザイカと仲良くもないだろ」
「だからただの理由の一つだって。エナシが気に食わないのは最初っからだし、誰であろうと不当な嫌がらせを受けてたら見てて気分悪くならない?」
レオゥは頭を振った。心底呆れているようだった。
「だとしても、今更だろ。ザイカがあいつらの使い走りにされてたのなんて、入学直後からずっとだし」
「それは……なんでだろ。最近よく目に入ってたんだよね。で、一度目に入るともう毎日気になって気になって。最近とくに酷くない? 頻度も上がってる気がするし、人目を憚ってない気がする」
メアとしても不思議だった。確かに入学直後からそうしたことが起こっていたのは知っていたが、忙しい日々の中ですぐに忘れていたし、最近になるまで全く気にならなかった。なぜ今更、という問いは、メア自身が答えを探していた問いだ。
そんなメアにレオゥはぽつりと言う。
「名を呼べば想い人効果」
「なにそれ」
「人が口にしたり意識したりすると、その事象が多く発生するように感じる効果。運命の神は耳が多いなんて言われる所以だな。無意識が捉えた情報による未来予測が断片的に意識に伝わった結果ともいわれる」
「あ、運命の神様が全身に耳が描かれてるのってそういう理由だったんだ」
「いや、けどこの場合はもっと単純か。一度はっきりと認識してしまったから無意識の篩を通り抜けてくるようになっただけ。不快だからと見て見ぬふりしてたものを、ちゃんと見るようになってしまっただけか。面倒だな」
「面倒だねぇ」
「他人ごとじゃないだろ。夜燕のときも思ったが、そうやってなんでもかんでも手を出すのはやめた方が良い。そのうち蛇だと思って抓んだのが竜の尾だったってことになりかねない」
「今回引っ張ったのは犬の尻尾だから平気」
「狼じゃないといいな」
「狼でも勝てるから大丈夫」
言いながら歩いていると、不意にレオゥが立ち止まった。そして、急に歩く方向を変え、ずんずんと進み始める。
メアが慌てて追いかけると、その視線の先にはザイカがいた。
「名を呼べば想い人、ね」
「ザイカ!」
レオゥはザイカを呼び止める。ザイカは名前を呼ばれたことに驚き、頭を抱えてその場に屈みこむが、自分を呼んだのがレオゥだと気づくと安堵したように顔を上げた。しかし、後ろからメアが歩いてきているのを見ると、慌てて地面に手をついて逃げ出そうとする。
レオゥは走って前に回り込み、逃げ道を塞ぐ。なんとなくメアも走り、ザイカの後ろを取った。
前後を挟まれたザイカは怯えた表情で二人の方を見ている。
「ザイカ、エナシのことどう思ってる?」
レオゥの口からエナシの名前が出た瞬間、ザイカは癖のある金髪を振り乱しながら首を左右に振った。
「な、何とも思ってない! 全然! 友達! ただの友達!」
「本当か? ザイカはよくエナシたちから暴力を加えられてるし、食料を取られたり、宿題を写させられたりしてるだろ。片づけを一方的に押し付けられてもいる。そんなのが友達か?」
「あ、あんなのただの戯れだよ! 僕は小食だし、宿題の見せあいなんて、友達同士なら普通にやるだろ。僕は綺麗好きだし、暇だから、掃除だって、好きだし……」
涙目になって怒鳴るザイカだったが、その言葉の勢いはすぐになくなっていった。本心かどうかなど聞くまでもなかった。メアにもレオゥにも、自分を騙そうと必死になっているようにしか見えなかった。
だが、レオゥはそれを追求することはせず、メアの方に目を向ける。
「ほらな。ザイカはこういう奴だ。友達と仲良くしてるだけなんだよ。ザイカによるとな。無駄だよ」
「無駄だって断言するのはまだ早いよ」
「いいや、無駄だ。メアが要求したのは組内の輪を乱すな、だろ? 友達と仲良くしているだけだなんてエナシが宣って、ザイカがそれを肯定したらそれで終わりだ。メアが勝ったとしても何も変わらない」
メアは言い返せなかった。それを見てレオゥは再びザイカへと視線を戻す。
氷のような無表情で見下ろすレオゥ。その視線はザイカにとってエナシよりも恐ろしかった。自分へ危害を加えようとしている意思はないが、自分への興味もない。その辺の塵を見るような無機質な視線。それがザイカの劣等感を刺激する。
レオゥは感情の籠らない声で淡々と言う。
「ザイカ。お前生きていて恥ずかしくないのか? そうやって自分を騙して馬鹿にされていることを認めず、自分を心配してくれている声を無視して、自分の行動は全部悪い方向に向かうと諦めて、何もせずに妥協するだけ。そんなので生きているって言えるのか? ただ流されるなんてその辺の木の葉にだってできるんだぞ?」
「レ、レオゥ」
「戦わない人間に価値なんてない。世の中のすべては競争でできている。負けて当たり前なんて根性なしを求める人間なんていない。そんな奴に居場所なんてない。この一日をやり過ごせば、この一年をやり過ごせば、この学校生活をやり過ごせば、そう思ってないか? 違うぞ。違う。そうしてやり過ごした先は、またやり過ごさなければいけない日々が続くだけだ。死ぬまで一生続く、負け犬の日々だ」
「レオゥ!」
「ザイカ、俺はお前があまり好きじゃない。理由はお前が貧弱だからでも頭が悪いからでもない。剣を振るえないからでも魔術が扱えないからでもない。お前が腑抜けだからだ。戦うための努力すらしない人間だからだ。その醜く腐りかけている性根が気にいらない。この学校は最高に優しい場所だ。正常な規則が正常に運用され、善意に溢れた人間で満ちている。なのにお前はその中にあるほんのちょっとの悪意に自分から尻を差し出している。ここから出れば、メアやアウェアみたいな人間はほとんどいないぞ。俺みたいにお前を値踏みする人間か、エナシみたいにお前を使い捨てようとする人間ばかりだ」
「言い過ぎ! 言い過ぎだから! ほら、ザイカ泣いてる!」
メアはレオゥとザイカの間に割って入り、なんとかレオゥを宥めようとする。だが、レオゥはメアを押しのけ言葉を続けようと抵抗する。レオゥはメアに顔を押されながらも言葉を続ける。
「選べないぞ、ザイカ! そのままのお前じゃ、何も選べない。そして死ぬ間際に後悔するんだ、あのとき――」
「うわあああああああああん!」
しかし、その言葉を最後まで言い切ることはなかった。ザイカが二人に向かって殴りかかってきたからだ。涙と鼻水を流し、誰でも見てから避けられるような大振りな平手打ちを二人に繰り出したからだ。
そして――その一撃を食らった二人がはるか先にある食堂横の湖まで吹き飛んだからだ。
二人は湖を水切りの石のように何度も跳ね、着水。レオゥは混乱しながらも、自分に抱き着いたまま固まっているメアと一緒に岸に身を引き上げる。
水を吐くメアを横目に、レオゥは周囲を見回し、状況を把握する。
「い、今のは、なんだ? ザイカに、吹っ飛ばされた?」
「げほっ、がはっ」
「落ち着けメア、岸に上がってる。いや、ただ衝撃で吹っ飛ばされたって感じじゃないな。メア生きてるか? 内臓無事か?」
「おえっ、だ、大丈夫。驚いただけ。痛くはなくて、今の、何?」
「わからん。闘技か? いやでも、どう見ても素人の動作で、こんだけの威力の……まさか」
二人は同時にある単語に思い当たり、それを口にした。
「聖痕?」




