056 育舎・飼育委員・睡牛
軽い跳躍を繰り返しながら全身の関節をほぐす。武器格闘の授業が始まる直前のどこか固い空気の中、校庭には花組の生徒が思い思いの準備運動をしている。
レオゥは腕を胸の前で交差させたまま言った。
「そうか。複写本の販売はできなさそうか。じゃあ振り出しだな」
「そうなんだよね。どうしようかな、ほんと」
メアが思い切り前屈をすると、目の前に逆さになったエオミの顔があった。メアの背後にしゃがみこんで、メアの足の間からメアの方をじっと見てきている。
「ルールス君、放課後時間ない?」
「……あるけど」
「ほんじゃ、五限目の魂魄学の授業がおわったら育舎に集合ね!」
「う、うん」
それだけ言うとエオミはぱたぱたと女子の集団の方へと戻っていった。
レオゥは体を後ろに逸らせながら、やや上ずった声で言う。
「理由訊かなくてよかったのか?」
「そういえば」
「メアって本当に女の子が苦手だよな」
「苦手じゃない。今のはびっくりしただけ。というか誰だって股の間から顔覗き込まれたらびっくりするでしょ」
「まあびっくりはする。エオミってなんか独特だよな。間が。東の方の人の雰囲気かな」
メアは何度も頷いて同意を示した。
そんな緩んだ空気にくさびを打ち込むように、キケの重々しい怒鳴り声が響く。
「餓鬼共! 訓練を開始するぞ! 四列に並べ! 棒伏せ用意! 始めいっ!!」
放課後、メアとレオゥは育舎に向かっていた。
育舎は敷地内の北端にある巨大な建造物。一階建てだが天井が高く、二階建ての建物と同じ程度の高さに屋根がある。広さは格技館よりやや広い程度。採光のために南に面した壁が一面ガラス張りになっており、外からでも中の様子が良く見える。
生命学基礎の授業は座学ばかりであり、酪農実学で来るのは樹園ばかりなため、二人は建物内部に入ったことはまだ一度もなかった。そのため、メアは少し楽しみだった。
入り口で腕を組んで仁王立ちしていたエオミは二人を見て声を上げる。
「よくきた! タ君も来たんだね。らっしゃいらっしゃい」
「エオミ、これなんで俺呼ばれたの?」
「え? 言わなかったっけ。ルールス君はお小遣いほしいんでしょ? だから稼げるお仕事紹介しようかなって!」
「え、ああ。そう」
予想外な答えに、メアは戸惑った。だが、エオミの言葉が事実だとしたら願ってもない提案だ。断る理由はない。
「俺も勝手についてきたけどよかったか?」
「もち! のんびりしてってねー」
エオミは一切の笑みを崩さずに育舎の両面開きの正面扉を押し開いた。
中に入り、メアは感嘆の吐息を漏らした。
入ってすぐにある腰丈ほどの棚には金属製の檻が並び、中から硬い物が檻をひっかく音が響いている。対面には大きな円形の水槽があり、色とりどりの魚が時折取っ手のような水柱を上げている。挟んで反対側の壁には木製の籠が置いてあり、入ってきた人間に気づいて顔を上げた蜥蜴がいる。他にも、天井に吊り下げられた豪華な吊り燭台のような鳥籠、竜巻の塊のような模様を描く水鉢、すべてが硝子製の毒々しい色合いをした匣。それらすべてから生命の気配を感じる。
メアが足に熱を感じ視線を落とすと、そこには橙色の羽毛を持つ首の長い鳥が四羽いた。メアの横をすり抜けて素知らぬ顔で外に出ようとしている。
「あっ、止めて! ルールス君、扉閉めて!」
メアが慌てて扉を閉じると、その橙色の鳥は恨めしそうな顔でメアを見上げた。
「仄灯鴨の四兄弟。パー、ペェー、ポー、プー。隙あらば脱走しようとするんよね。他でご機嫌どろうにも欲しいもん聞いても答えてくれん問題児よ」
「ばーか」
先頭の一羽がメアを罵倒すると、列をなして別の方向へと歩いて行った。
メアが呆気に取られていると、入り口横の壺から声がした。
「エオミ、冠雀がまた逃げてたぞい」
ぎょっとしてそちらを見ると、鮮やかな紫色の蛸が壺から顔を出していた。その蛸は先端が平べったく湾曲した骨で自身の後頭部を掻きながら、エオミに向かって言葉を続ける。
「他は大丈夫じゃが、あいつだけ自由にしてたら示しがつかんじゃろ。パー坊たちが狡いとぼやいておる」
「言うてね、鍵閉めても勝手に開けちゃうけん、どうしようもないんよねー。それに、そもそもデの字は勝手に来て勝手に住み着いてるだけじゃけんのう。閉じ込めようとするのものう」
「専用の扉まで設えておいてその言い分は通らんじゃろ」
「勝手に正面扉開けられる方が困るんよ。しかたないんよ」
エオミは眉間にしわを寄せながら肩をすくめた。
そこで蛸はメアの方へ横長の瞳孔を向けた。
「新顔じゃな。儂はここの主、齧烏賊のメアじゃ。よろしく頼むぞ」
「あっはい」
「嘘よ、その子は主じゃない。主は名目上は飼育委員の先生じゃし、実際はヨッド飼育員さんじゃし、その子はただの蛸」
「ただの蛸ちゃうわい。二十年以上生きてる蛸じゃぞ。甲の系譜肢甲類十腕種、齧烏賊のメアじゃ」
ぷっとレオゥが笑いをこらえるかのように頬を膨らませた。その理由はメアも分かったが、突っ込むとややこしい話になりそうだったため飲み込んだ。
エオミは手を叩いて注目を集めると、素早く指を指す。
「そっちの匣には毒がある子が棲んどるから触らんといてね。こっちの子も機嫌悪いと怪我するけん気軽には近寄らんこと。あとそっちの仕切り布も開けんといて。逃げられたら大変じゃけん」
「だってよ、ルールス。気をつけろよ」
「はいはい、一度聞けばわかるよ、タ」
「ほんとうかぁ? だってぷぁっ」
直後、レオゥの顔面を水鉄砲が叩いた。勢いこそ強くないが、量がそれなりにあったためレオゥは後ろにすっ転んだ。
エオミは慌ててレオゥに手を貸して立たせる。
「ごめんごめん、言い忘れたけど、中央の水槽と同じ形の水槽の間には立たん方がええよ。回鮒が水柱飛ばして泳ぎ移ることがあるけん」
「……了解。うわ、魚臭い。生臭い」
相変わらず無表情ながらも、珍しく不機嫌そうな声色になっていることが愉快でメアはにやにやと笑った。
メアは澄んで水の入っている木桶の前にかがみこみ、エオミに声を掛ける。
「エオミ、この桶の水は使っても大丈夫? ほら、レオゥ、これで顔洗いなよ」
「駄目駄目駄目! ちょっ、ルールス君離れて!」
予想外のエオミの反応にメアが戸惑っていると、メアの目の前で水が球状になって浮かび上がった。
水霊だ。精霊類無形種。水を体として生きる霊種の一種。メアがただの水だと思ったそれは誤って飲み込むと最悪死に至る危険な生命だった。メアの地元でもたまに見かけるため、その危険性は良く知っていた。
メアは後ろに跳び退り後頭部を強かに金属製の檻に打ち付ける。驚きに檻の中の生命がぎゃあぎゃあと啼く。視界に星が舞う中手を前に構えるが、宙に浮かぶ水球は襲い掛かってきたりはしなかった。
三人が固唾を飲んでその様子を見つめていると、水球はやがて飽きたかのようにまた木桶に戻っていった。
メアが全身の力を抜いて床に座り込むと、エオミがメアの前に立って見下ろしてきた。
「ルールス君、うちが注意するのを忘れたのもあるけど、あんまり勝手に物触らんといてね」
「はい、すみません」
メアは素直に謝り、ゆっくりと立ち上がった。レオゥも頷きながら自身の袖で顔を拭いている。そんな二人の様子を見て、満足そうにエオミは頷いた。
メアは育舎を観察するのをやめ、本題に入る。
「で、俺たちは何をすればいいの?」
「この空の檻の中身を探すとか?」
レオゥは自身の倍ほどの高さのある檻をこんこんと叩く。その中身は空っぽだ。
しかし、エオミは少し沈んだ声で首を振る。
「ううん。その中にいた子はね、死んじゃったから」
悲しそうに眉を下げるエオミを見てレオゥの動きが止まった。最悪の初手だった。見ればしばらく使われていないことは明らかであり、その理由も想像に難くない。もう少し気を使うべきだったとレオゥは反省した。
同時に、メアも少し冷や汗がにじみ出てきた。その檻の大きさが、メアを襲いクァトラに切り殺された砲兜がちょうど入る大きさだったからだ。身を守るために仕方がなかったという言い訳はあるが、メアがさっさと避難していれば出会わなかったであろうことも事実。それを考えると、少しばかり後ろめたい。
メアは静寂に耐えられないように会話を繋ぐ。
「じゃじゃあ、何? こっちの部屋に何かあるとか?」
「違うよ。そっちは冷室。今日のお仕事はー、こちら!」
エオミが重そうな木製の扉を開けると、中は人が十人寝転べる程度の広さの小部屋になっていた。
メアとレオゥがエオミに続いて顔を覗き込ませると、中には大きな緑色の臥獣が三匹いた。体毛は若草色、首は短く胴は太く、胴回りにある腹側は薄く平たいようだ。その臥獣の体高は非常に高く、今は足を畳んで臥せている状態だというのにメアが背伸びしてやっと背中のてっぺんに届くかどうかというほど。そんな巨大な獣が乾いた藁の寝床ですやすやと眠っていた。
そして、視線を下に移すと他にも生命がいることがわかる。人間だ。その緑色の臥獣に中途半端にもたれかかる様な姿勢で、屈強な成人男性がうつ伏せになっている。
慌てるメアをエオミが手で制す。
「大丈夫、寝とるだけ。この子は睡牛。血徴は【誘眠】。近寄ると段々眠たくなってくるんよね。直で触るともう凄いんよ。不眠の人でも一発!」
「じゃあ、そっちの男の人は」
「この人は飼育員のヨッド飼育員。実質的なここの主じゃ。この子たちの毛の処理をしようとして睡魔に負けたとこ」
「あ、ああ、そう」
「タ君、ちょっとヨッドさんの足引っ張ってこっちに引き寄せてもらえる?」
「おう」
レオゥは恐る恐る近づき、ヨッドの両足を両脇に抱えると、入り口の方へ引き寄せた。ヨッドが睡牛から十分に離れたことを確認すると、エオミがヨッドをひっくり返して頬をぺちぺちと叩く。
「あらー、駄目そうじゃね。完全に夢の中じゃ。じゃあ予定外じゃけど三人でやるしかないか」
「えーっと、話をまとめると、これから三人がかりでこいつの毛刈りをするってこと?」
「毛刈りってほどのことはせんよ。櫛で全身を梳くだけ。でも、見ての通りすごく眠たくなるけえ、三人一組でこの作業はやる必要があるんよ」
「どういう役割分担だ?」
エオミは部屋の隅に転がっていた掌より大きな櫛と木製の平たい鞭を拾うと、二人に向かって差し出す。
「一人が梳く、一人がしばく、一人は見守る」
メアとレオゥは顔を見合わせた。
「梳くのは良いんだけど、しばくってのは?」
「眠っちゃうのを避けるにはしばくのが一番じゃけん。一番近づく梳き係の人をしばいて起こすのが役目」
「なるほど、それで近づくだけで影響があるなら、二人とも眠ってしまったときに備えて見守り係は必要か。合理的だな」
メアが挙手する。エオミはびしっとメアを指さした。
「あの、もうちょっと穏便なやり方はないの?」
「ないんよ。強いて言うなら歌を歌って気を紛らわせたり、香辛料鼻に詰めたり。でもやっぱしばくのが一番効くんよね」
「あっはい」
おそらく効くのだろう。それはメアにも理解できた。だが、エオミが振り回すたびに響くひゅんひゅんという風を切る音がその痛みを強く予感させる。
メアとレオゥの想いは一致していた。しばかれたくない、と。
「……じゃあどういう役割分担をするんだ? 具体的に言うと、しばかれる役目を誰がやる? 手決で決めるか?」
「レオゥ、俺、剣の素振り頑張っててさ。結構上手くやれると思う。任せて」
「嫌だよ。それめっちゃ痛いってことだろ。安心しろ、俺はメアに比べて非力だ。優しくしばいてやる」
「俺だって嫌だ」
「あ、梳く係はウチがやるよ。二人のどっちかがしばく係やってくくればええよ」
二人は同時にエオミを見た。それは本気なのかを確認するためだったが、エオミは特に無理をした様子もなく自分を見てくる二人に不思議そうに首を傾げている。
よく見ればエオミの腕にはあちこちに痣の痕がある。もしかしたら普段からこうした作業をやっているため慣れているのかもしれない。しかし、平均的な身長しかないメアとレオゥと比べてもエオミは頭一つ分は低い。そんな少女を木製の鞭で打ち据えるところを想像し、二人は慌てて頭を振った。
「いや、それはいい。エオミは見張り係やって」
「そうそう。レオゥが梳く係やるから」
メアとレオゥはお互いに見つめ合い、同時に拳を構えた。
「やむ、なし!」
二人は同時に右手を突き出した。
勝負は一撃でついた。
メアが出した手は剣。人差し指と中指だけ立てている。
一方、レオゥが出した手は人。立てているのは親指と小指のみ。
「人が剣に勝てるわけないんだよなぁ!」
「くっ、負けた……!」
エオミはメアの腕を掴んで天高く掲げ、レオゥは無表情なまま膝から崩れ落ちる。突如始まった手遊びの勝者と敗者は誰の目にも明白だった。
負けたレオゥは潔く道具を拾い、メアに鞭を手渡した。そして、制服の外套を脱いで袖まくりをする。
「あっ、かなり痛いけえ手加減気をつけてね。下手すると皮膚裂けるけん」
「聞きたくなかった」
「レオゥ、さっさと済まそう。俺も心が痛いかもしれない」
「俺は体が痛めつけられるんだよ。がたがた言うな」
二人は途端に激しくなる鼓動を感じながら、じりじりと睡牛に近づく。メアは半歩分レオゥより遠いためまだ影響は感じないが、それでもなんとなく圧を感じる。
及び腰の二人に、エオミはさらなる爆弾を投じる。
「もう一つ。タ君、梳いている最中、詩を吟じてね」
「待てなんだそれ何の意味がある」
「眠たいと詩を吟じれなくなるじゃろ? そしたらしばく」
「俺は目が覚めた状態でも詩を吟じれないぞ。というか詩を吟じたことなんてない」
「頑張れ! 頑張れレオゥ!」
「ルールス君、叩く側もするんよ? 二人とも駄目そうじゃったらうちが助け呼びに行くけん」
「嘘でしょ」
「ほいじゃ、頑張ろ。開始ー!」
気づけば睡牛に触れられるほど接敵していたレオゥは、櫛をその若草色の体毛に通しつつ、精一杯頭をひねる。
「え、えー、本日は天気が良く、やや空腹。って痛っ。なんで叩いた」
「いや、詩を吟じれてなかったから」
「メア、お前、憶えとけよ……」
「ルールス君も吟じなきゃ」
「うっす。おほん。邂逅犇めき、赤光陰り、跳ねる足音、首傾げ。無地の鏡面磨き上げるのは、粘つく命を舐める舌」
「お、おお? 出来は何ともじゃけどすらすらでてくるのええね」
「いや待て。それ古典魔術の詠唱だろ」
「なんのことでしょうか。私にはよくわかりません。レオゥ殿、手も口も止まってますよ」
「はああああああ……」
怨嗟の声と鞭の音と声援が響く中、半刻誓い時間をかけて戦い続け。三人はなんとか三匹分の毛の処理を完了したのだった。




