001 森・馬車・狼
ルゼンテーベ:(副詞)果てしなく。(形)細長い。広々とした。
ストルト:(動)見回す。ゆっくりと歩く。(名)観光。漫遊記。
青髭馬の牽く車が森の中の小道を駆ける。車の大きさは大人が優に六人は乗れるほどで、その大きな車を一匹で引くだけあって青髭馬も立派な体つきをしている。牽かれる車に屋根がなく、また、人が座る様の座席がないところを見ると、本来は人ではなく荷物を運ぶためのもののようだ。
車に乗るのは三人の人間。がっしりとした体つきの四十代の男と、顔が隠れるくらい頭巾を深く被った小柄な少女。そして、浅黒い肌をしたくすんだ金髪の少年。男は荷台の前方で馬の手綱を取り、少女と少年は腰丈ほどの木箱の間に挟まる様にして座り込んでいた。
金髪の少年――メアは灰色の瞳を対面に座る少女に向ける。
「……えーっと、君も学校に行くの?」
沈黙に耐えかねて話しかけてみたが、少女は返事をしない。それどころか微かに体を震わせただけで、顔を上げることすらしない。
「あ、あはは、答えるまでもよね、うん。ごめん、変な質問して」
同世代の少女という未知の生物を前にしてメアは乾いた笑いを漏らす。メアの住んでいた村には同世代の少女どころか子供がいなかったため、少女に対してどう接してよいかわからなかった。相手の表情が見えないことも対応の難易度を上げている。表情が見えないため何を考えているのかわからないのだ。
メアは、次はもう少し上手くやろう、と心に決めるが、具体的にどうするかなどは考えていなかった。
馬を操る男が豪快に笑う。
「しっかし坊主も危ないところだったな。間に合ったとしても入学式ギリギリだぞ? 一体どうしてこんなに遅くなったんだ?」
「僕は、くやばびえ? のまぴら、の包囲作戦がどうのこうのとか言われて船が遅れてしまって。本当は二日前には到着してる予定だったんですけど……」
「【六凶】か。あんなの戦おうとする方がおかしいというのに、お上の連中は見栄ばっかり張りやがる。それで海上封鎖で船便遅れか。坊主も災難だったなぁ」
「いえ、これに乗せていただけただけでも運が良かったです。定期の車はとっくに発車してしまっていたので、これがなければ歩くことになってました。確実に遅刻でした」
「荷馬車だから乗り心地は悪いだろうけどな、尻皮が腫れ上がるくらいは勘弁してくれ」
男の言う通り車はよく揺れるが、尻が痛くて耐えられないというほどではなかった。それはメアが乗るときに渡された座布団のおかげであり、こうしたものを常備しているということはメアたちのようなお客を乗せることがままあるのだろう。メアはそう推測し、その親切さに感動した。
「嬢ちゃんはどうだ? 何か不都合なことはあるか?」
男は前を向いたまま大声で話しかける。しかし、少女はやはり何も答えず、首を横に振るだけ。
その無礼さにメアは他人事ながらはらはらするが、男は特に気にした様子もなく、愉快そうに笑うだけだった。
不意に、青髭馬が鼻を鳴らす。それを聞いた男が急に周囲を見回し、険しい顔をして振り返った。
「まずいな、灰毛狼の群だ。近いぞ」
「狼!」
メアは思わず声をあげてしまった。
メアは実際に狼と会うのは初めてだ。だが、絵巻でなら見たことはあるし、その強さや賢さ、恐ろしさは何度も耳にしていた。なにより、目の前の屈強な男が警戒するような獣が群れを成して近づいてきている。その事実に自然とメアの体が強張る。
男はメアの腰にある剣にちらりと目をやると、真剣な顔で尋ねた。
「坊主、見栄を張らないで答えてくれ。これからすこーしばかり荒っぽいことになるが、坊主は戦えるか? 戦えないなら素直に言ってくれていい、あの学校の生徒になるからってぴかぴかの一年坊に何も期待なんてしてねぇ。ただ、状況を正確に知っておきてぇのよ。どうだ?」
その栗色の目は、まっすぐにメアの目を見据えていた。
メアは固く剣の柄を握りしめる。正直なところこういった状況の戦闘は初めてだ。だが、その剣は飾りかと言われれば首を横に振るし、こうしたことに怖気づくほど場慣れしていないわけでもなかった。
「荷台に飛び乗ろうとする狼を追い払うくらいなら、できます」
男はメアへと身を乗り出すと、鼻と鼻がふれあうくらいに顔を近づけて覗きこむ。しかし、メアは決して目を逸らさない。その様子に満足したらしい男はにかっと歯を見せて笑うと、また前を向いて青髭馬の鬣を撫でた。
「若いってのはいいなあ! 頼もしいぞ坊主!」
男は腰につけていた大きな革袋を外し、その中身を青髭馬に振りかける。突然のことにメアだけではなく少女もそちらを向くが、二人ともすぐにその理由を理解した。
中身はただの水だったようだが、その水は青髭馬の体に触れたものから音を立てて凍り付いてゆき、体に張り付いていく。時間にして一脈(約一秒)見る間に、青髭馬は分厚い氷の鎧に包まれていた。
「よし、頼むぞ!」
まるでその戦意を表すかのように、青髭馬は鼻を鳴らした。
同時に、森の中から魂を震わせるような咆哮が聞こえる。それは一つ聞こえたかと思うとまた別の方からも響き、揺らめくように森の中をこだまする。
「灰毛狼の【血徴】は【騙音】だ! 音に気を付けろ! 自分の耳は一切信じるな!」
「はい!」
男の短い助言にメアは剣を抜きながら頷いた。詳細はわからなかったが、概要は分かる。対処法に関する指示も明確。メアは男が荒事に慣れていそうなことに少しばかり安堵する。
ふと視線を感じたメアが振り返ると、不安そうな少女の金色の目と目があった。
なにか言いたいことがあるのかと待つが、少女はやはり何も言わない。ただその目を不安に揺らしながら、メアの顔をじっと見つめる。
「あー、えっと、うん。どうかした? 不安? あ、た、多分大丈夫だよ? 狼は賢くて仲間思いの生命だから、何匹か痛め付けたら逃げてく……はず。つまり、えー、その、痛いっ」
少女に対してメアが必死に言葉を紡いでいると、脳天に固い物が叩きつけられる。見上げると黒塗りの弩を持った男がメアを睨み付けていた。
「なにをぐじぐじ言ってる! そういうときは俺が守ってやるから大丈夫だって言えばいいんだ! わかったか坊主!」
「は、はい!」
「わかったらさっさと構えろ! 来るぞ!」
「はい!」
気付けば馬車の後方に三匹の狼が走ってきていた。すらりとした細身の四足の駆獣。灰色の毛は濃い個所と薄い個所があり斑になっている。爪は大きくないが牙は鋭く、口の端からぎざぎざと殺意を覗かせている。
メアが一瞬見とれていると、森の中、あらゆる方向から一斉に咆哮が響いた。おおん、おおん、と何重にもなって音が聞こえる。後方からも、前方からも、もしこの咆哮が本物であれば、メアたちは完全に囲まれていて、手詰まりの状況だ。
だが、とメアは思考する。音は信じるなと男は言った。メアはその指示に愚直に従い、見えている脅威から対処することにした。
「牽制します!」
「なにぃ?」
聞き返す男には答えずに、メアは心を落ち着かせる。そして、魂魄に意識を寄せながら言葉を紡いだ。
「雪は冷たく氷は鋭い――【霰玉】!」
メアが前方へと掲げた剣の先に、人の拳ほどの氷塊が形成され、それは気合の声と共に射出される。この距離で攻撃してくることを予想していなかったのか、その氷塊は一匹の狼の鼻に命中した。
ぎゃんと悲鳴をあげて道を逸れていく狼。しかし、メアが安堵したのも束の間、すぐに追加で二匹後方から現れる。
脇からも表れた灰毛狼に矢を打ち込みながら、男は称賛の声をかける。
「古い魔術! やるじゃねえか坊主!」
しかし、メアはそれに返事をしない。どころかそれを聞いてすらいなかった。既に他の灰毛狼が荷台に飛びかかってきていたからだ。
少年が振るうにはやや重い剣を構え、襲い来る灰毛狼に合わせて踏み込むメア。高速で走り揺れる馬車の荷台であるのに、滑らかな動きで対象へと肉薄する。
「せいっ!」
メアの一閃が灰毛狼の脇腹に食い込む。だが、振りが鈍かったのか、はたまたそのごわごわとした剛毛のせいか、思うようには斬れず、狼を弾き飛ばすことに止まった。
脇から荷台に飛び乗ろうとする灰毛狼に向けてメアは左手を伸ばす。
「女神の涙のごとく大地に降り注げっ――【打水】!」
一筋の水流が灰毛狼の顔に飛ぶ。それは攻撃力は全くないが、灰毛狼の気勢を削いだようだ。上手く跳べなかった灰毛狼はまた森の茂みへと姿を消した。
息もつかせず、さらに同時に三匹が飛び乗ろうとする。
「嘗めるな!」
男が叫び、腕を振るう。それは目を見張るような速射だ。左右から迫る二匹の灰毛狼の耳と腹を男の放った矢が射抜いた。絶えず揺れる馬上から、避けようとする的に的確に当てる様にメアは舌を巻く。
荷台の縁に前足をかけてよじ登ろうとする灰毛狼に剣を降り下ろし、地面へと叩き落とす。返り血がメアのズボンを汚し、甲高い悲鳴が後方へと流れる。
ほっとするのもつかの間、また新たに後方から三体現れた。
その内の一体に矢を当てた男が、メアに問いかける。
「ちっとばかし数が多いな! まだやれるか!」
「大丈夫です!」
「いい返事だ!」
メアの元気な返事に男は愉快そうに笑うと、木箱の蓋を叩き割って矢の束をむんずと掴みとる。そして、立ち上がって片足を荷台にかけると、弩を構えて灰毛狼を睥睨した。
「見てろよ犬っころども! 坊主、かがめぇ!」
メアが慌てて伏せると共に、男の弩を構える両手がぶん、と横に振るわれる。すると、腕を一振りする間に矢が射出される音が連続して鳴り、十発以上の矢が放たれた。矢を装填する左手の動きは、メアの目には全くとらえられなかった。
(これは、闘技だ!)
矢の刺さった灰毛狼が悲鳴をあげ、森の中へと消えていく。何匹かは致命傷となったようで、そのまま数歩進んで地面に倒れた。
男は満足そうに頷くと、再び手綱を取って車の制御に戻った。
「道を逸れちまった! 少し任せるぞ!」
メアは頷きながらも興奮を隠せなかった。男の技は絶技と呼べるものだったからだ。
背後から追ってくる狼は二匹。それも少し離れており、息を吐ける距離だ。森の中から響いてきていた咆哮も止んでいる。
小休止か、と肩の力を抜いたメアは、そこで少し違和感を感じた。その違和感を追っていくと、その正体にはすぐに辿りつけた。少しばかり静か過ぎる。戦闘に集中していたせいかと思ったが、青髭馬の足音や車輪が砂を噛む音が先ほどより明らかに遠い。
男に質問するためにメアが後ろを振り向くと、いつの間にか荷台に乗っていた灰毛狼に少女が押し倒されていた。
「って、悲鳴ぐらいあげろよっ!」
全力の踏み込みと共に、メアは突きを放つ。しかし、声に気づいた狼は瞬時にメアの方へと向き直ると、その一撃を刃をくわえることで受け止めた。
じりじりとした力比べが始まる。が、それは圧倒的に灰毛狼の方が優勢で、メアはゆっくりと押し返されてしまう。
さらには、首の後ろで咆哮がしたことに驚き、一瞬メアの手から力が緩んだ。背後を確認すると何もいない。音に騙された。そう気づいたメアは顔を赤くしながらも魂魄に集中する。
「ぐぐぐ……っ、ゆらゆらと、蝶がっ、その羽を、焦がすっ――【焔火】!」
ぼう、と灰毛狼が燃え上がる。メアの覚えている魔術の中で唯一のまともな攻撃魔術だ。これが効いてくれなければ、敗けのわかっている押し合いを続けなければならない。
そんなメアの願いが届いたのか、幸いなことに、その毛皮は可燃性だったようだった。驚いた灰毛狼の力が緩んだ。
「はあああああっ」
がりがりと音を立てて刃が滑り、蒼漆の剣先が灰毛狼の口内に突き刺さる。返り血がメアの頬を汚すが、メアは一切手は抜かない。そのまま体当たりを食らわせて押し返し、荷台の上から叩き落とした。
メアはすぐさま身を起こして振り返る。先ほどのような油断はもうしない。耳に頼ったせいでこの有様。音を響かせるだけでなく、音を忍ばせることもできる。それを理解し、メアはしつこく何度も視線を走らせ続けた。
仲間が燃やされたことが決定打になったのか、既に戦意を失いかけていた灰毛狼たちは、一匹また一匹と森へ帰って行く。未練たらしく最後まで残っていた一匹も、メアが警戒しながら剣を構えているのを見て、すごすごと去っていった。
灰毛狼の姿が消えてもしばらくは見張り続けていたメアだが、遠くの方で遠吠えが聞こえたのを確認して力を抜く。戦闘という極限の緊張から解放された体は、思い出したように酸素を求め、汗を吹き出した。
「はあーっ、はあーっ、はあーっ」
膝に手をついて呼吸を整えるメアの肩に、何か柔らかいものが叩きつけられる。それは敵意こそなかったが煩わしく、メアは振り払いながらそちらを向いた。
「なにすん……あわわ、燃えてる!」
ぶすぶすと焦げ臭い臭いが鼻をつき、遅れて熱がメアの肩を焼く。おそらく先ほど体当たりしたときに燃え移っていたのだろう。メアは悲鳴と共に慌てて外套を脱ぐと、地面に何度も叩きつけた。
消火を終えて確認してみると、該当には背中の部分に大きな穴が空いてしまっていた。継ぐことはできるだろうが、それをしてしまうくらいなら買い直した方がずっと早いだろう。旅の間とても世話になっていた外套の無惨な姿に、メアの眉尻は見る間に下がって行った。
穴を通して対面に立つ少女と目が合う。少女は消火活動につかっていた頭巾付きの上着を両手で構え、申し訳なさそうな顔をしてメアの外套を見ている。
気にしないでいい、と声をかけようとしたメアは、しかし、そこで初めて少女の容貌をはっきりと目にし、その姿に目を奪われた。日に当たったことがないかのよう真っ白な肌に、鮮やかな輝く黄金の瞳。そして、何よりも目を引いたのが腰まで伸びる雪のように白い髪。旅の間に様々な人族を見かけてきたメアだが、白髪というのはお年寄りばかりだったため、物珍しさについ魅入ってしまった。
メアの視線に気づいたのか、少女は慌てて上着を着て頭巾を被り直す。えらく慌てているせいで裏表は逆だが、メアがそれを指摘する前に別の方向を向いてしまった。
(うーん、悪いやつじゃないと思うんだけど……なんでしゃべらないんだろ。さっきだって、大きい悲鳴を上げてくれればさすがに聞こえたはずなのに)
メアはいささか困惑してしまった。
馬車の進路を固めた男が振り返ってくる。
「おう、坊主、怪我はないか?」
「はい。外套は駄目になっちゃいましたけど」
「あの数の灰毛狼を相手にして外套ですんだなら上等上等! 詫びと礼にうちの商品をくれてやってもいいんだが……もうじき代わりは手に入るだろう。ま、しばらく我慢してくれや!」
「はあ、わかりました。よくわかんないですけど」
疑問符を浮かべるメアに、男は豪快に笑うのだった。




