今度はすべてを捨て去るの。
第一王子ガリアーニは、久しぶりに王都にあるマルキ公爵邸を訪れていた。
何年ぶりになるだろうか。
王国の貴族子女が通う学園で側近のロメーオ侯爵子息の遠縁だというクレマツィオーネと出会ってから、ガリアーニは婚約者とのお茶会へ行くと称して彼女と密会していた。
三年制の学園の最初の二年は嫉妬してクレマツィオーネに嫌がらせを繰り返していたマルキ公爵令嬢アウローラも、最後の年にはふたりを認めて身を引いてくれていた。
ふたりは学園の卒業を待って十年来の婚約を解消していた。身勝手な破棄ではない、双方納得しての解消だ。
元婚約者のアウローラは、マルキ公爵邸の応接室でガリアーニの前に座っている。
「本日はなんのご用でしょうか、第一王子殿下」
「随分と他人行儀だな」
「……他人ですもの」
アウローラの言葉は事実だった。
もうふたりは婚約者ではない。
彼女のこれからを思えば、元婚約者に過ぎない第一王子とふたりきりで会ってもなんの利益もない。むしろ損になる。
わかっていてもガリアーニは、彼女に頼るしかなかったのだ。
ガリアーニはアウローラの耳で揺れる装飾品を見つめた。
この王国の王侯貴族は守護女神から与えられた神具が家に受け継がれている。
「その『記憶の耳飾り』を貸して欲しい」
「……」
アウローラの眉間に皺が寄った。
マルキ公爵家の神具が琥珀で出来た『記憶の耳飾り』なのだ。
身を守ったり敵を攻撃したり、実りをもたらすようなものではなかったけれど、文官の家系のマルキ公爵家にとっては価値のあるものだった。
妻を亡くした後でひとり娘を溺愛しているマルキ公爵は、早くからこの神具を譲り渡していた。
ひとり娘を王家に嫁がせる予定だったので、マルキ公爵家には遠縁から養子が取られている。その養子も家宝の神具がアウローラの手にあることを認めていた。
アウローラが小さく溜息をつく。
「王家の神具『時戻しの鐘』を鳴らすおつもりなのですね」
「やはり君は頭が良いな」
王家に受け継がれている『時戻しの鐘』は名前の通り時間を戻す鐘だ。
一度鳴らして一年、二度鳴らして二年、三度鳴らして三年戻せる。
最初鳴らしたときから時間が戻り始めるので、三度鳴らすのが限界だと言われている。戻った時間にはなにも持っていけない。自分自身が三年前の状態に戻ってしまうのだから当然だ。
「しかし『記憶の耳飾り』があれば未来の記憶も残る」
「ええ、以前この王国が滅亡の危機に陥ったとき、当時の王太子殿下と婚約者の公爵令嬢が『記憶の耳飾り』を左右に分け合って過去に戻り、危機を乗り越えたと言われていますものね」
伝説を語りながら耳飾りを外して、アウローラはふたりの間にあるテーブルの上へ置いた。
「ふたつとも……良いのか?」
「普段使っているときは少々記憶力が良くなるだけのものです。三年前ということは、学園を卒業する一年前、私の気持ちにも折り合いがついていますわ」
「そうか……」
アウローラはガリアーニが時間を戻そうとしている理由を聞かなかった。
マルキ公爵家の情報網ですでに知っているのだろう。
クレマツィオーネが殺されたのだ。ガリアーニの側近ロメーオ侯爵子息に。彼はクレマツィオーネの遠縁で、彼女を妹のように可愛がっていたはずだったのに。
(王太子の側近としての矜持で、私に地位を捨てさせたクレマツィオーネが許せなかったのかもしれない)
ガリアーニはアウローラとの婚約解消、そしてクレマツィオーネとの結婚を父王と母王妃に認めてもらう代償に、王太子の座を退いたのだ。
第一王子の即位を願っていた派閥はそれが受け入れられなかったのだろう。
ロメーオ侯爵子息は派閥の過激派だったのかもしれないと、ガリアーニは思う。自分自身が紹介した娘のせいで第一王子派の理想が潰えたのだ。自分で責任を取ったつもりだったに違いない。
「それは差し上げます。……ですので、もう二度と我が家へはいらっしゃらないで」
「アウローラ?」
思わず驚いた声を上げてしまったけれど、考えるまでもなく当たり前のことだ。
ガリアーニとアウローラはもう婚約者同士ではない。
だが、だからこそクレマツィオーネを喪った第一王子とマルキ公爵令嬢を再び結び付けようというものも出てくるかもしれない。
「……その、すまない。だが案じることはない。時間を戻すんだ。今度は君の名誉を傷つけないよう尽力してみるよ」
「お気になさらないで」
「あ、ああ」
アウローラの冷たい態度は当然のことだ。
むしろクレマツィオーネの死とロメーオ侯爵子息の裏切りで疲弊していたとはいえ、いきなりマルキ公爵邸へ押しかけたガリアーニのほうが間違っている。
もう一度感謝の言葉を口にして、ガリアーニは『記憶の耳飾り』を手に王宮へと戻った。太子の座は退いたが、クレマツィオーネと結婚して臣下に降るまでは王宮で暮らしていたのだ。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
左右の耳に耳飾りをつけて鐘を鳴らす。
父王の許可は取っている。
一度、二度、三度──ガリアーニは蘇ってくる過去の記憶に戸惑った。
(これは……なんだ?)
一年前の記憶も二年前の記憶も三年前の記憶もみっつずつある。
ガリアーニが『時戻しの鐘』を鳴らして時間を戻すのは今回が初めてではなかった。
『記憶の耳飾り』を持っていなかったから忘れていただけだ。
一度目は学園最後の一年になってもアウローラのクレマツィオーネへの嫌がらせが止まず、ガリアーニは学園の卒業パーティでアウローラとの婚約を破棄した。
婚約破棄後のアウローラは王都のマルキ公爵邸に閉じ籠り、最後は餓死したと聞いている。
もしかしたらガリアーニが心を変えて迎えに来てくれる日を待っていたのかもしれない。
廃嫡されたガリアーニは平民としてクレマツィオーネと結ばれた。
幸せな生活を送っていると思っていたが、ある夜強盗が押し入ってきた。
反撃して仕留めた強盗の覆面を取るとロメーオ侯爵子息で、クレマツィオーネは彼を追って自害した。
二度目は学園最後の一年になるとアウローラの態度が変わった。ガリアーニ達を応援するようになったのだ。
けれどガリアーニは彼女を信じることが出来なかった。
今回と同じように卒業を待って婚約を解消して、ガリアーニは太子を退いて臣下に降りクレマツィオーネと結婚することになっていた。
(でも結婚式の直前にクレマツィオーネが行方不明になって、私はアウローラの仕業だと思って彼女を処刑した。今にして思えば、あれもロメーオ侯爵子息の仕業だったのかもしれない。そうだ、彼も同じころに姿を消していた)
そして三度目の今回。
アウローラの態度が変わったのは二度目と同じだが、彼女はガリアーニ達を応援するのではなく距離を取った。
存分にクレマツィオーネとの愛を育めたガリアーニはアウローラとの婚約を解消し、悪感情が少なかったため恥ずかしげもなく頼りに行った。
(ああ、駄目だ。時間を戻すときに『記憶の耳飾り』を持っていても駄目なんだ。自分自身も過去に戻るんだ。未来で手に入れたものは消えてしまう。残るとしてもわずかな残滓だけだろう。時間が戻っても記憶を維持出来るのは、戻った時間で『記憶の耳飾り』を持っている……)
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
王太子ガリアーニが気づくと、そこは学園の教室だった。
今は最終学年で、時間は放課後だ。
自分はなぜそんなことを確認しているのだろうと、ガリアーニは首を傾げた。
「どうなさったのですか、ガリアーニ様」
「お加減がお悪いのでしょうか?」
「いや、なんでもない」
側にいたクレマツィオーネとロメーオ侯爵子息に言葉を返して、ガリアーニは取り巻き達と一緒に教室を出て行こうとしていたマルキ公爵令嬢アウローラに視線を送った。
別れの挨拶をされた記憶はある。
ガリアーニが返さなかっただけだ。
──私が嫌がらせをしたとおっしゃいますけれど、ガリアーニ殿下がそちらの女性と浮気をしていること自体が、婚約者である私への嫌がらせではありませんの?
不思議な記憶が蘇る。
場所はこの学園の講堂だ。卒業パーティのような飾りつけがされている。
アウローラは真っ直ぐにガリアーニを見つめていたが、その瞳は涙に濡れていた。
「ア、アウローラ!」
不思議な記憶は一瞬で砂のように崩れ落ちてしまったけれど、なぜかどうしようもない不安に駆られて、ガリアーニは婚約者の名前を呼んだ。
彼女の名前を呼ぶのは久しぶりだった。婚約者であるという事実から目を逸らしたくて、クレマツィオーネへの恋心を自覚してからはずっと、マルキ公爵令嬢と呼んでいたのだ。
アウローラが自分を名前で呼ぶことも禁じていた。
「……なんのご用でしょうか、王太子殿下」
他人行儀だ。だがそれは、ガリアーニ本人が望んだ他人行儀だった。
アウローラの瞳には光がなかった。
さっき別れの挨拶をしたときには婚約者であるガリアーニへの愛情と未練、クレマツィオーネへの嫉妬が揺らめいていたのに。今の彼女には感情というものが感じられなかった。
──私、ガリアーニ殿下とクレマツィオーネ様のことを応援することにしましたのよ。
そう言ったときのアウローラの瞳には悲しみが満ちていた。
不貞男の浮気を認めてでも、相手に嫌われたくないと望んでいる自分自身を嘲笑しているところもあった。
不思議な記憶に戸惑いながら、ガリアーニは言葉を続ける。
「いや、その……なんでもない」
「さようでございますか。それでは先ほども申し上げましたが、ごきげんよう」
──ごきげんよう、王太子殿下。
そう言ったときのアウローラの瞳は恐怖に染まっていた。
まるでガリアーニに冤罪でも被せられて、処刑されたことがあるかのように。
それから彼女はガリアーニから距離を置き始めて、先ほどの彼女の瞳にはなんの感情も浮かんでいなかった。ガリアーニに関するすべてのことへの興味を捨て去ったかのように。
アウローラの耳もとでは、マルキ公爵家が受け継いできた『記憶の耳飾り』が揺れている。
これまでもずっとそうだったように。
これからもずっとそうであるように。
アウローラが取り巻き達と教室を出て行く。
どうしようもない、自分はクレマツィオーネを選んだのだと思って、彼女とロメーオ侯爵子息に視線を戻したガリアーニは、ふたりが視線を交わしているのを見た。
ほんの一瞬だったけれど、交わされた視線には確かな愛情があった。
ふたりはガリアーニの恋心を学園の間だけのお遊びだと思っていたのかもしれない。
卒業したらクレマツィオーネは解放されて、本当に愛するものと結ばれることが出来るのだと。
マルキ公爵家の後ろ盾を失って、太子を辞してまでクレマツィオーネを選びはしないと。
(だけど違って、だからふたりは……ああ、なんだ? なにか思い出しそうで、なにも思い出せない!)
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
一ヶ月もしないうちにマルキ公爵家から婚約の白紙撤回が告げられて、ガリアーニは王太子を辞めさせられた。
クレマツィオーネとの不貞の証拠を出されては、王家が公爵家を説得することなど出来なかった。
むしろ王家の血を引く公爵家に反旗を翻されなかっただけでも感謝すべきだった。
第一王子を支持していた派閥はガリアーニが廃太子になると同時に瓦解し、側近だったロメーオ侯爵子息はなにものかに襲われて死亡した。
クレマツィオーネはロメーオ侯爵子息の後を追って自害した。
ガリアーニはなにも思い出せなかったけれど、自分がどうあがいてもこの結末は変えられなかったような気がして絶望に包まれた。
──その後、父王が『時戻しの鐘』を鳴らす許可をくれることもなく、ガリアーニ自身もそれを望むことはなかった。