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お勧め作品集

たぁくんの6階

作者: 石江京子

 ここは、小さな幼稚園(ようちえん)

 子どもたちの元気な声が園舎(えんしゃ)のなかから聞こえてきます。


「1、2、3、4、5、6(かい)

「6階、到着(とうちゃく)

「6階、6階」


 エレベーターごっこをしているところでしょうか。

 みんなの前には、一枚の画用紙があります。

 そこには、四角でひとつひとつ(かこ)まれた1から6までの数字が、横に並んでいます。その下には、二枚の(とびら)。6階建ての建物のエレベーターみたいですね。


 幼稚園の先生が、一人の男の子にたずねます。


「たぁくんは何階に行く?」


 すると、その子は目をきらきらと(かがや)かせて答えます。


「6階。ぼくは6階がいい」

「それじゃ、先生は2階にしようかな」


 男の子と先生は、画用紙のなかの、数字の書かれた四角をボタンに見立てて、指で軽く押しました。

 近くにいた女の子が先生に話しかけます。


「ねえ、先生。たぁくんはどうしていつも6階がいいの?」

「どうしてかな。好きなんだね」

「なっちゃんは、3階にする」


 質問した子も、階数を選びました。

 それを聞いていた小さな男の子たちが、くり返ししゃべっています。


「1、2、3、4、5、6階」

「6階、到着」


 この幼稚園では、年少さんでも6まで数えられそうですね。それもすべて、たぁくんがいつも『6階に行きたい』と言うからです。




 たぁくんがどうして6階にこだわるようになったのかは、はっきりしません。

 最初に行ったデパートの6階がおもちゃ売り場だったから。おばあちゃんの家がマンションの6階だから。

 他にも理由は考えられますが、どれも当たっているような当たっていないような。

 たぁくんにも、よくわからないみたいです。


 お休みの日は、近くの建物の6階に行ってみたりするとのこと。そうすると、もやもやした気持ちや不安な感じがすうっとぬけて、やわらかな気分になれるのです。

 不思議(ふしぎ)ですね。


 幼稚園の自由遊びの時間には、エレベーターの絵を()いて、6階に行く遊びをたくさんしています。




 幼稚園は、体操(たいそう)をする時間になりました。

 年少さんも年中さんも年長さんも、みんなそろって園庭(えんてい)に出てきます。園児(えんじ)と先生とみんな合わせて、三十人くらいでしょうか。


 広々とした園庭には、小さな赤いすべり台と大きな青いすべり台、鉄棒(てつぼう)、砂場などがあります。

 その周りには、若葉の(かお)りいっぱいの緑の木々が広がっています。

 みんなで育てている枝豆(えだまめ)やひまわりも見えます。葉を(しげ)らせて、春から夏へ向かう日々を楽しみながら風にゆれているようです。


 先生がリズミカルな音楽をかけます。みんなは集まって、自然とまるく円になって体を動かします。


 けれど、園舎のなかには、一人だけ残っている子がいました。

 たぁくんです。


 はるみ先生がたぁくんのところへ行っています。


「たぁくん、体操の時間だけど、行かないの?」

「行かない」

「みんな楽しそうだよ。園庭に出てみようよ」

「行かない」


 たぁくんは、うつむきながらも、はっきり答えました。

 新幹線(しんかんせん)のおもちゃを持って、(ゆか)に走らせています。けれども、それで遊びたいというより、体操が(いや)なようですね。


「それじゃ、シャーシャと一緒に見に行こうよ」


 はるみ先生が(さそ)います。


「シャーシャ」


 たぁくんは、どたどたとロッカーへ向かって、かけていきます。ちょっとぎこちないけど、一生懸命(いっしょうけんめい)です。ロッカーまでたどり着くと、かばんを手にしてなかを(さぐ)ります。

 取り出したのは、タオル地のぬいぐるみ。


 黄色いうさぎで、シャーシャといいます。


 ちょっと変わった名前ですね。

 なぜシャーシャなのか、だれも知りません。たぁくんがいつの間にかそう呼んでいたのです。


 たぁくんは、このうさぎのぬいぐるみが大好きです。幼稚園のかばんにいつでも入っています。

 シャーシャと一緒だったら、たぁくんは体操や心配なことにもちょっと勇気が出るようです。


 はるみ先生が付きそって、たぁくんは園庭へやってきました。

 みんなが音楽にあわせて、思い思いに体を動かしています。


「たぁくんも入ろうよ。ここいいよ」


 年長のお姉さんが場所を開けてくれました。でも、たぁくんは口を引きむすんで(だま)ったままです。赤いすべり台にぴったりとくっついて、(はな)れようとしません。

 

上手(じょうず)にやろうとしなくていいんだよ。好きなところだけやってみようよ」

「やらない」


 先生の言葉にも、たぁくんはきっぱり拒否(きょひ)。体操はどうしても気が進まないようでした。 


「それじゃ、見ているだけ、は?」

「……うん」


 たぁくんは、みんなと一緒に体操をすることはできませんでした。けれども、シャーシャと一緒にその様子(ようす)を近くで見ることができました。




 たぁくんは、体を動かすのはとても苦手です。生まれつき運動能力の発達(はったつ)がゆっくりで、みんなと(くら)べると思うようには動けません。


 それに、さわられるのが苦手です。ちょっと人にふれられただけでも気分が悪くなってしまいます。ぶつかったりすると、すごくいたがって()き出してしまいます。

 だから、体操はあまりやりたくないのです。

 

 できれば、自分もみんなも動かないほうがいい、とのこと。何かが動いたり音を出したり、変わるのが好きではないみたいです。


 物事は日々(うつ)り変わっていきますし、たぁくん自身、年少の時期は療育(りょういく)センターに通っていて、年中から幼稚園になりました。だんだん大きくなっていくし、周りの友だちや先生も変わっていきます。

 たぁくんには、そうした変化が不安になったり、落ち着かなくなったりしてしまうことなのです。先のことを予想することも、得意(とくい)ではありません。


 なるべくなら、自分の好きなことをいつでも同じようにしたいそうです。同じものにしたくて、こだわってしまいます。


 たとえば、あめを5つもらうのも7つもらうのもだめ。6つじゃないと嫌です。好きなあめでも、そんなことで泣いてしまうこともあります。

 6階だけでなく、数字の6にこだわりがあるのです。

 何でも同じ色にしたがったり、服装(ふくそう)も決まったものしか着なかったりします。


 朝の用意も順番(じゅんばん)が決まっていて、その通りにできないと最初からやり直しです。

 たとえば、ロッカーにかばんを一度おいてから、出席シールをはることにしています。先にシールをはっていいよ、と言われても絶対(ぜったい)にやりません。


 いくらみんなが「順番通りにしなくても同じだよ」と教えてあげても、たぁくんはそうは思いません。

 いつもと順序(じゅんじょ)が同じでないと、次にどうしたらいいかわからなくなったり、何か違うものに変わってしまった気がしたりするそうです。


 たぁくんのように、こうしたこだわりが強い子はいます。それは、生まれついての特質のようで、なかなか変えることはできません。


 こだわっていることを無理にやめさせると、不安になってかえって何もできなくなってしまいます。あるいは、別のことにこだわって、もっとできなくなってしまうことがあります。

 どうしてもやめてもらいたいこだわりは、何かその代わりになるものを用意して、こだわりをそちらへ移すほうが解決(かいけつ)しやすいようです。


 その子その子によって、こだわることはいろいろ(こと)なります。

 どうしてもそうしなければだめというような強いものもあれば、何となくそれが(この)みだという弱いものもあります。

 次々いろんなこだわりが出ては消える子もいれば、長い間同じこだわりを持ち続ける子もいます。


 緑色にこだわっていたのに、しばらくしたら突然赤色と言い出すなど、周りをとまどわせる子も。答えを知っているのに同じ質問をくり返すなど、理解しづらい子もいます。

 たぁくんは、こだわりが強くて多くて長い子みたいですね。


 変化が苦手で先を見通せず、不安になる子にとっては、こだわりはいつもと同じで、安心できることなのでしょう。その子の気がかりに思うことを理解して、少しでも安定した気持ちで過ごせるようにしてあげられたら、いいのでしょうね。


 たぁくんは、お気に入りのぬいぐるみのシャーシャをいつも幼稚園に持ってきています。

 もともとたぁくんは、()れない場所に行くのは(こわ)いと感じます。しかも、幼稚園ではお母さんと(はな)れなくてはなりません。だから、入園するときに連れていきたいと思いました。

 普段はかばんにしまっておくことを約束(やくそく)して、ぬいぐるみを持ってくることを幼稚園の先生に(みと)めてもらいました。


 シャーシャといつでも一緒にいられるから、たぁくんの不安は小さくなって、ひとりでも幼稚園で過ごすことができるのです。

 そして、6階にこだわっていることを園のみんなに知ってもらい、エレベーターの遊びをしています。時にはかばんからシャーシャを出して、ふれるようにしています。


「できないことややらないことを無理にさせるより、できることをのびのびこつこつと、伸ばしていきましょうね。こだわりも、気持ちに()りそって、受け入れられるところはその通りにしましょう。そうしていくうちに、たぁくんも見通しがついて、自信もついてきますよ。それで自然といろんなことに挑戦(ちょうせん)できるといいですね」


 幼稚園の先生方には、そう言ってもらいました。


 しばらく園で過ごすうちに、たぁくんもできることが増えてきました。エレベーターの遊びなど、変わらないことも当然ありますが。

 体操の時間にはシャーシャを持っていって見学していましたが、ある時期から少し変わりました。


「体操している」


 たぁくんはシャーシャの手足を動かして、説明しました。


「うーん。体操はね、自分の体を動かすんだよ。シャーシャの手とか足じゃないんだよ」 


 はるみ先生は笑って教えましたが、たぁくんの好きなようにさせてあげました。


 そのうち、たぁくんはシャーシャに、時々体操を()わりにやってもらうようになったのです。

 さらに、ひと月ふた月すると、たぁくんはシャーシャをすべり台に()いたまま、自分の体を少しずつ動かしてみるようになりました。




 たぁくんは、ちょっとの光でもまぶしくて、すぐに目が(いた)くなります。大きな音が鳴ると、耳に(ひび)きわたってとてもつらいです。みんなと感じ方が違ったりします。


 かぼちゃは、口の中でもそもそするから、好きではありません。違う理由で、きゅうりも(きら)いです。


「かむとき、すごく音がするから」


 イヌが大嫌いです。ネコは好きでさわったりもしますが、イヌは遠くにいても怖いと言います。


「イヌは顔も怖い」


 ネコとそんなに違うなんて、不思議ですね。

 でも、気持ちをくみ取ってもらえると、とても嬉しいのです。


 少しずつ少しずつ()れて、不安が減っていって、できることが増えて。

 たぁくんに明るい表情が見られることも、たくさんになりました。




 たぁくんは、みんなでお絵描きをしているとき、描きたくないものがたくさんあります。特に動物は、ゾウとかクマとかライオンとか、嫌いなものがたくさんあります。画用紙が真っ白なままのこともよくありました。

 でも、大好きな電車なら、(こま)かいところまできれいに描けるのです。エレベーターや6階建ての建物も、もちろん上手ですよ。


 クリスマス会では、『ページェント』という、イエス様のお誕生劇(たんじょうげき)をやります。そのとき、だれよりも早く全員のセリフを(おぼ)えたのは、たぁくんでした。

 たぁくんは宿屋(やどや)さんの衣装(いしょう)が気に入ったので、その(やく)をはり切って練習して、当日もきちんとこなしました。


 得意なことだって、いろいろあるのです。そして、苦手なこともシャーシャと一緒にだんだんとがんばることができるようになりました。




 翌年(よくねん)は年長さんで、その次は小学生になります。

 そうした環境(かんきょう)が変わるのはだれよりも困難(こんなん)なことでしたが、このまま準備(じゅんび)していって、近くの小学校に入学する予定でした。

 ところが、年長さんになる前に、たぁくんのお父さんの仕事の都合(つごう)で引っ()しをしなければならなくなってしまいました。

 300キロメートルほど先の地域に越してきたのは、春も(あさ)(さむ)い時期でした。


 新しい幼稚園は、まだ決まっていませんでした。

 定員の()いている大きな幼稚園は、たぁくんには行くことができなかったからです。

 たくさん人がいると、たぁくんはその声や動きで頭のなかがいっぱいになってしまって、その場にいることもできなくなってしまいます。そういう気配(けはい)を感じとって、門をくぐることさえできなかった園もありました。

 かといって、小さな幼稚園は先生の数が少なくて、途中(とちゅう)からたぁくんのような子を見ることができないと言われて、入園できませんでした。




 やっと条件の合いそうな幼稚園をひとつ見学に行けることになりました。前に通っていた園と雰囲気(ふんいき)()ているところを見つけられたのは、(さいわ)いでした。


 新年度が始まって数日たったその日、たぁくんはその幼稚園の敷地(しきち)へ、すんなり入ることができたのです。園の子どもたちが自由に園庭で遊ぶのを、しっかり(なが)めていました。

 さらに、園舎のなかへ進むと「ここは何組さんの部屋なの?」と園長先生に話しかけました。「この絵本、おうちにもあるよ」と、(たな)の絵本を手に取って見せました。


 たぁくんは、すぐにその園に通えることになりました。

 前の幼稚園と同じように、お母さんと一緒に毎日歩いて登園(とうえん)するのです。

 満開をすぎた桜の花びらが、ふわふわと(ただよ)いながら、たぁくんを歓迎(かんげい)してくれているようでした。


 それでも七十人の園児がいて、たぁくんはとまどいました。

 最初のうちは、シャーシャをにぎりしめて、ぼんやり立っているだけのことも多くありました。不安な表情から無表情に変わってしまうくらい緊張(きんちょう)していたのです。

 けれども、前の幼稚園と同じところが見つかってくると、たぁくんも変わり始めました。

 夏のころには、その園にだんだんとなじんでいったのです。




 秋がやってくると、たぁくんはお母さんと就学相談(しゅうがくそうだん)に行くことになりました。小学校に入学するにあたって、心配な子が保護者(ほごしゃ)(とも)に相談する機会(きかい)です。


「こだわりがたくさんあるので、理解してもらう必要があります。それに、たくさん人がいると緊張してしまいます。運動することや大きな音なども苦手なので、さまざまな配慮(はいりょ)をお願いしたいです。特別支援学級(とくべつしえんがっきゅう)を希望します」


 特別支援学級とは、小学校の普通のクラス以外に(もう)けられた、特別なサポートが必要な子のためのクラスです。たぁくんは、その学級に入ることになりました。

 お母さんは他にもいろいろと相談しましたが、そのときにシャーシャの話もしました。


「毎日幼稚園にぬいぐるみを持っていかないと不安になってしまいます。小学校でもランドセルに入れて、必要なときに出したりするかと思うのですが」


 すると、教育委員会の先生はほほえみながら、話しました。


「ぬいぐるみでなくても、タオルが必要という子は意外といますよ。それに、最初は持っていっても、他の子が持っていないことに気づいたり、もう小学生だから大きくなったのだからと、自分から手放すお子さんも多いですよ」


 たぁくんが周りのことにすんなり気づくかというと、ちょっと疑問(ぎもん)です。それに、自分が大きくなった、と意識(いしき)できるかというと、それもたやすいことではありません。


 シャーシャは、いつまでたぁくんと一緒に出かけるのでしょうか。

 幼稚園に毎日持っていき、かばんから出し入れしていると、こすれて、ほつれが出てきます。それに、うっかり落としてしまうこともあって、あちこち(よご)れていました。

 週末に洗ったり直したりしていますが、それでも、もうだいぶほころびてきています。黄色のタオル地はくすんで、ふわふわした毛がごわごわになってきています。

 大切なぬいぐるみですが、いつでも持っていくというのは、なかなか(むずか)しいものですね。


 そして、もうひとつ大きな問題が残っていました。それは、6階です。

 たぁくんは、毎日毎日6階に行くのです。




 お母さんが帰りにお(むか)えに行くと、たぁくんは落ち着いた様子のことが多く、幼稚園で問題なく過ごせているようです。

 けれど、先生にさようなら、とあいさつをして、お母さんと一緒に園を出るころには言わずにはいられないのです。


「今日の6階は?」と。


「今日も6階に行きたいの?」


 お母さんは(こま)り顔でたずね返します。


「行きたい。駅前でいいから」


 幼稚園から歩いて5分くらいのところに、駅があります。その駅ビルの屋上(おくじょう)は、ちょうど6階でした。

 たぁくんは、新しい幼稚園に通うようになってから毎日この6階に行かなければならなくなっていました。さらに、幼稚園のない日も台風などで外に出られない日以外は、どこかしらの6階に行くようになっていました。


 どうしても一日一回は、6階に行かなくてはならなくなっていたのです。




 たぁくんが新しい土地に慣れるのは、とても困難(こんなん)なことでした。

 もとから道順(みちじゅん)のこだわりもありました。スーパーや幼稚園、駅などの歩く道はいつも同じ。道路の反対側を通ったりすることもなかなかできないのです。

 もしも通る道に車が止まっていたら大声で泣きだします。一旦(いったん)家まで戻って、もう一度そこへ行って、やっと車がいなくなって、通れたこともありました。


 そんなたぁくんが引っ越しをして、どこもかしこも知らないところへ来てしまったのです。

 今までのおうちも幼稚園も全部変わってしまいました。家族以外はみんな知らない人になってしまいました。混乱(こんらん)するのも当たり前のことでしょう。


 最初からあった6階へのこだわりは強くなってしまい、たまに行けばよかったのが毎日行かなければならなくなっていたのです。


 エレベーターで6階に着くと、たぁくんはそれまで()りつめていたのが(うそ)のように、とてもほっとした表情をします。そのときの不安やいらいら、気がかりが、みんなその場で(きり)が晴れるように消えていくのです。

 屋上からの風景を目にすれば、すぐに「帰る」と言うことが多いです。とにかくここにやってくることが、たぁくんにとっては大事なことなのでしょう。


 かばんのなかのシャーシャを取り出すこともあります。


「ほら、見て。6階に来たよ」


 言い聞かせるように話すのです。




 ある日、帰り道でお母さんが話しました。


「小学校は駅から遠いよ。そこから6階に行くのは簡単じゃないよ」


 思わず小学校に入学した後のことを聞かせてみましたが、たぁくんはむすっとしていました。


「わかんない」


 どうしたらいいのか、たぁくん本人にもわからないようでした。


「6階に行くって……変わったこだわりですね」と、教育委員会の先生も、相談したときは首をかしげていました。


 このまま小学校へ行くようになると、6階はどうなるのでしょうか。

 小学校の近くにはそんな高い建物はありません。毎日学校の帰りに駅までシャーシャと共に行くのは、どう考えても大変そうでした。




 新しい幼稚園での時間が過ぎていきます。

 絵本をもとにした(げき)をやったとき、たぁくんは自分の役をしっかりやった上、セリフを忘れた子に教えてあげることができました。

 運動会のダンスも(はし)っこで少しだけすることができましたし、みんなと一緒にかけっこもすることができました。


 年長さんでは、小学校がどんなところでどんな勉強をするのか、知る機会もありました。

 たぁくんもひらがなが読めるようになりました。手先の運動も苦手なので、まだ字を書くことはできませんが。


 担任のかおり先生も、たぁくんの様子を話してくれます。


「たぁくん、だいぶ慣れましたね。エレベーターや電車以外にも、いろんな遊びを楽しんでいますね。最近では、ぬいぐるみのシャーシャをかばんから出すこともずいぶん減ったんですよ。自分ひとりで少しずつ対処(たいしょ)しようとしています。成長していますね」


 園長先生もおだやかな声で話しました。


「他のお子さんも小学校に入学することは、不安に思うものです。なるべく小学校が楽しみになるようなお話をしていますよ」


 入学の準備について、みんなが話題にするようになりました。

 小学生になるのを()に、自分の部屋をもらうという子もいるみたいです。筆箱(ふでばこ)などの道具やランドセル、学習机と椅子(いす)を買ったという子の話も、よく聞くようになりました。




 たぁくんが転園(てんえん)してから9か月がたち、新しい年が明けました。

 小学校に入るまでの期間は、あと3か月です。


 幼稚園のもちつき大会で、たぁくんはがんばっておもちをつきました。みんなと並んで好きな味のおもちをおいしく食べました。

 雪の降った日には、園庭が真っ白になりました。たぁくんは、みんなと協力して大きな雪だるまを作って、夢中(むちゅう)で遊びました。


「楽しい経験(けいけん)をたくさん()むことが成長(せいちょう)に一番役立つと感じています。そういうときは、物事を吸収(きゅうしゅう)する力も違うでしょうね」


 園長先生をはじめ、幼稚園の先生方は、たぁくんが笑顔になれるように、見守ってくれました。




 どんな子にも、成長のスタンプ(ちょう)があるって、知っていますか。

 その台帳には、その子がいい経験をするとぴかぴか光り輝くスタンプが押されるのです。どんどんスタンプ帳が金色に()まっていって、ある数までたまると。

 特典(とくてん)がもらえるんですよ。




 たぁくんはランドセルを買ってもらいました。

 それも、まっ黄色のランドセル。


 たぁくんの好きな色で、どうしてもそれがいいと言うからです。

 そのころには、入学予定の小学校へあいさつに行くことになりました。


 小学校の特別支援学級の先生は、幼稚園の先生とは少し違い、(わか)い男の先生でした。たぁくんは知らない場所で会ったことのない先生に出会って、(むね)がどきどきしました。

 けれど、先生は6階の話を聞いてにっこり笑うと、たぁくんに問いかけました。


「この小学校は4階までしかないけど、上まで行ってみる?」


 屋上のそばまで、たぁくんと一緒に上ってくれたのです。




 引っ越してきたばかりのころのような混乱も少なくなりました。その分、道のこだわりなども出てきてしまいましたが、慣れてきた、ということでしょうね。


 このまま幼稚園を卒園して、4月からは黄色いランドセルに黄色いうさぎのぬいぐるみを入れて通学することになるのかもしれません。

 幼稚園のかばんのなかにいたシャーシャは、そのままランドセルのなかで教科書やノートと一緒にいることになるのでしょうか。そして、帰るときには毎日のように6階に行くのでしょうか。




 1月も終わりのある日のことです。

 その日は午後から、もう少しで雪になりそうなくらいの冷たい雨が降っていました。


 いつものように、幼稚園の帰りに6階に行き、やっと家にたどり着きました。かばんから出てきたシャーシャは、すっかりぬれていました。


「シャーシャが冷たい」


 たぁくんは気になって、暖房(だんぼう)のそばに置いて(かわ)かすことにしました。コートを()いだたぁくんも体が冷えています。


「6階に()っていたから、余計(よけい)寒くなっちゃったね」


 お母さんがそう話すと、たぁくんは考えこみました。


「おうちに6階があったらいいのに」

「そうだねぇ」


 お母さんも考えこみました。



 たぁくんの引っ越してきた家は、マンションの3階でした。これをどうにか6階にすることはできるのでしょうか。


 (ため)しに、お母さんがダンボール箱を小さなおうちに見立てて持ってきたり、ふみ台になりそうなものをいくつか階段(かいだん)のように並べたりして、たぁくんに見せてみました。

 でも、たぁくんはどれにも首を横に()ります。

 ちょっと違うみたいです。




 最近になって、たぁくんはお父さんやお母さんと一緒に家具屋(かぐや)さんに行くことが何度かありました。

 小学校に入ったら、机の前に(すわ)って勉強をすることになります。

 今のリビングのテーブルを使えばすむことかもしれません。けれども、たぁくんは絵を描いたり工作をしたりしていると、終わらせるのが難しいことがあります。気持ちの切りかえに時間がかかりますし、全部終わってからでないとなかなか片づけられないのです。

 夕食の時間が遅くなって困ることがありました。


 そんなわけで、たぁくん専用(せんよう)の小さな机と椅子を買うことにしたのです。


 まだひとりで部屋を持つのは考えられなかったので、リビングの(すみ)にその机と椅子を置くことに決めています。

 初めのうちは、たぁくんも別の机を持つことにとまどっていました。それでも、家具屋さんを見に行くうちに、イメージがつかめたようです。



 こうして、2月のある日、リビングにたぁくんの机と椅子がやってきました。

 白木の小さなシンプルなセット。窓際(まどぎわ)のほんの小さな空間。

 たぁくんは(よろこ)んでそこに座りました。


 電車と建物とエレベーターと、次々に絵を描き始めました。とても気に入ったようです。


 お母さんがそんなたぁくんに声をかけます。


「ね、そこを6階にして、階段を作るのはどう?」


 何度かダンボールの家と階段を作ってみたのですが、結局うまくいきませんでした。でも、好きになれる場所から作り始めれば、うまくいくかもしれません。

 たぁくんの椅子の横に、お母さんは台を並べてみました。3階に住んでいるので、4階と5階の2段の階段をつけたのでした。


「こんな感じはどう?」


 お母さんの提案(ていあん)に、たぁくんはしっかりうなずきました。


「それでいいよ」


 たぁくんはにこっと笑うと、続けて言います。


「ここをぼくの6階にする」


 こうして、ついにたぁくんの新しい6階が生まれたのです。




 次の日、いつものように幼稚園に行く仕度(したく)をしているときのことです。


「今日はお昼から雨みたいね。6階に行くなら、シャーシャがぬれないように、ビニール袋に入れておこうね」


 この間、雨にぬれて、たぁくんが心配してしまったので、お母さんはそう話しました。

 ところが、たぁくんははっきりと告げました。


「ここに6階があるから、もう行かなくていいよ」

「行かなくて、平気なの?」 


 お母さんはたずねました。

 もしかすると、今は行かなくていいと思っていても、幼稚園から帰るときにやはり6階に行きたくなるかもしれません。


「もしも行きたくなったら行くから。大丈夫だからね」


 そんなふうに話してみました。けれども、たぁくんはもう決めたようです。


「行かなくていいよ。6階はもうあるから」


 屋上の6階に行くのを、家の中の6階へと、少しずつ変えられればいいとお母さんは考えていました。それなのに、たぁくんはひと(ばん)のうちにすっかり変えることができたのです。


 今まで()(かた)まっていたこだわりから、()(はな)たれたかのようでした。

 こんなこともあるのですね。


 お母さんのそばを離れると、たぁくんは幼稚園に行くかばんを持ってきました。自分から持ってくるなんて(めずら)しいことです。


 かばんを開けて、たぁくんはシャーシャを取り出しました。


「シャーシャはここにおいておく」


 椅子の上に乗せると、そのままかばんのチャックを閉めます。


「シャーシャはぼくがいないとき、ぼくの6階にいるんだよ」

「たぁくん」


 お母さんは思わず呼びかけます。


「幼稚園にシャーシャを持っていかなくても大丈夫(だいじょうぶ)なの?」

「大丈夫。ここに6階があるから、シャーシャはお留守番(るすばん)するんだよ」


 そうして、たぁくんはシャーシャにバイバイをして幼稚園へ向かいました。ぬいぐるみを持たずに行ったのは、もちろん初めてです。




 帰りにお母さんが幼稚園にお迎えに行くと、「いつもと変わりありませんでしたよ」と先生からお話がありました。


「たぁくん、シャーシャがいなくても大丈夫になったんですね。すごく成長しましたね」


 最初は幼稚園で何をするにも、シャーシャが(たよ)りでしたが、今ではほとんど取り出すこともなくなっていました。そして、卒園(そつえん)まであと1か月のこの日、たぁくんは本当にひとりで幼稚園で過ごすことができたのです。


 たぁくんはお母さんと一緒に駅の6階に行くことなく、家へ帰りました。




 それからのちも、6階へ行くことはなくなりました。

 もちろん、用事があるときは6階でも何階でも行くことはありますが、こだわりでいかなければならないということは、全くなくなりました。


 駅前の6階は、広く(まち)を見わたせる屋上でした。

 家々の屋根が光に()らされている晴れの日も、雨水をしたたらせている雨の日も、線路(せんろ)を走る電車が特別な車両(しゃりょう)の日もありました。

 毎日行っていたその場所は、たぁくんの心に残っていることでしょう。そうありつつも、家に代わりになるところができたのです。


 シャーシャをかばんに入れて幼稚園まで行くことも、もうありませんでした。


 引っ越してからそろそろ一年。

 たぁくんは、新しい環境(かんきょう)にすっかりなじんだのでしょう。いろいろ変わったけれど、そのなかにとうとう自分の落ち着く、安定した場を見つけたに違いありません。

 そして、留守の間には、シャーシャに安心して守ってもらうことにしたのでしょうね。




 幼稚園を卒園して、たぁくんは小学生になりました。

 特別支援学級に在籍(ざいせき)しながら、ときには普通の学級に行ったりしてがんばっています。時々はこだわりが出ます。


 集合写真の撮影(さつえい)に入れなかったり。給食を全部残すことも、おかわりすることも。

 図工の時間に立派な(とう)を作って先生にほめられたり。ひらがなの『ふ』の字を見て「離れているところが多いから嫌い」と言って、書かなかったことも。

 (かさ)置き場の6番目に他の子の傘が入っていたので、自分の傘を入れられなかったり……。


 泣いたり笑ったり(おこ)ったり(さわ)いだり、さまざまな日々を積み重ねています。そんなたぁくんを、周りの先生や子どもたちが理解して(せっ)してくれているようです。

 いろいろありますが、たぁくんは毎朝元気に学校へ向かっていきます。


 そうして、家に帰ると。

 たぁくんの机の前に、黄色いうさぎのぬいぐるみがちょこんと座っています。


「ただいま」


 シャーシャは、どんなことがあっても、たぁくんを6階で待っていてくれるのです。



 

※参考文献(子ども用の本)

「新しい発達と障害を考える本1 もっと知りたい自閉症のおともだち」

「新しい発達と障害を考える本2 もっと知りたいアスペルガー症候群のおともだち」

「知ろう!学ぼう!障害のこと 自閉スペクトラム症のある友だち」


※大人の方へ

たぁくんには、自閉症スペクトラム障害の診断がついている設定ですが、同じ診断名でもその子その子によって違いがあり、対応もそれぞれ考慮する必要があります。

幼稚園や小学校の支援制度、体制などは、自治体によって異なります。



ここまでお読みくださって、ありがとうございました。

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