表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

森からの脱出


 街中の一軒家から森の入り口までは歩いて刻四半(十五分)もかかることのない距離だが、ウォーデンの放つ雰囲気は重苦しいものだった。息が詰まる、と言ってもいい。普段であれば同じ無言であったとしても、もう少し柔らかい空気が漂っていたように思う。

「くれぐれも気をつけてな」

 その森の入り口まで来てやっと、今まで無言を貫いていたウォーデンから声をかけられた。彼の表情や声音は明らかな心配の色を湛えている。狩りの随伴として働いている頃には見たこともない表情だった。それだけの危険が待っている、ということだろうか。恐らく、そうに違いない。


 狩人見習いとして老練な狩人であるウォーデンの下で働くフィッシュが、頼みに頼み込んで「森歩き」に挑戦することを許されたのは、もう一週間以上前の話だった。時間が開いたのは許された直後から、間の悪いことに夜が始まってしまったからだ。

 今回の夜は、たっぷり一週間ほど続いた。

 そうして今朝、時告石(テルザタイム石)が告げる緑色の朝と時を同じくして本当に久しぶりの朝が訪れたことで、これから最低でも数日の昼が約束されたようなものだった。時折、朝を迎えてから一日を待たずに夕方を経て夜になることもあるらしいが、フィッシュが狩人見習いを始めた五年前から今日まで、昼や夜が一日で終わったことなどなかった。今回も、きっと大丈夫だろう。


 もちろん大丈夫なのは、昼なお暗い森の中にあって僅かな木漏れ日が得られることだけであって、狩り全般は別の話である。ウォーデンはその事実をフィッシュに思い出させるかのように、緑色の時告石を手にしながら口を開いた。

「いいか、丸一日だ。

 今が風一刻半(午前六時三十分)だから、次の風一刻半までを森の中で過ごせ。獲物の有無は問わん。むしろ獲物を獲ろうなどと考えるな、生き延びることを最優先に考えろ。

 そして万が一にも空が暮れ始めたなら、急いで森から出ろ。『森歩き』は終いだ。俺たちは夜の狩りをしない。いいな?

 ……生きて帰れ」

 ウォーデンの口から出てくる言葉は剣呑なものばかりだった。と同時に最大限、心配してくれているのだとも感じられる。ウォーデンが手にしていた時告石を手渡された。

 これから「森歩き」が始まる。





 「森歩き」とは、魔術的な意味合いを持つ祭儀でもなければ、古い掟で定められた儀式でもない。実際のところは義務ですらない。ウォーデンが「『森歩き』をしていない奴を一人で森に入れる訳にはいかない」と主張しているだけで、他の狩人が同じようなことをしている訳でもなかった。

 早く一人で森に入りたければ、他の狩人に師事しなおせば良いだけの話だった。そもそも師事することもなく、勝手に森へ入ってしまっても問題ない。それでもフィッシュがウォーデンに従って「森歩き」へ挑まんとするのは、それがウォーデンなりの優しさであり厳しさなのだ、と理解していたからだった。

 今回の「森歩き」はウォーデンがフィッシュの圧に根負けした部分も小さくないことは、フィッシュ本人もわかっている。なぜ許してくれたのかはわからなかったが、ウォーデン本人は「まだ早い」と考えていたことは普段の物言いから察していた。熱意が勝った、と思うことにしているが、はたして本当にそれだけだろうか。


 手にした時告石を所在なさげに左手で玩びつつ、半分は考えごとをしながら、もう半分は周囲の気配を探りながらフィッシュは一度、立ち止まって頭を左右に振る。集中が必要な局面だった。

 考え直して頭を切り替える。頼れる師匠はおらず、何が起こるのか誰にもわからない。余計なことを考えて気を散らしている場合ではなかった。

 改めて周囲の気配を探ってみても、特に気になる様子は感じられなかった。まだ始まったばかりの「森歩き」だが、今夜の寝床となる場所を今から確保しておくことは、悪いことだと思えない。比較的に慣れ親しんだ入り口付近から少しずつ奥へ分け入ってみることにした。





 時告石は緑色から薄緑色へと変わり、光二刻前四半(午前九時四十五分)ぐらいを示していた。まだ三刻(三時間)ほどしか経っていない。

 しかし少しずつ慎重に歩みを進めていったものの、徐々に景色の記憶が不確かになってゆく感覚は非常な不安を掻き立てるに十分だった。その中にあって少しでも安全に過ごせそうな場所を探す。何処にもなかった。

 幸いなのは木漏れ日が絶えないことだった。

 疲れを無視して動き続ければ、森の中で一日を過ごすこともできる気がしてきた。しかし賭けになることには違いない。三刻などウォーデンと一緒であれば、あっという間に過ぎ去るよう感じられる時間だった。師匠の偉大さを改めて思い知らされる。


 そんなことを考えていると、不意に視界の中へ黒い影が現れた。熊だ。

 思考がすべて止まった。体長は自分の二倍は超えているだろうか。こちらが向こうを見ているように、向こうもこちらを見ている。どうする? 逃げなければ。どうして気づかなかった。獣避けの鈴は持っていたはずだ。唸っている。逃げなければ。後ろ足で立ち始めた。唸りが大きい、威嚇されている。逃げなければ。

 フィッシュの思考は、完全に止まっていた。

 目の前で起こっていることは、ただ眺めているだけで理解には及んでいなかった。したがって熊の左目に矢が突き立ったのを見ても、何が起こったのかを理解できなかった。

「ゆっくり下がれ、急ぐな!」

 聞いたことのない音量だったが、聞き覚えのある声がした。声と共に二射目が熊の右目を正確に貫く。二拍ほど遅れてから、やっとで熊が切迫した様子の叫び声をあげた。

「今だ! 下がれ! 早く! 真後ろだ! 呆けるなフィッシュ、動け! この馬鹿者がっ!」


 やっとフィッシュが正気を取り戻した。一目散で後ろにいるのであろう、ウォーデン目がけて走り出す。走りながらフィッシュは、三射目の風切り音を聞いた。もはや振り返って熊の様子を確認する余裕も度胸も残ってはいない。

 しかし新たに鈍い唸り声が聞こえたのだから、ウォーデンの矢は外さなかったのだろう。師匠が射損ずる場面など、ついぞ見たことはなかった。想像もできなかった。膝に力は入らなかったものの、まさに死力を振り絞って走り続ける。

 足が絡まりそうになりながら走り続けて、やっとウォーデンの姿が見えた。その姿は愛用のコンポジットボウに矢をつがえて、四射目を曲射したところだった。フィッシュにできたことは、師匠の足元へ転がり込むことだけだった。

「よし、立て。逃げるぞ」

 そう言いながらウォーデンは五射目の矢をつがえ、放つ。矢を放つたびに唸り声が新たにあがることを考えれば、すべて的中させているということだろう。フィッシュは舌を巻いた。フィッシュが立ち上がる間に、ウォーデンは更に一射を放っていた。

 最後にもう一射してからフィッシュの様子を見て頷き、二人で逃げ出した。幸運なことに追いかけてくる気配はなかった。





「私が渋った理由は、もうわかったな?」

 十分に熊との距離を置けたとウォーデンが判断し、やっと一息ついたときに問いかけられた。フィッシュは頷くだけしかできなかった。

「ここまでの危険に、しかも早々に遭うとはさすがに思ってなかったが、まだ一日はもたないだろう、とは思っていた。黙って後ろから見せてもらっていたが、森に入ったときの基本をすべて忘れてしまっていただろう」

 一番近いのはきっと、浮かれていたのだろう、とフィッシュは思った。獣避けの鈴は準備していたものの、鈴に頼り切るのは違っていたし、そもそも時間をかけて進むべきだったのだ。何から何まで、すべてが性急すぎたのだ。


「早く一人前になりたい、というのはわかる。真っ当な欲求でもある。だが、それだけに急いではいかん。私もお前のことは言えんが、急いでもこなしきれる才能の持ち主だと思えるか?」

 首を横に振るフィッシュに、ウォーデンは頷いて見せた。

「私のところで厳しい、というのであれば、余所に行っても構わない。だが一人で勝手に、というのだけは勘弁してくれ。いいな?」

 今度は頷いた。

「よし、ではもう一休みしたら、帰るとしよう。ただし、お前の案内でな」


 意味がわからなかった。フィッシュが目線で問いかけると、ウォーデンが言葉を重ねた。

「今から街まで戻る。ただし先導はフィッシュ、お前がやってみろ。私は一日が過ぎるまでは一切、助言しない。もともと森に一日留まるつもりで準備してあるのだから、時間はたっぷりある、と思っていい。

 ……なぁに、また熊に出くわすなんぞ、さすがにもうないだろう。まずはここから、落ち着いてやってみせろ」

「……はい」

 少々かすれてはいたものの、今度ははっきりと答えを返したフィッシュだった。





 そう言ったところで、なんらかの目印をつけて歩いた訳ではない。現時点においてフィッシュは、自分の現在位置を完全に見失っていた。しかし労せずして思い出す。方角だけならば比較的、簡単に割り出せるのだ。

天穴(スカイホール)を探すのを手伝ってください」

 フィッシュはウォーデンへ申し入れた。

 ウォーデンは何も言わずフィッシュに従った。助言はくれないが、手伝いならしてくれる。程なくして二人は各々で天穴の位置を確認し、意見を交わす。

 天穴は国の中央、天空高くに位置して動くことがない、天空に開いた穴だ。夜であれば夜明かりしか漏らさない天穴だが、昼であれば煌々と昼明かりを吐き出す。この国では天穴が昼明かりを吐き出す時期を昼と呼び、夜明かりしか漏らさない時期を夜と呼ぶ。


 他の国では「天穴が空をあちこちへ駆け巡る」と旅の吟遊詩人が歌っていたのを聴いたことはあったが、この街で生まれ育ったフィッシュには信じられなかった。街から見える天穴の方角は覚えるつもりがなくとも身に染みついているので、おおまかな街の方角はほどなく決めることができた。

「行きましょう、ウォーデン。方角はわかりました」

 フィッシュの声にウォーデンが無言で頷く。宣言どおりウォーデンが自発的に何かを教えてくれることはなかった。しかし無口であるのは以前からというより、そもそもそういう人柄であったし、細かな雑談などは状況に応じて返してくれる。仲間と呼ぶには恐れ多いが、道行きに同道者がいるだけで絶大な安心感があるのだ、とフィッシュは改めて思い知った。





 そんな中、気になる雑談もあった。

「……少し余裕もあるか、そろそろ良かろう。

 フィッシュ。俺たち狩人には恵みをくれる森だが、どうして世間では『呪いの森』などと呼ばれていると思う?」

「自然への畏怖、ですか」

「それもあるとは思うが、もっと実際的な話でもある。

 この森を『向こう側』へ抜けた者は極めて少ない。いない訳ではないが、街中でそんな者を探すのは徒労に終わるだろうな」

「師匠は抜けられたことはあるのですか?」

 ウォーデンはフィッシュの問いに答えず、言葉をつないだ。

「抜けられる者がおり、抜けられない者がいる、という話だな。誰が抜けられるのかは、外見や言動ではわからない」

「でも抜けられるか抜けられないか、だけの話であれば、呪われているとは大げさな気がします」

「いや、これは大きな呪いだと思う。なにせ生きてさえいれば、森から必ず出ることだけはできるからな」

「どういうことですか、抜けられない者が出られるとは」

「森へ入った場所に戻される、ということだ」

「戻される? それは、つまり……」


「森を通り抜けようとしても『向こう側』には出られず、入ってきた場所へ戻される。そういう文字どおりの意味だ。

 そしてこれはなかなかに強力な呪いであろう、と私は思うよ。この国から出られない、ということだからな」

「……出られない」

 フィッシュは考えたこともなかった。このままウォーデンのもとで下働きを続け、いずれは独立して狩人を生業にしてゆく、と漠然と考えていただけで、街を、国を出るなど。

「考えてもみろ。

 先ほどの熊のような脅威がある、とわかっているのに、なぜ森の入り口に歩哨の一人も立てないのか。森の入り口から何者かが街を訪れたことはあるか? あるいは一度でも森の外へ出て戻ってきた者に心当たりはあるか?」

「……ありません」

「そういうことだ。私のように先の見えている中年ならばまだしも、お前のように前途有望な若者にとっては酷な呪いだと、私は思う」

「しかし! 時々は迷子の子供が森の中から出てきたことや、森の中で発見されたことはあったはずです! 抜けられない、というのも困難な道であるだけで、抜けた者がいない訳ではないのでしょう?」

「子供に関しては、そうだな。自発的に森から出てきたり、森の中を捜索して見つけられたこともある。だが、森を抜けた者については想像の話であって、それ以上ではあるまいし、迷子については先に私が話した言葉に矛盾はしないのだ。

 子供は『自分で』森から『戻ってきた』り、森の中で発見されて子供が『森へ入った街へ戻った』のだから、何もおかしくはないことになる」

「そんな、それは屁理屈というものでは……あ、いや、すみません」


 ウォーデンが気にせず先を続ける。

「加えて『別の街から森へ迷い込んで出てきた者』というのが、私の知る限りはいないんだよ。一人二人くらい、いてもおかしくはなさそうだと思わないかね」

「でも森を抜けて他の街へ辿り着くよりは、元いた街へ戻る方が道なりとしては楽な気がしますし、自然にも思えます」

「そうか……いや、少し熱くなってしまったな。ところで、そろそろ休憩も終わって良いのではないかな」

「あ、そうですね。先へ進みましょう」

 ウォーデンがあからさまに話を切ったことが気にはなったが、休憩には少し長すぎる時間を使っていたので、フィッシュはウォーデンの言葉に従って雑談を打ち切った。





 時告石によれば恐らく明一刻(午後零時)くらいだった。普段の狩りと比べても遅い時間ではなく、むしろ街へ戻る時間としては早い部類である。手に獲物はなく、己の未熟さを痛感しただけではあったフィッシュの「森歩き」は、こうして終わった。


 フィッシュにとっては苦い思い出となっただろう、とウォーデンは切なく思い返した。同時にわかってもいたことだった。フィッシュはまだ前途ある若者であり、ウォーデンの片腕としてであれば十二分の働きもしているが、独りで狩りへ出るには早すぎることも。

 しかし手ごたえはあった。

 普段から朴訥なウォーデン自身うまく話せたのか自信はなかったが、ウォーデン本人としては雑談に紛れ込ませて話したつもりだった。国から出られない、という恐ろしい事実を。

 ウォーデンがフィッシュの後を追って森へ入ったのは、当初から予定していた行動だった。「森を信用する」ならばフィッシュは必ず街へ帰ってきたはずだが、それは「森の中で死ななければ」の話である。森の中で心折れていった若者など、ウォーデンが知り得るだけでも両手で数えなければならないくらいは、過去に確かにいたのだ。

 彼らはウォーデンの助言を重く扱わずに報いを受けてしまったり、希望に満ち溢れながらも不慮の事故で大けがを負ったり、ともすれば命を落としたりと顛末は様々だが、一様にして「森を抜けた報告」を受けたことはない。

 フィッシュはどうやら森を抜けることは考えていなかったようだが、これを機会に考え始めるかも知れない。そのときはそのときで何度目になるのか考えたくはないが、精いっぱいの助力をしてやろう、とウォーデンは考えていた。

 突破できるか否かはわからないが、少なくとも呪いは確実に存在するのだ。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ