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「ねえ、テキストを一晩借りてもいい?」
普通クラスのテキストはもっていない。
「いいよ。どうせ読まないし。無理して読みすぎると吐き気がするんだ」
「え、そうなの?ごめんね」
今日はだいぶ読ませてしまった気がする。
「いや大丈夫。最初以外は普段より読みやすかった」
クリスが笑ってくれたので少しほっとした私は、寮に帰ると普通科のテキストを元にクリス専用のノートを作ることにした。
生暖かい目で見てくるユナは無視することにした。仲直りに立ち会ってくれて感謝はしてるけど。無視する私が面白いのか、ニヤニヤしながらユナはずっと見学していた。公爵令嬢がニヤニヤなんてするものではなくってよ、と言うと、微笑よと言い返された。絶対違うと思う。
次の日から、クリスと私の勉強会は始まった。毎日、授業で使うテキストを私が持ちっぱなしって言うわけにはいかないから、テキストを返すために、普通クラスと行き来することが増えた。
「あ、エミリちゃん」
ドアの近くにいた女子生徒が近づいてきた。この間、クリスを呼んでくれた子だ。アンナちゃんと言うらしい。いつも律儀にクリスを呼びに行ってくれる。アンナちゃんもファミルの分領の一つに住んでいて、クリスの家の隣の領主さんの家令さんの一族の子なんだって。クリスやファミルともその関係で知り合いで、ファミルに伝言してくれたのはアンナちゃんらしい。
「お!エミリじゃん」
今度は、例の男子生徒だ。ガイ・ストーンズ。西の方の町の商家の息子さんだと言う。クリスの仲良しグループの1人で、目立つ容貌をしている。
「クリスに用事?クリスさあ、この間授業中に難しい問題に答えられて、アンダーソン先生を驚かせてたぜ。すげえな。俺にも今度勉強教えてよ。俺も成績あがんねえかなあ」
「おい!ガイ。勝手なこと言うなよ!」
アンナちゃんが呼んでくれたクリスが飛んできた。
「なんだよ。お前のついでじゃん」
「お前は図々しいんだよ!」
二人がまたじゃれあい始めた。
戻ってきたアンナちゃんと顔を見合わせて笑う。
定期的に普通クラスと行き来するようになってから、クリスだけじゃなく普通クラスに知り合いが増えた。校内の他の場所で会っても、手を振ってくれたり、少し世間話をしたりする。こうしてワイワイしている中にも入れてもらえるようになった。私のこれまでの生活にはなかったことで、少し新鮮だ。
「ガイ君。クリスの苦手なことと、ガイ君の苦手なことが同じならいいんだけど、そうとも限らないから。どう言うところが苦手か教えてくれる?」
「エミリ!いいよ。こいつはほっといて」
「そう?」
「えー、ひどい。親友だと思ってたのに」
ガイ君が大袈裟に泣き真似をする。私とアンナちゃんはあははと笑って、結局ガイ君には、次回の試験の結果を見せてもらって、どんなところが苦手か分析してみると約束した。
放課後にまた勉強会をする約束をしてクリスと別れる。
「あれ?エミリ?」
ファミルだった。普通科の廊下を歩いてきた。
「ファミル?どうしたの?こっちの棟に用事?」
「あ、まあ。エミリは?」
歯切れの悪いファミルなんて珍しいな。
「私も用事。クリスにテキスト返してたの。もう終わったから戻る。じゃあ、次の授業でね」
「ああ、じゃあ」
なんだか、突っ込んではいけない気がして、私はそのままファミルと別れた。
それはそれ、これはこれ。
私はクリスから借りたテキストをもとにノートを作ったのだ。
「読める!」
「よかった!」
私と、勉強を始めてから、クリスは目に見えて授業内容を理解していった。もともとクリスは理解力はある方なようで、テキストが読めれば問題ないようだ。私は、ずっと思っていたことを思い切って伝えることにした。
「クリス、これはお医者様にきちんと相談したほうがいいと思うんだけど、クリスはディスレクシアだと思う」
「ディス?」
「理解力には問題がないのに、文字の認識にだけ困難を伴う症状のこと」
「え?」
クリスは、ぽかんと口を開けた。あまりこの国では知られていない症状だけど、西の方の国ではかなり研究が進んでいる。いつか読んだ医学書に書いてあって興味を覚えたのだ。目も悪くないし、理解力もあるのに、文字だけ読めないなんて驚いた。偉大な魔術師にもこの症状を持つ人がいて、その人は、若い頃、魔術書を音読してもらって全て覚えたと書いてあった。文字が読めない代わりに驚異的な記憶力を持っていたらしい。
でも、普通は、記憶力は人並みな場合が多い。クリスもそんなに飛び抜けているようには見えない。
だから、読みやすいノートを作ったのだ。
「このノートは、文字の間隔を広くして、上からかぶせるシートの小窓から単語が一つ一つ読めるようになっているから、読みやすいと思う。ずらずら長い文章は文字が曲がったり入れ替わったりして見えるんじゃない」
「うん」
クリスは、かなり驚いている。いきなりこんなこと言ってショックだったかな。
「あの、クリス。ごめんね。その、素人診断だから、もし気になるなら、ちゃんとしたお医者様に見てもらって」
私が、声をかけるとクリスはいきなりガバッと私の方を向いて、私の両手を握りしめた。突然のことに、心臓が跳ね上がって、顔に血が集まるのを感じる。
「ありがとう!俺、これまで自分が馬鹿なんだと思ってた」
そ、そう。ええっと。喜んでくれて嬉しいけど、ちょっと近いかな。
口に出したわけじゃないのに、クリスはハッとした顔をして、手を勢いよく離した。そのまま、物凄い勢いで、後ろに下がり、後ろにあった木の幹に頭を打ち付けた。
「……っつ!」
「大丈夫!?」
頭を抱えるクリスに慌てて駆け寄る。クリスの運動神経の良さはたまに無駄に発揮される。そんなに大きく下がらなくてもよかったと思うんだけど。
「大丈夫。ごめん、俺嬉しくてつい」
涙目でそう言うクリスがなんだかおかしくなって、びっくりしていたのも忘れて笑ってしまった。