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「なにしてるの?」
その日の夜、寮の談話室で一人、ノートに向かう私をのぞき込んだのはユナだった。
「うん。ちょっとね」
「ふーん。なんかあった? 今日、クリス君とのデートの日だったじゃない?」
「--デートじゃないよ。ただの友達」
「ふーん。で、なにかあった?」
「……なにかあった。でも、本人じゃないのに話せない」
「そっか」
そう言うと、ユナが私を背中から抱きしめた。
「エミリのそういうところ好きよ」
「……ありがとう」
ユナは温かい。ちょっと涙腺が緩んだのは、見えてないと思う。
次の日、私は、昼休みに普通科の校舎を歩いていた。
襟に特待生のバッチをつけたまま来てしまった私を、普通科の生徒たちが驚いたように振り返る。
私らしくない。私は、いつも目立たないように生きてきた。多少成績がいいことで知られているのかもしれないけど、私自身がどんな人間か知っている人はあまりいないだろう。
一人で普通科の校舎に来るなんて、普段の私には考えられないことだ。
でも我慢出来なかった。
クリスのクラスに来ると、教室の奥で笑っているクリスがいた。私が、前から見たことのあるクリスだ。教室だけでなく、顔の広いクリスは、学校のあちこちで目立つグループの輪の中心にいる。
「あの」
ドアのそばにいる女子生徒に声をかける。
「はい。え? あ……エミリさん」
その女子生徒は、私のことを知っているらしい。しかもファーストネームを。話したことあったかな。
「あ、ちょっと待っててね」
私は何も言っていないのに、彼女は微笑むと、小走りに教室の奥に走っていく。話しかけられたクリスは彼女が指さす先に私がいるのに気付くと、ものすごい勢いでやってきた。
「ど、どうしたの? 珍しいね!」
クリスの笑った顔が引きつっている。あれ? 困ってるかも。私、やっちゃた?
でもここまで来て何でもないと帰るわけにはいかない。
「あのね。今日は誘いに来たの?」
「さ!誘いに?」
なぜかクリスの声が裏返った。
「うん。あのね、もうすぐテストじゃない? それまで一緒に勉強する?」
「……え?」
「あの、昨日、お友達が言っていたじゃない。教科書読むのが苦手だって。それで、あの、私、かんがえたんだけど……」
「……は?」
急にクリスの声が硬くなった。あれ?
「あー、昨日の特待女子。どうしたの?」
後ろから現れた男子生徒は昨日ボールを蹴っていた人だった。私が握りしめていたノートをめざとく見つけて、面白そうにクリスを見た。
「お、クリス。勉強教えてもらうわけ? うまいことやったなあ。これで万年追試のお前にどうにかなるかーー」
「そういうんじゃないから」
男子生徒の言葉を遮ったクリスいつになく真剣な表情だった。男子生徒もいつものノリで軽い冗談のつもりだったんだろう。ちょっと呆気に取られている。
「なんだよ。まじになるなよ」
そんな男子生徒には目もくれず、クリスは真っ直ぐ私のことを見た。
「そういう目的だと思ってたわけ?」
「え?」
「同情はいらないから」
「そんなつもりじゃ……」
どうしよう。やっぱり余計なことをしたみたい。こんなに怒ったクリスは見たことがなかった。
「とにかく帰ってくれる?また連絡するから」
「……」
声は出なかった。こんなに怖い顔のクリスは見たことがなかった。
「お、おい、クリス〜。まじになんなよー。らしくないぞ」
件の男子生徒が冗談っぽくフォローしてくれるけど、クリスの表情は変わらなかった。
「……ごめんね」
俯いて小さい声で言うと踵を返した。
「あ、エミリさんーー」
「おい、クリス!」
クリスを呼んでくれた女の子とフォローしてくれた男子の声が聞こえたが、私は気にせず走った。「らしくない」ことをしたのは私だ。おせっかいで踏み込んでしまった。
この学園の生徒の半数以上は普通科だ。学校の敷地南半分は普通科の敷地で専用の校舎やグラウンドがある。残りの半分は、騎士科、魔法科、商業科、建築科、文官科、農業科、そして特待科。こちらは敷地の北半分。騎士科専用の訓練場があったり、農業科用の畑や牧場があったり、みんなで使うグラウンドがあったりする。
敷地の真ん中にカフェテリアがあって周りは庭で囲われていて、全ての生徒の憩いの場になっている。
普通科は生徒が多いけど、専用の特殊施設があまりないので、北半分に比べて広々している。カフェテリアの周りの庭もかなり南側に張り出している。
私は時間があるとカフェテリアの周りの庭で本を読むのが日課だった。
人が多いところが得意ではないので、いくつか人の少ない東屋やベンチをチェックしておいて、その中でその日誰も使っていないところでゆっくりするのが好きだった。
その日も、ランチを一緒に食べた友人たちと別れて、人気の少ないベンチで本を読んでいた。
しばらくすると、誰かの声が聞こえた。
「えっと、この……数式……に、この……値を……あて……はめると……」
どうやら、教科書を音読しているらしい。しかし、随分とたどたどしい読み方だ。初等学校の低学年のようだった。
どこから、声がするのかと思ったら、どうやら茂みの向こうの木の根元だった。
恐る恐る近づいて、そっと様子をうかがう。
そこにいたのが、クリスだった。
もともと、クリスのことは知っていた。普通科の目立つグループにいる人で、学校の有名人だった。騒がしいと眉を顰める人もいたけれど、私は、いつも楽しそうだなと思っていた。
クリスはたどたどしく本を読む。表情は真剣そのものだ。うまくいかないことにイライラするのか、時々グシャッと髪を掴む。
なんだろう。あの様子はーー。
私はついつい見入ってしまった。
「おーい、クリスー。どこいった!」
遠くから誰かの声がする。
クリスはハッとすると慌てて教科書をカバンに詰め込んだ。枕にして横になる。
友人らしい男子が木陰から顔を覗かせたのはそのすぐ後だった。
「なんだよ。昼寝かよ。テスト前なのに余裕だな〜」
「何だよー。せっかくゆっくりしてたのに、うるさい奴が来た。俺様は天才だから昼寝しとけば勉強も神が降りてくるの」
「そんなこと言って万年追試のくせに」
「うるせー」
二人はじゃれあいながら後者の方向に去っていく。私はなんだか見てはいけない秘密を見てしまった気がして、しばらく動けなかった。