ダイダイ色の夕日
『始まり』があれば必ず『終わり』がある。
大切に育てられて奇麗な花を咲かせた植物もいつかは枯れるし、頑丈に建てられた建造物もいつかは朽ち果てる。あどけない顔した赤ちゃんだって、いつかは年齢を取りよぼよぼになってその生涯を終える。僕たちの生きているこの世界だって、今から約46億年前に『始まり』、いつかは『終わり』を迎えることになるのだろう。実際、50億から70億年後には太陽が主系列星段階を終えて、地球の公転軌道に近い大きさにまで膨張すると言われている。すると、地球は太陽に飲み込まれるか、表面が熱によりドロドロに融解するマグマオーシャンに覆われるか、どちらかの運命を辿り終わりを迎えると考えられている。
「さて、ここで哲学的な問題です」
放課後の教室。夕焼けで橙色に染まる室内で、僕は目の前に座る彼に向かって口を開く。彼は仏頂面で右頬を押さえて興味なさ気に窓の外を見ていたが、それでも一応僕の言葉に耳を傾けてくれてはいたらしい。偉く唐突だな、と彼は視線をそのままに言葉を返してくれる。
「世界が終わったとき、人は一体どうなるんだろうね」
「普通に死ぬだろう。人類滅亡どころか地球滅亡するんだから」
彼は、何を当たり前のことを、とでも言いた気にそこで初めて僕に視線を向ける。その瞳から窺い知れるのは、鬱陶しいやら放っておけなどの後ろ向きなものばかり。僕が初めて彼と出会ったときもそんな瞳で僕を見ていた。
彼と僕との関係は非常に曖昧なものである。友人というには深い付き合いではなく、知り合いというほど浅い付き合いでもない。まぁ、簡単に言えば『知り合い以上友人未満』と言った感じだろうか。時たま今日のように放課後誰もいない教室で実もない言葉を投げ掛け合うくらいしかしたことがない。
僕たち二人の関係が『始まった』のはいつからだろうか。二年前、この高校で同じクラスになったときだろうか。或いは五年前、僕がこの街に引っ越してきたときだろうか。もしかしたら、僕たちが『始まった』ときかもしれない。まるで『運命』のように僕たちは出会い、このような関係になったのかもしれない。
…おっと。『運命』なんて言葉を遣うと『あの先輩』に怒られてしまう。『運命』を見ることが出来るあの人に。
それに男二人の関係に『運命』なんて言葉を用いると酷く耽美な印象を与えてしまう。それは僕も、勿論彼も望むところではないだろう。
面倒臭そうな目をした彼と向かい合う形で僕は座り直す。
「そういうことを訊いたんじゃないんだけどね」
彼の言葉に僕は思わず苦笑いを浮かべてしまう。どうやら僕の伝えたかったことが上手く伝わらなかったらしい。僕と彼との曖昧な関係では『以心伝心』などと素晴らしいものは築かれるはずもないから仕方ない。それに僕の問いかけも悪かったのだろう。言葉が随分不足していたのかもしれない。
僕は咳払いを一つして、憮然とした雰囲気を纏う彼に問いかける。
「仮に。全ての物事を記憶することが出来る人がいたとしよう。
いや、『人』って限定したらいけないか。
全ての物事を記憶することが出来る『生命』があった。その生命は本当に何でも記憶した。先カンブリア時代の地球の姿を真正細菌や古細菌、藍藻として記憶して、古生代を三葉虫として生き、後にオルドビス紀と呼ばれるようになった時代の終わり頃に起こった大量絶滅により死亡。デボン紀、ベルム紀両方の大量絶滅も経験。中生代から白亜紀に生きた恐竜が絶滅したのもその瞳で見、リス氷期の寒さで凍死。縄文時代に狩りを命を落とし、桶狭間の戦いで討ち死に、第二次世界大戦では防空壕の中で多くの人々と共に爆死。それから現在まで爬虫類や鳥類、爬虫類、両生類までありとあらゆる生物として生きた。
それら全てを記憶し、死んで生き返るまでの間の記憶まであるそんな生命があったとするよね」
「ちょっと待て。そんなことある訳ないだろう。大体肉体が消滅しているのに記憶できるはずがない」
僕の言葉を遮るように彼が尤もな疑問にする。当然のことだと思う。記憶を司るのは脳、もっと詳しく言うと大脳皮質。肉体であるそれが滅せば記憶も何もあったものではないと考えるのは当たり前だ。
けど―
「記憶っていうのは脳だけが出来るものじゃないんだよ。
記憶喪失になって全てのことを忘れたとしても、自転車には難なく乗れるという事例がある。これは『自転車の乗り方』を脳では無く、体が感覚として記憶しているから。他にも、幼かった時にたった一度食べた料理を口にした瞬間、その当時のことを思い出したり、脳以外でも記憶は可能だと考えられている」
「言いたいことは大体理解出来るが、それとは次元が違うだろう。
そもそも肉体で記憶出来たとして、その記憶した肉体が無くなってる訳だしな」
「そうだよ。けど、『肉体に記憶出来る』ということは、『脳以外でも記憶することは可能』って証明だよね。
だったら、『魂』そのものに記憶して転生することも決して無くはないと思うんだよ」
無茶苦茶だな、と返されてしまったが、テレビなどで耳にする前世の記憶とかそういった類のものは魂に記憶しなければ在り得ないだろう。まぁ、それでも『あの世のこと』まで記憶している生命のことは僕としても、他に聴いたことはないけれど。
僕の言葉を吟味するかのように、彼は押し黙りじっと窓の外に見える陽を眺める。最早半分以上見えなくなり、間もなく今日一日が終わるということを知らせるかのように橙色に世界を染めて陽はゆっくりとその姿を隠していく。
まぁ、厳密に言えば『一日の終わり』は午前零時なのだから、陽が沈んだとしてもまだ同じ日付なのだけれど。それに加えて、人は橙色を見ると夕日を思い出し『終わり』を思い浮かべる傾向があるようだが、朝日だって橙色で輝いている。なのに何故『始まり』のイメージが無いのか些か僕には不思議だ。まぁ、完璧な蛇足だけどね。
僕がそんなどうでもいいことを考えている間も、僕の目の前に座る彼は相も変わらず黙りこくっている。あまりに考え込みすぎて、人の手の形に腫れ上がった頬を隠すのも忘れてしまっている。手形の所為で彼の割かし整った顔が酷く滑稽なものになってしまっているが、僕は彼のそんな姿を見ても決して笑わない。見知らぬ他人では無いから無神経に笑うこともなく、気の知れた友人でもないから笑い飛ばして励ます訳でもない。曖昧な関係の僕が彼に対して出来ること。彼にしてみても僕の戯言に対して、無視する訳でもなく、何を言っているんだよと突っ込む訳でもない。僕の言わんとすることを真摯に受け止め、理解しようとしてくれる。それが彼が僕に対してしてくれること。
「よし、多分理解出来たと思う。続けてくれ」
暫くすると彼は漸く一段落着いたのか、僕に話を続けるよう促す。
「うん。それで全てのことを記憶出来る生命があった。その生命にとっては『肉体の死』が、=『自身の死』ではない訳だよ。そりゃそうだよね。あの世に逝っても、意識があって転生して再びこの世に還ってくるまで待てば良いだけだもの。だから彼は『死』を記憶していると同時に、『死』を経験していないという酷く矛盾した状態で存在している。
輪廻の中で彼は思う。『もしも、還ってくるべき場所である、この世が無くなれば一体自分はどうなるのか』と。
あの世だけが存在し続けるのか。それならば、この世に存在していた全ての生命があの世で存在し続けるだけで、何にも変わらない。彼は永久に輪廻から逃れられず終わらない。自分以外は『終わって』いるのに、彼は『終わらない』。
この世の消滅と同時にあの世も無くなるのか。それならば彼は輪廻から抜け出せるかもしれない。けれど、『終った』後には必ず何かが『始まる』。『終』と『始』は同一。あらゆるものは『始まった』時に『終わり』を約束される。それと同時に『終わった』後には『始まり』を約束される。久遠に『始』と『終』を交互に繰り返す。ならば『始まった』その世で再び彼は煉獄のような日々を味わなければならないかもしれない。彼の苦悩は終わらない。世界が『終わり』、『始まって』も、彼は『終わらず』、『始まらない』。矛盾。
もしも万に一つの奇跡が起こり、この世もあの世も終わり、新しい世界も始まらなかったとしよう。それなら彼の生涯は終わるし、彼の悩みも終わる。けれどそれならば、そこに残るのは『無』だけになる。『無』は観測されて始めて『無』と認識されるけど、そもそも観測する者がいない。そこに残るのは『無』と認識されることもない『虚無』。『虚無』が支配するならば『始まり』が訪れず、当然『終わり』も訪れない。そこに存在し続けるのは絶対的な『虚無』のみ。『始まり』も『終わり』も無い『虚無』だけが存在し続ける。世界は『終わり』、彼もまた『終わる』。けれど奇跡により世界も彼も『始まらない』。残っているのは『虚無』のみ。その時彼らはあの世もこの世もない虚無の中、一体何処に存在すれば良いのかな」
そこまで喋って、僕は教室がすっかり暗くなっていることに気付いた。最早目の前の彼の顔さえ見えない。余程、僕は戯言を撒き散らすことに集中していたようだ。酷く滑稽だな、と自然と口が自嘲気味に歪む。
「…確かに、哲学的だな。答えが出ない」
暗闇に染まった教室で、彼の声だけが響く。
「『始』と『終』が繰り返すなら、地球が滅んでもまた違う惑星が出来て同じことを繰り返す、か。そうなると、宇宙を含めた大きな意味での世界が永遠に繰り返すことになって『終わらない』。ふん、確かに矛盾だな」
けど、と暗闇の中でも彼が笑ったのが分かった。
「お前が本当に言いたいのはそういうことじゃないだろう」
「案外、本気で言ったんだけどね」
戯言だけど。
本気の戯言っていうのも自己矛盾だと思う。自己矛盾で自己破綻。まぁ、戯言だから論理が無くても非難はされないと思う。
「お前は結局、どんな恋人関係であれ『終わり』は訪れることと、どんなことが起きても、例えば《弟》としてしか見られていない相手から告白されても、家族関係は『終わらない』って言いたいんだな」
曖昧な関係だとやはり以心伝心は出来ないらしい。どんなに吟味してくれようとも、伝わないものは伝わらないのだ。どこをどう考えたらそうなるのか、大いに疑問ではあるが、まぁ別に彼が元気になったなら僕としても長時間喋った甲斐があったというものだろうか。それに『恋人に振られて落ち込んでいる彼をどうにか元気付けたい』と思っていたのは紛れも無く事実だし。僕たちの関係性ならこの結末は及第点だろう。
彼の気配が教室の扉に移動するのと、机と椅子が騒々しい音を立てるのを暫く感じ、何の前触れも無く世界が光で満たされた。
自分の鞄を抱えた彼が、教室の蛍光灯のボタンを押してくれたらしい。彼は未だに残る手形のことも忘れて晴れ晴れとした表情で扉の前に立っていた。
「感謝する。お前のお陰で元気出た」
思い切って姉貴に告ってみるわ、と突拍子もないことを言い出したが、それでも僕は見ず知らずの他人のように驚いたり、気心知れた友人のように笑い飛ばしたりは決してしない。彼が彼のお姉さんに好意を持っていることは以前から聞かされていたから。まぁ、だからと言って、無関係の他人のように倫理観を振りかざして止めることもなければ、親身になれる友人のように積極的に応援するつもりも毛頭ない。厭くまで僕がとる姿勢は傍観だ。雪球地球であるにも関わらず何の足掻きもしなかった僕が今更その姿勢を変えるはずもない。
「それじゃあ、関籐。俺は先に帰るぞ」
「はいはい。また明日」
そして彼、木城君は意気揚々と去っていった。
一人取り残された教室で僕は誰とも無しに呟く。
「まぁ、こういう楽しみもあるから、『終わ』らなくてもやっていけるんだけどね」
まずは労いの言葉を。お疲れ様です。それからお読み頂き有難う御座いました。
今回は自分が昔考えていたことをメインに短編を書きました(あれ、これって短編なのか。かなりの分量あるぞ)。昔はこんな『終わった』らどうなるのか。けど本当に『終わり』はあるのか、とか考えて眠れなくなっていました。考えても仕方の無いことなので此処何年も考えていませんでしたが、今回改めて考えてみても答えはやはり出ませんでした。というか考えていると知恵熱が出て頭が痛くなります。
オチとしてもきちんとオチていないと感じる方もいるかもしれません。しかし、今回のテーマは『終わりはあるかどうか』です。オチていないと感じた方は、『終わり』はないと思っていらっしゃる方です。
因みに自分もどうやら『終わり』の存在を疑っている一人のようです。