遠くまで
彼女の名前を暫定的に「たま」とした。
卵から生まれたから「たま」。
彼女が一般的な感性の持ち主だったら猫じゃない、とでも怒ったかもしれないが、生憎とここにはネコの1匹もいなくて、たまもたま、という名前に偏見がなかったので、呼び名をたまにする、というとどこか嬉しそうですらあった。
「たま、ちょっと今日は遠くに行こうと思う」
朝ご飯がおわり、質問タイムが終わると、車にガソリンを入れて、トランクにポリタンク、水のペットボトル、カップラーメン、缶詰、発電機、電気ポット、そしてちょっと考えてノートPCを載せる。
『トオク?』
「ああ、シールドの外に人がいるかもしれないし、離れたところがどうなっているか、みてみたいし」
そういって、助手席に乗るようにいうと、嬉しそうに乗り込む。
昨日一回乗って、車が楽しくなったようだ。
「カーナビはあるけれど、やっぱ動かないか…」
どうしようかとおもい、まずは昨日の車の専門店の跡地に向かう。
店内を探すと書籍のコーナーがあり、薄汚れてはいたがちゃんと見れる状態で首都圏の地図が置いてあった。
あと、ないよりはましかなと適当にクッションを見繕った。
ビニールにはいってたそれは数年立っていても袋から出すと新品のようだった。
凸凹の道の緩和剤にクッションが少しでもなればいいと思った。
この年でできれば痔にはなりたくない。
まずは武蔵野をぬけて多摩地区から国立、八王子、辺りまで行ってみようともう。
新宿の首都高速の入り口から入り、高速道路を走ってみる。
ところどころ雑草が生えていたが、首都高は下の道路よりも快適だった。
問題は強度や崩落の危険だが、木が支えとなっているのか、比較的そのままの形を保っていた。
ちょっとでもあぶなかったら下の道を走ろうとおもったが、トンネルもそのままの形を保っていて、気が付くと2時間近く走っており東京を抜け、山梨あたりまで来ていた。
木に埋もれつつある看板を見て興味をそそられて高速の出口を降りる。
「やっぱり、人の気配はない、か」
高速を降りて元は街だっただろう場所を車で走るが、都内と同じように半分木々に覆われた街が広がっていた。
子供のころの記憶を頼りに、盆地を見下ろす山を登っていくと、お目当ての施設を見つけた。
車を止めて施設の中を入っていく。
「やっぱりあった」
そこは昔地主がほったら温泉がでてきたが、ほったらかしにしていた、というエピソードがある温泉施設だ。
母の故郷でもあるここに小学生のころよく連れてきてもらっていた。
目が覚めて3日目。
もし入れるのなら暖かい湯を浴びれたらと思ってきてみたが、
どうやら人間がいなくても、温泉は湧き出ていたらしい。
『ハルカ?』
「あ、たまっ」
嬉しさの余りすっかりわすれていたが、たまもいたんだった。
たまにはどうやってはいるのかを教えて、女湯に案内する。
『一緒ジャナイノ?』
「これがルールなんだ」
と、不思議そうにするたまを強引に言いくるめて、男湯へと入っていく。
おそらく給湯システムは止まっているが、源泉かけ流しで、単純な施設だった分、人がいなくなってもお湯がそのまま流れていているのだろう。
源泉に近いのとそういう風に作ったこの温泉のオーナーだった人に感謝しながら3日ぶり(体感であり、本当はもっと入っていなかっただろうと思う)の風呂にゆっくりとつかる。
目の前には盆地が広がり、木々が風に揺れる音と、昨日までは聞こえなかった鳥の声、虫の羽音などが聞こえる。
けれども、どんなに耳を澄ましても人の声は聞こえなかった。