梅の記憶
結末は三人称で語らせていただきます。
――人に戻りたいと、今ほど切望したことはなかった。
生い茂る木々の中。乾いた死体を前に、真っ白な頭でただそう思った。
三年前、平和な日常から切り離され。時代錯誤な儀式の生贄の一人としてこの身を勝手に捧げられ。そうして、全てを失った。
十六年間生きた世界。家族。友人。そして『自分』という存在。
大切なものを探し彷徨う私は気づけば既に人ではなくなっていた。誰にも人としては扱ってもらえず、気味悪がられるばかり。
知らない時代。知らない日本。教科書でしか触れることがなかった江戸という場所。其処にあったのは人と人に紛れる異形の存在。有象無象が闊歩する景色は、ただ恐怖しか生まなかった。
ずっと一人だった。前触れもなく放り出された世界でどう生きてゆけば良いのか、分からなかった。身の振り方も知らず、周囲に流されるばかりでいた私。
戻りたい、と何度も思った。あの世界に。家族の元に。戻りたい、と何度も願った。
――それがいけなかったのだろうか。
一年か、半年か。江戸を彷徨い続けたある日。食事も水も碌に取れなかった身体はいつからか、霧のように霞み始めた。初めに抱いたのは恐怖。次に覚えたのが「これで悪夢は終わるのだ」という安堵。だけど、すぐに平静心は失われた。
ぱきりと、割れたのだ。私の腕が、まるで薄い氷のように。
ボロボロと崩れ落ちた瞬間、手繰り寄せていた理性が悲鳴を上げながら欠き消えた。其処からのことは、もう覚えていない――なんて、言えたらどれほど良かっただろうか。
忘れたくても忘れられない光景。萎びた腕。色味を失った肌。窪んだ眼。皺の寄った体。
気がつけば、干からびた死体が目の前に転がっていた。
あの時は何が起きたのか分からなかったけど。今なら、分かる。
人としての尊厳を再び与えられ。居場所を与えられ。食事も当然のように与えられるようになった今。正常な思考も、理性も、全てを取り戻した今なら、よく分かる。
腰を抜かす自分の膝下に倒れる人の亡骸を唖然と見つめた。
先ほどまで血走っていた目は今では窪み、私を襲おうとしていた手は力なく落ちている。生気で満ち溢れていたはずの山賊は、枯れ木のように朽ち果てていた。あの時と、同じだ。
――私が、喰ったのだ。
他人の『時』――つまりは生気のようなものを啜る『なにか』。妖であろうが、人であろうが、この世に生きる全てのものを喰らう不死の存在。それが、私なのだ。
僅かな光しか差さない場所で呆然と腰を抜かしたままでいる私に、目の前に佇む主がそう言った。
「まさか、お前が『不可叉』とはな……」
長い黒髪を一本に結び、刀を腰に差す男の精悍な顔が苦々しく歪む。
「ふかしゃって、なに?」
真っ白な頭に浮かんだ言葉をそのまま口にした。乾いた咥内から零れ出た声は、掠れている。
「存在するはずのない……いや、してはいけない存在。禁忌の遺産とも、呼ばれている」
「禁忌って……」
声が震えた。主の顔には大好きだった笑顔はもう飾られていない。
堕ちるところまで堕ちた私を見つけてくれた人。汚い私を温かな腕で包んでくれた人。其処には愛情ではなく、同情しかなかったけど、それでも嬉しかった。
一瞬で好きになった。その太陽のような笑顔を。遠くからでも良いから、ずっと見ていたかった。優しげに細まるその瞳を。
同じ想いはいらないから。他の誰かを想ってていいから、ずっと傍に居たかった。お仕えしたかった。なのに――。
「なんで、気づかなかったんだろうな」
温度のない声が空間を満たした。
刀の柄を握る主の手がぎちり、と音を鳴らす。
「……お前は、第一級、討伐対象になっている」
なんで、こうなっちゃうんだろう。
冷たい瞳を。鋭い眼光を。凍てつくような殺気を。ぎらつく刃を私に向けるのは、私が『人』じゃないから?
でも、違うよ。違うの。
私、『人』なんだよ。『人』だったの。普通の、人間だったの。
『不可叉』なんて知らない。私は――。
「まっ、て」
声が、震えた。みっともなくも、目の前の人を失いたくなくて、必死に手を伸ばした。
相手の黒い瞳が揺れる。向けられた刀身が、わずかに下がる。その次の瞬間――。
「――風人様!!」
ばちりと電撃のようなものが迸った。全身が鋭い痛みと熱に苛まれ、呼吸が一瞬だけ止まった。
ふっとぶれた視界を自分の足元へと修正すれば、青白い円が己を囲っていた。
力が抜ける。闇が落ちる。
「――うめ!!」
「いけません、風人様!!」
大好きな人の叫び声とは別に、女性の声が聞こえた。
2
「目を覚ましましたか――」
暗闇の中、ふっと意識が浮上した。
重い瞼が震えながら上がる。開けた視界は暗かった。
耳元に流れ着いた声の主を確認しようと顔を上げようにも、首が寂れたブリキのようにしか動かず、相手の足元までしか見えなかった。
格子の向こうにはぼんやりと火が灯されていて、ゆらゆらと目の前の影を揺らした。
(風人様は……)
主の顔が脳裏を過る。そして必死に現状を確認しようと視線を上へと向けた。きっと相手には、自分が睨みあげているように見えていることだろう。
(……里さま)
其処に居たのは、白い狩衣に身を包んだ女性。いつも秀麗な笑顔を飾っている顔は、能面のように表情がなかった。ただ、その瞳には深い闇が見え隠れしている。
見慣れない表情を見せる彼女に戸惑いを覚えながら、声をかけようとした。
「……っ、」
けど、口から出たのは乾いた吐息だけ。
喉の奥がひりつくような痛みを訴える。感じていた違和感が更に強く存在を主張した。首元を確かめようと手を其処に伸ばそうとし、その時初めて自分の手首を縛る鎖に気が付いた。
「――無駄よ」
無機質な声が木霊した。
「貴女には動くことはおろか、喋ることも許されていない」
ゆらゆら。影が揺れる。
いつもと違う陰を見せる彼女を遠い現実のように見ながら、耳元まで流れ着く言葉を拾ってゆく。
「貴女は、世界を混乱へと招く災厄。ここに縛り付ける他、ない」
「ぁ、タしっ、ヲコ゚ろㇲっ」
――私を、殺すんじゃないの?
それが知りたくて、喉を覆う倦怠感に必死に抗う。なんとか言葉を絞りだそうとすれば、自分でもぞっとするほどの悍ましい声が反響した。
ばちりと、首を貫く何かが火花を散らす。途端、一瞬だけ里さまの瞳が揺れた。
「……あなたは、不死身だから殺せないわ」
「ㇷじ、ミ゛?」
『他人』を喰い続けなれば、消えゆく存在なのに?
(――ああ、そうか。この人たちは、わかってないんだ)
達観のような嘲りが漏れそうになった。
己を囲う格子を眺めながら、ぼんやりと思考した。
この人たちは、『私』のことをよく知らない。私が元は人であったことも。『時』とやらを補給し続けない限り、恐らく存在さえも保つことができないことも。
一度だけ崩壊したことがある腕が、繋がれた鎖のせいか、痛みを訴えた。振り返ってみれば、あのような異変が起きたのはあの一度きりだった。
もしかしたら、自分は無意識に他人を喰らっていたのかもしれない。そう思えば自分が恐ろしいものに見えて、身体が一瞬だけ震えた。この世界で過ごした三年間の記憶が走馬灯のように脳裏を過る。
映るのは、濡れ場色の髪を揺らす青年の笑顔。
「――っ、」
唇が震えた。いつも口にしていたそのたった一つの名前だけが、どうしても声に出せなかった。
――風人様。私をどん底から救い上げてくれたお人。私に居場所をくれた主。彼は今、どうしているのだろう。
「風人様は、ここには来ないわ。貴女を使役していたこともあるから、済ませなければいけない面倒ごとが色々あるのよ」
そうか。私は、捨てられたのか。
じくりと、胸が刺されたかのような痛みを訴えた。だけど怒りは湧かない。
最後に見た主の冷たい目を思い出す。きっと、私のせいで沢山の迷惑を被っていることだろう。
こんな『化け物』だとは知らずに私を拾ってくれた彼に申し訳なさと諦観の念を覚えた。
「貴女の自白が終わり次第、陰陽寮へと報告することになっている」
「……」
もはや声を出す気力もない。淡々と語り続ける相手に耳を傾けながら、視線を床に落とした。冷たい石畳には、黒い染みがついていた。
(自白……)
私は、いつのまに罪などというものを犯したのだろうか?
(……ああ、そっか)
『人』を、喰らったのだ。『人の世』を『陰の者』から守る役目を担う奉行衆からすれば、自分が犯した行為は十分罪に問えるだろう。
だけど、きっと彼らが私に望んでいるのは罪を認める『自白』じゃない。『私』という存在を暴くための、彼らの手による自白だ。
(――自白)
一度だけ、目にしてしまった光景はいまだに瞼の裏に焼き付いている。触れてはいけない闇。忘れたい記憶。裏奉行所の暗部。妖の、拷問。
ぞわりと、背中に悪寒が走った。
赤い手。床に広がる液体。耳を劈くような悲鳴。厳重に仕舞いこんでいた記憶の箱がガタガタと音を立てながら、ゆっくりと開こうとしていた。
だけど、寒気はすぐに引いていた。感覚が、麻痺しているのかもしれない。
「――明日から、取り調べさせてもらいます」
他に言う言葉が見つからないのか、里さまはそのまま姿を消した。
暗い空間に、格子に囲われた自分だけが残る。
取り調べ。既に始まっているものだと、思っていた。
じゃらりと自分を戒める鎖が音を鳴らす。喉を貫く呪具に慣れてきたのか、段々と違和感は感じなくなっていた。灯油の火が消え、身体を纏う術式だけが視界を照らす灯りとなる。
雪降る真冬。突き刺すような冷気も、手足を蝕む痛みも、もう無い。
ゆっくりと、視界が再び暗転する。
3
――夢を見た。初めて主に、風人様に、出会ったときの夢だ。
「――なぁ、お前死んでんの? 生きてんの?」
それはなんとも不躾で、馬鹿みたいな質問だった。
死体のように路地裏の端に転がる女に、粗野な青年が話しかける。夜空のような紺色の着流しに、白い鼻緒の下駄。腰には刀を差している。
「――お侍、さん?」
世界に落とされて早一年。月日を数えることさえも忘れてしまったために、自分が一体どのくらいそうしていたのか当時は知りもしなかったが。
食うことも、水を飲むこともできず、ただ周りに煙たがれ、避けられていた私に初めて普通に訪ねてきた男は別世界の住人に見えた。
生気で満ち溢れた生き生きとした瞳が、私を映す。
「いんや、こういうもん」
ごそりと青年が懐から黒い十手を取り出す。
それを視界に途絶えながら、二度、目を瞬かせた。
「おか、っぴき?」
すると、幼さの抜けない精悍な顔が笑う。
「ちげえよ。どっからどう見たって、『陰陽』のもんだろうが」
「おん、みょう」
「まあ、確かに『奉行所』だけどよ……俺ぁ、『隠り世』専門のもんだ。ちなみに岡っ引きじゃなくて、同心な。ど・う・し・ん」
「間違えんなよ」とそう言って、青年は其れを再度懐に仕舞う。
「で、お前。こんな入り口に近いところで何してんだよ。朝から裏の奴らが気味が悪いからなんとかしてくれってうるせぇんだ。最近ここらの塵を喰い漁ってる蟲喰いじゃねぇのかって言われてんぞ、お前」
「蟲、喰い?」
聞きなれない言葉に再度、目を瞬かせる。
「あれ? ちげぇの? まぁ、確かに蟲喰いにしちゃあ、ちょっと綺麗な感じがするよな。俺も、実際に目にしたことねぇけど」
「……」
「だんまりかよ」
何をどう言えばいいのか分からなくて。夢の中にいるような心地で目の前の青年の言葉に耳を傾け続けた。
はあ、と青年が溜息を吐く。一本に結んだ長い髪を揺らしながら、がっくりと頭を抱えた。
「……とにかく、『隠り世』の入り口前に立ってちゃ周りの迷惑だ。早くここを退きな」
「……」
「……お前、行くところねぇのか」
動こうにも力が入らず、そのまま地面に横になったままの体制でいると、相手が察したように言葉を足した。
行くところ。確かに私には行くところも、帰る場所もない。いや、分からないのだ。帰り道が。
「……うーん。じゃあ、そうだな。上からも言われてるし」
答える気にもなれず空虚な瞳をそのまま向けると、青年は思案するように唸り、名案だとでもいうかのように膝を叩いた。
「よし。お前、俺の御用聞きになれ!」
御用聞き?
その意味が分からず、黙視を続けた。すると、青年はつらつらと此方の意など気にもせず喋り続ける。
「式神なんざ、武具ばっかで今まで持ったことねぇけど……ま、悪いようにはしねぇからさ」
最後にそう締めくくられた。そうして、問われる。
「俺は、風人っつーんだ。お前は?」
「……な、まえ」
一瞬、何を言われたのか分からなくて惚ける。口を薄っすらと開いて、必死にその意味を嚙み砕こうと思考を回す。
「なんだ。お前、名前ねぇのか?」
「……」
なまえ。
「あー、じゃあ、俺が考えてやるよ。えー、と」
わたしの、なまえ。私を差す、『響き』。私が、私である『証』。
――記憶の中で、私を呼ぶ家族の声が蘇った。
「……め」
「あ?」
零れでる声は掠れていた。それでも、『自分』という存在がちゃんと在ることを確認したくて、もう一度だけ声を振り絞った。
「……梅」
久しぶりに口にした名前は、とても短く、懐かしいものだった。
今度こそ私の声を拾った相手は一瞬呆けると、すぐに笑った。
「そっか」
武骨な大きな掌が差し伸べられる。日の光を後ろに背負う青年の顔は太陽のように明るかった。
おそるおそる、伸ばされた手に自分の手を重ねる。
「これからよろしくな。うめ!」
暖かい。
久方ぶりに聞く自分を差す名前。自分はここに居るのだと、教えてくれる声。聞きなれ、親しんだ響きが再び自分の鼓膜を揺らす。
誰かに名前を呼ばれたのが嬉しくて――涙が零れた。
きっと私は、私の名前を呼んでくれるその声から、彼を好きになっていったのだと思う。
風人様に拾われてからの毎日は、目まぐるしくも色鮮やかなものだった。
たくさんの人に出会い。煙たがれることはあれども、同業者、いきつけの茶屋の娘さんと、色んな人に良くしてもらって。踏み込むことなどなかった領域へと踏み込み、縁のなかった世界を知り、驚き、怖れ、悲しみ、それでも其処で風人様と共に戦うことを選んだ。
少しだけだけど、前を向けているような気もしたし、強くなれた気もした。
荒くれものを討伐したりする毎日は大変だけれど、それでも生きている実感が湧いた。なにより、風人様と一緒にいれば何もかもが大丈夫のような気さえしてきて、笑えるようにもなった。
「――風人様」
仕事帰り、梅の花が咲く並木道。
先を歩く主に声をかければ、相手が不満そうに振り返った。
「……だから、その様付けヤメロっつってんだろ。性に合わねぇ」
「風人様だって、最近人前で気取ったような喋り方をしていらっしゃいます」
「上がうるせぇんだもん……しょうがねぇだろ。つか、その喋り方もヤメロ」
「もとから、こういう喋り方をしています」
「嘘つけ」
くすりと、この会話が楽しくなってつい笑ってしまう。すると、相手がますます気を悪くしたような顔をして、拗ねたように口を尖らせた。
「お前なぁ……」
「ごめんなさい。そんなことより、風人様」
「……んだよ」
「髪紐、解けかかっています」
飾り気のない白い紐が緩み、風人様の耳元から髪が何本か垂れ始めていた。そのことを指摘すれば、「ん」と言って髪紐を解いて差し出された。
結び直せ、ということらしい。
「少し結びにくいです。風人様、もう少し屈んでください」
そう言ってヤンキー座りをする風人様の髪を軽く結び直した。
「……紐、大分くすんできましたね」
「まあ、ずっとこれ使ってるからな」
「今度、新しいのに買い替えましょうか」
「いい」
逃げるように相手が立ち上がった。あっという間に自分より高くなった背を見上げながら、戸惑ったような表情をすれば、ぼそりと微かな呟きが聞こえた。
「……お前が、初めてくれたもんだし」
聞き間違えだろうか。呆然と風人様を見れば既に先を歩かれている。だけど衝撃から抜け出せなくて、そのまま足を留めていれば、奇怪そうに振り向かれた。
「おい、どうした?」
「え……あ、いえ。梅の花が、綺麗だなと思いまして」
貴方の言葉に心を撃ち抜かれていましたなどと、恥ずかしくて言えず、適当な言い訳を探す。頬が熱くなるのは止められなかった。
「なんだ、お前……梅の花が好きなのか?」
「え、ええ。まあ。自分の名前でもありますし。なんとなく」
「ふーん。そういえばさ」
自分から聞いたくせに、興味なさげに会話を切り返された。
「最近、危ない奴がここらをうろついているらしい」
「と、いうと?」
「……もし、そいつに出くわしたら、お前対峙せずにその場を離れろよ」
「主を置いて、ですか?」
何やら良い予感がしなくて、我知らず声が低くなった。だけど風人様は意に介した様子も見せず、続ける。
「応援を呼びに行けっつってんだよ」
歩きながら風人様が私に命令をする。
「一度見つけたら、絶対に逃がすなとの上のお達しだ。けど、話を聞いていると俺らだけじゃ難しいから、必ず応援を呼ぶ必要がある」
「だったら、私が」
「お前じゃ、一分も持たねぇよ」
「私は、貴方の式神です」
「じゃあ、いう事を聞け。命令だ」
「私は貴方の楯であり、刃でもあります」
「いや、お前に任せるとあっというまに取り逃がしそうだから。そしたら俺、上になんて言われるかわからねぇから」
取り付く島もない。ばっさりと切り捨てられたような気がして、思わず顔を顰める。すると私の苛立ちを読み取ったのか、風人様が歩みを止めてこちらへと振り返った。そうして、困ったような笑顔を向けられる。
「大丈夫だよ。俺、強ぇし」
「自分で言う人は、大抵弱いです」
「おい」
ジト目で相手を睨みあげれば、お手上げだとでもいうかのように肩を竦められた。
「大丈夫だって。実際、本当に存在するのかわかんねぇんし」
「なんですか、それ」
「いや、俺もよくわかんねぇ」
なんだ、それは。
恨みがましい気持ちが呆れへと変わった。まさか、上のお達しをよく理解もせずにそのまま案件を持ち帰ったのだろうか。
私の白い目に気づいたのか、風人様は気まずそうに視線を泳がした。
「大体、逃げろと言われても。その妖怪の特徴を教えてくれなければ対応どころか、相手の判別もできません」
「あー……」
やはり、何かを隠している。
ぼりぼりと頭の後ろを搔きながら、相変わらずこちらを見ない風人様を前に、確信した。
「なんでも、人の生気を吸って生きる妖らしい」
「人を喰らう、ってことですか?」
「うーん。妖怪も喰えるっぽい。つか、なんでもいけるんじゃないかな」
「随分と抽象的ですね。外見は?」
「さぁ」
「さぁって……」
ここまで来ると、主を通り越して上部に不信感が募る。
「なんか、怪しくありません?」
「俺も、そう思う」
あっけらかんと肯定されてしまった。だけど、風人様はあまり心配してないのかそのまま帰路を歩き出した。
「ま、考えてもしょうがねぇだろ。なったら、なったでどうにかすりゃ良い。そうなったらお前、ちゃんと言う事を聞けよ」
「善処します」
「お前なぁ」
聞く耳を持たない私に風人様が再度怒ったように振り返った。けど、こればっかりは仕方がない。私にだって譲れないものがあるのだ。
私にとって風人様は居場所であり、帰る場所である。本人からすれば、迷惑極まりない話ではあるのだろうが知ったことではない。あのまま消えて無くなるはずだった私を、この世界に繋ぎ止めたのだ。責任は取ってもらう。
例え、人であろうが妖怪であろうが、絶対にこの人を守ってみせる。全てを失い、人でさえなくなってしまった私に、彼以外に失うものはないのだ。
――私は、この人の楯であり続ける。
刀を差す大きな背中を追いながら、そう誓った。
4
「――まさか、本当に実在していたとはな」
再び引きずりあげられた意識に届いた第一声はそれだった。
深みのある重々しい声が鼓膜を揺らし続ける。どこかで聞いた声だ。
「中流の妖のように式神として、まさかこのような場所に紛れ込んでいたとは。私共も、大いに驚いております」
この声は知っている。私が風人様と共に務めている裏奉行所の同心たちをまとめている与力の一人だ。
薄っすらと閉じていた瞼を開ければ、格子の向こうでこちらを観察している二人の影が見えた。その脇からも――恐らく式神であろう――いくつかの気配を感じる。
紺色の袴に羽織を身に纏う与力の隣で、水色袴を着ている壮齢の男性の青上着を見て、彼が誰なのか瞬時に理解した。
この青い狩衣は――東隠り世の奉行人だ。
「見たところ、人と変わらぬ。真に『不可叉』か?」
「同心たちが、霊力を喰らって傷を癒したところを目撃しています」
「『時』による再生……にわかに信じたいが、調べればわかることか。陰陽寮への報告は少し待とう」
私が目を覚ましたことに気づいたのか気づいていないのか、男たちは鎖に繋がれ、術式に縛られた私をまるで『物』のように見続けた。
「式神、といったな」
「はい。同心――宗像風人の小者でありました」
話題に上がった主の名に、ぴくりと指先が反応した。
「宗像――聞いたことのある名だ」
「先日、陰陽寮から栄転の話をいただいていました」
「ああ――陰陽師候補か。十鬼家の娘との縁談も来ていたな……『不可叉』もその同心自身が?」
「いいえ。捕縛したのは別の者です」
「そうか」
私をあの時捕縛したのは、風人様ではない。その事実に、ほんの少しだけ安堵した。同時にちくりと、胸のどこかで痛みを覚える。
(縁談……)
そういえばそんな話もあったな、と里様の姿を思い出す。華やかな打掛を身に纏いながら、可憐に笑った彼女。風人様ともとても良い雰囲気だった。
いつも粗野な風人様だけど、押しの強い彼女にはたじたじで、初めてのお見合いは上手くいったように見えた。何より彼女自身が、風人様を気に入っていたようだった。
そうか――あの時、やはり決まったのか。
そう思ったら、ぴしりと自分の胸に亀裂が走るような音が聞こえたような気がした。残っていた僅かな感情がどんどん麻痺していくのが、自分でもわかった。だけど抗う気にもなれず、むしろそうなった方が楽な気がして、己の感情を消してゆく。
「それで。『調べ』の方は――?」
「整っております」
「では、参ろうか」
衣擦れの音が響く。このまま、此処から退出するのだと思った私の予想とは反し、目の前の格子が開かれる。
(……ああ、そっか)
私の『取り調べ』が、始まるのだ。
白い浄衣を着た者たちが、檻の中へと足を踏み入れる。床に繋がれていた手足の枷を外され、身体を纏う『縛り』は術式をそのままで、無理やり立ち上がらされた。
だけど、力の入らない体はすぐに床へと崩れ落ちそうになり、脇を持たれる。
左右前方に一人ずつ、印を結びながら呪術者が並んだ。どれも白い布を顔に被っていて、誰なのかはわからない。けど、少なくともこの中には風人様がいないのは分かって、ほっとした。
逃げる気にも、逆らう気にもなれず、導かれるがままに足を引きずりながら進んだ。
そもそもどうしてこんなことになったのかさえ、頭が理解していない。混乱しているのか、それとも単に全てがどうでも良くなったのか、自分でもわからない。
ただ、最後に見た風人様のあの冷たい瞳だけが頭にこびりついていた。
無感情に足を進め続けてどのくらい経ったのだろうか。気が付けば、歩くことをやめ、いつの間にか床に横たわっていた。下にはちゃんと何かが敷かれているが、上には何もかけられていない。どころか、何一つ、身に纏っていなかった。
異変を感じたその瞬間、視界に鈍く光る刃が見えた。
真っ暗な空間を照らす幾つかの小さな灯。なんとも薄暗い異様な雰囲気が、麻痺していたはずの恐怖を呼び覚ました。
「っ――、」
開いた口から出たのは、やはり掠れた吐息だけ。術によって縛られた手足は暴れることさえも許されず、おとなしくその時を待っている。
『取り調べ』――その言葉の本当の意味を、理解した。
罪を犯し、自白を強制された妖たちとは、違う。私は、違う末路を歩むのだ。
『不可叉』という、恐らく陰陽の者たちにとっては未知なる存在。それをこの人たちは、調べたいのだ。
鈍色に光る其れが肌に触れる。
感触はあるのに、動かない身体が、まるで自分の身体ではないようだった。
鋭い先端が肌を滑る。赤い線が、そのあとに続いた。
白と赤が点滅するように視界を染めた。喉から、声にならない悲鳴が溢れ出す。あまりの衝撃にやっと動き出しはじめた手足を押さえつける腕。全身を襲う痛みと熱によって、二度目の絶望が広がった。
――こうして、私の『取り調べ』は毎日続いた。
5
音が聞こえる。それは自分の悲鳴か。身体を弄ぶ音か。
どちらにしても、酸鼻極まるものであることには変わりない。
叫ぶことはとうにやめた。痛みももはや感じない。
恐怖も。悲しみも。怒りも。絶望も。全て、どろどろの闇へと溶け消えた。
だけど、偶に記憶が過る。
暖かい手が。太陽のような笑顔が。粗野な言葉が。広い背中が。何度も、何度も、瞼の裏で蘇った。
そしてその度に心は闇へと沈んでいった。
もう、会うことはないだろう。視界に入ることも。声を聴くことも。その黒髪に触れることも。もう、ない。
きっと、私はこのまま消えてなくなるのだろう。
そうして、最後の記憶が私の脳裏に流れる――。
「――風人様、風人様」
「なんだよ。早くしねぇと、置いてくぞ」
奉行所の門を今にも通り出ようとした風人様を呼び止めた。
緑の葉がさわさわと頭上で風にそよいでいる。木漏れ日を浴びながら、仏頂面の主がこちらへと振り返った。
「駄目ですよ、その前に『心様』にちゃんと挨拶していかないと」
「……こころさま、って。いや、必要ねぇだろ」
「駄目です。ここを守ってくださっている主さまなんですから。ほら、一緒に手を合わせて奉行所に向かって、」
そう言って、奉行所へと振り向き手を合わせようとした。だが、その前に風人様は疑心に満ちた顔で文句を零す。
「つったって、一回も見たことねぇじゃねーかよ。奥に宿り木みたいなのがあるって言われてっけど、誰も立ち入ること許されてねぇし。どうやって見えねぇもんに挨拶するんだよ」
「……それでもやるんですよ。ちゃんとしないと後で怒られますよ」
「誰も見てねぇし、気づかねぇよ」
「風人様」
こうやって礼儀やしきたりを欠いたりするから度々周りに怒られるのだ。昇進ももう時期決まりそうになっているのだから、そろそろしゃんとしなければ。周囲に馴染まず、あまり浮くような真似をすると後々大変だ……いや、偶にもめ事を既に起こしているが。
「だぁ! もうしつこいなお前も! んないちいち手ェ合わせなくても良いよ。大体、宿木があるって源之助の爺は言ってっけど、そもそもアレ宿木じゃなくて、なんかベッタベッタに札で封印されてる怪しげなもんだから! 絶対にんなおきれいなもんじゃないから!」
「……なんで、そんなこと知っていらっしゃるんですか」
「……ん?」
我知らず零してしまったのであろう。聞き捨てならない言葉を吐いた風人様に、思わず目が白くなる。
「かざひとさま?」
「……いや、便所と間違えて」
「へぇ?」
なんとも苦しい言い訳を繰り出す風人様。視線を泳がせる主に自然と態度も雑になり始める。それが耐えられなくなったのだろう。誤魔化すように足を踏み出した。
「……あー、そろそろ行かねぇと日ィ暮れんぞ。おら」
「……そんなんだと、里さまに振られてしまいますよ」
ぼそりと口にした呟きに、相手が投げやりに言葉を返す。
「……この程度で逃げるタマじゃねぇだろ、ありゃあ」
ちくりと、胸の奥がほんの少しだけ傷んだ。
先日会ったばかりのはずの姫君と、まるで長い付き合いがあるかのように喋る主に、切ない気持ちを覚えた。我ながら、馬鹿である。
自業自得。分不相応だ。
胸に渦巻く複雑で難解な気持ちを誤魔化すように、奉行所へと向き直り深く頭を垂れた。すると、呆れたような声が頭上に降りかかる。
「ほんと、よくやるよなお前も」
「主様がだらしない分、私がしっかりしないと。それにこうしていれば、心様のご加護がつくでしょうし」
「……心様だよりかよ。お前、立派な信仰者もどきになってんな」
はあ、と溜息を吐きながら今度こそ風人様は歩き出した。その背中を小走りで追いかけながら、そっと声をかけた。
「風人様」
なんだ、と視線で問いかけるように彼がこちらを見やる。
自分の声に反応を示してくれる。そんなどうでも良いことが嬉しくて、自然と顔が綻ぶ。
「もちろん、私も一緒に貴方をお守りします」
そう言えば、頭を小突かれた。
「――ばぁか」
6
『不可叉』――それは、妖でもなければ、人でもない、未知なる存在。
他者から『時』を喰らうことで生き続ける『何か』。一定の『時』の量があれば、何も口にしなくとも延々と生きられ。負傷すれば『時』を喰らうことで回復する。例え身体の一部を失っても、『時』があれば再生を可能とする存在。
また、『不可叉』に心臓はなく、『時』が尽きない限り事切れることはない。
沈んだ意識へと、僅かに流れ着く声のせいで、自分がどういう存在なのか自ずと理解してしまう。
『心臓』のない化け物。今になって、初めて知った事実。そういえば、この世界へと堕ちた最初の頃、どうしようもない虚無感を感じることが多かった。もしかしたら、それも原因の一端となるのかもしれない。
なんて、今になったら最早どうでも良いことだ。
どの道私には何も残っていない。
音は相変わらず響いている。遠くから、悲鳴が。醜怪な雑音が、ずっと鼓膜を揺らしている。
最もこれが夢の中なのか、現実なのか判別はつかないが。
「――っ」
音が聞こえる。誰かの悲鳴か。叫びか。
何かが、私の腕に触れた。
「――めっ」
声は相変わらず響いている。
身体が揺れる。これは、私を運んでいるのだろうか。
それとも、どこかを新たに切り裂いているのだろうか。瞼を閉じている私には知る余地もない。
「――う、」
途切れ途切れの小さかった声が、少しずつ少しずつ大きくなり、私の意識まで轟き始める。
「――梅!」
急に夢から冷めたような感覚が襲う。泥沼から引きずりあげられたような衝撃を覚えた。
冬の冷気が頬を刺し、火照るような温度が身を包んでいる。
ぼんやりとした焦点を、必死に眼前の影へと合わせようとした。揺れる視界が、徐々に落ち着いてゆく。
「――うめ、」
必死な形相でこちらを凝視する男がいた。
鋭い目に、頬を伝う走り傷。
「……っか、ザひ」
夢か。幻覚か。
もうすっかり為りを潜めたはずの感情が呼び起こした、記憶の残像かと疑った。
暖かく、大きな武骨な手が私の頬に触れる。強く抱きかかえるように胸元へと引き寄せられた。鉄臭い匂いの中に、汗の匂いが混じって鼻元まで届く。
それが、私にこれは現実なのだと、教えてくれた。
けどそれでもやはり信じられなくて、どうすればいいのか分からず、ただ茫然と風人様を見つめた。
「ごめんな、遅くなっちまって」
「かざ、ヒっさま゛、ヶがして、」
紺色の着物を見ただけでは血かはわからないが、それでも相手が匂いで怪我をしていることくらいは分かった。
遮断していたはずの全ての感覚が徐々に正常に働きだす。
瞳を揺らしながら風人様を見れば、苦笑された。
「大したことねぇよ。ちょっと転んだだけだ」
「ど……ジて」
どうして。そう聞きたかったのに、喉から出るのは相変わらずの醜い声で。それが、なんだか恥ずかしく思えた。
「……ここを出る」
――出る?
それは奉行所をということだろうか。だけど、出てどうするというのだ?
そもそも出るとはどういう意味だ。
同心をやめるということ?
陰陽師になることを目指していたのに? どうして?
聞きたいことはたくさんあるのに、喉がうまく機能してくれない。
口をはくはくと仰げば、相手が察したように話し始める。
「奉行所はやめる。ここを出て、旅に出ることにした。お前も一緒に来い」
「……さと、さまは」
里さまは、どうするの?
「あいつなら、どこへなりにでも行けって、背中どついてきたぞ」
思考が回らない。状況が、まったく掴めなかった。
一体、何をどうしたらそうなったのだろう。
「話も文句も、全部あとだ。とりあえず此処を出よう。お前、立てっ……ねぇよな、多分」
そう問われた瞬間、自分の身に起きた全てを思い出した。瞬間、衝動が身の内から湧きだす。
「ちょっ、馬鹿! 無理に動くな! お前、傷まだ全部ふさがってねぇんだぞ!?」
「だ、って……」
動くなと言ったって、無理だ。
何故なら私は今まで身体を調べられていたはずで――。
消えたはずの恐怖心と羞恥、戸惑い。ありとあらゆる感情が爆発したように全身を暴れまわって思わず手が動く。
「――っ大丈夫だ! もうっ大丈夫だからっ」
抑え込むように風人様が私を抱きしめた。衣擦れを音がして、視線でそれを追えば青い羽織が私の身を包んでいる。鈍い痛みと違和感を身体の彼方此方から感じるが、さほど強いものではない。
切り落とされたはずの身体の一部を見やれば、いつのまにか元通りになっていた。
「……ごめん。うめ」
「かざ、ひと、さま?」
耳元で風人様が苦心に満ちた声で謝った。声も、腕も、背中も。私ではなく、彼が震えていた。
「――絶対に、守るから」
途端。ごぽりと、風人様の口から赤い泡が溢れ出た。
真っ赤な滴が私の頬へと伝い落ちる。
「――かざひと、さま?」
返事はない。
彼は私を見てなどいなかった。鋭い眼光がまったく別の場所へと矛先を向けている。
猛禽類のような瞳が、部屋の入り口――開け放たれた襖の間に立つ影を射抜いた。
振り向いた先に居たのは、血濡れの男。身形は崩れ、髪も乱れているが、私の見間違いでなければ――あの奉行人だ。
「――犬如きが、」
鬼のような形相をした男が、低く唸る。その双眸には恐ろしいほどの憎悪と憤怒が宿っていた。
「このようなことをして、唯で済むと思うか」
開け放たれた襖の向こうは真っ赤に染まっていた。ゆらゆらと火の粉が吹き荒れ、男に更なる迫力を与えている。
焼け焦げたような匂いが、鼻にこびりついた。
私を囲う腕が更に強くなる。真っ黒に染まった布に触れた瞬間ぬめりと、肌が濡れた。
見れば太い棘が風人様の肩から突き出ており、黄緑色に光る術式が彼の首から腕まで覆っていた。呪いと同じ、『戒め』だ。
「かざっ、」
飛び出そうになった声は風人様の言葉によって遮られる。
肩に突き刺さる大きな棘に構うことなく、風人様は敵を挑発した。苦し紛れに彼は歯を見せながら笑う。
「んなもん、最初から覚悟は出来てましたよ」
「畜生が、」
「畜生はあんたらも一緒だろ。こんなことして、許されると思ってんのか」
声に重みが増した。何かを耐えるように風人様は私を抱いてる手とは別に、手を強く握りしめた。ぎちりと、拳が音を立てる。
「それは人ではない」
『戒め』が強くなった。身体を覆う術式の紋が肌に食い込み、赤い亀裂が腕を走る。今にも、破裂しそうな主の腕に悲鳴が上がりそうになる。
どうにかしようと腕を伸ばした。その手は風人様に握られ、止められた。
彼の視線が私へと落ちる。手が、離れた。
「人であろうが、なかろうが関係ねぇよ」
刹那。大気が揺れるほどの霊力が主の手から迸る。
ぱきり、と何かが割れる音がした。
「――貴様!?」
ぱらぱらと光の粒子が舞い散る。
先ほどまで主を蝕んでいた戒めの紋が消えていた。
「こんな戒め、痛くも痒くもねーんだよ」
奉行人が、戸惑ったように一歩引いた。揺れる瞳子が瞠目するように風人様を凝視している。
「ありえない」と、震える唇が吐息を漏らした。
それを唖然と目にする私の耳元に、床を這うような低い声が流れ着く。
「――犬、嘗めんな」
とさりと、先ほどまで恐ろしい形相をしていた男が顔を白くしながら、床に膝を付いた。
うつ伏せに倒れた奉行人の胸元から赤い海が広がる。どうやら最初から相当の深手を負っていたらしい。何が起きたのか、私にも分からなかったが恐らく風人様が先程止めを刺したのだろう。それでもよく、あそこまで動けたものだ。
この主も、そうだが。
「風人、様」
立てていた膝を下す主。滂沱する汗と、乱れた呼吸。
先程と反して脆く映る風人様に、目の前が真っ暗になりそうになった。流れ出る血を止めようと傷口に手を当てる。
「悪い。助けにきたくせに恰好悪いんだけどよ、ちょっと動けねぇわ」
声が、出なかった。
急変し続ける事態に私のポンコツ頭は上手く対応できず、ただの阿呆みたいに手を彷徨わせる。
何が何だかわからなくて。でも、このままでは風人様がいなくなってしまうことは嫌でもわかっていて。
彼が私のためにこんなにボロボロになっていることも、私がなんとかしなくてはいけないことも、全部わかっているのに、身体が動かない。
どうすればいいのか分からない。
無意味に涙が溢れそうになった。力の入らない身体を叱咤しようと、手を握りしめる。
すると密着していた身体が不意に離れ、古い木箱を手元に差し出される。
「――これ」
咄嗟に受け止めた函に目を白黒させる。
「『心様』。お前を助けに来る途中に見つけてよ――中に、心臓が入ってた」
『心臓』――その言葉が鼓膜を揺らした途端。どくりとどこかで私の心臓が音を立てた。
全身の神経がざわつく。
「俺には『不可叉』のことなんてよく分かんねぇけど、多分、お前のじゃねぇかなって」
不明瞭なことを言う風人様に、困惑した。
綺麗だった黒髪は髪紐が緩んで、乱れており、顔も傷だらけだ。それでも何故か目の前の主はなんてことはないように笑っている。
この状況の中で何故、そんな風に笑えるんだろう。
そう思った瞬間、大きな影が覆いかぶさってきた。
お互いの体制が反転する。先程まで私を抱きかかえていた男を、今度は私が支えるように抱き留めた。
大きな身体が、持たれかかる。広い背中に腕を回せば、低い声が耳奥へと吹き込んでくる。
「あー、いてぇ」
「風人様!」
べったりと掌に血が付着した。夥しい量のそれに枯れていたはずの涙が流れ出る。
「なんでっ」
どうして、こんなことになったのだろう。
どうして、こんな無茶をしたのだろう。あんな冷たい瞳を向けてきたくせに。私を斬ろうとしたくせに。
どうして、今更。どうして、私を助けにきたのだろう。
「――俺、お前を斬ろうとした覚えねぇんだけど」
「喋らないでくださいっ」
流れ出る血を止めようと自分が羽織っていた衣を押し当てる。
「ちょっ、おま、はだ、」
「うるさい!」
無駄口を止めない主に、いい加減怒りが湧いてきた。頭も心も、全部ぐちゃぐちゃだ。
「……勘違いしてるみてぇだけど、あの時俺が斬ろうとしたのお前じゃなくてお前の後ろに居た岡っ引きだからな」
あの時には、既に奉行所を辞めて私と一緒に逃げる覚悟をしていたのだと彼は言った。
「陰陽師にはなりたかったけど。前々から、奉行所のやり方にはあんま納得がいかなかったしな。周りとの折り合いも悪かったし」
「良くしてくださった方もいましたっ」
「ああ。だからお里たちが止めに入った時には躊躇した」
そう言って笑う主に、顔が更に歪む。どうして、と再度繰り返した。
傷だらけの手が、私の背中を撫でる。
「お前は、俺の式神だ」
そんなの、理由にはならない。
一介の式神程度の存在にこんなとんでもない事をしでかす馬鹿が何処にいる。
地位も、友人も、何もかも捨て、こんな『化け物』のために身を投げ出すなど馬鹿にも程がある。あと少しで、『陰陽寮』の陰陽師にもなれたのに。
「泣くなよ」
肩を鼻水と涙で濡らす私に、風人様が仕方なさそうに溜息を吐く。
背中から手を放して、私の髪を掬った。
「髪……ぐしゃぐしゃだな。ひでーわ、こりゃ」
「かざ、ひとさまだって」
なまはげみたいになっている。ぐしゃぐしゃの長髪に、私があげた髪紐が絡まっていた。
灰色にくすんでいた白が、赤黒く染まっている。その様に、涙がますます止まらなくなる。
「そうだ。丁度いいもんがあんだ」
こうしていると、まるで過去に戻ったみたいだ。怪我なんてないように振る舞う風人様。それを見ていると、本当に平気なのではないかと錯覚してしまう。
ごそりと彼が懐を探る気配がした。そうして目当てのものを見つけたのか、こんな時だというのに気楽にもそれを取り出す。
「これっ――」
――その声は、最後まで続かなった。
「かざ、ひとさま?」
ことりと彼の手の中に納まっていたものが滑り落ちる。目の前の影が傾き、瞬時にそれを受け止める。
圧し掛かる重さに、先ほどの主にはまだ余裕があったのだと分かった。
だけど今の彼にそれは無くて、真っ赤な腕が力なく床に下りている。耳奥まで届いていた呼吸は、消えていた。
「――居たぞ! こっちだ!」
遠くで、野太い叫び声が聞こえた。
抱き留める身体から熱が徐々に引き始め、肌を通して伝わってきていた彼の胸の鼓動が止まる。
「か、ざひ、とさま?」
赤い水溜まりが更に広がった。
主の背中から伸びる黒い矢が、見えた。
「――ぁ、」
意識が、染まる。
視界も、思考も、心も、全てが真っ白になった。
「ぁぁぁぁぁぁあああああああああああああああああああ!!」
――そこからは、覚えていない。
人の悲鳴も。轟音も。枯れる木々と人も。私は、何も知らない。
ただ、大切な人を失いたくなかった。
6
「――おい、生きているのか? 死んでいるのか?」
――どこかで聞いた台詞だ。
荒地に立つ大きな梅の木の下に座り込む浪人の耳元に、低いとも高いとも言えぬ声が届いた。
視界に草鞋と脚絆を履いた足が映る。視線を登らせれば、すげ笠の下に隠れる昏い琥珀色の瞳が見えた。
白い肌に細い首から、女だと分かる。
「生きているようだな」
女のその言葉にふっと、浪人が笑った。
「死んでいるように、見えたか?」
「……そうだな、死人に見えなくもない」
人形のような顔をしながら、女は無表情に答える。そして、ふと浪人が膝に乗せる鈍色の棒を見た。
「それは、簪か?」
「驚いたな……これが簪に見えるのか?」
一メートル以上はある長細い棒。鈍色に混じる紅が陽に照らされ、妖しい光を反射している。
そこだけを見れば確かに美しく繊細な細工にも思えるが、全体像を見ればそれはあまりにも武骨だった。棒には柄と思しき部分があり、赤い布が雁字搦めに絡んでおり、ボロボロだ。
簪と呼ぶには大きすぎるそれを、女は静かに眺めた。
「確かに簪としては異様な大きさではある上に、随分と……血なまぐさいがな。長十手に見えなくもない。だが、貴殿は奉行所のものではないだろう?」
ぴくりと、長十手のようなそれを抱える浪人の指が反応を示した。
「梅の飾りを結んだ十手など結構な趣味だと思うが」
女が見つめる先で、薄紅色の花を模した細工が揺れる。赤い紐で柄の尻に括りつけられたそれは、不思議なことに、武骨な武具にはよく似合っていた。
視線が、今度は男の胸元へと移る。くすんだ紺色の着流し。その向こう側を見透かすように女がある言葉を口にする。
「その『心臓』、お前のものではないな」
浪人が僅かに目を見開いた。
数泊の沈黙の末、彼女に問う。
「……欲しいか?」
「いらぬ。私のでもない」
「そうか」
即答だった。だが、浪人は特に表情を変えることなく、己の懐に触れる。
「……ここらに」
再び、女が口を開いた。
「人を喰らう鬼が居ると聞いた」
それはまるで世間話をするかのうような口調だった。
「だが、どうやら喰らっているのは鬼ではないな」
琥珀色の双眸が、長い十手へと向く。
「かといって、人でもない」
浪人の視線は相変わらず下を向いている。女は構わず続けた。
「喰らっているのは、人か?」
その質問に、浪人がやっと動く。地に腰かけたまま能面のような表情で、女を見上げる。
「鬼はあんたも一緒じゃねぇのか?」
返ってきたのは答えではなく、質問だった。それに女がまた問いかえす。
「――お前は、何を探している」
すると、浪人は優しい手つきで腕に抱く十手をもう片方の手で撫でた。つ、と指先が梅の飾りをなぞる。
「これは」
それは柔らかく、切なげで、今にも掻き消えそうな声だった。
「――ある馬鹿に、やろうとしたものだ」
先程までの隙のない様子とは違う。荒んだ輩のような風貌をしているくせに、十手を見つめるその表情は儚げなものだった。
「もう何年もずっと、眠っている」
その言葉に琥珀色の瞳が細まる。落ち着いた声が、確信をついたように言った。
「そして、お前は眠れずにいるのか」
浪人は答えなかった。視線を上げず、再び沈黙しだす。
梅の木の下で座り込む男を、女は静かに見つめ、やがて動き出す。目礼をして、すげ笠のつばを引っ張り、目元を隠す。
「邪魔をした。私は之にて失礼させていただくよ」
乾いた荒地を女が一歩、二歩と踏み出す。そして、すぐに一度立ち止まった。
「――その子」
もう一度だけ、男の腕に納まる長十手を振り返る。
「ちゃんと、生きてるよ」
それは気休めか、真か。それだけの言葉を残すと、今度こそ女は去った。
それ以上の言葉はかけない。男の返事を女は確かに聞いたから。
「そうか」
誰もいない梅の木の下で、男は空を見上げる。
腕に納まる十手を帯に差し、立ち上がった。するりと、赤鈍色の鉄を撫でる。
「じゃあ、起きるまで気長に待つしかねぇな」
そうして、彼も足を踏み出した。途方のない時間をかけて、あてのない道を歩き、いつか愛おしい人が目覚める時まで――その日を待ち続ける。