第十六話 遭遇
ニューヨークに到着するまで二十四時間を切っていた。
亜王はドアをノックする音で目を覚ました。
ケリーの呼ぶ声がドアの外から聞こえる。
亜王はこのところ不安で眠れずにいた。
作戦に支障が出てはいけないと思い仮眠をとっていたのだ。
しかし、亜王が眠りに落ちたのは昨日の昼過ぎの話だ。
現時刻は朝の十時を回っている。
亜王は目をこすりながら起き上り、頭をかきながらドアを開けた。
「おはよ。着たまま寝たでしょ? せっかくのディナージャケットにしわがつくよ?」
ケリーはそう言って亜王の上着の襟を正した。
「どうした?」
亜王は大きなあくびを一つした。
どうやらケリーは朝食の誘いに来たようだ。
亜王はいったん部屋に戻りシャワーを浴びるなどして支度を整えてからケリーとともにレストランへ向かった。
バーと一体のレストランは人でごった返していた。
夜通し酒を飲むもの、朝食をとるもの、とにかく人がいた。
そして賑やかだった。ここにいる人たちは自分たちの向かっている国がどんなことをやろうとしているのかわかっているのだろうか。
亜王の心の中でそんな疑問が渦を巻いていた。
テーブルには座れそうになかったので、二人は人の間をすり抜けカウンターまで行った。
幸いにも席は空いていた。
席に座り亜王はすぐさまペプシ・コーラを頼んだ。
のどがからからで、それを一刻も早くどうにかしたかった。
ケリーはオレンジジュースを頼んだ。
「そういえば、アレックスは大丈夫か?」
亜王がメニューを見ながらそう言った。
アレックスの船酔いはずいぶん前に回復していたが、船酔いが治った途端、暴飲暴食をし、その影響で体調を崩していた。
「ちょっと見てくる。ここにいて」
ケリーは亜王の手を強く握ったあと立ち上がった。
彼女が立ち去った後すぐに注文した飲み物が目の前に出された。
亜王がコーラに手を伸ばしたとき、左隣に座っていた中年の男が食事を終え立ち去った。
そのあとすぐにその席に女の人が座った。
鼻に突き刺さる香水の匂いがあたりに漂った。
亜王は思わず一瞬顔をしかめた。
それぐらい強烈なものだった。
ちょび髭のバーテンダーが女の前の男性が食べていたものを片付ける。
亜王は脇腹に何かを当てられるのを感じた。
「動かないでね」
女はあたりの騒音にかき消され、亜王にしか届かないくらいの大きさでそうつぶやいた。
亜王が青い顔で女の顔を見たとき、彼女は笑みを浮かべていた。
カウンターの上におかれた女の手の甲にはクモのタトゥーが彫られていた。
「スパイダーか」
亜王はできるだけ冷静に言った。
恐怖に押しつぶされそうになっていたが、何とか相手の風上に立とうとした。
「ご名答よ。若いのに賢いのね。さすがロキだわ」
女は満足そうに行った。
亜王の心臓は今にもはじけそうだった。
顔に出ていないことを必死で祈った。
「いい機会だ。はっきりさせたいことがあるんだ」
亜王は女の目をまっすぐ見据えて言った。
「スパイダーがテロ組織だっているのは表面上の話なんだろ? 本当は闇の世界政府の直属部隊だ」
闇の世界政府という言葉を聞いて女の表情が一瞬曇った。
「闇の世界政府は文字通り陰から世界を操っている。自分たちの直属であるお前らが動きやすいように世界を発展させた。世界中のお偉いさんを殺してもつかまらないわけだ。よくできてる。ところが従わない奴もごく稀に出てくる。現アメリカ大統領がいい例だろうな。天候コントロールの技術を買ったのも闇の連中だろ? ハーディも含め、世界中に闇の手下はごまんといる。でも今はこうやってアメリカに集めている。最近ようやく闇に対抗しようとする国が出始めてきたからか? アメリカを乗っ取って帝国でも作るつもりか?」
体中に冷や汗をかきながら亜王はそう言った。
亜王が今までハッカーとして突き詰めた悪の根源が闇だった。
亜王の話を聞き終えたときには、女の顔には笑みがいっぱいに広がっていた。
端正な顔だちによく似合う美しい笑みだ。
しかし、亜王が感じたのは悪寒だけだった。
女はついに声をあげて笑った。
亜王ののどはからからに乾き、肺は酸素を欲しがっている。
「名推理ね。探偵の方が似合ってるんじゃなくて?」
悪戯っぽく女は亜王に笑いかけた。
「この人にここで一番高いワインを」
亜王は女から視線を外さずそう言ったあと、コーラに手を伸ばした。
バーテンダーの男は穏やかな笑みを浮かべワインを取りに行った。
その時のバーテンダーの笑みが亜王にとってどれだけ腹立たしかったことか。
コーラがのどを通る時の刺激がかろうじて亜王の正気を保たせた。
「あなたは私の下に置きたいわ。いい子にしてたら助けてあげる」
女が微笑みながらそう言ったとき、バーテンダーがワインのボトルを持って帰ってきた。
そしてグラスにワインを注ぎ女の前においた。
亜王は必死に恐怖と戦っていた。
「あんた名前は?」
亜王はそう言った。
心臓の鼓動が大きすぎて周りの喧騒が聞こえなくなっていた。
「あら? 本気で私の下に着く気になった? マーガレット・ローよ。メグって呼んで」
メグはそう言ってワイングラスに手をかけた。
そして優雅にそれを口へ運ぶ。次の瞬間だった。
亜王はテーブルに置いていた左手を思い切り握りしめメグの持っているワイングラスめがけ全力で裏拳を飛ばした。
ワイングラスは砕け散りメグの顔と亜王の手の甲に突き刺さる。
亜王は痛みをこらえ腕を振りぬいた。
鮮血と赤ワインが混ざった真紅の液体があたりに飛び散った。
メグは椅子から落ち、顔を抑えて悲鳴を上げのたうち回っている。
あたりの客が一瞬沈黙になった。
そんな瞬間を狙っていたわけではないが、亜王は椅子から飛び降り一目散に逃げ出した。
あたりで悲鳴が上がる。
亜王はアレックスの部屋をめざし全力で走った。
ケリーとアレックスに危険を知らせなければいけない。
しかし、もう遅かった。
アレックスの部屋につき、激しくノックして出てきたのは黒ずくめの男たちだった。
中には黒い拘束着を着せられたケリーとアレックスが見えた。
二人は申し訳なさそうに亜王を見つめていた。
今、亜王が走ってきた通路から複数の走る足音が聞こえる。
亜王の脳の機能は完全に止まってしまった。
次の瞬間、彼は腹部に重い痛みを感じ黒ずくめの男に体を預けるように気を失った。