第一章 INCIDENT
辺りは冷たい雨だった。人気もなく、暗く寒い場所だった。
そこに2人、小さな小さな少年の姿があった。1人は赤ん坊だった。もう1人の少年の、有り得ない程細く白い腕に包まれている。余程衰弱しているのか、眠っているのか、もしくは既に息などしていないのかはわからないが、赤ん坊は泣き声の一つも上げていなかった。
赤ん坊を抱く少年の腕は、肩は、体は、酷く震えていた。雨に濡れ、唇は紫色に変色していた。それでもなお、少年は赤ん坊を抱きかかえていた。
少年の瞳の先は、いつも虚ろだった。もはや見えていないのかもしれない。
それでも、少年は震える唇で、いつも何か言葉を吐き続けていた。おそらく、赤ん坊の名前なのだろう、少年の言葉の中には、常に同じ名前が含まれていた。赤ん坊をあやすように、時折腕を動かしながら、少年はただ、一定の言葉を紡ぎ続けていた。
「だいじょうぶだよ、さつきはぼくがまもるからね。へいきだからね、ぼくがいるよ……」
何日か振りに太陽が顔を出した、冬のとある日のことである。御祖禡斎月は、両手に買い物袋を抱えながら、住宅街の一本道を歩いていた。ふと思い返し、上手く袋を腕にずらして、空いた片手でズボンのポケットの中の紙切れを取り出す。『にんじん ぎゅうにく じゃがいも たまねぎ わすれものがないように! ひな』と書かれたその紙を見て、袋の中身とそれを何度か見比べる。
「うん……全部買ったかな。あ、そういえば牛乳もなかったんだっけ……陽菜ちゃんに買いに行ってもらおうかな」
今日は、陽菜がカレーライスを手作りしてくれるらしい。楽しみではあったが、正直何ができるかわからないという恐怖心と、どうせ手伝うことになるのではないかという不安を御祖禡は抱いていた。今まで陽菜が料理を披露してくれたことはあったが、いずれもそれは何らかの形で御祖禡が手伝ったか、野菜を切るなどの、一段階のみを陽菜がやってくれたというものだったのだ。だが今日は、「一人でやるから斎月は手伝わないで!」と口止めをされている。完璧主義な御祖禡は、自然と手を出してしまう。陽菜は今回、それを望んでいないらしい。成長が見られたという点では、大変喜ばしいことではあるが。
陽菜は、本名を桜庭陽菜といい、三年前、御祖禡の元にやってきた14歳の少女である。彼女はその当時、実の母親から酷い虐待を受けていた。偶然、陽菜が母親に殴られそうになったのを助けたのが御祖禡である。それから訳あって、陽菜は今御祖禡の家で生活している。
陽菜は虐待による栄養失調や暴行により、身体だけでなく精神、さらには脳の成長にも障害を持っていた。同年代の子どもの平均から見ても、著しく成長していないのだ。文字はなんとか書くことができるものの、漢字などは、自分の名前以外は知らなかった。三年間で随分成長はしたが、精神の成長は身体や脳の成長に伴わなかった。
ただ、御祖禡の何が悪かったのか、三年間共に過ごすにつれて、陽菜はだんだんと御祖禡に対し上から目線になっていった。御祖禡のことを、「斎月」と呼び捨てるのは当然のことである。しかしながら、陽菜は御祖禡以外の人間と接していない為、人見知りが激しく、御祖禡と離れるのを極力避けた。元々人に対して厳しくできない御祖禡ではあったが、そういう面がある為に、陽菜を叱ることはできなかった。陽菜は、御祖禡以外に頼れるものがないのである。そう考えると、陽菜には好き勝手にやらせてやろうと、御祖禡は思っていた。
御祖禡には、高校生になる弟がいた。御祖禡の住む田舎のアパートからは少し遠い、都会の高校に通っている為、寮に入っている。少なくとも半年に一度はアパートに帰ってくるのだが、陽菜を初めて見た時、彼は「ついに道を踏み外したのか」と帰宅早々口にしたのだった。弟を説得するのは、長年共に育ってきた御祖禡も苦労したものであった。弟は兄に似ず(今思うとあの東条に似ているのかもしれない)、口数が少なく頑固な性格をしていた。最終的に渋々了承してくれはしたものの、弟と陽菜はなかなか馴染みそうになかった。陽菜が言うには、「斎月とは似てるけど、目が違うから怖い」そうだ。弟とはかなり歳が離れているものの、かなり似ている方だと御祖禡は思っていたが、周りから見るとそう見えるらしい。
ようやく陽菜が弟に心を開いた頃、御祖禡は陽菜を外に連れ出すようになった。始めこそ、陽菜は御祖禡の服の袖を掴んで、ぴったりと御祖禡にくっついて歩いていた。何度か商店街の人々に話しかけられ、その度に陽菜は体を縮めて御祖禡の後ろに隠れたりもした。ついに子どもが出来たのかと言われることも少なくなかった。御祖禡の歳からすると、どう考えても陽菜のような子どもがいるはずがないのだが、そう言われるのも無理はなかった。7、8歳の子がいても、不思議ではない。陽菜の体の大きさからして見ると、決して14歳には見えないのだから。
そんな陽菜も、何度か外を出歩く度に、御祖禡以外の他人と話すようになった。今では、1人で出歩けるようになった。御祖禡の希望で、携帯電話さえ持たせた。現に今も、陽菜は御祖禡と別のルートで買い物に出ている。
右手の荷物を左手に持ち替え、空いた右手で携帯を取り出した御祖禡は、器用に扱って陽菜に連絡を入れた。
「……あ、もしもし陽菜ちゃん? そっちは終わりました? ……あ、うん、確か牛乳も無くなってた気がするんですよ。……あれ、そうですか。じゃあ僕もそろそろ帰りますね。いつもの所で待ち合わせということで――」
御祖禡は、その先の言葉を告げることが出来なかった。目の前が、急に眩んだのだ。いつもの発作の所為ではなかった。空から降ってきたものが、太陽の光を遮った所為だ。それが目の前に落ちてきた時、始め御祖禡はそれが何か理解出来なかった。
ぐしゃ、とか、びちゃ、という音を立ててそれは御祖禡の目の前に落下した。真っ赤に広がった液体に、御祖禡は息を呑んだ。遅れて、人々の悲鳴。叫ぶ人たちが、何を言っているのかはわからなかった。御祖禡はただ、そのまま立ち尽くしていた。
「……はは。何の、冗談でしょう……ねぇ?」
――苦笑いさえすることが出来なかった。電話の向こうで、陽菜に名を呼ばれ、なんとか正気を保つことが出来た。溜息をつく。そして、
「ごめん……陽菜ちゃん。しばらく帰られそうにないです」
御祖禡は携帯を閉じ、足元に落ちた、血塗れの男の体を見下ろし、大きく息を吸ってから、再び盛大な溜息をついた。
「事件……か」
見覚えのある覆面パトカーがやって来たのは、それから十分も経っていない時だった。指紋が付着しないよう、いつも使用している手袋をつけて、遺体の周りをぐるぐると歩き回っていた御祖禡は、じっくりと車内の様子を離れたところから窺っていた。
運転席に座っていたらしい刑事が、助手席に座っているもう1人を、叩き起こしているようだ。野次馬に紛れて、聞き覚えのある声が聞こえ、御祖禡はほっとした。他の刑事では、自分を認めてくれず追い払われることもあったからだ。今回の場合、御祖禡は『第一発見者』なのだから、それはないとは思われるが。
「おら、邪魔だ、どけ。警察だ」
声からして、いつもより気怠そうだった。野次馬の間から現れたその声の持ち主は、言うまでもなく、御祖禡が以前から親しんでいる刑事、石神だった。会うのは少なくとも数ヶ月か1年ほど前以来なのだが、石神は御祖禡と目が合った瞬間、限りなく不快という表情になった。それに反して、御祖禡は満面の笑みを作って石神を見ていた。
「何でお前がここにいんだよ、あ"ぁん?!」
近寄って来て早々これである。御祖禡は苦笑いして数歩後退した。石神の後ろからは、一瞬誰かわからなかったが――何しろこちらの方はあの時の、3年前以来である――、眠そうに目を擦りながら歩いてくる東条がいた。石神は、以前より白髪が少し増えた程度であったが、東条は、御祖禡の知っている3年前の彼とはかなり異なっていた。癖のある茶髪は、少し伸びたと思える程で、大した変化はないのだが、違うのは、目と体つきであった。以前はもっと、暗い印象を与える目つきで、その上病弱な御祖禡よりも細く、痩せていたはずだ。それが今は、確かに目の下に隈はあるが、以前ほどははっきりしておらず、暗いというよりもおっとりしているような印象が感じられた。それに、決して太った訳ではないが、体躯はしっかりとし、心なしか身長さえ伸びている。3年間でこれほどまでに彼が変化したことに、御祖禡は驚くと同時に、疑問を抱いていた。
「あは。お久し振りです石神さん。東条さんも」
盛大に舌打ちをする石神の後ろで、東条が無言のままぺこりと御祖禡に一礼する。彼の寡黙なところは変わっていないようだ。
「どうでもいいが、ここはお前みたいなガキがうろつく所じゃねぇんだよ。とっとと帰れ」
「えー、それは無理ですよぉ石神さん。事件っていうのは、第一発見者の証言が案外役に立ったりするものですよ」
御祖禡と同様に、両手に手袋をはめながら遺体に歩み寄る東条と、御祖禡の言葉を聞いて、苦虫を噛み潰したような顔になる石神。二人の対比は、以前から御祖禡の楽しみの一つになっていた。
「……っつーことは、あれなのか。目の前に降ってきたって……」
「僕の目の前ですよ? えへん」
やれやれという感じで、石神が溜息をついた。
「いやーびっくりしましたよ。目の前にいきなり人が降ってくるんですものねー、あと少しずれてたら僕も死んでましたよ」
「お前な……それならもう少し動揺の一つでもしたらどうだ? 混乱ぐらいしてもおかしくねぇだろ、そこは。可愛くねぇ」
「だって仕方ないでしょ? 僕探偵なんですから、死体なんて今まで嫌と言うほど見てきたんですから。さすがにびっくりはしましたけど、死体見たくらいじゃ動揺なんてしませんよ」
「いや、それはお前の感覚がどうかしてる」
何を見つけたのか、東条は遺体の男のズボンから何かを取り出し、手元でそれをじっと見つめていた。そしてゆっくり立ち上がり、現場の道路のすぐ横にある高大なマンションを見上げ、その格好のままぴたりと動きを止めている。
「東条?どうかしたのか」
石神が御祖禡の横をすりぬけていったのに続き、御祖禡も振り返って東条に近づく。東条が手にしていたのは、どうやら男の免許証らしい。そして、それを持っているのと反対の腕を上げ、マンションの少し高い位置を指差した。石神と御祖禡は、同時にその方向を見上げる。
「マンションが……何だよ」
「……違います。あそこ、です」
あそこ、と言われても、今一東条の指している場所がどこかわからず、御祖禡は首を傾げる。
「下から……4つ目。4階の、左から二つ目の部屋です。……この男が在住していたのは」
言われて、1、2、3、4……と呟きながら部屋を見ると、その部屋は窓が開け放たれ、青のカーテンがひらひらと時々外に飛び出していた。窓から道路側には、それぞれの部屋にベランダがついている。
「あ?何でそこだってわかんだよ」
「……窓です。窓が開いているのは、見た所その一室だけ。あの場所から落ちたのでしょう。それなら、この遺体の潰れ具合も納得できます」
確かにそうだと、御祖禡は思った。今は冬である。冬の時期に、網戸もない窓を全開にしている家があるだろうか?それも、御祖禡は何度か飛び降りによって亡くなった人を目撃したことがあるが、実際に高所から飛び降りて地面に叩きつけられると、重力加速度とか何かの力の影響により、かなり人の体は潰れてしまうのだ。この男の体は、比較的綺麗な状態である。それほど高くない場所から落ちたのだ。
「これ、自殺じゃないですね」
ふともらした言葉に、石神と東条の二人は反応した。だが、二人も多少は気づいていたはずである。
「お前は何でそう思った?」
「そう、ですね。全部挙げると、まずその4階っていう高さです。このマンション……見た所10階くらいまではありますよね? 自殺だったと仮定して、じゃあ何でその屋上から飛び降りようとしなかったんでしょうか? 確実に死にたかったとしたら、その方がほぼ100%死ねると思いません? 4階くらいの高さじゃ、運が良ければ、死に切れないかもしれませんよね? だとしたら、彼は既に死んだ状態であそこから落ちたんじゃないですか? そしてこの遺体の落下した向き。どう見ても、マンションと平行してますよね? 自殺するとき、わざわざ体を横向きにして塀を登ろうとするでしょうか? 僕なら頭から飛び込みますよ。これは、彼が誰かに体を投げられた、と取れるんじゃないでしょうか。それと、窓もそうですが、見てくださいよ、彼の足。部屋の中で裸足だったとしても、窓なんて開けてたら、今の時期寒すぎていられないですよ、僕は。それに、裸足で革靴は履きませんよね? それなのに、彼の傍に、革靴が……なぜか一足、落ちていますよね。おかしいと思いません? 自殺にしては、不自然ですよ。まぁあくまで、ほとんど僕の憶測でしかありませんけどね」