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序章 APPROXIMATION

 今から大体3年前の、冬のとある日のことである。

 御祖禡 斎月(みそばいつき)は、全力で人気の少ない路地裏を駆け抜けていた。その所為か、首筋にじわじわと汗が滲んでいくのを御祖禡自身、感じていた。

 そもそも、あの男が悪いのだ。あの男――今現在、御祖禡が追いかけている――は、この路地裏に入ってくる前に、人通りの多い商店街で、若い女性のショルダーバックを目の前でひったくったのだ。幸い男は刃物などの凶器は持っておらず、被害にあった女性に怪我もないようだったので、女性のことは、悲鳴を聞いて寄ってきた人々に任せ、自分は男を捕まえることにしたのだ。

 しかし、予想外の展開だった。ひったくり男が、思いの外足が速いのだ。脚に自身があったわけではないが、追いかければいずれは追いつけるだろうと、御祖禡は思っていた。足の長さこそ大目に見れば御祖禡の方が有利であるのに、逆に小柄な方が俊敏さに()けるのだろうかと、走りながら余計なことまで考え始めていた。

 いつかは男の体力も尽きるだろうと思ったその時、唐突に、気管を誰かが押し潰したような息苦しさが御祖禡を襲った。突然の出来事に、規則的に動かしていた足が止まり、前のめりになる。あたりが古い建物で囲まれた道路であった為、男の足音は大きく響いていた。その音と同時に、自分の口から、空気が洩れる音が、幾度となく響く。2つの音は止まない。1つの音はどんどん遠ざかっていくのに、もう1つの音は少しずつ大きくなる。

 まずい、追わなくては、逃げられてしまう。御祖禡は確実に焦りを感じていた。だが、それとは裏腹に、息苦しさは強さを増している。

耐えることさえ苦しくなって、御祖禡はその道路の上に膝をついた。続けて首筋を伝った汗は、先ほどのものとはまるで違う。冷たい汗が、背筋を辿っていくのを感じ、身震いする。

 いまや男の姿はほとんど見えなくなり、同じようにほとんど聞こえなくなった足音は、まるで御祖禡自身を嘲笑っているようだった。とうに男を追うことを諦めていた御祖禡は、冷たいアスファルトの上に座り込み、自らの胸を両手で押さえ、体を丸めて屈み込む。

 周りの音や光を遮断することで、自らの異常な呼吸と、激しい動悸だけが、御祖禡の耳には残っていた。大丈夫だ、すぐ治まる、いつものことだ、心配することはない、と声には出さず自分に言い聞かせる。子供の頃からのいわゆる『おまじない』だった。何度、この言葉を使ってきたのだろう。

しばらくそのまま動かずにいると、気管に対する息苦しさは無くなっていった。そして、何度かゆっくりと息を吸ったり吐いたりしていると、動悸も治まり、ようやく正常に呼吸をすることができた。

 御祖禡が顔を上げると、そこには当然のように、ひったくり男が何も残さずに消え去った後の道路が広がっていた。呆然と座り込んだ御祖禡の他には誰一人としていない。いつの間にか、ひったくりを目撃したあの道路からかなり遠くまで走って来ていたらしい。被害にあった女性が通報したのか、パトカーのサイレン音がかすかに聞こえている。

 自分のため息で視界が一瞬白く染まり、初めて今日の寒さを感じた。御祖禡は両手をすり合わせるようにしながら立ち上がり、ズボンを軽くはたいてから、建物の間に遠慮するように入り込んだ冬の空を見上げる。すると、首を動かす途中に、人気のないこの路地裏と雰囲気が僅かに異なる建物があった。おそらく、周りの建物より最近に建てられたか、近日の内に建て直されたのだろう。この辺りは御祖禡自身はあまり訪れないが、その建物には少し親しみが持てた。御祖禡が借りているアパートも、かなり老朽化しており――尤も、大家にそんなことを言うと本気で追い出されるが――、いつか取り壊されるだろうとの話さえ出ているほどの年季が入っていたからだ。おそらく外見からして見ても、この建物はアパートか似たような何かだろう。

 御祖禡はもう一度ため息をついた。ひったくり男も逃がしてしまったし、これと言ってすることもなくなってしまった。長時間このような時期に外に出ていると、いつ風邪をひくかわからないので、自宅に帰ろうと踏み出した御祖禡の足は、先程眺めていたアパートの辺りから響いた音で引きとめられた。

 ガラスの割れる音。それに、女性の、罵声だ。

 とっさに見上げた先に、それとわかる部屋があった。アパートの2階、非常階段から上がって……3番目の部屋。頭の中に、外見から考えられるアパートの間取り図を描く。そして、考えるより先に、御祖禡はアパートに向かって駆け出していた。

 1階からの非常階段はすぐに見つけられた。建物内に設置されているものではなく、外に突き出たようになっていたからだ。鉄製の段は一つ一つが余すところなく錆びており、一瞬上るのに躊躇ったが、気にせず一気に駆け上がる。2階まで1段飛ばしで上ると、大人一人が通るのがやっとなほどの廊下を進んだ先に、3つ目の部屋があった。

 ドアが中途半端に開いている。御祖禡は、今度は躊躇うことなく、ドアの隙間から部屋の中を覗く。すると、先程の罵声の正体はすぐにわかった。30代程の女性が、部屋の中で何か大声で叫んでいた。

「なんであんたは私の邪魔しかできないの?!」

 その内容は御祖禡にもはっきり聞こえ、

「あんたなんか生まれて来なければよかったのに!!」

それが、女性の前に座り込んだ少女に向けられていたものだということがわかり、次の瞬間には、言葉を出す前に部屋に飛び込んでいた。

 女性が、ガラス製の灰皿らしきものを掴み上げたのが見えたからだ。

「あんたなんか――」

 女性は、御祖禡が現れたことに気づかない。気づいた時には、もう遅かった。彼女は、既に右手に持ったそれを少女に向かって振り降ろしていたのだ。

 目に涙を溜めた少女が固く目を瞑るのと、女性が「あ」という声を上げたのと、ガシャンというガラスの割れる音が上がったのはほぼ同時のことだった。そして――間一髪、御祖禡が少女を守るように2人の間に割って入ったのも、同時のことだった。

 割れたガラスの破片と、破損して3分の1程になった灰皿を女性が取り落とす音が、床に響く。そして、その周りに、本来ならば少女が流すはずであった血が、ぱたぱたと落ちる。

「あ……あなた、は」

 それらを見て、女性は数歩後ずさる。御祖禡の腕の中で、少女がびくりと体を震わせた。御祖禡の顔面には、頭から流れた血が伝っていた。ガラスは、少女を庇った御祖禡の頭に直撃していたのだ。

「いたた……お母さん、僕が石頭でよかったですね。貴女、もし僕が死んでたら、殺人罪で捕まってましたよ」

 御祖禡が血だらけの顔で微笑むと、少女の母親らしき女性は怖気づいたように膝から床にへたり込んだ。構わず、御祖禡は続ける。

「まあでも、とんでもないところを見てしまいましたよ。子どもに対する暴言、さらにはこんなもので――」

床に落ちた灰皿の破片を拾い、片目を閉じて女性の目の前に向ける。

「――子どもに、暴力を奮うなんて……。どこかで聞いたことありますよねえ、こんな話。何でしたっけ、えーっと」

言いながら目を泳がせるふりをして女性を睨みつけると、彼女がだんだん蒼白な顔になっていく、そして、

「……児童虐待、でしたっけ」

御祖禡がそう吐き捨てたと同時に、両手で顔を覆って泣き崩れた。

「虐待は児童福祉法違反ですよ、お母さん」

 母親が泣き始めたからだろうか、御祖禡の腕の中の少女も、御祖禡のシャツにしがみ付いて泣き出した。まだおそらく7歳、8歳くらいの子だろう。見ると、少女の体には、至る所にあざや傷跡があった。

「――可哀想に。泣きたいのは、この子の方ですよ」

 頭から大量の出血があるにも拘わらず、御祖禡は少女の頭を撫でながら、ジャケットの胸ポケットから携帯を取り出し、慣れた手つきで画面を扱うと、若干血を気にしながらそれを耳に当てる。

「……あ、もしもしこんにちは、御祖禡です。今お仕事中ですか?……え?あれ、そうなんですか、それはよかった。今ちょっと事件がありましてね。……はい、近くですよ。そこからちょっと抜けたところの古びたアパートの……ええ、あ、いや大丈夫です、石神(いしがみ)さんが来てくれれば。……で、そこの203号室?なんですけど……はい、そこにいます。あっ、あと怪我しちゃったんで救急箱も持ってきてくれると助かるなーっていうか……あは、そうですか。すみません、よろしくお願いしますね。では」

 休む間もなく通話を終えた御祖禡は、通話中とは正反対の表情を浮かべ、嗚咽を洩らし続ける母親に非難の目を向けていた。母親は、上ずった声で「ごめんなさい、ごめんなさい」とひたすら呟いている。一体誰に向かって謝っているんだ、と御祖禡は思っていた。大声を上げたことによる近隣へか、少女を庇った為に怪我をした自分へか、それとも、自分の子どもに向けてか。

いずれにせよ、御祖禡の中の嫌悪感は、消えなかった。そもそも、謝って済むような事態ではない。

「自業自得、ですよ。」


 203号室の扉が再び開いたのは、それから10分もしないときだった。御祖禡はその音に気づくまで、腕の中の少女を慰め続けていた。少女がジャケットにしがみついていた為に、動くことができず御祖禡は相手が部屋に入ってくるのを待った。

「――おい、御祖禡? いるのか」

 その声にはっとして、御祖禡はぱっと表情を緩め、「こっちですよ!」と声を上げた。古い建物である所為か、やたら大きな足音を響かせて部屋に入ってきたのは、御祖禡の馴染みの刑事である、石神和城(かずき)と、こちらはあまり関わりはないが、石神の部下である東条戒理(とうじょうかいり)だった。石神は、既に40は超えた、キャリアを積んだ刑事である。まだ24である御祖禡にとって、石神は人生で言っても先輩という立場であるが、知り合ってかなり経つ為、御祖禡はそんな石神と親しんでいた(あくまで、御祖禡はそう思っている)。

 それに、仕事柄、関わっていてもおかしくない人であった。

 若干中年太りが始まっている(とうに始まっていたのかもしれない)石神とは違い、東条はまだ27であり、御祖禡とは石神よりも歳が近い為に、御祖禡は、より仲良くできると、出会った当時は思っていた。だが、東条は御祖禡とも正反対の立場であったーつまり、喋ることが大好きで誰とでも明るく接するような御祖禡の性格と、真逆の性格をしていた。おそらく地毛であろう茶色のかかった、くせの強い髪と端正な顔立ちからして見ると、とても石神の次位を継ぐ警官には見えない上、実年齢よりはるかに若く見えるー最初に会った時、御祖禡は自分より歳下だと勘違いさえしたーことから、性格も相応して、よいものかと、御祖禡はとんだ思い違いをしていた。

 寡黙。無表情。無感情。冷酷。忠実。

 彼を言葉で表現させると、必ず並ぶ言葉である。まず寡黙、無表情。それは御祖場にも大方納得できる言葉だ。とにかく彼は、声が出せないのではないかと思うほど、滅多に喋らない。そして、常に同じ、鋭い目で相手を視る。確かに、人の感情をよく察することができる御祖禡でさえも、彼の感情が読めたことはない、と言っていいほど、彼は無表情かつ無感情であった。そして、冷酷、忠実。まだ出会ってからそう長くない為、御祖禡にその言葉の真意はわからない。

 そして、御祖禡は、理解不能な東条が、少し苦手でもあった。そもそも、東条が苦手なのではなく、理解のできないようなタイプの人は、御祖禡にたいてい苦手意識を芽生えさせるのだ。

 そんな東条に反して、石神は接しやすく、素直ではないが心優しい刑事だった。先程、御祖禡が突然電話をかけた時も、仕事中ー石神はひったくりがあった、と言っていたが、おそらく御祖禡が捕まえ損ねた男の起こした事件であり、被害を受けた女性が呼んだ警察が来ていたようで、それが彼らだったのだと考えられるーであったが、石神は(ほとんど)文句を言わず駆けつけてきてくれたのだ。しかしこれは仕方のないことでもあった。御祖禡は警察の人間ではなく、この虐待に対する現行犯逮捕などできるはずもなかったからだ。

 東条は相変わらず表情は無の状態であったが、石神は、頭から流血している御祖禡を見て、思いきり顔をしかめた。

「何があったんだ一体。お前、そんな傷救急箱じゃ足りねぇ……」

 そしてようやく視界に入ったのか、石神は母親と御祖禡の腕の中の少女を見比べて、「どういうことだ」とだけ呟いた。

「典型的な虐待ですよ、石神さん。僕が証人になります。あ、あとこの子、保護してあげてください。怪我してるんですよ」

「はいはい、状況は理解した。けどな、それよりお前だ。血まみれじゃあねぇか、阿呆。怪我人はお前。おい、東条」

 呆れてため息をつく石神の後ろから、焦りの一つもしていない東条が救急箱を手にのこのこと現れ、御祖禡の前に膝をついた。御祖禡は、へらりとして「こんにちは東条さん、お久しぶりですねー」と言ってみたが、完全に無視された。会釈もしない。

「東条さん、怒ってます?」

 少女を抱えながら、救急箱を広げて消毒液を取り出した東条を覗き込むようにして御祖禡が言う。無視された。

「放っとけ御祖禡。話しかけるだけ無駄だ」

 口を尖らせて御祖禡が石神の方を見やると、彼は茫然自失状態になった母親の手に手錠をかけているところであった。

「だってまだ、一言も喋ってないじゃないですか。あっ、わかった。東条さん、もしかして眠いんですか?」

 やはり何も言わなかった。ただ、反応はあった。東条は、御祖禡の額に消毒液を染み込ませたガーゼを押し付けるようにしながら、こくりと頷いたのだ。

「あ、いたた、ほらやっぱり。いたっ、ちょ、東条さん、もうちょっと優しくしてくださいよぉ……」

「――病院に、行かれた方がよいのでは」

 わざとらしくガーゼで乱暴に傷を拭いながら、東条が初めて言葉を発した。御祖禡は、東条と対面するのも久々であったが、それより東条の声を聞くのはもっとしばらくであった。言葉を発してくれたことに感動していた御祖禡は、東条がうっかり直接傷口に触れてしまった為に、とんだ悲鳴を上げた。

「い、たいですってば!! びょ、病院は駄目です。大丈夫ですよ、このくらい。僕石頭ですしね」

「ああ……東条、無駄だぞ。こいつ絶対病院には行きたがらねぇからな。だが、それにしてもこれは……お前これで殴られたのか? 切ってんじゃねぇのか」

 足元に散らばったガラスの破片を見て、石神が言う。「え、ほんとですか」と、傷を正面から見ている東条に御祖禡が尋ねると、東条はこくりと頷いた。

「うわー、困ったなあ。髪の毛洗う時、めちゃくちゃしみるじゃないですか」

「仕方ねぇだろうが。自分で怪我したんだから」

「待ってくださいよ、その言い草は酷いじゃないですか。僕はこの子を庇ったんですよ? 僕がもし割って入ってなかったらこの子が」

「はいはいわかったから。お前も一緒に本部まで来い。ついでに医務室

に連れて行ってやるから」

 石神が、母親を立たせて外に誘導する。医務室に連れて行くのならば今大層な処置は必要ないと考えたのか、真っ白なタオルを御祖禡に突き出して、いそいそと東条もその後に続いた。慌てて御祖禡も立ち上がろうとしたが、腕の中の少女が余りにも薄着で、着ていたそれもボロボロな状態であることに気づき、自分の、スーツの上から着ていたジャケットを脱ぎ、少女に被らせて、そのまま抱き上げた。初めこそ驚いたように見えたものの、少女は抵抗しなかった。それどころか、まだ御祖禡のシャツにしがみつき、顔を隠すようにしている。

 器用に片手で少女を抱え、もう片方の手で頭にタオルを宛てがいながら歩き出そうとすると、石神に連行されていた母親が自分を見ていることに気がついた。今更になって「娘を離して」とかいう言葉を吐き始めるのかと思い御祖禡は目を細めたが、母親が発したのは予想外の言葉だった。

「あなたは――何者なんですか」

 生まれて初めて言われた言葉に、御祖禡は動揺していた。そして、少し考えた後に、曇りのない笑顔を見せ、彼はこう言った。

「ただの、“通りすがりの”探偵、ですよ。」


慣れないにおいと枕の感覚で、御祖禡は目を覚ました。そして、すぐにそのまま硬直していた。初めて見る真っ白な天井、触ったことのない布団。なぜ自分が今まで寝ていたのか、御祖禡にはわからなかった。いつ自分がこの布団に入って眠りについたのかもわからない。

そもそも、ここが何処であるのかもさっぱりであった。試しに上体を起こしてみると、頭の外側と内側の両方に痛みを感じた。頭に手をやってみると、髪の上から包帯らしきものが巻かれている。それでようやく思い出した。

確か、商店街でひったくり男を追いかけて逃がして、アパートで虐待を目撃して……と、御祖禡はぼんやりしながら思考を働かせ、何気なく首を横に動かす。そしてその瞬間、思わず肩をびくりと縮ませ、目もすっかり覚めてしまった。足元の空間はカーテンで遮られているものの、右側の、隣のベッドとの境にはカーテンも何もない。その問題の隣のベッドに、ぐったりと死んだように横たわる人物がいた為だ。その人は、目隠しをしていて、顔はわからなかったものの、髪型と服装で、それがあの東条であると御祖禡は瞬時に確信していた。だが、その茶色でくせのある髪がなければ、投げ出されて半分ベッドから落ちかけている手足や、無様にも乱れた格好だけ見ても、とても東条とは思えない。しかし確かにあの東条である。

御祖禡が混乱していると、唐突に、仕切りの為のカーテンが左右に開いた。再びびくりとしてそこを見やると、そこには初めて見る顔の女性が立っていて、御祖禡を見て驚いた顔をしていた。御祖禡が言葉に詰まっていると、その女性は急に表情を明るくして、「気がつかれたんですね!」と声を上げた。そして、カーテンの外に顔を向け、嬉しそうに叫ぶ。

「先生、目が覚めたみたいですよ、探偵さん。あっ、私警部呼んで来ますね!」

 女性のテンションについて行けないまま、彼女はカーテンから離れてどこかへ行ってしまった。余計に御祖禡が混乱していると、再びカーテンが動き、先程とは違う女性が覗いてきた。今度は、御祖禡の知っている女性だった。彼女には、一、二回であるが、世話になったことがあったからだ。

「こんにちは斎月さん。お久しぶりですね」

 優しい笑顔を見せてそう言った彼女は、石神の所属する警察本部の医務室の専属医である。つまり、ここは警察本部だったのか、と御祖禡は一人納得していた。

「どうも、御無沙汰してます先生。あの……いろいろわからないことが」

「ああ、そうですよね。斎月さん、ここに連れて来られる前に倒れたそうですよ。軽い貧血で。それで、石神刑事さんが担いで来られました。えっと……三日前くらいに」

「え、三日? つまり僕、三日も寝てたんですか?!」

 貧血になったことは思い出しかけていたが、当然三日も寝ていたなんて思い出せるはずがない。

「仕方ありませんよ、かなり酷い怪我でしたし。本当は病院に行ってちゃんとした治療を受けた方がいいと勧めたんですが、刑事さんに反対されたので……こちらで手当てをさせて頂きました。気分は大丈夫ですか?」

 医師の質問に曖昧に答えながら、御祖禡は自分に失望し、合わせて石神に感謝していた。同時に、先程の女性と隣で横たわったままぴくりとも動かない東条に対し疑問に思い、順番に尋ねてみることにした。

「あ、あの……さっきの女の方は」

「ああ、初めてでしたか。ここの警察官の、神山真結かみやままゆさんですよ。石神さんが用事があるとかで、彼女に斎月さんについていてもらうよう頼んだんです。石神さんとは別の管轄ですけどね」

 なるほど、先程その神山という女性が言っていた”警部”というのは石神のことだったのか、なかなか可愛い子だったな、と思っていたのがばれたのか、御祖禡を見て医師はくすくすと笑い出した。

「駄目ですよ、斎月さん。彼女、もういますからね」

そして、医師の言葉の意味を理解して、御祖禡は驚愕すると共に再び失望した。

 いや、知りたかったのではそんなことではなかった、と我に返り、御祖禡がちらりと東条を見やると、また医師はそれを見て察知したのか、苦笑いを浮かべる。

「よくあることですよ。東条さん、仕事に本気になると絶対に自分からは寝なくなるそうです。寝てないと、明らかに様子がおかしくなるので、石神さんが気絶させるらしくて。それで、その時の衝撃で白目を向いたまま気を失ってしまうそうで……いつもその状態なんです」

 ちらりと東条を見つめ、御祖禡は初めて東条に同情した。よく見てみると、口も半開きになっている。彼は決して寝ているわけではなく、気絶しているのだと思うと、苦手だった東条が可哀相に思えてきた。

 おそらく石神に担がれてきたために身体が投げ出されていたのだろう。医師はあまりに不憫に思ったのか、静かにベッドに歩み寄ると、東条の手足をちゃんとベッドの上に乗るように動かし、その上に布団を被せた。

 ちょうどその時、扉の開く音がして、聞き慣れた声が医務室に入ってきた。何かを話しながらカーテンを開けたのは、やはり石神と、先程までここにいた神山という警官であった。御祖禡の目が覚めたら、石神を呼びに来るように彼女は言われていたのだろう。

「よお。随分と長いお休みで」

 御祖禡を見るなり、石神は意地悪そうな顔で微笑み、そう言ったので、

「お世話になりました、石神"警部"」

負けじと御祖禡も、引きつりながら満面の笑みを浮かべた。

「怒るなよ、冗談だって。もう傷はいいのか」

「いいわけないでしょう。いくら三日間眠ったままだったとしても、三日ですよ。治るわけないじゃないですか」

「わかったって。おい、先生。こいつちょっと借りて行きたいんだが……もう歩かせても大丈夫か」

 話の流れを理解する前に、医師が「ええ、構いませんよ」と言うと、すぐさま石神は御祖禡に、ついてくるよう指示した。そして、それと同時に、ずかずかと御祖禡の隣のベッドに歩み寄り、東条の肩を何度か叩いた。

「東条。いつまでもサボってんじゃねぇぞ。おい、起きろ」

 ベッドから足を降ろし、身支度をしながら、貴方がサボらせたんでしょう、と心の中で呟く。何度か石神に体を揺すられて、東条はようやく目を覚ましたようだ。音もなくむくりと起き上がると、頭の後ろに結ばれていた目隠しを解く。彼の目の下には、はっきりと見てとれるような隈があった。相当疲れていたに違いない証拠だ。

 暫く呆然としていた東条だったが、石神が一言「行くぞ」とだけ言うと、何かに弾かれたようにベッドから飛び降り、医師に頭を下げた。御祖禡も同じように頭を下げようとしたが、頭を下げた瞬間目眩が起こりそうであった為軽く会釈をして、部屋を出て行こうとする石神の後を追う。

「あまり無理をなさらないようにしてくださいね」

出て行く際に背後から医師にそう言われ、御祖禡は振り返って笑顔を残し、医務室を後にした。

「石神さん」

 少し遅れて後からついてきた御祖禡が、前を歩く背に声をかける。

「悪ィな、本当はもう少し休ませてやろうと思ってたんだがー急用だったもんでな」

「あの女の子のことですか」

 急ぎ足で歩きながら、石神が振り返らず に喋ったのを見て、御祖禡はその考えに至った。すると、石神の少し後ろを歩いていた神山が御祖禡に振り返り、 笑ってみせる。

「さすがは探偵さんですね。御祖禡さん のことはよく聞いていますよ。あ、そうだ。初めましてでしたね。神山真結といいます。所属は本庁の」

「おい、神山。余計なことぺちゃくちゃ喋ってると、こいつ本気で勘違いするからやめといた方がいいぞ。あいつが嫉妬すんぞ、いいのか」

 石神に話を遮られたのがそんなにも嫌だったのか、神山は顔をしかめると、石神から、ふいと顔を背けた。

「そんなのじゃありませんよ。それに、かがりは嫉妬しすぎなんです。ちょっとくらい別の男性と仲良くしたっていいじゃないですか。ねぇ東条さん!」

 何故か全く無関係だった東条に話を向ける神山。御祖禡も予想はしていたが、東条は案の定完全に無視していた。それ以前に、東条は、まだ意識がはっきりしていないのか、体調が良くないのかはわからないが、無我の境地に陥っている。いつもの無表情に加え、その視線の先は宙のどこかを向いていた。

 そして、石神の言った“あいつ”というのは“篝”とかいう人なのだということはわかったが、御祖禡にはその話はわからなかった。東条は論外である。

 どこに向かっているかはわからなかったが、歩いている最中、御祖禡は自分に奇異の目が向けられていることに気づいていた。当然のことであることもわかっている。御祖禡はこの本部内では見るはずのない一般人であるし、まして今日は、頭が包帯で覆われている。以前からここを歩く時には、女性を見かける度に声をかけていた。そのお陰で名前で呼んでくれる人が増えたのだ。さすがに今日は、御祖禡はそういう気分にならなかった。石神の空気もピリピリとしている。

「石神さん、一つ聞いてもいいですか?」

「あ?」

「あのお母さんが……罰せられたら、あの子はどうなるんでしょうか」

 一瞬石神が振り向きかけたのを、御祖禡は見逃さなかった。あの少女はおそらく、もう母親の元には戻りたがらないだろう――例え、母親が娘を取り戻したいと望んでも。少女の行方は目に見えていることだった。いずれ、同じように親のいない子ども達が収容される孤児院などに引き取られることになる。

「……さぁな。それを決めるために、今お前を呼んだんだよ」

「へ?」

 予想外の返答だった。どういうことだろうと、御祖禡が首を傾げていると、急に石神が立ち止まり、それに気づくのが遅れて石神の肩に思い切り頭をぶつけてしまった。御祖禡が激痛に耐え切れず屈み込んで頭を抱えたのは言うまでもない。東条は、気づくのに遅れるどころか、止まったことにさえ気づかなかったのだろう、石神に襟首を引っ張られてようやく足を止めた。

「ちょっ……石神さん。僕が怪我人だってこと忘れてましたよね?今絶対わざと急に止まったでしょ」

「うるせえな。いいから、静かにしろ」

 痛みが治まってから御祖禡が立ち上がると。そこに一つの扉があることに気づいた。部屋の名称が書かれるはずのプレートには、何も文字が書かれていなかった。

「東条、お前は……お前は駄目だな。ここで待機してろ。神山は……そうだな、報告書を頼んでもいいか」

 東条は素直にこくりと頷き、神山は若干嫌そうな顔を見せながら「はーい」と呟く。続いて石神が御祖禡を見ると、いつものニヤリ顔を見せ、「まあその顔なら仕方ないか。ドンマイ」と言って、頭を叩かれそうになった為、今度はさせまいと咄嗟にその手を避けた。言葉の意味は、まだわからなかった。

 石神が、扉を数回ノックし、中から答えが返ってくる前にそれを開けた――瞬間、「酷いですよぉ石神さん、なんで先輩じゃなくて僕にこんなこと任せたんですか?! あ、わかったさては先輩が石神さんになんか言いつけたんですね?! それにしても酷いですよぉぉ、僕にこんな仕事できませんってば!!」と、聞き取れるか否かのスピードで、叫びながら警官らしき男が石神に泣きつこうとしたが、石神は彼を見事にかわしていた。そして、勢い余った彼は「ふぇっ?!」と間抜けな声を上げて、これも見事に御祖禡にクリーンヒットしてみせた。目の前に星が散ったような気がして、御祖禡はそのまま倒れそうになったが、いつ手を伸ばしたのか、横から現れた東条に支えられていた。

「……大丈夫、ですか」

「あ、はは……すみません東条さん、平気です」

 御祖禡にぶつかってそのまま床に座り込んだ男は、鼻を打ったのか、片手で摩りながら、涙目になって顔を上げていた。

「い……痛いじゃないですか石神さん……って、あれ?えっと……」

 そして、御祖禡と目が合うなり、ふわりと首を傾げる。彼がそうするのも無理はなかった。御祖禡とは初対面であったからだ。

「あっ、も、もしかして、あの女の子を助けたっていう……」

「ああ御祖禡、そいつのことは無視していい。話すと疲れる」

「ちょっと、酷いですよ石神さん! 無視しないでください!」

 確かにまともに話していると疲れそうだと御祖禡は思っていた。それが彼の特徴なのだろうか、矢鱈と声が大きいし、普通の成人男性より比較的声のトーンが高い。今の御祖禡にとって、彼の声は頭痛の原因になった。だが初対面でそのような感情を顔に出してはいけないと、御祖禡は必死に笑顔を保っていた。

「あの、探偵さんですよねっ?! 僕感動したんですよ、身をもって見ず知らずの女の子を助けるなんて、普通の人じゃとてもできませんから。いやー、僕も見習いたいです。あ、自己紹介がまだでしたね。本庁刑事課、城ヶ崎警部の"相棒"であります警部補の後条院夏輝ごじょういんなつきです、よろしくお願いします!!」

 後条院という警官の声の大きさにも驚いたが、御祖禡は彼が警部補であることに最も驚いていた。彼はどう見ても、30を超えてはいないだろう。余程のエリートか、またはお坊ちゃん育ち。そういう境遇では御祖禡は彼と上手くやっていけそうにないと思った。ただ、歳は東条より近そうであった。

「京介がそれを聞いたら全身震え上がるだろうな」

ため息混じりの声で石神は言う。

「いーえ、先輩は嬉しいに決まってるじゃないですか! あっ、東条さんだって僕と同じ立場でしょう?! ね、東条さんも石神さんのこと相棒だって思わないんですか?」

 やはり、返事はなかった。それどころか、東条はいつの間にか場所を移動し、部屋の扉の隣に寄りかかったままうたた寝をしていた。後条院の大声にも動じた様子はない。

「お前な、東条が『俺は石神警部の相棒です』なんて言ってんの想像できるか?」

 石神が、わざわざ東条の真似をして台詞を口にしたのがあまりにも東条にそっくりで、御祖禡は後条院と同時に吹き出していた。笑われている当本人は全く反応がない。本当に眠っているらしい。

「ああくそ、本題を忘れるところだったじゃねぇか。おい、夏輝」

 必死で口元に手を当てて笑っていた後条院は、名前を呼ばれて「ひゃいっ!」と声を上げて咄嗟に背筋を伸ばした。それと同時に、御祖禡は咳払いをする。

「状況を説明しろ。変化はあったのか?」

「あ、はい。あっ違います、変化はないです。やっぱり大人に対して不信感を抱いているようですね。まぁ……あれだけの虐待を受けていたら、仕方のないことだとは思いますけどね。全く酷いものですよ」

 おそらく、部屋の中にあの少女がいるのだと、御祖禡は確信した。中途半端に開かれた扉の隙間から中を見ることはできないが、後条院は中で少女の相手をしていたのだろう。大方、石神が彼に指図した、というところか。

「だって、聞いてくださいよ。あの子、もう11歳だそうですけど、ろくに食べ物も貰ってないせいで、身体が全くと言っていいほど成長してないんですよ」

「え」

 "11歳"という言葉に、御祖禡は声を洩らしていた。あまりにも大きなその数字に驚いたのだ。少女を抱き上げた感覚は、今もこの両手に残っている。体重や身体の大きさからしても、精々7、8歳かと御祖禡は考えていた。

「腕も足も細くて、もう骨と皮しかないような感じでしたよ。今まで生きてこれたのが不思議なくらいで。お母さんが見てない間に、自分で食べ物を探して食べていたらしいんです」

 そして同時に、記憶に引っかかる何かがあった。

 今にも泣き出しそうな顔で俯いた後条院の言葉を繋げるように、石神が扉のノブに手を掛けながら呟く。

「それで、ガキを助けたお前なら、警戒することもねぇだろうと思って連れて来たんだ。会ってくれるな」

 御祖禡は、思考を巡らせる間もなく、頷いていた。それを確認した石神は、ゆっくりと扉を開け放つ。部屋の真ん中に机が一つ、その机の周りに互いに向かい合った椅子が二つ。その一つに、あの日御祖禡が救った少女が座っていた。俯いた少女の小さな姿がいたたまれなくて、御祖禡は無意識に少女に歩み寄っていた。

「あ、おい」

 石神の声が届いていなかったわけではないが、御祖禡は止まらなかった。ゆっくりとした足取りで少女の隣まで進み、膝を曲げてその場に屈み込む。御祖禡が少女の顔を覗き込むようにした為、少女は御祖禡と目が合って一瞬びくりと身体を震わせたが、その瞳はすぐに嬉しそうなものに変わった。御祖禡がそれに応えて笑顔を見せると、少女は何かを言いたそうに口をもごもごと動かしたが、言葉は出て来なかった。

「……名前は何ていうの?」

 御祖禡からそう告げると、少女は頬を赤らめて御祖禡から目を逸らし、か細い声で「陽菜ひな」と答えた。

「陽菜ちゃん、か。いい名前ですね」

「あ、あの」

 陽菜と名乗る少女は、ちらりと視線を御祖禡の頭に向けながら、気まずそうに再び消え入りそうな声で「その、けがは、」と呟く。彼女なりに、彼女を庇って怪我を負った御祖禡を心配しているようだ。

「大丈夫ですよ。陽菜ちゃんは何も心配しなくていいですから」

「……よかった……」

 そして、御祖禡が陽菜の頭を撫でようと手を伸ばしたその瞬間、堪えることが出来なくなったのか、陽菜の小さな目から大粒の涙が溢れ落ちた。それは、ぽつぽつと雫になって、止まらない。止まらない。

 御祖禡は、膝立ちになって、少女を胸に抱き寄せた。とても11歳には思えない華奢な身体は、驚くほど小さく軽く、小刻みに震えていた。強く抱きしめると、折れてしまいそうな程だ。御祖禡の胸の中で、小さな少女は嗚咽を洩らし、御祖禡の服にしがみついていた。

「つらかったね。陽菜ちゃんはよく頑張った。もう大丈夫、つらくない。痛いことはしない。大丈夫だよ、僕がいるからね」

 抱きしめるには小さすぎるその背を、何度も、何度もさすりながら、御祖禡は、少女が声を詰まらせながらも、確かに「おかあさん」と呟いたのを聞き逃さなかった。

 再び記憶のどこかで、何かが音を立てた。


 「いやぁ、びっくりしましたよ。僕が話しかけても何も言ってくれなかったのに、探偵さんが話しかけたら一発じゃないですか。僕あの仕事やった意味ありました?」

 休憩室のソファに座り込んで大きく伸びをした後条院が、気怠げにそう呟く。御祖禡はそのソファの背もたれに腰を乗せ、「御祖禡、です」とだけ補足した。

「お前に頼んだのは、少女を宥めることじゃなくて、御祖禡コイツの意識が戻るまで少女の相手をすることだからな」

と、自販機のコーヒーのボタンを押しながら石神が言う。少し離れた所で、東条が欠伸をしながら首を回していた。

「なっ、だって石神さん、あんな中で何も言わず話さずでいて、それ相手をしてるって言わないでしょ?! 僕子どもは好きですけど、無駄に精神年齢高かったり喋らなかったりする子って苦手なんですって! 結構大変だったんですからね?!」

 それはおそらく貴方の精神年齢が低いからです、と御祖禡は口に出しそうになったが、何とか言葉を呑み込んだ。ふと石神が、御祖禡に向かって缶コーヒーを放り投げる。慌ててキャッチすると、それを見つけた後条院が「えーっ、奢りですか?! 石神さん僕には?!」と声を上げた。

「こいつには一応無理させちまっただろ。その恩賞だ」

「え、あ、ありがとうございます」

「ずるいですよぉ、カフェオレでいいから僕にも奢ってくださいよー」

「自分で買え」

「えぇーっ」

 刹那、御祖禡は自らの胸に微かな違和感を感じた。よく知っている、この感覚。あの時と――ひったくり男を捕まえ損ねたあの時と、同じだ。唐突に、おかしな音を立てた自分の呼吸が聞こえ、御祖禡はその場に膝をついた。息苦しさと目眩が、同時に御祖禡を襲う。

「御祖禡ッ?!」

「御祖禡さん?! どうしたんですか?!」

 自らに駆け寄ってきた足音を制することもできず、御祖禡は胸を押さえ込んで必死に酸素を求めた。また、いつもの発作だ。

「御祖禡、お前薬とか持ってんだろ?!おい、どこにある?!」

 視界が定まらない中、石神の声が脳裏に響く。なんとかその言葉を理解し、胸ポケットの中、と声を発したつもりが、何処かで引っかかっているような呼吸の音にかき消され、言葉にはなっていなかった。だが石神はそれで察知してくれたのか、無理やり御祖禡の体を起こすと、スーツのジャケットの裏に手を突っ込んで小さな袋を一つ取り出した。

「石神さん、それは」

 動揺を隠せない後条院の声もよそに、石神はその袋の中から錠剤を二粒取り出し、御祖禡の右手に握らせる。

「御祖禡、これだろ、飲め!」

 石神が確かに薬の入っていた袋を取り出したのを見ていた為、御祖禡は手の中を確認するまでもなくその二粒を飲み下した。間もなく目眩が軽くなり、胸の違和感もなくなっていった。大きく息をついて、御祖禡がようやく顔を上げると、東条を含む3人が心配そうな顔をして御祖禡を取り囲んでいた。

「大丈夫か」

「はは……すみ、ません。大丈夫です、いつもの、ことですから」

 そう言って笑った御祖禡の顔は蒼白だった。冷や汗さえ滲み出ている。御祖禡が呼吸を落ち着かせている間、石神は何も言わなかった。その為に、何も解らず2人の顔を交互に見ていた後条院に気を利かせたのか、東条が静かに口を開いた。

「……喘息、ですか」

 言い当てられて、御祖禡はびくりと身を震わせた。見られた以上、隠し通すわけにはいかないと思ったのだ。首筋の汗を袖で拭いながら、御祖禡は一度大きく息をつき、無理やり笑ってみせる。

「生まれつきなんです。子供の頃よりは、軽くなったんですけど。今でもこんな風に、突然発作が起こったりするんですよ。石神さんは、出会ってから何度か起こったので‥‥もう知ってますよね」

「……ああ。だが、以前より酷くなってねぇか? 前はそんなに……」

「そうですね、最近はちょっと酷いです。今は昼も寒いですから、風邪でもひいあのかもしれませんね」

 言いながら、御祖禡は片手で胸をおさえ、未だに治らない動悸を鎮めようと、心の中であの言葉を繰り返した。大丈夫だ、すぐ治る、いつものことだ、心配することはない。

「まぁ、確かに、ガキの頃よりマシになったな。初めて会った時も何回も発作起こして、世話も大変だった」

「え、石神さんと御祖禡さんってそんなに昔から知り合いだったんですか?」

 石神の呆れたような発言に、後条院が身を乗り出して尋ねてきた。御祖禡が石神は一瞬だけ御祖禡に視線をやり、すぐに目を逸らす。

「初めて会ったのはこいつが10歳かそこらの時だ。再会したのは最近のことだがな」

「最近でしたっけ……? 僕が、探偵業を始めてすぐでしょう」

 ようやく通常通りの状態に戻り、御祖禡がソファの背もたれに手を掛けながら立ち上がると、3人もそれに続くように腰を上げる。

「ご心配をおかけしてすみませんでした。もう、大丈夫ですので」

「大丈夫そうだな。顔色も戻った」

「一時的なものですから。あ、コーヒーありがとうございます」

 礼を言わずに忘れかけていたコーヒーの存在に気付き、苦笑いして御祖禡が言う。石神は呆れたように大きな溜息をつき、胸ポケットに手を入れかけたところで動きを止めた。おそらく無意識に煙草を吸おうとしたのだろう。御祖禡に気遣ってくれたのか、石神はちらりと御祖禡を見て、再び大きく溜息をついて腕を下げた。

「……面倒くせぇな。なんでこっちが気を利かせねぇといけねぇんだよ」

「あっ、石神さん、僕も煙草は嫌ですからね?! もー、先輩といい石神さんといい、毎日煙草臭くて困りましたよ、本当。煙草のどこがいいんですか?」

 後条院がいつもの調子に戻って横から口を挟み始めると、石神はじとりとした目で彼を睨んでいた。

「お前はガキだからまだわかんねぇんだよ」

「失礼ですね、煙草のことくらいわかりますよ。体に悪いだけってことくらい、誰でも知ってますよ? あ、ほら東条さんからも何か言ってやってくださいよ」

「ちなみに東条も吸ってるからな」

「ふぇっ?! な、なんでですか東条さん、僕を裏切るんですか?! ひ、酷いですよ、ぼぼっ僕だけ仲間外れにしないでくださいよ!」

 涙目になって東条の服にしがみつく後条院に、東条は「元々吸ってますから……」とだけ呟き、その後は完全に無視していた。呆れる御祖禡に気付き、石神は溜息をついて御祖禡に向き直った。真剣な目だった。

「本気の話をしようか。――お前はあの少女をどうしたい」

 言われることは大体予想していた為に、動揺はしなかった。少女の姿が、脳裏に蘇る。11歳とはとても思えない小さな体。抱き締めると、簡単に崩れてしまいそうな体。虐待を受けていながらも、泣きながら「おかあさん」と、母を求めたあの声。愛されるべくして生まれてきたのに、愛されなかった、少女。

 いつしか御祖禡は、少女の姿を自分と重ね合わせていた。だからこそ、自分にしかできないことがあると、信じていた。

「あのままここに残ることはできない。母親も、おそらくはもう会えないだろうな。お前なら、どうする」

 御祖禡自身にしか、わからないことがある。御祖禡は、そう考えていた。例えば、少女の気持ち。孤独というものの寂しさ。大人への恐怖心。愛されないことへの悲しさ。痛み。苦しみ。憎しみ。自分は何の為に生まれてきたのだろうという自己嫌悪。自分には何もないという絶望的な虚無感。

 御祖禡は、それらを全て知っていた。身に染みるように、心に痛みを感じるほど全て、何もかも。

「僕に考えがあるんですけど、」

 一度経験したものが、心の底に溜まっていたからだ。どこかで、御祖禡は、自分がその感情を未だに持っているのだろうと、自分自身に対し嘲笑った。消えることのない深い傷を、少女も負ってしまったのだろう。

 もし自分に、

「僕に、引き取らせて貰えませんか」

少女の心の傷を、ほんの少しでも癒すことができるのなら。

 御祖禡の目に揺るぎはなかった。

 石神は、その答えを御祖禡が出すのを勘付いていたのだろう。驚いた表情は見せなかった。それとは逆に、後条院や、珍しく東条は、明らかに顔に感情が浮かんでいた。2人とも、先程の体勢のまま、ぴたりと静止して、顔だけを御祖禡に向けている。

「……お前なら、そう言うと思った。同じ境遇、だからな」

 石神の言葉に、確かに後条院が何か声を洩らしたのには気付いたが、御祖禡は有無を言わせず言葉を継いだ。

「どうせ、孤児院に引き取られるだけなんでしょう? それじゃああまりにも陽菜ちゃんが可哀想ですから。陽菜ちゃんがいいなら、僕に引き取らせてください」

 御祖禡は、石神に向かって深く頭を下げた。何度目だろうか、この人に頭を下げたのは。

「あぁ、やめてくれ、今更頭下げんじゃねぇよ、気色悪い。普通頭下げんのは、貧血で倒れてから運んできてやったことに対してだろうが」

 そういえばあれから、石神に礼一つ告げていなかった。「すみません」と、一度は上げかけた頭をもう一度下げようとすると、無理やり髪を掴んで頭を上げさせられ、その言葉も遮られてしまった。再び頭に激痛が走ったのは言うまでもない。

「い、痛いですから石神さん、頭だけは勘弁してくださいよぉ……」

「阿呆なお前は。……最初からそのつもりだった。無責任だが、お前に頼みたいと思っていた」

「え、じゃあ」

「あの子のことは、お前に任せる」

 東条が何か言いたげにしているのを、石神は無視していた。頭を摩りながら、涙目になっていた御祖禡の顔が、急に明るくなる。

「本当ですか?! 本当にいいんですか?!」

「ああ。ただし、責任を持って世話しろよ。途中で放棄したら許さねぇぞ」

「わかってますよ。うちには弟がいますし、世話には慣れてますから。あ、もう一回陽菜ちゃんに会って来てもいいですか?!」

「あんま刺激すんなよ。お前自身もな。本調子じゃねぇんだから」

「はい!」

 欲しいものに全力でありつく子どものように、御祖禡はにこにこしながら走り出そうとしたが、途中でぴたりと足を止め、石神に振り返った。

「ありがとうございます、石神さん」

そして、その一言だけ残し、御祖禡は、頭の傷に気を遣ったのか、走りはせず早足で先程の部屋に戻っていった。

 御祖禡が見えなくなったのを確認し、しがみついたままだった後条院から体を離すと、東条は静かに口を開いた。

「……警部。いいのですか」

「構やしねぇよ、あいつがそれを望んだんだ。ガキにとってもそっちのが都合がいい。何、気にすんな、責任は俺が取る」

 それ以上、東条は何も言わなかった。次に静寂を破ったのは、後条院の溜息交じりの呟きだった。

「石神さん。御祖禡さんって、」

「大体想像はついただろうが。俺があいつと出会ったのも、それが原因だったしな。


 ――あいつは幼い頃から、両親に虐待を受けていたんだ」


 



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