章前 あってはならない記憶
時は西暦1972年末。場所は、ベトナム、ハノイ。
当時のベトナムは、戦争の真っただ中。特に、ここハノイは、米軍による広範囲かつ圧倒的な絨毯爆撃によって、ほとんどが焼け野原と化していた。
米軍のラインバッカー作戦。上空では爆撃機が飛び交い、無数の爆弾を投下していく。家を焼き、木々を焼き、人を焼き、希望も絶望も命乞いも断末魔も、爆炎と爆音が容赦なく無差別に掻き消していった。
しかし、その爆撃を難なく逃れたものたちがいる。
彼らは、疵術師と自称した。“疵のある不完全な魔術師”という不名誉な名を冠する彼らは、それでも、その名と与えられた任務に誇りを懐いていた。
そして、それに敵対する存在が、異形と呼ばれていた。彼らは、その野生の本能故に自らの意思を持たず、故にその姿から、ただ異形とだけ呼ばれた。
疵術師は、彼らの持ち得る魔術という異能によって、上空から迫りくる無数の爆弾の災禍から逃れ、異形は、その異形たる術によって、災禍を避け、呑み込み、時に自らの剣とした。
彼らは、ただこの場に在って、死にゆく無力な存在を静観しているわけではない。
彼らは、自らの存亡を懸けて、ただひたすらに、眼前の敵を薙ぎ倒さんとして、各々の得物を、牙を、爪を、異能を、振るっていた。
◇◇◇ ◇◇◇
そこは、戦場だった。
しかし、そこで行われているのは、戦いと呼ぶにはあまりにも一方的で残虐な、“虐殺”。無抵抗な獲物――つまり、爆撃を逃れた数少ない民間人や戦う術を失った疵術師たち――が、人の形を失うほどに蹂躙され、分解され、喰われていく、いわば屠殺場だった。
経過していく時間に比例して、人の死体は増えていく。いや、死んだそれらの姿は、もはや人と呼べない、呼んではいけない姿へと変貌していた。
頭や手足が転がっているだけなら、まだマシだった。
中途半端に内臓の残った腹に突っ込まれた頭部。性器に何本もの腕が刺さっている女性の下半身。妊婦の口の中に臍の緒が繋がったままの胎児の頭が入れられている。その妊婦の裂かれた腹からは、男の上半身だけが腹を突き破って出てきたかの如く生えている。
何体もの死体の積まれた山の上に一つの頭と一対の腕が立てられている。焼け焦げた死体と性器で繋がった男の下半身だけがある。二つに折り畳まれて木の枝に突き刺された者もいる。皮を剥がれ、それを互いに交換して被っている夫婦の死体があった。表面だけ灰になった子どもたちが風に晒されて赤い肉の部分を露わにし始める。
それらはまさしく、地獄絵図と言うに足る光景。常人に耐えうるものではない。
そんな、残虐というも生温い所業を2日も続けているのは、周囲を飛び交い、走り回る、異形たち。
その中には、馴染みの深い動物に似たものもあれば、それらが混合されたものもある。さらにそれが光沢を放つほどに硬質な皮膚を持っていたり、一部分が腐食していたりもする。あるいは、この世にあり得ない形状、例えば、身体の至る所に眼球があるものや、骨格だけで動くもの、果ては幾何学的な形状でありながら生きているものまである。
それら異形は、その脚で地を駆け、翼で上空を飛び交い、逃げ惑う人々を喰い尽くさんとして、襲いかかる。
その中心に、一人の少女の姿がある。
ただ一人、異形に爪牙を向けられることのない存在。
人は彼女を、“女王”と呼んだ。
◇◇◇ ◇◇◇
異形は、本能に任せて、ただ喰らうだけの存在。今まで見てきたような光景を作れるほど、あいつらは賢くない。
まるで、死体を使った悪趣味なオブジェのように。人の形を侮辱し、ひたすら否定する。
その変化を悦び、その行為を楽しみ、人間そのものを冒涜する。
単純で明快な、行動原理だった。
一人の少女が、玉座と呼ぶに相応しい豪奢なイスに座っていた。
少女の服装は、この国に来てすぐに買った、民族衣装。彼女はそれをいたく気に入り、一日中それを着ていることもあった。
淡い青灰色だったそれは、今は赤い鮮血に彩られている。顔や腕にも、赤い血の痕。彼女の唇を赤く染めているのは、おそらく血液だ。
そして、彼女の座る玉座の下には、無数の人間の死体が山のように積み上げられている。
――異形。外見はそうでなくても、精神性は既に異形のそれと見て間違いない。
私は、彼女を見上げる。なるべく死体の山は見ないようにして。
「あれ? あれれ? 来てくれたんだぁ、――ちゃん? 嬉しいなぁ、あたし、嬉しいよ?」
少女の名は、橘竜児。私のはじめての友達で、唯一の親友で、なのに今は異形の味方をしている。敵であることは明白で、なのにその表情や仕草はいつも通り。ただ、いつも通りでいられるのが異常な状況だというだけで。
「よく来れたね。頑張った、頑張った。いいこいいこ、したげよっか?」
「……いらない」
「そっかー。子ども扱いは嫌いだもんね」
笑っている。死体の山の上で。人としての感性すら、失ってしまったのだろうか。
誰も予想していなかった。こんな事態は想定していなかった。誰が、こんな残酷な運命を。神? 神だとしたら、私はその神を一生を掛けて恨んでやろうと思う。
けれど、だけど、そうでないのは確かで。もしかしたら、彼女が自分の意思で選んだことかもしれない。そうだとして、私は彼女を非難できるだろうか?
考える私の前で、彼女は笑う。嗤う。哂う。
「ねえ、人の脳みその味って知ってる?」
彼女が掲げたのは、人の頭。それが見知った顔で、私たちに居場所を作ってくれた、優しい……優しい、人、なのに、彼女は、竜児は、嗤って、その首を、手に持って、舌舐めずりを
――激昂。
「あっは、怖~い、ホント怖いわ~。威圧してるつもりなの? クッヒヒヒ、かわいいよ、すごく」
「……あなたは……!」
「あなたはぁ?」
「――ッ私が殺す!」
手に作りだした魔力の塊を放り投げる。人間なら、これで頭を吹き飛ばせる。私は殺すつもりで、この攻撃を仕掛けていた。
でも、防がれた。横から入ってきた異形に、私の攻撃を妨げられた。
歯噛みし、だけど追撃はしない程度に頭は冷えていた。
「相変わらず短気だなぁ。もっとクールにね、行こうよ?」
冷静になるのは諦めた。もう無理だ。自制が利かない。
どうしよう。殺そうかな。
「怖いね、その目。あたし、そういうの好きじゃない」
「だからなに?」
「知ってるでしょ? あたしね、この子たちの女王になったの。君を殺すことだって、簡単なことなんだよ? だからさ、あんまり調子に乗らないでもらえるかなぁ?」
私は無視して、斧を出す。私の身長の2倍もある斧が、ドスン!! と地面に亀裂を入れて出現した。
竜児が、目を細めた。
「それが君の得物? 大きいね、操れるの?」
「あなたに関係ある?」
問うと、竜児の細められた目が上弦に反った。ただ、口は笑みの形をつくらず、不機嫌そうに歪められている。
「ないね。でもね、君があたしを殺せるかどうかには、とても興味がある」
「すぐにわかると思うけど?」
「そうだね。じゃあ、殺して見せてよ、あたしを。君の親友だったあたしを。ねえ? ほら、してみせてよ、今すぐ! ここで!」
斧を握りしめ、足に力を溜める。
「できるもんならさぁ、殺せよ! あたしを!!」
切りかかる準備は、もうとうにできていた。なのに
――なのに、私の足は動かなかった。躊躇なんて、この期に及んでする理由もないのに。なぜ?
殺せ、と、竜児だって言っている。躊躇う必要なんてないはずだ。ほら、動いてよ、私の足。私の腕、ほら、早く斧を持ち上げて。
でなきゃ、親友を殺せない。
「――く、っくくく……」
「……やめろ」
「くっくくくく……、はは、あっはははははははははは!!」
「やめろぉ! 笑うな!」
やめろ、笑うな。笑い声が耳を劈いて、不愉快だ。軽んじられている気分がして、ひどくイラつく。腹を抱えて嗤う竜児は、睨んでみても意に介しない。
斧が手を離れて倒れる音も聞こえなかった。
「人ひとりも殺せないんじゃあ、駄目だね! 駄目駄目、勝ち目なんて全っ然、あるわけないんだから! その斧はなに、畑でも耕すのぉ?」
「うるさぁい! 私は殺すんだ……あなたを、仲間の仇を!」
「仇ぃ? っは! ただの親友を見限れない半端者が仇だってぇ? おもしろいねぇ、なんの冗談なわけ!?」
「冗談じゃ……違う!」
私は、あいつを殺す。でなきゃ、そうでなきゃ、誰も救われない。
感情はこれ以上ないほどに昂ぶっているのに、身体がついていかない。怒りを動力にしようとしても、震えるだけで決定的な行動ができない。
笑い物には、相応しいかもしれない。
「冗談なのよ! 止めたいんでしょう? 虐殺するあたしを、あたしたちを止めたいんでしょう? なら割り切れよ! 敵と味方の二元論で人を定義してしまえばいいんだよ! なんでそんな簡単なことができないの!?」
「黙れ……黙れぇ……、あなたは、私が……」
「酷いでしょう!? 惨いでしょう!? 許せないでしょう!? 本気でそう思ってるなら、本気の言葉であたしを殺せよ! 君には力があるでしょう!? 無力な人間にできないことが、君にはできるでしょう!? 怯えるなよ! 逡巡を捨てろよ! 意思と行動を統一しろ!」
仇が目の前にいる。みんなの仇だ。許せない。
殺す。殺さないと。殺さなきゃ。殺して。殺しつくして。ほら、もっともっと。
「憎しみを総動員しろ! 怒りで我を忘れろ! あたしのことだけを考えろ! 君の中の今ある感情をすべて、あたしに向けろ!」
殺す。殺さないと。殺さなきゃ。殺して。殺しつくして。ほら、もっともっと。
斧で身体を真っ二つにしてしまえばいい。頭を吹っ飛ばしてもいい。ほら、私ならできるじゃない。
「あ……いゃ……」
「……ッ!」
そうなった時の光景が頭に浮かんできて、手が拒絶する。竜児から血が流れる光景なんて、見たくない。
殺す。殺さないと。殺さなきゃ。殺して。殺しつくして。ほら、もっ――――私は、何を殺せばいい?
「感情をすべて向けろって言ったよね……? 言った通りにしてよ……あの人を殺した、あたしを……」
「ぃや……、こんなの……」
「あの人を……九能さんを、殺した、あたしを……殺せぇッ!!」
爆音が、記憶の最後。
記憶の先には何もない。過去以外には、何も……