Silent Lyric -6- 風邪に負けた魔力
窓から差し込む陽光――などはもちろんなく、今日も今日とて携帯のアラームが……
あれ? 携帯も鳴っていない?
時計を確認。まだ午前6時。休日の学生が起きるには少し健康的すぎる時間だ。なぜこんな時間に目が覚めてしまったのか。その答えは、俺の右腕にあった。
右腕の上に、九能の頭が乗っている。九能は俺の腕を枕代わりにしているということである。かなりの長時間していたようで、腕に感覚がない。この痺れのせいで、俺は覚醒を余儀なくされたらしい。なんとまあ迷惑なことで。
しかし、九能の寝顔がとても可愛いので、このままにしておく。眼福。
普段は綺麗と形容される九能だが、この時の無防備な表情は途轍もなく可愛かった。俺のTシャツは九能には大きいようで、少しずれただけで肩が露わになる。それが妙に艶めかしくて、朝の当然の生理現象としてアレが寝間着の下で屹立する。やっぱり昨晩やっておくべきだったかと後悔するが、どちらにしても九能がやる気ではなかったのだから、悔いる意味はない。
さて、俺はこの九能の姿をいつまでも見ていたかったのだが、時間というものは得てして残酷なもの。俺が目を覚まして5分後、九能も目を覚まし、同時に俺の腕が自由になる。
「ん……、奈都海、おはよ」
覇気の欠片もない声だが、朝はいつもこんなものだ。この無防備で何も考えていないような表情にはそそられるものがある。やはり今やってしまおうかとも思ったが、さすがに朝っぱらからやるのは俺の常識の部分が許容しなかった。
九能はそれきり無言のままベッドからのそのそと這い出て、けっこう前からこの部屋に常備してある自分の服を探し、選んで、着ていく。
と、Tシャツを脱ぐところで、九能が動きを止めた。どうした。
「……汗がひどいから、ちょっとシャワー浴びてくる」
確かに、昨晩は暑かったし。そういえば俺も汗をかいている。九能の後に浴びるとしよう。あとシーツも洗うか。晴れてるようだし。
シャワーを浴び終わった後、俺はリビングへ向かった。
今日は土曜日だ。鳳霊学園では、月の最初の土曜日と最後の土曜日には授業があるが、それ以外の土曜日は基本的に休日となっている。土曜日とはいっても、授業がある時は半日で終わることはない。ここで授業時間の調節でもしているのだろう。
そして、今日は休日となる土曜日。だから俺はこんな朝早くに起きる必要もないのだが……起きてしまったものはしょうがない。むしろだらだらと寝ているのもなんだか勿体ないし。
というわけで、普段は見ることのない土曜日の朝にやっている番組なぞを見てやろうかと思って、リビングに来たというわけである。
しかし――
はて、いつもはいるはずの姿が見えない。唯利亜だ。あいつはいつも5時6時に起きるから、休日であってもこの時間にリビングにいないのは少々おかしい。
リビングには俺一人。九能は部屋か。とりあえず唯利亜の様子を見に行ってみる。
唯利亜の部屋は、俺の部屋の向かいの隣。向かいの部屋は……まあ、今は使われていない、とだけ。今は誰も入ろうとしない。
2階への階段の途中で、声をかけられた。
「お、ナツ。やっぱ九能ちゃんがいると起きるの、早いのな」
亜美さんだ。この時間に起きているのは珍しい。
『亜美さんこそ。何か用事でも?』
亜美さんは自発的に早起きなどはしない。用事も仕事も何もない日などは昼まで寝ていることすらあるから、今日は起きねばならない用事か何かがあるのだろう。
「あぁ、今日、締め切りだから。朝一で来いってあっちの人に脅されてんの。あたしが締め切り破ったことないの知ってるくせに」
最近よく締め切りという言葉を亜美さんから聞くが、何か連載でもしているのだろうか。小説を書いているというのは知っているが、何を書いているのかは全く知らない。ペンネームも知らないから、調べようがない。本名で書いているわけでもなさそうだし。とはいえ、大人の世界に口出しできる身分でもないし、亜美さんの仕事で食わせてもらっているのは事実なので、文句は言わない。今のところは探ろうとも思わない。
俺が会話を終えて再び階段を上ろうとすると、また亜美さんに呼びとめられた。
「唯利亜、知らね? 朝飯作ってほしいのにリビングにいないんだけど」
無視。背後から不機嫌そうな声が聞こえてきたが、それも無視する。そんなに腹が減っているなら自分で作ればいい。作るスキルはあるくせに、何をわがままな。
◇◇◇ ◇◇◇
扉をノックしてみる。少し待ってみても返事はない。中で動きのある気配もないので、俺はいよいよ心配になって部屋に入ることにした。弟の部屋だし、別に遠慮する必要もないだろう。
まず目に入るのは、床に散乱したゲーム機とそのソフト。もう少し丁寧に扱ってやれと言いたいところだが、棚に整然と並べられているそれらは題名順にきっちり並んでいるので、言いづらい。これだけの几帳面さがあるなら、床のそれも同じように扱ってもいいようなものだが、本人曰くどうもそうはいかないらしい。勉強用具でも服でも、唯利亜は中途半端な几帳面さを発揮して、収納されていれば綺麗だが、一度でも出すと散乱させてしまう。目に見えないところを重視するのはいいことだが、その代償に見えるところが疎かになっては本末転倒な気がするが。
さて、そしてこの部屋の主たる唯利亜はどうしていたのか、といえば、ベッドの上でちょこんと座りこんで、パジャマの袖で寝ぼけ眼をこすっていた。
弟という言葉の意味をもう一度しっかりと調べてみたい。
「ん……、んー、兄さん? どしたの?」
長い栗色の髪がボッサボサになって口の中にまで侵食しているのは、まあいつものことだろうし放っておこう。それよりも、パジャマのボタンが上から3つも外れているのはどういうことだ。いや、男だから見えても何の問題もないんだが、唯利亜だと見てはいけないという強迫観念が俺を襲う。男なのに。それ以前に、弟なのに。見てはいけない、というより、見せてはいけないということか。うん、それなら道理も通……らない。こいつは男だ。見せなければならないというわけではないが、別に見せたからどうということも……
ていうか、見えた。
「……どしたの?」
唯利亜は首をかっくんと傾けて、再び問う。俺は我に返った。
『いや、その、起きるのが遅いなと思って』
「んー? そんなに……あー、もう6時半かー……、そっかー」
休日に起きる時間としては早すぎるくらいだが、唯利亜にとっては“もう”なのだろう。かといって、唯利亜は慌てる様子も見せず、ゆっくりとベッドから出て、
「っと、とと、わっ」
足をもつれさせ、俺のほうへ倒れ込んできた。反射的に受け止めるが、思っていた以上に軽かったので驚く。人はこんなに軽くても生きていけるものなのか。――という俺の懸念は、至近距離で唯利亜の顔色を見たことによって、忘れ去られた。
唯利亜の頬が、心なしか紅潮している。原因は一つしか思いつかない。
「ご、ごめん兄さん。すぐに――」
離れようとする唯利亜の頭を左右で挟んで固定する。目で確認し、次に手を額に当ててみた。
「あ、あの、兄さん?」
『唯利亜、体調が悪くないか?』
「あ、あー……んと、ちょっと喉がいがらっぽいかも」
案の定、額は少し熱を帯びていた。そして、唯利亜の返答も予想通り、体調が万全ではないことを裏付けるもの。しきりに「あー、あー」などと喉の調子を調べている。なるほど、疵術師でも風邪は引くのか。
しかし……どうするか。風邪薬とか効くのか。
九能に訊いてみるか……と、思っていると、その九能が俺の部屋から出てきた。
「……何してるの?」
そしてなぜか、その目がとても冷たいものへと変貌した。究極の軽蔑のお手本みたいに、絶対零度の底冷えする視線だった。
なぜ?と思わんでもなかったが、その疑問は今はとりあえず棚上げにして、唯利亜が風邪らしいことを伝える。すると、
「風邪? 珍しいわね」
『疵術師でも罹るものなのか?』
「珍しいとはいっても、必ずしも罹らないわけじゃないもの。魔力の量が多すぎて、逆に命になんら影響のない小さな害は見過ごしてしまうのね」
なるほど。何事も過ぎたるは何とやら、か。便利なんだか不便なんだか。
『薬なんかは効くのか?』
「さあ? どうせすぐ治るんだし、おとなしく寝てれば夕方には元気になるだろうけど。まあ、気休めに飲んでおくのもいいかもね。病は気から、って言うし」
九能は唯利亜に笑いかける。唯利亜は「うん」と笑顔で頷いて、ベッドへ戻っていった。足元がふらついていたが、さっきみたいに倒れることはなく、再びベッドの中に潜り込む。
これでいいと九能は言っていたが、一応、体調の把握はしておかねばならない。体温計と何か薬でも見つかれば持ってこようと思い、そのことを九能に告げて階段を下りる。
亜美さんとエンカウントしないかという心配はあったが、さすがにもう出かけた後のようで、姿は見かけなかった。朝食はコンビニかどこかで調達するだろう。
リビングへ行き、記憶を頼りに体温計を探す。使うのは非常に久しぶりだ。
◇◇◇ ◇◇◇
奈都海が部屋を離れてすぐ、九能の携帯に着信があった。しかしこれは、私用の携帯ではなく、彼女の所属するADEOIAで支給される業務用の携帯だ。
つまり、穏やかではない何かが起こったということである。九能は確信に近い嫌な予感を懐きつつ、しつこく鳴り続ける携帯に出ることにした。
「……西園寺九能よ」
『機械化魔導小隊です。DMFBの群れが出現しました。支部に残っていた魔装小隊が出撃準備を行っていますが、それらだけで殲滅できるとは思えません。指示を願います』
DMFBの群れ。この表現を聞くのは久しぶりな気がした。DMFBとは、九能ら疵術師が討つべき敵。そして、その群れと表現される場合、20体以上のDMFBが密集して出現している状況を表す。明らかに、尋常な状況ではない。
九能は、数秒で決断した。
「第一特殊遊隊を出すわ。召集をかけてちょうだい。魔装小隊は全員揃っているのね?」
『はい。特殊遊隊の隊員も現在、緊急召集をかけているところです。すぐにでも集まるでしょうが……、どうしますか、集まり次第出撃も可能ですが』
「いえ、一度集めて。魔装小隊なら多少待たせても十分持つわ。それ以外はすべてあなたたちの裁量に任せます」
『了解しました。では、そのように』
九能が携帯を切ると、その様子を唯利亜が心配そうな表情で見ていた。何かあったのか、と訊ねるまでもなく、唯利亜は知ることができるために、言いたいのは心配、あるいは謝罪の言葉だろう。
九能がどちらから先に処理しようかと考えているうちに、奈都海が体温計と風邪薬を持って戻って来た。思考を切り上げて、九能は奈都海に伝える。
「すぐに支部に戻るわ。奈都海も来て」
『何があったんだ?』
「DMFBの群れよ。私たちじゃなきゃ対処できないかも」
言うと同時、奈都海の表情が変わった。ここ数週間なかった出撃命令が、今ここで下されるかと思えば、さすがに平静のままではいられない。
しかし、戦いそのものが日常と化した九能は、ここに残った問題について気付くことができた。
「それで出ることになるけど、唯利亜はどうする?」
唯利亜は、風邪を引いている。九能としては寝ていてほしかったが、最終的には本人の意思を採用するつもりだった。その唯利亜は、僅かに考える素振りを見せてから答えた。
「みんなに迷惑かけることになったら厭だし……寝ておこうかな」
「そう。で、看病は? 誰か呼ぼうか」
「んと、それじゃ、愛燕を」
こういう時、愛燕は最も信頼ができる。特に唯利亜のことともなれば、この3人は愛燕に対して全幅の信頼を置いていると言っても過言ではない。親友という範疇に収まらない愛情を、愛燕は唯利亜に対して注いでいる。かといって、それが恋愛ではないことは本人が公言していることなので、唯利亜自身も信頼できる理由の一端がそこにあることを自覚している。女性を恐怖するようになった時も、愛燕だけは平気だったのだ。
愛燕に依頼するのは九能の仕事となった。その間に、奈都海は唯利亜の体温を測ろうと体温計を唯利亜の脇へ持って行こうとするが、その途中で唯利亜が引っ手繰って自分で脇に体温計を挟んだ。
4コールで、愛燕は出た。
『……はい』
「愛燕ね? ちょっと唯利亜のことで頼まれてほしいことがあるんだけど」
『はい、なんですか?』
明らかに電話に出た時とテンションの変わった愛燕に苦笑しながら、九能は続ける。
「唯利亜が風邪を引いちゃってね、その看病をお願いしたいんだけど……今、大丈夫?」
『今すぐは無理ですけど。30分くらいで行きます。お二人は?』
「ちょっと用事ができちゃってね、それで愛燕に」
『わかりました。では、ゆっくりと楽しんでいってください』
何を勘違いしているのか、愛燕は最後にそう言って電話を切った。
とりあえずは来てくれるということなので、九能は支部へ向かう準備を行う。奈都海の部屋に戻って得物の入ったバッグを右手で掴んで、さらに、まだ唯利亜に世話を焼こうとする奈都海の腕を左手で掴んで、窓から家を出ようとする。その間際に、
「愛燕は30分もすれば来るらしいから。きちんと治るまでは安静にね。愛燕の言うこともちゃんと聞くように」
「はーい……」
元気はないがしっかりとした返事を聞いてから、奈都海を両手で抱きかかえたまま、家々の屋根を足場にして、跳んで行った。
唯利亜は、それを見送る。
◇◇◇ ◇◇◇
ちょうど30分後に、愛燕は来た。
ブラウスにプリーツスカート。胸元にはリボンタイも。小柄な愛燕に似合う可愛い服装だ。頭には右側にリボンのついたカチューシャも付けている。
愛燕が来る前に体温は測っておいたけど、それがなんと約38度8分。ほとんど39度で、かなり本格的な風邪をいつのまにかどこかからもらってきていたらしい。本当に迂闊。
というわけで、ボクは愛燕に言われるまでもなく、こうして寝ていたのだけど、朝食がまだだということを言うと、すぐに愛燕はお粥を作ってくれた。感謝、感謝です。
「はい、唯利亜。食べれる? 熱いから気をつけてね」
「うん。ありがとー」
食べれる?なんて訊いてきても、愛燕はレンゲをボクに渡す様子はなくて、お粥をすくってそれに息を吹きかけ始めた。数回繰り返して、それをボクに差しだしてくる。
「いただきまーす……」
やっぱりまだ熱くて、お粥を口の中で持て余す。はふはふと口の中でも冷まして、ようやく味を感じる余裕が出てきた。
さすが愛燕、と言うべきかも。ボクの味覚に合うように作ってあって、すごくおいしい。二口目も愛燕が、今度は一口よりも念入りに冷ましてから、食べさせてくれた。
「おいしい?」
「うん、すごく。どうやって作ったの? ボクの好みにぴったり」
「内緒。愛燕さんの企業秘密です」
ボクしか顧客がいないけどその企業は採算が取れてるの?
食べ終わると、愛燕は食器の乗ったお盆を机の上に置いて、ベッドの横にイスを置いて座った。ボクの額には熱冷ましのシートが貼られている。これは愛燕が貼ってくれたもので、それがめくれかけていたのか、愛燕はボクの額に手を伸ばした。反射的に片目を瞑ってしまう。
「へ……へっくちっ」
くしゃみが出た。熱のせいで出ていた汗が冷えたのかも。少し寒気がする。
そして愛燕は、そんなボクを見てなんだか浸っていた。ベッドに頬杖をついて、ボクの顔を眺めている。次のセリフが容易に予想できた。
「かわいいね」
「あぁ、うん……不本意だけどありがと」
くしゃみを可愛いなんて言われても、あんまり嬉しくない。これこそ、可愛いなんて言われ慣れている人間の我がままかもしれないけど、仮にそうだとしても嬉しくないのは事実なので、少し不貞腐れてみる。
「眉を顰めてるのもかわいい……!」
あーもう、なんなのこれ。ボクなら何しても可愛いのか。まあ、勝手にファンクラブなんてものを作るくらいだから、そこのところは推して知るべし、なのかも。何を言っても、何をしても、可愛いとしか言われない気がする。愛燕のほうが可愛いんだけどね。
「かわいいのは正義なんだよ」
「ん、うーん……、まあ、否定はしないけど」
「だからね? 唯利亜は世の正義を統合した秘宝なの」
「愛燕のほうが正義に近いと思うよ」
言うと、愛燕は顔を赤くした。恥ずかしいことは平然と言うくせに、言われるのには耐性がない。なんて可愛いんだろう。仕返しは大成功だ。
――って、いけない。兄さんたちみたくなってる。こんなバカップルみたいな会話、誰かに見られてなくても、したっていう事実だけで恥ずかしい。うゎー、顔が熱い。
何か……何か話すことは……そうだ。
「え、愛燕さ」
「うん?」
「好きな人とか、いる?」
何言ってんの、ボク。バカなの?
「唯利亜」
即答しないで。嬉しいけど。
「い、いや、ほら、ボクはそういうんじゃないでしょ? えーっと、男として好きな人って意味なんだけど」
ボクが慌てて言うと、愛燕は、すっ、と表情を消した。まずい、地雷を踏んだか?なんて、思ったけど、その答えはひどく平和なものだった。
「むろん、ナツ先輩だよ」
愛燕はなぜだか知らない内に兄さんのことを好きになっていた。小学生の頃からの付き合いのはずなのに、好きになったのは、多分2年ぐらい前から。何がきっかけなんだろう。結局、九能さんに取られちゃったけど。どうにも愛燕は失恋したって認識はなくて、未だに兄さんのことを諦めていない。
ところで、「むろん」てなに。愛燕が使ったの、はじめて聞いた。それだけ強調したかったってことなんだろうけど。
「でもさ、九能さんってけっこう強敵だよ?」
「大丈夫。ナツ先輩をロリコンにしちゃえば、100%あたしが勝てる」
できればね。無理だろうけどね。なにせ、兄さんは守りたい、じゃなくて守られたい、っていう乙女思想の持ち主だし。ヘタレとも言うけども。ただのペドフィリアに走り始めたら、それこそ九能さんが死に物狂いで更生させようとするだろうし。その自信はいったいどこから。
ていうか、自分がちっちゃいことは別に悲観してないのね。
「唯利亜はいないの?」
「ボク? 何が?」
「好きな人。いないの?」
と、言われても。実は初恋がまだだったりするし。男の子か女の子か、どちらを好きになるのか、自分でもまだわかってない。
「まだ、いないかなぁ……」
「会長さんは? 仲、いいみたいだけど」
ジャンヌさんか……。確かに素敵な人だし、どちらかと言えば好きだけど。
「でも、そういうんじゃないと思う。尊敬はしてるけど、恋愛感情はないから」
「キスしたくせに?」
「う……、あ、あれはジャンヌさんが無理やり……!」
嫌な思い出。衆人環視の前でキスさせられるなんて、あんな恥ずかしいのは後にも先にもあれ一回きりだ。
それにしても、と思う。ボクはなんで男のくせにこんな格好と外見になってしまったんだろう。
病気だなんて思ったことはない。性同一性障害? 確かにその可能性もあるかもしれないけど、だからなんだってこともない。今どき、自分で性別を選ぶなんてわけないことだし。手術して、市役所行って、それだけでボクは世間的にも女の子になれる。
ボクがこうなり始めたのは、歳が2ケタになったころ、つまり小学4年生のころだ。
誰かに言われることもなく、まるで最初からそうなるように決められていたみたいに、自然と、ボクは女の子というものに、他の男の子とは全く違うベクトルで興味を持ち始めた。
ボク自身、その思考に何の疑問もなかったから、正確にいつこうなったのかはわからない。気付いたら、ボクの精神は完全に女の子のそれに入れ替わっていた。
周囲からすれば、それこそ別人みたいに変わっていったと思う。なにせ、たった1年での変化だ。写真を見れば、1年で趣味が劇的に変化したことはわかった。アルバムを見ていたボクでさえ驚いたのだから、当時をリアルタイムで見ていたクラスメイトなんかの驚きは計り知れない。
さて、そんなボクが何をされたか、なんてのは言わなくてもわかると思う。当時は特に、男女の差を意識してくるころだったし、影響は大きい。
とどのつまり、いじめ。ありきたりだけど、だからこそ、ボクはその災害みたいな現象に晒された。
男子からの排除はあからさまで、女子の戸惑いは隠しているつもりでもわかりやすくて。居心地が悪いったらなかった。兄さんや宇類さんたちのいる上級クラスのほうがいやすかったくらいだ。小学校を卒業するまでに、いったいいくつの物をなくしただろうか。
まあ、そのいじめも鳳霊の中等部に入ってなくなった。女子制服を着た男子生徒で、しかも更衣室は女子のほうを使う。トイレも然り。もちろん、はじめての時はボクが男であるということは断わっておいた。抵抗のある子は当然いたようだけど、それもいつの間にかいなくなっていた。まあ、拒絶されたとして、ボクが男子更衣室で着替えをしようものなら……。どうなっていただろう。ボクのほうも少し抵抗があるし、あり得ないことなんだけど。
ボクが女子制服を着ている理由。それはもちろん、ボクが着たいというのが一番の理由だけど、それだけでは許してくれない人はいる。
それは、普通なら母さんであったり、学校の先生であったりする。でも、ボクの場合は兄さん一人だった。制服を買いに行く時、母さんに女子のほうが欲しいと言えば、お店の人にそちらを出すように行った。ボクのなりがなりだから、店員の人も何の疑問もなく出してくれた。学校の先生だって、何も言ってこなかった。もしかしたら知らない先生もいるのかもしれない。でも知っていたとしても、理事長先生直々に許されているから、何の問題もない。そして、愛燕は完全にボクの味方。姉さんはそもそも興味がなさそうだった。
こんな状況で、ボクの選択に異を唱えたのは、兄さんただ一人だった。その兄さんを説得したのはボク。結局説得しきれなくて無理やり押しとおしたのも、ボク。今はもう、兄さんも諦め気味だ。
ただ、こうして性別を装っていけるのも、色々な義務や責任から免除してもらっている高校生という立場にいる間だけ。社会に出れば、こうはいかない。
さっきも言ったように、今の時代、性転換なんて言うほど珍しいものでもなくなった。お金があればできるし、この家には多分、それだけのお金はある。母さんのことだ、言えば出してくれるはず。
かといって、ボクが本当に女性になりたいのかと言われれば、そんなことはない。あくまでボクは、自然とこうなったのであって、女になりたいからこういうことを続けているわけじゃ決してない。ボクのこの一人称だって以前から変えていないし、ゲームや読む本の趣味だって変わってない。
正直なところ、ボクにとって、人間を構成する要素のうち、性別という要素が占める割合はかなり小さい……のだと思う。こういう自己分析には自信がないけれど、あながち間違ってもいないんじゃないかなぁ、なんて。
なら、性別を偽れなくなったら男に戻るのかと言われると、それも何だか違う気がする。今のボクの場合、男というものは戻るものじゃなくて、なるものだから。まあ……あまり気にする必要もないんだけどね。普通の企業に就職するつもりもないし。今から既に内定をもらっている状態だし。
結局、ボクがこうなっているのはボク自身の意志であって、誰かに言われたからではない。同じ理由で、誰かに言われたからやめる、なんて気もない。メリットもなければデメリットもないんだから、他人にとやかく言われたくはない。もちろん、兄さんにだって。
かといって、わざわざ口や態度に出して全肯定されても鬱陶しい。ボクの望むのは放置だ。否定するならボクに近寄らなければいいし、肯定するなら普通に接してくれればいい。その点では、愛燕はボクのことをよくわかってくれている。ボクが可愛いということは口癖みたいに言うけれど、ボクの性別に関しては一言も言わない。愛燕みたいな対応が、ボクにとっては理想。
だから、愛燕は信頼できる。
「唯利亜。ナツ先輩たちは……もしかして……?」
いつのまにか携帯ゲームを凝視していた愛燕が、それを中断してボクに訊ねた。その問いは途中で途切れていたけど、その先は簡単に予想できた。
「うん。二人なら大丈夫だよ。……なんて言っても、やっぱり心配だよね」
愛燕は頷く。
愛燕は、ボクや兄さん、九能さんが何なのかを知っている。普通の人間ではなく、異能の力を振るうことを知っている。逆に、兄さんや九能さんは、愛燕が知っていることを知らない。
ある事件――GWに起こった戦いで、愛燕が巻き込まれてボクが助けたんだ。愛燕は、珍しいことに魔力に多少の耐性があったようで、魔術の戦闘の中にいても記憶を侵食されることがなかった。だから、さらに濃度の高い魔力の中で記憶を消す必要があったわけだけど……愛燕は、それを拒否した。ボクたちが何をしているのかを忘れたくない。ボクたちが何なのかを憶えておきたい。そう言って。
これは、魔術界では禁忌とされている。魔術っていうものは、それこそ既存の兵器を簡単に覆せる威力を秘めているし、たとえ戦術核だとしても無力化できる。公になって軍利用でもされようものなら、世界の戦力バランスは魔術師が握ることになると言っても、多分過言じゃない。それほどに、ボクたち魔術師という存在が世界に与え得る影響は大きい。
だから、口封じは必須だ。殺す必要はない。魔力は一定以上の濃度になれば、普通の人の脳に影響して記憶を曖昧にしたり消したりしてしまう、という現象を起こす。それを使えば平和的に解決できるのだから、本来は愛燕の懇願だって無視して記憶を消してしまえば、知ったこと自体を忘れて何事もなく終わっていたのに。
だというのに、ボクは愛燕の記憶を消さなかった。だから、愛燕は知っている。
「あの時みたいのがいるの?」
「あれは特別だよ。大半はもっと弱いから、九能さんや兄さんで倒せると思うよ。他の人だって、未来小さんだって強いしさ」
「そっか……」
心配するのも無理はない。愛燕がはじめて見たボクたちの敵、DMFBが、その中でも最強と言われるランクに分類されるやつだったから。
「うん、わかった。心配するのやめる」
「その方がいいと思う。兄さんたちにばれたくないでしょ?」
「その代わり、唯利亜の看病に専念する」
「あ、うん……ありがと」
ワンフレーズ無視された気がするけど、気のせいということで。
愛燕の甲斐甲斐しい看病のおかげで、ボクは気持ちよく眠って療養することができた。さすが愛燕。