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Silent Lyric  作者: 赤井呂色
間章 学園
33/34

間章#1 告白

 疵術師がかつて、もしくは未だに、魔術師の間で蔑まれているのは、疵術師という存在の由来と(魔術団の中で一般に言われている)発見の歴史にある。

 疵術師の歴史は、ヨーロッパ人によるアメリカ大陸、アフリカ大陸への進出から始まる。大航海時代におけるヨーロッパ人のアメリカ大陸の到達、アジア、アフリカへの侵攻によって得られたのは領土や富、現地人という名の奴隷だけではない。その中でも、アメリカ大陸の原住民の中には自分たちと同じく魔力を用いた異能を行使しながらも、その行使に不可欠なはずの詠唱を必要としない自分たちとは似て非なる存在があることを、アメリカ大陸に到ったヨーロッパの魔術師たちは知った。

 魔術師が魔術を実用的な兵器として運用するのが困難だった理由は、喉応術性神経の中枢たる声帯を刺激する目的で詠唱文(と魔術名)を唱える、というワンクッションが効果を発揮させる前に必要だったからだ。キリスト教会との戦争の中、魔術を武器として使うことを目的にする魔術師は、魔術の威力や規模より何よりも、まず発動すること、つまり詠唱文をどれだけ短くできるかに心血を注いできた。そういった研究の成果として、ごくごく単純な構成の魔術ならば魔術名のみの詠唱だけで発動できるノウハウを獲得した魔術師もあったが、少なくとも全くの声帯刺激なしで魔術を発動する技術は当時の段階では存在しなかった。故に、詠唱なしで魔術(もしくは当時の認識では魔術によく似た別の異能)を行使する存在は異様ですらあった。

 しかし、一見優れているようにも思えるそのアメリカの魔術師たちは、間もなくしてヨーロッパの魔術師たちに劣った存在として見られるようになる。大陸の原住民の魔術師たちの行使する異能は、研究の結果、自分たちの使うものと同じで、かつ規模も威力も矮小、構成も単純で、しかもそれら小規模なものしか使えないということがわかったからだ。一時は畏怖の対象ですらあった彼らは、他の原住民と同じ扱いを受けるようになり、やがては他の奴隷とともにヨーロッパ本土に連行され魔術団にも奴隷や研究材料として献上された。これが、魔術団で初めて確認された――Affected Deference Magician けっかんの下にある魔術師――疵術師だった。

 つまり疵術師という呼称は、魔術師に使われていた奴隷を指す言葉だったのである。これは、現代の魔術師や疵術師も魔術の歴史として教本などで学ぶものであり、ほとんどの魔術関係者は知っている。故に、魔術師と疵術師の間で、たとえ無意識下であっても優越感や劣等感を抱えてしまうことも少ないのだ。

 だが、疵術師の復権にはさほど多くの時間を要さなかった。

 魔術師と疵術師が同じ土地で暮らすようになってしばらくして、魔術師と疵術師の混血児が誕生する。魔術師も疵術師も、魔術を行使しうるという点以外では身体的に他の人間となんら変わるところはないのだから、その間に子どもができることには不自然はない。

 しかし、その生まれた子どもが問題となった。その子どもたちは、当初は疵術師と同様に奴隷として扱われるはずだった。だが、その子どもたちが成長し、魔術的特性が明らかになってくると、その評価は一変した。

 その子どもたちは、疵術師と同じように詠唱を必要としないうえ、魔術師と同等の規模の魔術を使えるということがわかったのだ。つまり、魔術師と疵術師の利点を兼ね備えた、今までにない強力な存在であることが判明した。後に、行使できる魔術の種類に大きな制限があることもわかったが、その新たな疵術師に対する評価が変わることはなかった。

 これらの疵術師は、すぐに兵士として採用されることになる。度重なる宗教戦争に紛れて引き起こされた魔術団の分裂紛争では、彼らの多くが参戦・活躍し、その地位を大きく飛躍させた。さらに、疵術師は使える魔術に制限がある反面、使える魔術に特化しているためか威力が魔術師のそれと比べて高くなることも明らかとなり、疵術師が魔術師に劣る存在だという認識は、徐々に改められていった。

 しかし、魔術師全体から言えば疵術師の割合は依然として少なく、魔術団の上層部を魔術師が占める状況が変わるはずもなく、また、彼らが疵術師の台頭を怖れ危惧するのも必然だった。

 疵術師の割合が魔術師全体の3%を超えると、魔術団は再び疵術師を迫害し始めた。まず、魔術団内の治安機能である禁断子の認定基準に、“団内の一機構を停止しうる魔術を有する”という条件を付け加えた。実質、禁断子を管理するFASCAもしくは上層部の独断で禁断子に認定できるということであり、疵術師の多くが行動を制限されることとなった。

 魔術団によって半ば公然と行われた疵術師の迫害は、第二次世界大戦の直前まで続いた。しかし、大戦が始まると、各国の魔術師は母国の兵力として戦うようになり、魔術団という機構が形骸化、魔術師と疵術師は等しくそれぞれの国の戦力として扱われた。もちろん、両者の溝が完全に解消されたわけではなく、当時の国には疵術師を兵器としかみなしていなかったものもあったが、多くの疵術師が魔術師と同様に戦場に立ったという事実は、大戦後の疵術師の地位向上に大いに貢献したと言って間違いない。

 そうして新たなテンプル魔術団で発足したのが、ADEOIAの前身であるADUIAである。大戦後に俄かに増加し始めたDMFBの討伐と研究を担い、無二の存在意義を手に入れた疵術師らは、一部の魔術師至上主義者以外からは一定の評価を得るようになった。

 だが、未だに疵術師を侮る魔術師がいるように、DMFBの討伐研究を押し付けられた雑務だと考える疵術師もいる。疵術師はADEOIAという一機関にまとめられ他の機関への異動が認められていないため、それを不当だとする疵術師らもいる。ある程度の地位を認められるようになった現代でも、現状に納得していない疵術師はまだ複数存在する。

 しかし、彼らが反旗を立てて声高にその不満を主張することはない。その勢力がADEOIAの中でもあまりに小さいことと、わずか数年前に一つの反乱分子が徹底的に叩き潰されているために、魔術団に反旗を翻すなどという自殺行為に及ぶ者はいない。不満はあっても、それを押し殺すことで得られる平穏を選ぶ者が大半だった。



◇◇ ◇◇



「――閣下。今、どちらに?」


 ADEOIA総本部の総司令室にて。携帯電話を耳と肩で挟みながら両手でキーボードを叩いているのは、総本部の指揮を一時的に任されているイリナ・アルガイエルである。マリアンヌが総帥に就任した当初からその秘書を務め、不在を任されるほどの信頼を得ている。


『ああ、枢密院の会議に出席していてな、さっき終わったところだ。場所は知らん。これからまた窮屈な箱に押し込められて、どこぞに運ばれる』


 ADEOIAとなってから3代目の元帥マリアンヌ・ジェーランクルト。中世より優秀な魔術師を輩出し続けるフランスの名門ジェーランクルト家より生まれた疵術師。ADUIAも含めて初の女性元帥であり、なおかつ36という若さで元帥に抜擢された疵術師随一の女傑である。


「会議……臨時会議でしょうか? 言ってくだされば私も随行いたしましたのに」


『枢密院の会議は、秘書にも知らせてはならんという決まりくらい知っておろう。ともあれ、長い間代行を任せたな。一両日中には戻れるゆえ、報告事項があればまとめておいてくれるか』


「心得ております。会議、お疲れ様でした。お帰りお待ちしております」


 現在、実質的に魔術団を統率している枢密院は、マリアンヌのような団内機関の最高責任者と各地域の統括局局長、合計13人によって構成され、そのうち一人の議長を除いて12人が枢密官となる。その会議は、機密・安全性の観点から、開催時期、期間はたとえ出席する枢密院であっても直前まで知らされることはない。議場に至っては、周囲を知覚できない状況のまま運ばれるため、出席者すら知ることはできない。それをマリアンヌは、『窮屈な箱に押し込められて』と表現したのだ。

 優秀な部下の返答を聞いて、マリアンヌは満足そうに唸った。


『うむ。で、例の首尾は?』


 マリアンヌがそう訊ねると、イリナはキーボードを叩いていた手を止め、携帯電話を右手に持ち替えた。


「概ね予定通りです。ただ、一点だけイレギュラーが」


『む、なんだ』


「本部防衛軍の動きに多少、気になる点がありまして。魔導機動師団が、本部を離れたという報告が入っています。いかがいたしましょう」


 本部防衛軍。正式名称は“テンプル魔術団総本部防衛指揮軍”。その名の通り、魔術団の本部を防衛するための戦力だが、ここ数年は魔術団に脅威となる勢力の出現がなく、防衛軍が出動することもなかった。


『ふむ。……師団を動かすとなれば、一応警戒はしておくべきか。詳細はそちらに戻り次第、他の事項とともに確認する。それまで情報の収集は続行、とりあえず防衛軍については意識しておく程度でかまわん』


「御意に」


 マリアンヌが魔術団の他の機関に目を向けるのは、疵術師の現状の立場に理由がある。疵術師が魔術師と同列であるとはまだ言えない、そういう現実に原因がある。

 ADEOIAは、所属している人員こそ多いものの、そのすべてが疵術師であるというだけで、魔術団の中ではまだ微妙な立ち位置にある。少なくとも魔術団の中でのADEOIAという機関の地位だけでも保たなければ、という思いがADEOIA上層部にはあるのだ。


『もうそろそろ……あと一月もすれば時が来る。今回の枢密院会議が無駄なものとならぬよう、したいものだがはてさて。収穫は確かにあったが、これを生かすかあえて殺すか、それも私次第というわけだ』


「この4週間をどう動くかですべての成否が決まります。せめて慎重さを欠きませぬよう」


 この二人の会話を他の誰かに聞かれるわけにはいかない。それがたとえADEOIAの者であったとしても、そこに他機関の息がかかっていないとも言い切れない。この暗躍は、魔術団の他の何者にも知られてはならない。


『言われるまでもない。さて、まずは――




――新たな女王の確保から始めよう。ADEOIA運用の燃料はまだ必要である故』




◇◇◇ ◇◇◇




 9月30日。日曜日。

 9月最後の日は、せっかくの日曜日だというのにあいにくの雨。というか大雨。雨粒も大きいから地面ではじけた滴が足にまで跳ねてきて靴もジーパンも濡らしてくれる。傘を差していても膝下まで濡れているという有様だ。風がほとんどないのがせめてもの救いか。

 こんな日は、家に引きこもって気力の欠片も感じられない怠惰な時間を送りたいものだが、世の中そう上手くいくものでもない。会って話がしたいと言われ、今日のこの時間に約束を取り付けてしまったのだ。もっと天気予報を注意深く見ておけばよかったと、心の底から悔いるばかりである。

 とまあ、こんな愚痴とも文句ともつかないことを延々と考え続けている俺が今いるのは、ある喫茶店の店内、その窓際の二人掛けの席になる。適度なクーラーの効いた店内だと、濡れるし蒸し暑いしで散々だった外の大雨の光景も乙なものに見えてくる。雨のせいか時間帯のせいか客も少ないから、大変居心地がよろしい。次の休みもここで過ごすことを検討したい。

 会長の巻き込まれたファントムとの戦いから経過した時間は、2週間足らず。まだ安心するには早いと九能は言っていたが、この2週間弱は比較的平和に過ごしている。DMFBのほうは相変わらずだが、それも俺にお鉢が回ってくるような危機的状況(俺の力でないと打開できない状況という意味ではなく俺でさえも使わざるを得ない状況という意味で)になることもなく、俺は久しぶりの普通の学生生活というものを有難いことに満喫させてもらっている。

 一方、渦中の人物だった会長は変わった。変わったと言っても、髪型を変えたとか以前よりも表情に明るさが増したとか、パッと見でわかるのはそんな変化だ。しかし、唯利亜曰く「前よりも魅力的になった」とか。まあ……こればっかりはさすがの俺にもすぐにわかった。さりげない仕草とか表情の機微とか、話していると俺でもわかる変化が多数。女性として、というより人としての魅力に磨きがかかった(我ながら何様だろう)というか。これがカリスマ性というやつだろうか。

 あとは――遊撃小隊の中の話だが、未来小と久宮さんの関係がややぎくしゃくしているという問題が。よくともに任務に出ていた二人が、最近は別行動が多くなっているらしい。支部の中でも主力と言われている二人だけあって、九能も早く解消してほしいとぼやいていた。ちなみに、これは本人らの問題なので介入するつもりは一切ないとのこと。

 ここ2週間弱の話といえばこんなところ。小さいところだと、唯利亜が姉の人格のことで検査を受けるために支部に通うようになったとか、その程度。唯利亜本人は面倒くさいと愚痴っていたが、俺としてはありがたいことである。主に姉と離れる時間が増えたという意味で。

 そして、ある人物から相談を持ち掛けられたのが、そんな小規模の変化に戸惑いつつの日々の中、具体的には、一昨日、金曜日の放課後、支部へ向かう唯利亜と九能と別れた後、愛燕と帰り道を歩いている時のことだった。彼女が相談してくることは今までにも何度かあったが、頻度としては珍しいと言っていいくらいだったので、俺は少し驚いていた。ただ、相談内容については心当たりがないではないが。

 手持無沙汰になった俺は、ふと店内の時計に目をやる。時間はだいたい10時25分、待ち合わせはこの25分前だったはずだが、どうしたものか。彼女が俺に相談するのなら相当のことだろうとは思っていたから、土壇場で躊躇ってしまうことも想定はしていた。とはいえ、こうも遅いと少し心配になる。メールでもしようかと携帯電話を取り出した、ちょうどその時。

 店の来客を知らせるベルが鳴った。客が少ないから、あのベルの音は目立つ。

 雨がアスファルトを叩く音とともに入ってきたのは、俺の待ち人。昔からの後輩で宇類の恋人でもある、鈴平鳴姫すずひらなるひめだった。


◇◇ ◇◇


「遅れてすみません。覚悟を決めるのに少し時間を取りました」


 鳴姫の第一声はそれだった。奈都海にとってそれは当然に受け入れられるものだったが、もし彼女のクラスメイトがこの光景を見ていたなら、我が目を疑ったに違いない。なぜなら、鳴姫は奈都海に対して頭を下げていたからだ。対して、奈都海は鳴姫のこの行為がどれだけ貴重かを正しく認識できてはいない。

 それほどに、鳴姫の奈都海とそれ以外への態度には大きな差異があった。素直に謝るという行為すら、鳴姫はほとんど奈都海にしかしない。


「待ちましたか?……と、訊くまでもないですよね」


『30分待った』


「先輩は正直なので好きです。お詫びはいずれさせてください」


 鳴姫はそう言いながら奈都海の向かいの席に腰を下ろす。そのあと、鳴姫は注文を取りに来た店員に断わって手近にあった椅子を近くまで寄せてもらい、持っていたバッグをそこに乗せた。鳴姫の勝手知ったるといった態度に、奈都海は問うような視線を意識してつくって向ける。


「ご注文をお聞きします」


「いつものでいい。あと、先輩にお茶を。任せるから」


 言いながら目が合い、鳴姫は奈都海の視線に気づいた。奈都海とよく接する者はこういった視線だけで訴えかけようとするものに敏感になることを、奈都海自身も知っていた。普段の奈都海は声以外の方法で相手に意思を伝えることを強いられる。その方法に、筆談と読唇術の他に目を使うこともあった。もちろん、親しい仲でしか通じない方法であるがゆえに、稀に使う相手を間違えてあらぬ誤解を招くこともあるのだが。


「ここ、うちの幹部がオーナーをやっているので、よく来るんですよ。客が少ない時は多少好き勝手できるので、重宝してます」


『なるほど。俺も常連にさせてもらっても?』


「大歓迎です。私のほうから言っておきますので、好きな時にいらしてください」


 かすかに笑みすら浮かべて話す鳴姫。重ねて言うが、鳴姫がこのような態度で接するのは奈都海や真実ぐらいで、他人に対しては不愛想を通り越して嫌悪感すら露わにするほどだ。実際、普段の鳴姫しか知らない店員などは、奈都海と談笑する鳴姫の姿をUMAでも見るかのような目で見ているのだから、その態度の差が少しは推測できようというものである。


「……お待たせしました」


 コーヒーと紅茶を運んできた店員の声も、奈都海には心なしか震えているようにも聞こえた。


「どうぞ、遅れてきたお詫びです」


『悪いな』


「これで清算できたとは思ってないので、本当のお詫びはまた今度で。ああ、ここ、味は保障します。豆と茶葉は普通に輸入しているので少し値は張りますが」


 普通ではない輸入とはいったい何なのか、などという無粋なツッコミは奈都海も既にしなくなって久しい。鳴姫との会話の中で、犯罪を連想させるセリフが出てくるのはさほど珍しくもない。

 鳴姫の父親、鈴平慶司すずひらけいじは、中四国・九州の一部に勢力を置くいわゆる暴力団“鈴平会りんぺいかい”の実質的トップたる会長を務める実力者である。西日本の暴力団員の3割を擁し、幹部らは政界・財界との癒着もあると言われる、財力・権力ともに西日本では現状最大とも呼べる規模を持つ暴力団、鈴平会のトップ。その娘が鳴姫である。倫理観が周囲に毒されてしまっていても不思議はない。と、奈都海は自分を納得させている。


「そういえば、先週、県北部であった発砲事件。知ってますか?」


『……ニュースで見たような気はする』


「うちの傘下の組がやらかしたらしいんですけど。父はあれのこと、放置するみたいですよ。手綱切ってまで暴れだすような奴は捨て置くとか言ってましたし」


 奈都海は首を傾げる。それを自分に言ってどうしようというのだろう、と考えていた。


「まあ、当然です。最近はうちみたいなのに対する風当り強いですし、出る杭は打たれるのが当たり前。水面下で地味にやってればいいんですよ」


 鈴平会も対策法の下では指定暴力団のうちに入るのだが、傘下にある組を統率し、その多くを重犯罪行為から遠ざけているという功績から、存在を黙認されているという現実がある。もっと端的に言ってしまえば、取締当局と鈴平会との癒着だ。その代わり鈴平会の指揮から外れれば、その庇護を拒むも同じとして暴走した組が当局に検挙されようと鈴平会は手も口も出さない。そういった密約がある。

 そのことは奈都海も知っており、鳴姫の話も理解できた。しかし、奈都海は『それがどうした?』と口だけを動かしながら、首を傾げる。


「……世間話です」


『そんな世間話はさすがに物騒すぎる』


「察してください……まだ覚悟が決まらないんです」


『覚悟?』


 奈都海が鳴姫から聞いたのは、ただ相談したいことがあるという言葉だけ。その内容が恋人である宇類とのことだろうという予測は奈都海にもできたが、それ以上のことはさすがにわからなかった。

 覚悟が必要なほど重い相談があるのだろうか、と内心怯んでいた奈都海は、あるとしたらどんな相談が、と考えてみる。

 宇類と別れたい――絶対にないとは言い切れない。宇類が鳴姫を差し置いて女遊びにふけっていた時期があったことは奈都海も知っている。今でも度々同じことをしているし、ついに愛想を尽かしたとしてもおかしくはなかった。

 思い返してみれば、宇類が鳴姫について悩んでいる素振りを見せていたこともあった、と奈都海は思い出す。

 まさか、と思い始める。おいおい、と危惧し始める。自分の中でその予想が現実味を帯びていることに、戸惑う。そんな相談だったらどうしよう、ではなく、昔から知っているこの二人が別れることになったらどうなってしまうのだ、という危惧だった。

 お互いに目の前のカップには口もつけず、二人の間には沈黙が下りて久しい。

 鳴姫は、この期に及んでもまだ相談すべきか否かという葛藤を続けていた。まだ誰にも言っていない。このことを相談しようと思い立って最初に浮かんだ候補が、数少ない尊敬できる先輩である奈都海だった。信頼して話せるのが奈都海ぐらいだった。その一方、だからこそ、こんなことを相談して迷惑じゃないだろうか、という遠慮がある。それを上回る恐怖もある。話して、怒らないだろうか。なんと言われるだろうか。自分の中ではこの悩みに対する回答が一つあって、だからこそ相談に踏み切れたのだが、それを全否定されるかもしれない。ネガティブな思考は滝のように止め処なく押し寄せ、彼女の覚悟を削り取っていく。

 二人ともに自身の思考に埋没する中、その思考の連鎖から始めに抜け出せたのは奈都海だった。


『そういえば相談を持ち掛けてきたとき』


 そう書いて切り出した。鳴姫は怪訝そうな顔をしながらも、黙ってその続きを待つ。


『愛燕がお前のことを親の仇を見るみたいな顔で見てたけど、何かあったのか』


「……えっと、なぜです?」


 奈都海は話を逸らすことで鳴姫の緊張をほぐせればと考えていたが、鳴姫の表情が険しくなるのを見て、失敗したかと勘違いをした。しかし、ここで中断しても不自然なだけであり、奈都海は居心地の悪さを感じながらも続けた。


『いや、俺の弟たちと同じクラスだし、何か話でもしてないのかと思って。それで金曜日、愛燕がお前のことを睨んでたから疑問に思ったわけだ』


「……弟さんに訊けばいいじゃないですか」


『お前視点からの話が聞きたい』


 そう言うと、鳴姫の顔が渋いものに変わる。奈都海は、そういうことかと察すると同時に、安堵した。


『別に悪口になってもかまわんが』


「そういうわけでは……、ない、と思うんですが……。――どう扱ったらいいかわからないんです。ああいう、素直な子どもは」


『それだけか?』


「はい」


 奈都海は笑いをこらえた。笑えば鳴姫の機嫌を損ねることは明白だったからだ。なんとかして神妙な顔を作って笑みを押し殺した。


『それで愛燕にきつく当たったってわけか。愛燕はそのことで目の敵にしてると』


「別に嫌っているわけじゃありませんからね。敵意に敵意で反応してくれる人は嫌いじゃありませんし」


 実に鳴姫らしい言い訳だな、と奈都海は思っていた。鳴姫は見た目や性格から怖気づかせることが多く、対等な立場で喧嘩できる相手はほとんどいない。故に、素直に敵意をぶつけてくる愛燕のような存在は貴重に思っているのだろう。


『唯利亜や愛燕も俺にとっては大切な後輩だ。仲良くしてやってくれ』


「……善処はします」


 全くする気のないその返答に、二人はお互いにしかわからない小さな笑みで笑い合った。

 笑い合い、二人同時にコーヒーと紅茶を飲み、カップをソーサーに置くと――再び沈黙が下りた。しかし、今度は重苦しいものは一切ない、居心地のいい沈黙だった。

 この短い沈黙を破ったのも、また奈都海だった。


『今日はどうせ一日ヒマだし』


 テーブルに置いたメモ帳にペンを走らせ、こう始めた。


『時間をかけて話すかどうか決めるといい。自分が納得できるまで考えてくれてかまわない』


「……ッ」


 鳴姫は気を遣わせていることに引け目を感じていた。しかし、気を遣わせるぐらいならさっさと話してしまおう、と割り切れるほど鳴姫は単純に物事を考えられない。

 だが、多少気が楽になったのは事実だった。奈都海に悟られないように呼吸を整えつつ、自分の中で考えを整理する。どうせ、元々一人ではどうにもできないことだ。いずれ誰かに話すなら、その最初が先輩だというのは理想的とも言える。迷惑だろうと関係ない。自分は元々、そういうことを顧みる性格ではなかったし問題にはならない。なにより、話さないと始まりすらしない。


「……先輩、いいですか」


『ん、うん』


 首肯で促す。鳴姫は膝の上で拳を握って覚悟を固める。さすがの奈都海も見たことのない鳴姫の真剣かつ弱々しい態度に、同様に覚悟を決めた。


「あの、私――」


 ここで途切れて深呼吸をする鳴姫。おや、と奈都海はデジャブめいた何かを感じた。しかし、その何かの正体は、続いて出た鳴姫の一言で思考の地平線の彼方に追放された。




「私――子どもが、できたんです」




 二人の間の空気がしばし、固まる。




◇◇◇ ◇◇◇




 南坂宇類は鳳霊学園にいた。

 大雨の中、グラウンドで練習を行う部活はなく、その代わりにほぼ無人の階段や廊下が運動部の練習場と化した校舎に、吹奏楽の途切れ途切れの演奏に混じって運動部員たちの威勢のいいかけ声が響く。

 それらの音を遠くに聞きながら、宇類は困り顔で後頭部を掻いていた。


「あーっと……だから、そういうこと言われても困るっつーか……」


「お願いしますっ!!」


 普通教室棟と特別教室棟の二階を繋ぐ渡り廊下、その途中にある余った机や椅子が置かれている空き教室で、宇類と一人の女子生徒が相対していた。もっと具体的に言うと、女子生徒のほうは宇類に向かって自衛隊もかくやという角度で頭を下げていた。

 今日は日曜日で、部活動に所属していない宇類は学園に来る必要性がそもそもなかった。それでも来ているのは、それなりの理由があるからで、その理由が宇類の前で頭のつむじを見せつける女生徒だった。


「だから、悪いけどできないんだよ。……今、そういう気分でもねーし」


 大方の予想を裏切るまでもなく、これは女子生徒による宇類への愛の告白である。そして、それを宇類が断り、女生徒が食い下がっているという図。


「な、なら、一日だけでいいから! おねがい!」


 これ以上断ると土下座でもしかねない剣幕で、さらに腰を折る。頷かれるまで絶対に帰らないという決意が、全身からあふれんばかりに出ているのがわかる。

 しかし宇類は、頷くどころか舌打ちせんばかりに纏う雰囲気を一変させた。


「断るとそういうこと言うやつたまにいるんだけど、やめてくれねえかな。どう考えても馬鹿にされてるようにしか思えないからさ」


「そ、そんなつもりは……」


「ならもうやめてくれ。俺にはあなたと付き合うつもりはない。だからもう、いい加減諦めてくれ」


「そ、そんな……」


 宇類は本心からの怒りを露わにして拒絶の言葉を叩きつけ、女子生徒の決意を打ち砕く。まさに絶望の最中にいるかのような表情で目に涙まで浮かべる女子生徒に、砕かれた決意をかき集める気力はなかった。

 こうして、30分間に亘る攻防に決着をつけた宇類だったが、今にも泣いてしまいそうな女性を前にして、それを放置できるほど冷酷にはなれなかった。


「あー……あのさ、水上さんだっけ。なんで俺みたいなの好きになっちまったんだ? 俺さ、本当に自慢じゃねえが、女たらしだって有名だろ?」


「……え」


 直前に自分を拒絶した男がかけるには優しすぎる声音に、呆気にとられる女生徒。これが、宇類が女たらしになる一つの要因でもある。


「すまん、そのだな……。こんなに食い下がってくる子は初めてで、少し理由が知りたくなった。――いや、言いたくないならいいんだ。自分をふった男に話すようなことなんてないだろうし、それにつらいだろうし。このまま俺置いて帰ってくれても――」


 単純なことに、宇類は女性に弱かった。親しい仲は例外として、基本的に女性に強く出られず、女性に下手に出られると逆に戸惑ってしまう性分があった。その性分が発揮されているのが今だ。

 その戸惑う宇類を見て、女生徒が笑みをこぼした。宇類はさらにきまりが悪くなる。


「なんか、思ってたのと全然違うね、性格」


「思ってたってどんな……いや、いい。自分がどう言われてるかは自覚あるし。好きでこう、女たらししてるわけじゃないっていうか」


「ううん、もっとドライな性格だと思ってた。女たらしとかは聞いたことないけど……そうなの?」


 宇類は驚く。彼がこの学園内だけでも10人以上の女子生徒と関係を持ったことがあるということは、学園の噂好きか友人の多い女生徒であればたいてい知っているし、そのことで警戒されているということも宇類は把握している。自分に告白しようというのなら知っていてもおかしくはないし、実際、宇類が告白を受けた相手は全員がそのことを踏まえたうえでの告白だった。

 驚いて返答できなかった宇類を置いて、首を傾げていた女生徒は「まあいいか」と自身の問いを流した。


「なんで好きになったのかって訊かれると難しいんだけどね、強いて言えば、最初に会った時、この人なら合うかもって思ったのがきっかけ。あと、自分のことわかってくれるはずって、なんとなく思えたから」


「あ……あぁ、最初? いつの話だ?」


 女生徒は、やっぱりと言いたげに、少し悲しげな溜息をついた。


「一年の時、後期授業の最初の数学。クラス分けのために小テストしたでしょ。その時、私の後ろの席が南坂くんで、少しだけ話したことがあった。その後は別のクラスに分けられて会う機会もなくなっちゃったってわけ。……あ、無理に思い出さなくてもいいから」


 話を聞きながら記憶を探っていた宇類は、言われてそれをやめた。思い出すことができず、その頃の自分がどうだったのかすらもわからなかった。願わくば、最初の印象を払拭させ、幻滅させることができたなら、と考えるだけだった。


「それと、時間、長くとらせてごめんなさい。私、もうすぐここ離れなきゃいけなくて、今日が最後のチャンスだと思ったら後に引けなくて」


「離れるっつーと、転校か? だから日曜日に?」


「うん……。実はこの学校ももう辞めてて、さすがに平日は知った人の目も多いから、こんな日に。本当に重ね重ね、ごめんなさい」


 彼女の顔を見れば、これが同情を誘うための虚言でないことは一目で判断できた。ただ、露骨に同情を誘いにきていたとしても、宇類がそれを指摘することはなかっただろう。


「そっか。でも、悪い。水上さんだからじゃなくて、一人を除いて他の誰でも、同じように断ってる」


「あぁ……、うん。そうなんだ。わかった。その言葉だけで、告白してよかったって思えるよ。思い残すこともなくなるし、気持ちよく行ける。ありがとう」


 そう言って頭を下げる女生徒に、宇類は何も言葉をかけることができなかった。不意に感謝されて、言葉が出てこなかった。

 女生徒が頭を上げ、踵を返そうとしてもなお、宇類は口を開くこともできなかった。だが、彼本人もそれが正しいことだと思っていた。これ以上の言葉は必要ない、黙って彼女が去るのを待つのが正解だと思い、呼び止めることもなかった。


「そうだ、私の名前。手紙には、姓しか書いてなかったよね」


 教室の扉に手をかけたまま、女生徒が言った。


「――水上オリガ。ロシアの名前なんだ。憶えておいてくれるとうれしいな。……じゃあね」


 宇類はそう言って立ち去る彼女の背中を見送った後、しばらくその場に立ち尽くしていた。自分の中に蟠る初めての感情を持て余しながら。




◇◇◇ ◇◇◇




 俺、幣原奈都海は、17年間の人生史上最も戸惑っていた。

 そりゃあ戸惑うさ。戸惑わない人間がどこにいようか。まさか齢17にして後輩から妊娠報告を受けるなどと、いったいどこの誰が予見できよう。

 妊娠したのはまだ16歳の高校生。妊娠したのかそれはよかったおめでとう、などと喜べるはずなどない。あと4年も遅ければ、俺だって迷うことなく祝福の言葉を送っていたのだろうが、まだ高校一年生の16歳とあれば、話は全く違ってくる。

 問題となる点は……経験のない俺に思い浮かぶだけでも、それこそ山ほどある。これは、俺なんかよりせめて大人に相談するべきではなかろうか。全力でそう言いたかった。さすがに、魔術が使える以外は一介の高校生に過ぎない俺にとっては、荷が勝ちすぎている。残念ながら俺に助言できることなど何一つない。

 そうは思ったが、すぐに拒絶するのは気が引けた。もちろん、無責任に俺に任せろなどと言うつもりはない。まずは冷静に、事実内容を確認するべきだ。

 驚愕に麻痺してまだうまく働いてくれない頭を叩き起こし、とりあえず問うことにした。


『妊娠したのは事実か』


 鳴姫がこういう冗談を言う人間ではないことは知っているが、思い込みということもあり得る。というか、俺はそうであることを願っていた。

 しかし俺の願いも空しく、鳴姫は首肯で事実であることを認めた。


「……検査薬で陽性が出ましたし、産婦人科にも行きました」


『結果は?』


「ほぼ間違いないだろうって」


 俺は頭を抱えたくなった。あの馬鹿野郎は避妊すら碌にできんのか。今さらながらに宇類への怒りが湧いてくる。あんな性格でも鳴姫のことはちゃんと気にかけていたし大事にしているものだと思っていたが、なんか裏切られた気分である。

 ――と、ここで俺の中にふと疑問が浮かぶ。絶対にありえないだろうと思いつつも、少なくともはっきりさせておかなくてはならない事項があることに気付いた。


『それは』


 それだけ書いて横二重線で消した。


『その子は、宇類の子で間違いないんだな?』


 メモ帳に書いたその文字を見るなり、鳴姫は必死に何度も頷いた。俺は安堵する。


「宇類以外の男に身体を許すなんて、考えられませんから」


 これで一応の安心はあった。鳴姫に限ってありえないとは思っていたが、念のために一つでも懸念は解消しておかなくては。

 俺がようやく訪れた安堵に浸っていると、おずおずと鳴姫が話し出した。


「すみません、的外れなことを言うかもしれませんが……」


 俺が顔を上げると、俯く鳴姫が見えた。


「その……宇類のことは怒らないでやってください。私が、言ったんです……」


『え』


 何を?


「避妊具、いらないって……私が」


 ……

 つまるところ、あの時のが当たったのかー、って心当たりがあると。

 マジすか


「で、でも、勘違いしないでください。生でやったのはその時が初めてで……」


 生とか言わないで。後輩から聞くには生々しすぎるだろう、それは。……まあ、宇類のことを勘違いされたくないという気持ちはよく伝わった。宇類に全面的に責任がないということも、一応。

 しかし、どちらの意図でやったことだろうが問題は問題である。解決には繋がりようもない。


「ま、まさかこんな簡単に……なんて、思ってなくて……」


 それはいくらなんでも考えが甘すぎる。そう叱責しようとしたが、俺より他に適任がいる気がしてやめた。代わりに俺は、ペンを取ってメモ帳に書いて問うた。


『お前はどうしたいんだ』


 鳴姫本人の意志、これがなければ問題収束もない。もちろん、鳴姫の意志はある程度予想できている。しかし、これも彼女本人の口から聞いておく必要があった。意志の表明は、その意志を貫くうえでも重要なはずだ。

 俺の書いたこれを見た鳴姫は、その瞬間だけ目を見開き、直後に口を真一文字に結んだ。もう覚悟は決まっている。そう言いたげに。

 その口が開かれるには、あまり長い時間はかからなかった。


「――先輩」




「私、産みます」





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