第1章#ep 収束し、終息せず
第1章エピローグ
姉が亡くなってしばらくして、姉とは俺にとってどんな存在だったのかと考えたことがある。
一般的には、「姉」とか「家族」とか、そういう存在であるというのは言われなくてもわかるところではあるが、じゃあそれだけだったのか、それ以外にないのかと問われれば、そんなことはない……はずである。
姉が亡くなった時、俺は親族を亡くして初めて涙を流した。自分で言うのもあれだが慕っていた祖父の葬儀でも泣かなかったのは、俺がそういう性格だからなのだと思っていた。……気取っているわけではなく、自分なりの自己評価の結果として。
ただ、祖父は俺にとっては今の人格形成に関わっていると言ってもいいほどの存在だった。その祖父を亡くした時にも流さなかった涙が、姉の時には流れた。
大事な人を亡くして悲しいという感情もまだ、具体的にはわからない。実感として悲しいと思ったことがないからだ。喪失感はわかる。だが、それが悲しみに繋がらない。なら……俺が姉の死に流した涙はいったいなんだったのか? こう思ったのが、『俺にとって姉とはどういう存在だったのか』と考えるきっかけだった。
誤解しないでほしいのだが、姉に対して恋愛に類する感情を懐いたことは一度もない。同じ疑問を亜実さんに話した際、「まさかお前……」などと言われたのが若干のトラウマである。
それはともかくとして。姉は珍しい病に罹っていたから、生前の姉が普通の姉らしい姉だったかと言われればそんなことはない。むしろ姉らしい面などなかったに等しい。俺をからかってケラケラ笑うのが日常で、同時に家の中でも車椅子を使っているのが日常でもあった。一緒に出歩くなんてこともできなかったし、姉に対しては何かしてもらうより何かしてあげるほうが多かったくらいだ。俺が中学に上がる頃には、体格も俺のほうが大きかった。その頃は確か19歳だったはずだが、多分、今の唯利亜よりも小さかった。
こうして改めて見ると、俺にとっての姉は守るべき存在という認識があったのだと思う。が、だからどうしたという自問が今度は浮かんでくる。守るべきものを守れなかったという喪失感、自分への失望感で泣いたのだろうか。わからない……というより、本当にそうなのか?という疑問が先に立つ。
とはいえ、今まで何度となく考えてきたことなので、どんな問いを経由したところで「わからない」という結論に行きつくことは目に見えているのだが。
今まではそれで終わっていたが、そろそろそうもいかなくなった。状況が変わったのだ。
◇◇ ◇◇
ADEOIAが所属する疵術師に課している主な任務は、知ってのとおりDMFBの駆除である。
しかし、それと同等、場合によってはそれ以上に優先される事項がある。それは、戦力の確保、つまり潜在的な疵術師の発見と保護である。
これは日本のADEOIAでは特に重要視されるもので、魔術団が日本に介入できる唯一の手段として、疵術師だけでなく日本の魔術師を把握するためにも用いられている。つまり、日本のADEOIA支部では、疵術師の確保だけではなく、魔術師の存在までも記録して本部へ送っているのである。これは日本の魔術師の勢力を把握するために行われているのだが、日本の魔術師を統括する霞翅家も承知しているところでもあるので、情報面でのアドバンテージにはさほど変化がない。
しかし、それがあるとないとでは大きな差になる。真も偽も情報は情報である。故に日本のADEOIAの支部には索敵・探索に長けた大隊規模相当の部隊が配置されている。巨斧の魔女こと西園寺九能が旅団長を務めるロサンジェルス支部所属旅団の斥候大隊が中国支部に異動したのは、元々所属していた偵察特化の部隊が軒並み壊滅状態に陥ったからである。
彼らは、各地域の疵術師も含めた魔術師の存在を探知する魔術を定期的に展開しており、魔術の反応があればその魔術の行使者を確認して記録する。潜在的な魔術師であれば他の手段で探し出すが、それ以外の魔術師であればほぼ網羅できているはずだった。
――が、その数十年来続けてきた機能の存在意義を揺るがしかねない存在が現れた。
「名簿に……ない?」
『ええ。少なくとも、私の閲覧できる情報の中にはありませんね。……幣原ナユタと言いましたね? そもそも、幣原という姓自体、あなたの部下にある疵術師の幣原とその親族しかありません』
後朱雀沙夢濡と彼女の産んだDMFBを鎮圧した翌日、九能は再びADEOIA少佐でありかつての弟子であるイリナと通信を繋げていた。マリアンヌは不在だということで、権限を委譲されたイリナが応対している。
九能はイリナの映っている画面と渋い顔をして向かい合っている。
「……それってこの支部で彼女を捉えられなかったってことよね。かなり大がかりな魔術の研究をしてたって言ってたけど……、それすら捉えていなかった……?」
『現状からはそうとしか考えられませんね。疵術師の探知をかいくぐるのは至難の業のはずですが……しかし、色々と規格外なのも確かです。疵術師の家系で魔術師に生まれ、その存在が魔術団に秘されていた。何より――』
「死んだはずなのに、弟の中に人格として残っていた。奈都海――もう一人の弟に確認させたけど、性格そのものは死んだ姉に間違いないだろうって」
九能が本部と連絡を取りたがった理由は、幣原ナユタというイレギュラーの登場が最たるものである。既に亡くなった人間が人格だけでも生き残っているというだけで魔術の常識でもその埒外にあるというのに、さらに3きょうだいの中でナユタだけが魔術師だったり、ファントムを産みだしたりと、九能ですら未確認の要素を集約した存在である。
もはや、魔術師のファントムであるとか、後朱雀沙夢濡の問題なども霞んで見えるレベルである。
「ねえ、イリナ?」
『ええ、さすがにADEOIA元帥代理として、何もせず丸投げということは避けたいのですが。今はあまり長い時間手を離せません。しばらくそちらに預けますので、頼めますか。おそらく、閣下は彼女に直接会いたいと仰るでしょう』
「そういうことなら任されるけど。後朱雀沙夢濡の件はどうする? 一応、こっちでは元に戻ったというか正気に戻ったというか、一定の解決はしたと見てるけど」
ナユタによって制圧された沙夢濡は、しかしファントムに植えつけられた狂気と能力は残っていた。一応、昨晩のうちにナユタの案によってDMFBを生み出す能力の排除には成功している。それに付随してか、歪んだ倫理観も取り除かれた。
「それも同様に。閣下が戻り次第、こちらから連絡しますので、しばらくはあなたに一任したいのですが」
「いいわよ。むしろ、少し時間を置かせてほしいって言おうと思ってたところだし」
「すみません。……で、ついでと言ってはなんですが、閣下より言伝がありまして」
申し訳なさそうな顔で問うイリナに、九能は安心させるように微笑んで「ええ」と頷いた。九能にとってのイリナは、まだ弟子という認識の中にある。
「霞翅家との緩衝役をしてほしいということですが、よろしいでしょうか」
「霞翅家? 別にいいけど……関東支部のほうがいいんじゃないの?」
魔術団と霞翅家の関係は未だに微妙の一言でしか説明できないところにある。明確に敵対しているわけではないが、霞翅家に友好的な態度は一切ない。日本に置かれる魔術団唯一の勢力たるADEOIAは、霞翅家との緩衝役も担っており、今や魔術団と霞翅家が意志疎通を行うにはADEOIAの日本支部を介するのが当然になっている。副支部長を務める九能も、魔術団と霞翅家の板挟みに難儀する立場にある。
「いえ、霞翅本家ではなく八嘉翅のほうに行ってもらいたいとのことです。中国支部からなら近いので、適任だと仰って」
「ふうん? 八嘉翅になんかあるの?」
「いえ……どうでしょう。関東支部も忙しいようですし。そちらは一応、落ち着いたところでもありますし」
「どうかしらね。また変なのが厄介事抱えて出てくるかもしれないけど。まあ、暇になったら行ってくるわよ。大した手間でもないでしょうし」
九能が日本に来てから2年間、こういったことも二度や三度ではない。九能は携帯電話の予定表に「八嘉翅」と入力し、それを机に置いた。数秒眺めながら、いつになったら行けるかと思案する。
「そうですね。寂しければ、別にお伴でも連れていけばよろしいのでは? 八嘉翅はこちらにも協力的だと聞きましたし、一人二人増えたところでどうこうは言わないでしょう」
「一人で行けるわよ。それよりイリナ、時間はいいの? 忙しいんじゃなかった?」
九能が言うと、イリナは「そうでした」とわざとらしく手を打った。どうやらサボる目的で九能との会話を引き延ばそうとしていたらしい。九能は呆れ顔で何か一言言ってやろうかとも思ったが、画面の外から聞こえた部下のものと思しき声に免じて黙ることにした。
「申し訳ありません。息抜きをする余裕すらないもので。気付いたことがあれば部下にメールでもさせます。そちらからは何か?」
「忙しいあなたを引き留めてまで話したいことはもうないかな。がんばってね、イリナ。……あ、マリーにもよろしく」
「了解です、伝えておきましょう。……まだ何か?」
通信を切ろうとしたイリナは、画面の前で何か言いたげな笑みを浮かべる九能を怪訝に感じて、その手を止めた。九能は笑ったまま首を振って、
「んーん、今日はイリナがやさしかったなあって」
心底嬉しそうにそう言った。
「――ッ、うるさいですっ」
画面がブラックアウトする直前に見えたイリナの真っ赤な顔に、九能はほんの少し死闘の疲労が和らいだ気がした。
◇◇◇ ◇◇◇
唯利亜とともに家に着いた頃には、既に日付は変わり午前1時を回っていた。
亜実さんはおそらくもう寝ているだろうと思っていたが、玄関から見ると一階の書斎から光が漏れているのが見えた。ただ、唯利亜を見ても、それに反応する気配はなく靴を脱ぐと一直線に居間へ向かっていった。どうでもいいことに意識を割いていられる余裕もないということだろうか。
さすがにこの時間に帰ってきて何も言わずに平気でいられるほど俺も図太くないので、居間はスルーして亜実さんの書斎に向かった。扉の鍵がかかっていないことを確認して、俺はノックした。
「……んぁあ、何。奈都海なら開けてもいいよ」
返事があったので、言葉に甘えて開けさせてもらう。
亜実さんの書斎に入るのは初めてではない。俺が言葉を発せなくなる前から、主に身体の不自由な姉がいる関係で、たとえ仕事中でも書斎には鍵をかけていない。何かあれば、書斎に入って亜実さんを呼べるようにしているからだ。
「こんな時間に帰ってきて、何の用かねえ。さっさと寝ないと明日に障るよ」
亜実さんはPCに向かっていた椅子を180度回転させて俺に向けながら、そう言った。いつもとは違う、なぜか俺を気遣う言葉だった。……多分、なぜこんな時間に帰ってきたのか、知っているのだろう。
『遅く帰ってきたから、謝っておこうと思って。あと、一応の帰宅報告』
「今さらだね。4月ぐらいから何度かあったじゃないか。気付いてないとでも思ってた?」
いつになく柔らかい雰囲気の亜実さんに戸惑う俺。知っているのなら、今まで隠していたことに怒りこそすれ優しくする必要がどこにあるのだろうか。ここまで不自然な態度だと、むしろ不安が助長される。
とはいえ、亜実さんはそんな俺の不安を払拭してくれるほどは優しくなかった。
「あたしはもう戦えないから助力はできないけどね、いつあんたらが死ぬかって気が気じゃなかったんだよ。謝るなら、母親のあたしを筆が鈍るぐらい心配させたことを謝ってほしいね」
『……』
もはや言葉も出ない。……元々出ないけど。
まさか亜実さんの口からこんなセリフを聞く日が来るとは。今まで母親としての役割を蔑ろにしてきた分、たったこれだけの言葉だけで感動できてしまうことに、ちょっとした哀愁じみたものを感じてしまう。……というのはともかく、母親としての自覚が芽生えたのか復活したのかは知らないが、これから多少は母親としての振る舞いが増えてくれることを期待してしまうのは悪いことではないだろう
しかし、そんなことを直接言う勇気はないので、俺が口にするのは別の件である。
『もう戦えないってのは?』
「あー……、別に大したことはないよ。言葉通りの意味だ。それより、わざわざあたしんとこまで直接来たってことは、なんかあったんだろ。言ってみ?」
『もしかして、知ってたのか』
うまくはぐらかされた感じはあるが、確かに俺が亜実さんの書斎まで訪ねたのは、遅く帰ったことだけに理由があるわけではない。むしろ最大の理由こそ、別にある。
「あん? なにさ」
『……姉貴のことだ』
言った途端、書斎の空気が変わった。というより、空気の中の魔力が明らかに重くなった。多分、亜実さんの放つ魔力に魔力を重くする精神情報――つまり怒りとか焦りとかそういう感情が多くなったせいだろう。九能曰く、大気中の魔力に影響を与えるほどの魔術師はかなりの魔力を保有しているらしい。かくいう九能も、時たま空気を異常に重くすることがある。戦えないとか、どの口が。
「もういっぺん、言ってみな」
字面に対して、表情と雰囲気は「言うな」と全力で訴えている。これで亜実さんも姉について知らなかったことはわかったが、「やっぱり何でもありません」ととぼけるつもりはなかった。いずれは唯利亜か、その身体を借りた姉本人から告げられることかもしれないが、俺から言う意味も何かあると考えている。
『禁句みたいなもんだってのはわかってた。でも、状況が変わったんだよ。姉貴はまだ生きてる。……って言っていいかどうかはまだわからんが』
「何言ってんだお前。全然わからんし、殺すぞ」
『とにかく話を聞いてくれって。姉貴は唯利亜の中に魔術で人格を残して、今もまだ生きてるんだよ。亜実さんには言ってなかったのか? ならとりあえず会ってみればわかるから、なんなら今から唯利亜を呼ぶか?』
空気は幾分か軽くなったが、亜実さんの表情はまだ怒りと疑念が綯い交ぜになっていて、俺一人では説得できそうにないことを悟った。それでも、怪しい日本語で物騒なことを言うようなレベルの怒りは収まったのか、身体の力を抜いて背もたれに全身を預けつつ、
「わかった。いや、わかっちゃいないが、あんたの言ってること自体は理解した。だが、それがどういうことはまだわからん。……はー、いろいろ考えすぎて今日はもう糞疲れた。寝る。話は明日聞く。唯利亜の件も明日でいい。あんたもさっさと寝ろ。んで、明日はガッコサボって話聞かせろ」
そんなことをまくし立て、着ている服のまま書斎の隅に置いてあるソファに横たわった。仕事が詰まっている時は書斎で寝ることもあるが、今日はどうにもそんな様子はない。単に面倒なだけか、はたまた本当に疲れたのか。どちらにしろ、これで頭を冷やして姉についてまともに話せればいいのだが。
聞こえていないだろう(というか見ようとしていない)だろうと思いつつおやすみを言いながら、俺は扉を閉めて書斎を後にした。
◇◇ ◇◇
居間に入ると、こちらでもソファに唯利亜が寝転がっていた。しかし、俺が書斎を出るころには寝息を立てていた亜実さんとは違って、唯利亜はまだ眠っていなかった。
「あぁ……兄さん。大丈夫だった?」
天井を仰ぎながら問う唯利亜に、お前こそ大丈夫か、と言いたくなる。声はほとんどかすれ気味で、気力の欠片も感じられない。
理由……は、わからんでもない。ファントムに操られていた(と俺は聞かされた)会長と戦ったのは姉だが、その人格を宿して戦ったのは唯利亜自身。疲労は唯利亜の肉体に蓄積されるうえ、唯利亜曰く自分の意思と関係なく身体が動くというのはかなりのストレスになるらしく、精神的にもダメージが大きいらしい。
人格が唯利亜に戻ってしばらく、疲労が見えないから油断していたが、まさか時間差で来るとは。
「はぁ……なんかすごい倦怠感っていうの? パないわー……マジで。なんかもう寝るのもつらいや……」
疲れたのは俺も同じなので、唯利亜の寝ているソファとは斜向かいにあるソファに腰かける。テレビでも見ようかとテーブルの上のリモコンに手を伸ばし――かけたが、どうせ深夜だし見たこともないような器具の通販番組ぐらいしかしてないだろうし、と思ってやめた。
手持無沙汰になって、テーブルを指でコンコンと叩いてみる。
「ぅあ……? なに?」
『あぁ……いや。ちょっと聞きたいことがあるんだが』
無視すると思っていた唯利亜が反応したので、ついでだと思って言ってみた。しかし、唯利亜は反応したくせにまた目の上に腕を置いて会話を拒否する体勢に入った。
「無理。疲れたもん。……このまま寝るから明日起こして」
そのまま、唯利亜は言葉も発さず、本当に寝入ってしまった。さすが親子である。などと考えていると、唯利亜はなんの前触れもなく唐突に起き上った。さっきまで疲れたなんだと唸っていた人間の動きだとは思えない。
しかし、その顔にかつて見た小悪魔めいた笑みを浮かべているのを見て、察した。
『……姉貴、か?』
訊いても答えることはなく、姉なのか唯利亜なのか判別できない“それ”は、おぼつかない足取りで近寄り、無言で俺の首に腕を回して軽い力で抱きしめてきた。
男どころか女のものと言っても華奢すぎる唯利亜の身体は、振りほどこうとする力だけで折れてしまいそうなほどで、俺は身じろぎもせずに抱きつかれるままに任せていた。かといって、その背に腕を回すだけの甲斐性というか大胆さは俺にはない。
することもないので壁掛け時計を眺めていたが、3分ほど経って姉ないし唯利亜は腕をほどいてソファの前のテーブルに腰を下ろした。
「……久しぶりに二人きりだからさ。いきなりだったけど許してよ」
喋り方で、姉だと確信した。だが、なら、さっきの抱擁はなんのつもりだったのか。
「あたしの存在は唯利亜ありきだから。あんたと二人きりなんて状況、なかなかないもんだから二人きりじゃなきゃできないことしようと思ってね」
二人きりという状況。確かに唯利亜が寝ていれば二人きりと言えるわけだが、起きているとそうでないということは、姉が身体を操っていても唯利亜は外界の情報を取得できるということなのだろうか。
「疑問は尽きないだろうけど、細かいことは追々話していくから。今は再会を喜ぼうよ。なあ、奈都海?」
『……あんたはずっと、唯利亜の中から俺を見てたんだろ』
唯利亜はどうか知らないが、姉は唯利亜の中から外界を知ることができた。姉の葬儀の時も、墓参りの時も、姉は俺たちを見ていたというわけだ。まだ生きている人間のために葬儀を開いて墓まで拵えて。馬鹿馬鹿しい。笑えない喜劇か何かか。
「怒ってんの?」
『別に怒っちゃいないが……。なんで今まで隠してきたんだ』
「隠してたつもりはないけどね、言うチャンスがなかったのさ。まあ、今回みたいのがなけりゃ、わざわざ言うつもりもなかったけどさ」
表情を見る限り、はぐらかしているようには見えない。が、今見ているのは唯利亜の顔であって見慣れた姉のものではないので、はっきりとはわからない。
「まあ結果的に隠してたのは事実だし、謝るよ。悪かったね」
『……驚いた。まさか姉貴がそんな殊勝なことを』
「あんた、実の姉をなんだと思ってんのさ」
強いて言えば、小悪魔。人をからかいはするが、基本的には嘘をつかないというのも一致する。しかし、嘘をつかなくても人を騙すことができるということは姉から学んだことでもある。正直、学ぶ必要がなければ学びたくないことだったが。
「あたしも不安だったのさ。唯利亜の中に人格を残したとはいえ、実際にそれが正常に作動するかわからなかったしね」
『そうなのか?』
「そりゃそうさ。試しに死んでみる、なんてできないしね。理論上は可能というだけで、実際はぶっつけ本番だったわけさ。蘇生術が研究まで禁止されてるのは、そういう理由」
『……そういえば、あんたは魔術師だったな。俺と唯利亜は疵術師なのに』
姉が九能との話の中で明かした、姉の正体。自分は正真正銘幣原家の娘だとしたうえで、魔術師であると言った。疵術師の家系に魔術師が、魔術師の家系に疵術師が生まれることは、稀にではあるがあり得ると九能はさほど驚いてはいなかったが、俺にとっては一大事だった。
とはいえ、俺が大事だと考えているのは姉が魔術師だったということ、そのものではない。そのことを姉が認識し隠していたということにこそ、俺は驚愕と失望を覚えたのだ。
「だから言わなかったってのもあるけどね」
『……隠していたつもりはないと言わなかったか?』
「ああ、隠すつもりはなかった。あんたたちにはね」
俺たちには。では、他の誰に隠していたのだろうか。
心中で浮かんだ疑問に、姉は察したようにすぐに答えた。
「霞翅家、さ。聞いたことはあるね。日本の魔術師を牛耳るでっかい一族だよ」
九能に聞いた。ADEOIAをはじめとする魔術師を統括する機関をさらにまとめる巨大な組織である魔術団。日本はそこから隔絶した環境にあり、その環境を造り出したのがこの霞翅家であった、と。魔術師の世界では、日本はいわゆる鎖国の状態にある、とも。故に、日本の魔術師を管理する役割と権利は霞翅家にあり、日本の魔術師は魔術団に所属できない。……この現状が、日本の魔術師にとっていいことかどうかは、今の俺には判断できないが。
『知られたら、困るのか?』
特に悪辣な集団だという話は聞いたことはないのだが。
「まあ、ね。どんなとこにも闇っていうか裏っていうか、そういう顔はあるもんさ。……まあ、あんたには当分関係ないかもね。あたしも今や唯利亜の中のもう一つの人格に過ぎないわけだし」
『変な言い方をするんだな。……ていうか、おい』
俺は目を見開いて驚いていた。「ん?」と無邪気な顔を傾ける姉――その意識を表出させる唯利亜の身体が、ありえない変容を見せていた。
……胸があった。何度も言っていることだが、唯利亜の性別は男だ。たとえ人格が姉のそれであったとしても、その身体に変化などあるはずはなかった。
俺の向けている視線に気付いた姉が、自身の胸に手を当てた。むにゅ、という幻聴でもってブラウスの下の胸がわずかに形を変えた。元々は胸のない正真正銘の男子だから、さすがの唯利亜もブラジャーは着けていない。その代わりにいつもは着ているキャミソールも、制服諸共ファントムとの戦闘の際に使い物にならなくなったらしく、今は体格の似通っている咲の私物を借りている状態だ。
つまり何が言いたいかと言えば――夏用の生地の薄いブラウスだと、肌が透けて見えかねないという――
「お、なに。見たいならいくらでも見せてやれるけど」
『そうじゃない、なんだそれは。……どういうことだ?』
俺が憮然として睨むと、姉は足を組んで頬杖をつき、渾身の悪戯を画策する小悪魔のような笑みで俺の顔を見返してきた。こういう顔をする姉には、あまりいい思い出がない。
「揉んでみるか?」
『揉むかっ』
「そう? ……病人にしちゃ割といい胸してると自負してるんだけどね。そういや西園寺九能もそれなりのもん持ってたねえ。あたしじゃ不満?」
『そういう問題じゃ……! それより、それはどういうことだと訊いてる!』
唯利亜に起こる異変は、ほとんどこの人の仕業だという認識がこの数時間で俺の中にできていた。実際、この認識は間違っていないはずだ。
「わかったよ、そんな怒らなくてもいいじゃんさ。あたしの人格が長く表に出てたり、中の唯利亜が眠ってたりすると起こる現象でね、肉体の支配権があたしに移るとでも言えばいいかな。あたしも想定してなかったんだけど、まあ唯利亜が出てくればすぐに元に戻るから安心していい。……って、西園寺九能にも言ったはずだけど、あんたは聞いてなかった?」
記憶を探ればたしかに、そんなことを聞いたような気がしないでもないような記憶がおぼろげながら残っている。俺は少し安堵し、しかし他方、俺の中でもしかしたらと思っていたことが確信に近づき、そのことを問い質さずにはいられなくなった。
『まさかとは思うが』
「ん、なにさ」
『唯利亜がこうなったのは、まさか姉貴のせいじゃないだろうな?』
考えていたのはこのことだ。唯利亜が女の子のような振る舞いをし始めたのは、俺の知る限りかなり唐突だったと記憶している。不自然なほどに、だ。そして、その不自然さを説明しうる魔術という存在。それが姉によって唯利亜に行使されたという事実があれば、そこに因果関係を見出すのは難しいことではなかった。
しかし、俺に問われた姉は涼しい顔で、
「かもね」
と、答えたのだった。俺の一世一代の名推理を、たったの三文字で片づけたのだ。
「言われることは予想してたけど、確定してるわけでもないから誤解はするなよ。ただまあ、あたしが唯利亜に魔術の基礎を組み込み始めた時期と、唯利亜が女みたくなった時期は、一応一致する。唯利亜が10のころだったね」
ほとんど肯定されたようなものだった。だが、そうだからといって、俺にはどうすることもできないことに気付く。元々、唯利亜の性格をいまさら男相応に戻そうなどとも思ってはいなかった。唯利亜本人も気にすることはないだろう。
「はー……なんか疲れた。久々に長く表に出てきたからかねえ。あたしもそろそろ寝ようかね」
会話が一段落し、姉もあくびをし始めた。ふと、唯利亜の疲労は姉にとっても負担になるのだろうか、と疑問が浮かんだ。だが、姉にはまだ聞きたいことが山ほどある。ここで疲れたからといって寝られてしまっては困る。
しかし、姉は眠そうに目をこすりだし、今にも横になって寝息を立てそうな雰囲気だった。
だから俺は、
『一つだけ、今訊いておきたいことがある』
姉の眠気を遮った。姉は眠そうな目で俺を見る。
「一つだけ、ね。あとは明日にしてくれな、疲れたってのはマジだから」
姉は昔から奔放な性格だった。病で身体が弱いのに車椅子に乗って昼だろうが真夜中だろうが、好き勝手に外出していた。なぜ亜実さんがそれを咎めなかったのか、昔から疑問だったが、今はその疑問も解消されている。魔術師だったからだ。日光に弱い色素欠乏症も、魔術によって有害な光を遮断することでないものに等しい状態になることのできた姉は、直射日光に晒されても問題なかったのだ。
俺が以前から懐いていた姉についての疑問で解消されたことといえば、これくらいだった。
『姉貴は、かいちょ……後朱雀沙夢濡さんとどういう関係だったんだ……?』
俺が訊ねると、姉の口が弧を描き、唯利亜にはなかった八重歯が唇の間から先端をのぞかせた。
◇◇◇ ◇◇◇
後朱雀沙夢濡の久しぶりの帰宅は、ひどく憂鬱だった。
憂鬱と言えば、帰路につく前、ADEOIAの中国地方支部にいた時からそうだった。なにせ、一度は敵と戦った相手の根城にいたようなものだったのだ。まさに針の筵といった状況だった。
そんな状況も沙夢濡が正気を取り戻したらしいということがわかってからは和らいだものの、沙夢濡が原因だろう周囲の慌ただしさの中、居心地の悪さはむしろ一層増すだけだった。それでも、帰るなと言われただけで帰ろうとしなかったのは、隣にずっと唯利亜がいてくれたからだろう。
――もう、大丈夫なの……?
――……ええ。
――そっか。よかった。
これだけの会話を交わしたきり互いに口を開くことはなかったが、帰宅の許可が下り帰る支度にかかるまでずっと手を握って寄り添ってくれた唯利亜の存在は、沙夢濡にとって大きな安寧の拠り所だった。
沙夢濡が一人で帰ると言ったとき、家まで送ろうかと提案した唯利亜を、そのあまりの愛おしさに沙夢濡は抱きしめた。そのまま、ありがとう、ありがとう、と、何度も耳元で言った。
沙夢濡が帰途についたのはそれからさらに1時間ほど後のこと。表に出てきたナユタに『沙夢濡自身の後始末』をさせられ、それに30分以上費やしたからだ。それが終わるとナユタはすぐに引っ込んでしまった。沙夢濡としてはまだ話したいことがあったのだが、時間も遅かったので次の機会まで我慢することにした。
沙夢濡が中国地方支部を出たのは、日付も変わろうかという深夜だった。そんな時間だったこともあり、支部からは一人の疵術師が護衛についてくれることになった。といっても、常に横について監視するような形式ではないらしい。ならどうやって、と疑問にも思ったが、魔術という超常を操る存在だということを思い出して納得した。
そうしてついた久々の家路。久しぶりと言っても、実際には3日足らずしか空いてはいない。それでもずいぶんと長い期間帰っていないような感覚に、彼女は見慣れたはずの実家を囲む塀に懐かしささえ覚えた。
ふと、沙夢濡の足が、門の前で止まる。手も、インターホンまで伸びない。攫われた形とはいえ、形の上では無断外泊に加えて音信不通という状態だったことに引け目があって、家に戻るにも二の足を踏んでいた。それだけではない。いつもは何の気兼ねもなく通り過ぎるだけの門が、今は日常に戻ることを妨げる巨大な障害となって沙夢濡の前に立ち塞がっている。普段通り、門扉を開けて庭を抜けて、玄関を開ければ帰宅は完了する。たったそれだけのことができないのはなぜだろう。
……
自問するまでもなく、彼女はその理由を自覚していた。“期待”しているのだ。
後朱雀沙夢濡の両親は、仕事の関係でほとんど家には留まらないどころか、県内に戻ることすら稀である。幼いころからそうだったことに今さら目くじらを立てるつもりは彼女にもないが、せめて、と思う部分はあった。
せめて、こういう時ぐらい、親らしく心配してくれたら。心配で仕事が手につかなくなってくれれば。そんな、ふつうの親らしい反応を期待していた。期待していたからこそ、裏切られた時のことを考えると、どうしても沙夢濡の足は家の門を超えることができなかった。
せめて、と思う裏で、どうせ、と諦めている自分がいるのに、でも、と諦めきれないところが残る。だから裏切られるのが怖い。
「……」
月明かりと弱々しい街灯だけが光源の夜闇の中、沙夢濡は立ち尽くす。どう言い訳しようかなどと考えてはいない。おそらく誰も、蜜華も竜樹も希早も、両親でさえ理由を問い質そうとはしないだろう。それに、彼らの詰問を誤魔化せるほど気の利いた嘘をつける器用さを、沙夢濡は持ち合わせていない。考えるだけ無駄である。
だから、沙夢濡の思考はひたすら、両親への期待とそれを否定する理性のせめぎ合いを繰り返すだけだった。答えも出せないまま、立ち往生でもしたかのごとく、動くことができない。
そうして、何もせずに待ち続けた。何を、というほど明確な対象もなかったが、ただ待った。もしかしたら覚悟ができるまで待っていたのかもしれない。しかし、情けないことに、覚悟が固まり始める実感すらないままに、もう一つ待ち望んでいた変化は起きてしまった。
目の前の門が、ごく小さな機械音を立てながら、少しずつ開いていく。門扉が開くにつれて、庭の入口が地面に落としていた視界に広がっていく。それでもまだ恐怖と期待で上げることのできなかった視界に、この門を開けただろう人物の足元が映る。
期待は――打ち砕かれた。暗闇に慣れた目に映ったのは、蜜華の足だった。わかる。履いているのが、蜜華が夏場の外出に使う草履だったから。
わかってしまえば、特に大きな落胆もなかった。感慨もない。そうだろうな、と諦観が心中を埋め尽くす程度で、涙の一滴もこぼれはしない。病気になろうが怪我をしようが、仕事に感けて見向きもしなかった両親が、たかが家出に必死になるはずがない。わかっていた。
だから、いっそ清々した気分で、顔を上げた。せめて、笑顔で、いつも世話になっている蜜華ぐらいには、ただいま、といつも通り振る舞おうと。
――笑顔は、目の前に立つ二人を見た瞬間に崩れた。
◇◇◇ ◇◇◇
翌日、俺は亜実さんの言う通り学校をサボった。亜実さんに言われたのもあるが、実際は行けるような体力と精神状態ではなかったというほうが大きい。
起きてすぐ、チカチカとケータイがメールの着信を告げていることに気付いた。
送信者:九能/内容:今日は支部来なくていいから
いつものように簡潔な内容だった。俺の体調を労わる言葉を期待していたが、本当にその一文で終わっていた。
といっても半分寝ぼけた頭にさして落胆はなく、一日中家でゆっくりできそうだなどと考えながら、疲れの抜けきってない身体で箪笥の中を物色し始めた。
すると、
「起きた? 母さんが呼んでるから、着替えたら下りてきて」
唯利亜が部屋の扉越しに俺を促す。唯利亜も疲れが抜けていないのか、声がやけに無感情だった。
俺は、適当にTシャツとハーフパンツを引っ張り出して着替えることにした。
居間に下りた俺は、この家で初めてシリアスな雰囲気というものを感じていた。厳密に言えば、この家の家主たる亜実さんが、真顔で、無言で、ただ唯利亜の正面に座っているだけの光景が、この家に圧倒的に似合わない雰囲気を醸し出していたのである。……自分でもよくわかってない。
「おう、奈都海。座れ」
亜実さんが言い、唯利亜も振り向いて俺を見る。ここには長居したくないのでおとなしく従うことにする。
俺が唯利亜の隣の椅子に腰かけると、すぐに亜実さんが口を開いた。
「回りくどいのはなしでいく。唯利亜、なんで隠してた?」
『姉貴は隠すつもりはなかった、と……』
亜実さんがこちらを見る気すらないことに気付いて、俺は口を噤む。亜実さんの視線は唯利亜だけに向けられていた。
問われた唯利亜は、気だるそうに口を開く。
「言ったって信じてくれそうになかったから。実際に姉さんを出してみせても、お前頭おかしいんじゃねえの死ねって取り合ってくれないでしょ、どうせ」
「……さすがにそこまでは言わない」
昨晩、殺すぞとかなんとか、似たようなことを言われた記憶があるが、多分気のせいなのだろう。
「それ以前に母さんが姉さんのことは喋るな的な雰囲気出してたし。姉さんの名前口にしただけですごい剣幕で睨むし、あんなのでどうやって教えればいいの」
「……それが理由か?」
「うん、ボクの理由はそれだけ。姉さんは必要になった時だけ知らせればいいって言ってたけど」
唯利亜がそう言うと、亜実さんは頭をぼりぼりと掻き毟りながらため息をつき、「そうかい」と口から空気だけが抜けたような小さな声で呟いた。
「……いずれはナユタと直接話したいね」
「今は寝てるから無理だよ」
「わかってる。さっきも聞いた」
『……』
……おや? 思いのほか穏便に収まろうとしている……? もう少し修羅場めいたことになりそうだと危惧していたのだが。
確かに穏便に終わるに越したことはないわけだが、なら俺が居間に入ってきたときのあの重苦しい雰囲気はなんだったのか。こんな簡単に終わるなら、無駄に重い空気なんかにしないでほしい。無駄に緊張していたのが馬鹿のようである。
――と、油断していると何かとばっちりが来るぞ、と警戒していたのに、それすら空振りに終わり、二人の矛先はついに俺に向けられることはなかった。
じゃあなんで俺呼ばれたの。
不可解に終わった家族会議の後、俺は昼食も取り終って暇を持て余していた(俺が目を覚ました時には11時を回っていた)。
唯利亜も亜実さんも、それぞれ自分の部屋に引きこもってしまったので、俺もそれに倣って自室に閉じこもることにした。何もすることのない状態で一人になると、たとえ疲れていても何かしたくなるという天邪鬼現象が発生する。
とりあえず何か読むものでも、と椅子に座ったまま本棚に並んだ背表紙を眺めてみる。一番上には最近買った漫画本が1巻から最新刊まで。その下には少し前に揃えたライトノベルが最初から最終巻まで、3作分。さらにその下に、中学生のころに粋がって読んでいた明治文学の数々。一応、内容だけは覚えている。そして一番下には、滅多に買わない(読まない)図鑑と雑誌。……何を読もうかなどと考えるまでもなく、今の状態と心境で読みたいものは何一つなかった。
じゃあ、と思ってノートPCを起動。インターネットでも特に調べたいこともなかったが、ふと、ADEOIAと打って検索してみようと思い立ち、実際に検索してみた。
案の定、ADEOIAの企業サイトがトップに出てくる。開いてみても、全文英語なので何が書いてあるのかはさっぱり。一応、ADEOIAがどういう企業なのかという知識と今までに習った英語で断片的には訳せるが……だからどうしたという話である。
俺が高校生という身分でありながら所属しているこのADEOIA。しかし、俺は社員としてではなく疵術師として所属しているから、このいわゆる「表のADEOIA」に関わったことはない。ならば九能はどうだろうか。ADEOIAの准将という佐官を超える階級を持ち、中国地方支部の副支部長まで務める九能は、企業としてのADEOIAにどこまで関わっているのか。おそらく、全く関わっていないだろう。そういう話を聞いたことがないし、多分、管轄というか指揮系統が全く別物なのだと思う。むしろ同じなら驚きだ。
……などと、無意味なことを考えてしまうほどには暇である。最近、特にここ半年は暇だと思う余裕すらなかったから、こういう時の暇のつぶし方を忘れてしまっているようだ。
ただ、ボーっとサイトの英文の羅列をひたすら眺めてみる。やがて、目が疲れて画面から目を外すと、ケータイがメールの着信を告げていることに気付いた。ケータイはずっと部屋に置きっぱなしにしていたから、長時間放っていたのなら申し訳ないなと思いつつ見てみれば、ほんの5分前の着信だった。
安心しつつ送信者と本文を確認する。
後朱雀沙夢濡という送信者名を見て、おや珍しいな、と思い、続いて本文を見てみる。内容は――昨日のことに対する謝罪と感謝の言葉から始まり、俺と唯利亜を労わる言葉、そして自分の体調や様子について、まるでメールとは思えない文体と文の量で書き連ねられていた。
そして、最後に『今から会えないかな? ここで待ってます』という、ここだけいつもと同じ口調の一文。うっかり見落としそうだった。
『ここ』という文字だけ色が変わっていたのでクリック。すると、地図が現れた。鳳霊学園周辺の地図だ。その中心にある矢印で、一つの場所が示されていた。ここに来いということか。
幸い、その場所は地図がなくてもわかる。それに暇だし(サボったということは既に忘れている)断る理由は特になかった。
というわけで、俺は外着を物色し始めた。
玄関に向かうと、唯利亜が待ち構えていた。何の用だろう。
「出かけんのかい」
唯利亜ではなく姉だった。何の用だ。
「別に大した用じゃない。亜実さんが書斎にこもってるうちに話したくてね」
『……亜実さん、話したがってたぞ』
「知ってる。だから今のうちにあんたと話したいのさ」
この人は亜実さんと話したくないと、そういうことだろうか。理由は気になるが、別に知る必要もないし訊いても教えてはくれないだろう。気にしないことにする。
「ねえ。亜実さんってさ、あんたにとってどういう存在よ」
『は?』
突然何を言いだすのだろう、この人は。
「亜実さん。多分、今までずっと母親らしいことしてこなかったよね。どうよ?」
どうよ?などと訊かれても。馬鹿野郎、としか。
まあ、母親らしいことはしてこなかったかもしれないが、仕事をして稼いではいるのだから、親らしいことはしてくれているし、養ってもらっている身であまり強いことは言えない。でも、せめて自分の部屋の掃除ぐらいは自分でしてほしい。
「……相変わらず、か。でもまあ、あの人は母親らしいことはしないけど、ちゃんとあんたらのこと考えてるからね。そのへんわかってあげてよ」
『……あぁ、はぁ』
亜実さんのことは嫌いなのかと思ったが、これは擁護しているということでいいのだろうか。結局、何がしたいのか。
「あの人、いろいろと足りないからさ。言葉とか態度とか、あまり人に伝わらないんだよね。そのくせに伝えようって努力より怠惰を表に出しちまうからねえ……偽悪的なんだよね、あの人。」
『それはわからんでもないが』
「さっきのもさ、あんたがいなけりゃどうなってたことか」
さっきの――俺抜きで終わった家族会議のことだろうか。だとしたら俺は何もしていないし、あの二人が勝手に終わらせたことだと思うのだが。
俺がそんなことを言うと、姉は靴箱に背を預けながら、
「あんたがいたからあれで済んだのさ」
とだけ。どういうことなのかはわからない。俺がいるだけということに、何か意味があったのか。……なければ言わないだろう。からかっているという風でもない。
「あの人を素直にしたのはあんただよ。おかげで大した混乱もなくあたしは亜実さんの前に出れそうだ。ありがとーね、奈都海」
『なんか……なぜか全く嬉しくないぞ?』
「なんでさ。このあたしが感謝してやってるってのに」
『その恩着せがましいところだよ。そもそも、姉貴に感謝されるようなことなんて、何もしてないし』
「……あんたは素直さがなくなってんね。ちっさいころはあんな可愛かったのに」
あんたが何を懐かしもうと、今の俺をこうした原因の一つは間違いなくあんただよ。などと言って効果が見込めるはずもなく。俺は姉の横を通り過ぎて靴を履こうとした。
「……蛙の子は蛙、ってね」
恐ろしいことを言うんじゃない。
姉は、言うだけ言って玄関を離れた。靴紐を結んでいる俺の背後で、姉の遠ざかる足音が聞こえる。
「あ、そうだ。言おうと思ってて忘れてたことがあるんだよ」
俺が玄関の扉に手をかけた時、姉の声に止められた。反射的に振り向いて、同じように顔だけをこちらに向けている姉と目を合わせる。
「あたしが死んだとき、泣いてくれてあんがとね。……ナツ」
◇◇◇ ◇◇◇
指定された公園は、鳳霊学園の近く、普段俺や唯利亜、愛燕が使う通学路の途中にある。地図がなくてもたどり着くことができた。同時に、他の鳳霊生徒も使っている通学路でもあるので、案の定、向かう間何人かの生徒とすれ違った。制服を着てきてよかった。
ものの10分で到着。……したのだが。公園の入り口に、蜜華さん――会長の専属お手伝いさんの千恵蜜華さんが待ち構えていた。初めて会った時と同じ、和装に腰エプロン、頭にはヘッドドレスという和風メイドの出で立ちで。
蜜華さんは俺の存在をみとめると、深々と腰を折った。
「お待ちしておりました、奈都海さま」
頭を上げてからそう言い、俺に道を開けるように歩道の隅へ移動した。その流れるような動作に、俺は思わず呆然として動けなかった。
しばらく立ち尽くしていると、さすがに見かねたのか蜜華さんのほうから口を開いてくれた。
「お嬢様が公園の中でお待ちです。それとも何かご質問でも? 私でよければお答えいたしますが」
確かに質問はあるけれども。しかし、それで会長を待たせてしまうのも気が引けるし。どうしたものか。
「お嬢様は待つことに苦痛を感じる方ではありませんので、多少の時間はよろしいかと。特に、今は待つためにここに来られておりますので。いかがいたしましょう」
よくわからんが、つまり、とりあえず話せと言われているのだろうか。
「どうぞ、なんなりと」
考えていることを見透かしたように蜜華さんは言う。逆に、俺のほうから問いたいくらいである。「あなたこそ俺に訊きたいことがあるのでは?」と。あれだけ会長のことを気にかけていた蜜華さんが、会長からの説明だけで納得するとは思えないのだが……?
「ございませんか?」
『みつかさんからは何かありませんか』
俺はメモ帳に書いて、見せた。それを見た途端、蜜華さんは何かを理解したように、ふっと笑みをこぼし、
「帰ってこられてから、お嬢様は以前よりも笑われるようになりました。それだけで、安心するに足りますから」
そう言って、再び浅く頭を下げ、俺に先へ行くよう促した。俺の考えていることがわかった、ということなのか、それ以上は何も言わない。
以前よりも笑うようになった。蜜華さんはそう言った。蜜華さんが言うのだから、それはおそらく空元気の類ではなく本当の笑顔なのだろう。それは俺も嬉しい。どんな事情があったにしろ、会長は巻き込まれた側だ。今回は運よく助け出せたものの、その後のケアは俺もどうしようかと思案していたところだった。
笑えるようになったのなら、それは喜ばしいことに間違いない。
「お嬢様は現在、公園中央部のベンチに座られております。人払いも済んでおりますので、ごゆるりと――」
俺が公園へ向かおうと足を踏み出そうとした直前、蜜華さんが言った。……人払い?なぜに。蜜華さんに視線を向けてみても、笑顔で小首をかしげるばかりで答えが得られそうにはなかった。まあ名家のお嬢様だし、安全のためとかそんなところだろうか。
蜜華さんに見送られながら、俺は会長の待つ公園へ向かった。
聞いていた通り、会長は公園のベンチに座って顔を斜め上に向けて何かを見つめていた。それが虚空なのか曇り空なのかはわからない。
会長はいつも見るようにセーラータイプの制服を着ていた。他にも変わったところは特に見当たらない。ぼーっとしている姿を見るのは初めてのような気がするが。
さすがに真ん前に立つと会長も俺の接近に気付いた。
「ああ……、いらっしゃいっていうのも変だけど。呼び出しちゃってごめんね。あ、座って座って」
会長は、身体をベンチの右端に寄せて左側をぽんぽんと手で叩きながら言った。お言葉に甘えて座らせてもらう。ベンチに腰を下ろして、何の用なのだろう、と思案する暇もなく会長は切り出した。
「今回の件だけど……」
やっぱり来たか。これで何度目だろうか、気にしすぎではなかろうかと思いながら、俺は止めなかった。
「ファントムが悪いのは当然だけど、半分は私も加担したようなものでした。本当にごめんなさい」
座ったまま頭を下げる会長を前にして、俺は何もできない。何もできずに、会長が頭を上げるのを待った。
「ごめんね。しつこいだろうけど……気が済まなかったの。許して」
『まあ、いいですけど』
声は出せないので口の動きだけで言う。これくらいなら会長でもわかるらしく、苦笑に近いかもしれない笑みを浮かべて、「じゃあ、これはもうおしまいね」と手を叩いて締めた。
そして、次はこれ、とばかりに傍らに置いてあるバッグから会長が取り出したのは、小さな空き瓶――いや、その中に何か入っているから空き瓶ではない。会長が大切そうに両手で持つその瓶の中には、ぼんやりと光る何かが入っている。
『これは……なんです?』
俺は、その瓶の中で眠っているものについて、自分の目を若干疑いながらも訊ねてみた。
「自分で……産んだの。ナユタに言われて」
産んだ、という言葉に一瞬戸惑ったが、会長の表情は優しげに微笑んでいるだけで、俺の危惧する事態を想起させる要素は全くなかった。
しかし、会長が産んだという言葉を使ったということは――
「この子もDMFB……、人型だからファントムかもね。私の残っていた能力を全部使って産んだ、最初で最後の子」
母親のように――ではなく、正真正銘の母親としての慈愛の表情を、会長は瓶の中の存在に向けている。会長が包むようにして両手で抱えているその小瓶の中には、ほんの10cmにも満たないヒトの形をしたもの、会長曰くDMFBが入っていた。一見すれば人形か何かにしか見えないが、時々人間のような身じろぎをするのが、命を持っている証拠だ。これを、会長が産んだという。
「私のファントムの支配は、私のDMFBを産む能力に紐づけされる形で埋め込まれていたらしくてね。私の能力がなくなる、もしくはないに等しいレベルまで小さくすればいいって、ナユタに言われたの」
姉の仕業というだけでなんか一気に安心感が薄れる不思議。その反面、姉の考察であれば信用できそうだとも思っている。実際、会長が姉を信用してくれたおかげでこうして元に戻っているわけで――
「まあ、あの時の私は変なままだったから、ナユタにこうしないと殺すって鎌突きつけられて脅されてただけなんだけど」
なんかもう言葉もない。
「それで、私の能力の全てをつぎ込んで、産んだのがこの子。ナユタみたいに器用じゃないから、人の純正魔力を使っても、人型にするだけで精一杯だった」
『人の、ですか』
どこから調達したのか、訊いてもいいのだろうか。
「ナユタが私と戦うために作ったファントムを分解して、その魔力を私が再構成したの。もちろん、ファントムの子には了承を取ったけど……その結果がこんなのになっちゃって、この子がどう思ってるかは少し不安ね」
会長が手の中で、コロン、と小瓶を転がす。が、その中で寝ている小人(……?)は転がったりはせず。浮いているのかもしれない。
「名前はスズっていうの。ナユタが生前の名前を聞いてたみたいで、教えてもらったわ。だから、この子の名前もスズ。鈴音と混同しそうだけど」
忘れてそうだから補足しておくと、鈴音さんというのは鳳霊学園の治安委員会委員長である。
ともかく、このスズとやらは、果たしてどういった扱いになるのだろう。種別としては、当然DMFBになるのだろうが、ADEOIAとしてこれを討伐するのはなんか違うような、そうでもないような。むしろ、俺はこのことを九能はじめADEOIAに報告すべきか否かという悩みも出てくる。
まあ無害そうだし今のところは放置でいいか、とそれら諸々が自己完結したところで、次の話題に移行した。
「……それで、その……、言おうか迷ったんだけど」
会長は伏し目がちになりながら言う。唇が震えている。時々、口を開けて何かを言おうとし、しかし声は出てこずにまた閉じる、といったことを繰り返しながら。
5分ほど経ってから、会長はようやく声を発した。
「ごめんなさい……。ナツに言うようなことじゃないかもしれないけど、聞いてくれる?」
『……どうぞ』
そう言ったが、会長がこちらを見ていないことに気付いた。膝の上で震える会長の手に俺の手を重ねて、頷く仕草で先を促す。少し気障ったらしいかとも思ったが、効果はあった。
「ありがと。……私ね――」
言い出して、勿体ぶるように途切れる。横で、小さく深呼吸する音が聞こえた。
「私――子どもの産めない身体なの」
『……』
会長は予め言ってくれた。俺に言うようなことではない、と。まさにそうだろう。俺に話してどうにかなることでもない。俺には何も、口を出すことすらできない話だ。
「だからね、生まれてくるものが何であっても、私が産んだという事実だけで、私は嬉しかった。そういう能力を授けてくれたファントムには……多分、感謝……していたのかな。自覚はなかったけれど」
そう言いながら自嘲気味に笑う。溜息も交えながら。
俺には会長の、というか女性のそういった部分に対する執着の度合いがまだわからない。だから、何も言えない。会長が俺に慰めなんかを求めているとも思えないけども。
「昔の私は、完全に諦めてたから、色々と迷走してたのね。長女って立場上、言われた通りに通院だけはしてたけど……ナユタと付き合ったのは、迷った末の一つの答えかな。男性と付き合うのと違って、子どもができるとかできないとか、気にする必要がないし。……普通とは逆の意味でね」
会長と姉が恋愛関係にあったという話は、既に姉から聞いていた。とはいえ、やたら眠いと言っている時に聞いたから、付き合っているという事実以外は何も知らない。どういう経緯で付き合うことになったのかは……脱線にもなるし今はいいか。
「竜樹が家に呼ばれた時は、ああ私捨てられたのかなって、そんなことも思ったりして。子ども産めなきゃ、婿養子取ったって意味ないものね……。竜樹を養子にして、後朱雀家を継がせるのかと思ってた」
思っていた、ということはそうではなかった、と。会長は、こんな風に卑屈なことを言いながら、なぜか微笑んでいた。
「そんな古臭いこと考えてたのは、私だけだったんだけど」
ようやく目を合わせた会長は、懸念の一つも抱えていないというような顔をしていた。こういうのを憑き物が落ちたような顔、とでも形容するのかもしれない。会長は普段から表情がころころとよく変わる人だったが、こういう、構えていないというかそんな表情をしているのを見るのは初めてだった。
初めて、この人の本音の表情が見られた気がする。
「それで、私も色々と考えを改めてね」
会長は太腿をパンとスカート越しに叩き、勢いよく立ち上がった。その勢いのまま数歩だけ走り、バレエか何かのように一回転して俺の10m前で向かい合うようにして立つ。
「私も少しだけ、本気で頑張ってみようかなって」
何かの舞台の一幕かと、一瞬だけそう思った。ドラマのワンシーンでもいい。会長が人並み外れた美人であるということと、夕日の差し込む公園というこのシチュエーションの中で、俺はそんなことを思っていた。会長のとても真剣な、夕日のせいかもしれないがまるで燃えているようにも見えるその目が俺を見据えていることにも、ただ、舞台の上の、画面の向こうの、俺の与り知らない空想の光景かのように錯覚していた。まるで他人事みたいに。会長の目の前にいるのは俺なのに。
「ま、それは今じゃないんだけど」
会長は何かを察したように表情を崩し、ふうと息を吐いてそんなことを言った。
「予行演習みたいなものだから。そんな呆けた顔しないの、せっかくの男前が台無しでしょ」
言われて、気付く。あれは、錯覚してもおかしくない状況だったかもしれない、ということに。自分の理解の埒外すぎて、自分が、という発想が完全に抜け落ちていたようだ。ようやく気付く。ここにいるのは俺なのだということに。
まあ、錯覚は錯覚、ただの勘違いにしかならない。
「んーっ、なんか色々吐き出したらすっきりしちゃった。思ったより気分も楽になるものなのね、もっと陰鬱になるのかと思ってたけど。やっぱり愚痴る相手って大切よね」
両手指を頭上で組んで伸びをしている会長を見て、知らず張っていた気が緩むのを感じた。俺もベンチの背もたれに身体を任せ、長い長い溜息を吐く。そうしながら、本当にうれしそうに笑う会長を見ていると、なんというかこう、本当に終わったんだなあというか、そんな気分さえ湧いてくる。
「ありがとね、ナツ。変な話もしちゃったぽいけど、忘れないでいてくれるとうれしいな」
『忘れませんよ。なかなかに強烈な内容でしたから』
頷くと、会長は見たこともないような満面の笑みを浮かべた。今までの落ち着いた印象の会長からは想像もできなさそうな、子どもみたいな無邪気な笑顔だった。これが本来の会長――後朱雀沙夢濡という人間なのかもしれない。
会長は最後に、バッグから取り出したリボンタイを結びながら、俺に訊ねてきた。
「あしたは学校、来れる?」
『行くつもりです』
「そっか。じゃあ、また明日、学校でね」
『はい』
会長は公園を出て蜜華さんと何かを話した後、学園の方角へと足を進めた。リボンを結んでいたのは学園に行くからか。
そうして一人になった俺は――
『……帰るか』
誰に言うでもなく、誰にも聞こえない独り言を残して公園を後にした。




