第1章#18 静穏を破る御転婆女王
まだ続くのかよ、という声が聞こえてきそう
もう一戦だけお付き合い願います
総嬢院。これから俺が向かう学校の略称である。
今まで何度か名前だけは出てきていたが、まだまともな説明はなかったはずなので、今回は総嬢院――正式名称、総合嬢子育学院について話しておこう。
学校法人私立総合嬢子育学院大学。キャンパスは、ここと東京及び北海道ほかいくつかに存在し、ここと東京、北海道のキャンパスにのみ、それぞれ附属の高校~幼稚園までが近辺に学生寮とともに併設されている。鳳霊の近くにあるキャンパスは、医学部と経済学部、スポーツ学部くらいだろうか。
高等部も併設されているキャンパスの学部に合わせて、普通科の他にいくつかの学科を設けている。鳳霊の近くの浅矢見市にある高等部には、普通科、特別進学科、医学科、スポーツ科、芸能科の5つ。詳細という詳細も知らないが、概ね名称通りの学科なのだろう。芸能科の内容には少しばかり興味があるが。芸能というとかなり範囲が広いし。
東京、北海道に続いて、なぜ大阪や福岡なんかを差し置いてまでここにキャンパスが存在するのかというと、創設者のひとりがここ周辺の出身だからだ。というか鳳霊の出身だという噂を聞いたことがある。それがもし事実であるなら、母校の商売敵を自ら担うとは恩知らずなのか何なのか…… 一応、交流はかなり頻繁なのだが。
それはともかく、規模の大きさに反して歴史はかなり新しい。開校からはまだ10年も経っていないはずだが、中等部途中から専門学校ばりの専門教育を受けさせる点や施設や授業、制度の先進性は当初から話題になっていた。今でも有名校、名門校と呼ばれているのをよく聞く。
まとめると、ただの大学附属高校である。とはいえ、卒業生が様々な分野で活躍しているため、方々から入学希望者がやってくる。鳳霊の中等部から総嬢院の高等部へ進学した者も多い。
鳳霊の最寄り駅から、在来線の駅を一つまたいだ程度の距離に総嬢院の最寄り駅はある。鳳霊からは学校から駅まで歩いたとしても15分ほど。先ほど俺たちが利用した時は電車を待つ時間があったので22分かかった。
総嬢院の校門はなぜかやたらと高く、しかも左右に警備員と思しき男性が一人ずつ仁王立ちしていた。俺と由宇也が入ろうとすると、二人同時に止められ身分証の提示を求められた。なんという厳重警備。うちでもやってくれないかと本気で考えてしまう。
髪型を変えていた由宇也の顔と学生証の顔写真が一致しないというハプニングによってひと悶着あったものの、俺たちはとりあえず総嬢院の牙城に乗り込むことに成功した。
◇◇◇ ◇◇◇
乗り込めたからといって語ると思ってはいけない。そんなことをしている場合ではないのだ。というかいろいろありすぎて、もはや語るにも相当に時間を割いてもらわねばならない。だから今はスルーで。
……さて。回りくどいことはよそう。単刀直入に今の状況を話そう。
保護された会長、つまり後朱雀沙夢濡が、寝ていた支部の部屋のベッドから姿を消したのだ。だから今、俺は彼女を探している。
由宇也とは駅で別れた。伝えてくれた九能とは今もまだ携帯で繋がっているが、今のところ耳を当てても誰かに何事かを叫んでいるのが聞こえてくるだけで意思疎通できそうにはない。できたとしても、まだ有用な情報は得られないとは思うが。
さて、なぜ彼女が消えたのかはまだわかっていない。目を覚まして徘徊しているかもしれないから九能には支部内を探してもらっているが、そもそも監視カメラに映っていなかったという話だし、まだ支部内にいる可能性はほとんどないだろう。
そもそも、会長が自分の意思で消えたとは限らないのだ。九能によれば目を覚ましたことを確認した者はいないという。であれば、誰かに連れていかれた――では誰に? 疑問は尽きない。
考えていると、携帯のスピーカーから九能の声が聞こえた。ちょうどよかった、どこを探せばいいかと途方に暮れていたところだ。
会話するときは携帯は耳には当てず、顔の前にかざす。
『何かわかったか?』
「やっぱり支部にはいないみたい。それより奈都海、あなたあの人の携帯にかけてみた? 携帯はずっと繋がりっぱなしだったみたいだけど。それとも知らない?」
『……悪い、忘れてた』
盲点。いや、本当は真っ先に思いつくべきなのだが、いろいろ頭も混乱していたからか、すっかり抜け落ちていた。
「もうやったけど繋がらなかった、的な返答を期待してたんだけどな」
『いや、それは期待しちゃダメだろ』
繋がることを期待せねば。そう言うと、九能は「そうね。じゃ、よろしく」とだけ言って通話を切った。
では早速かけてみる。
…………
……
しばらくして留守番電話サービス云々と流れる。繋がらない。となるとメールのほうも同様だろうか。一応適当な文面を打ってメールとして送信した後、結果を九能に伝えるため、再び携帯の操作を始めた、その時だった。
携帯画面が着信を告げていた。しかも、『会長』という文字を同時に表示しながら。
『……』
迷ったのはほんの僅かだった。
◇◇◇ ◇◇◇
ADEOIA中国支部の一部は少々慌ただしくなっていた。
禁断子に指定された者の失踪。保護対象者でしかないとはいえ、またそうなった原因が既に討伐された後だといえども、目を離すことなどあってはならない。それが基本だというのに。
可能であれば九能が監視保護につくべきだった。しかしそれどころではなかったのだ。ファントムの討伐という行為は、終わった後でも厄介事がついてまわるものなのだ。報告書然り、戦場となった場所の修復や目撃者が万が一にもいないかどうかの調査などの事後処理然り、他人に委ねることもできないし、後回しにもできない仕事が山積みになっている。
故に任せた。それが仇となったのだ。基本的に人手不足のこの支部において、今は監視に回す人員も惜しい状況だ。小支部への派遣から帰還したばかりで疲労困憊の疵術師を宛がった結果がこれであるなら、いったい誰の責任となるのだろうか。
もちろん九能が責任の所在をこの期に及んで追求することはなかった。それは後でもできるし、そうでなくても自身が責任を負うのが道理だとも思っている。
「准将」
呼ばれて振り返ってみれば、そこには信頼できる副官がいた。
「カメラのほうはどうだった?」
「ダメです。歩いて出られる出口のすべての録画した映像を確認しましたが、彼女の姿は一つも……」
応じたのは特殊遊隊副隊長の伊神未永栖。監視カメラの映像の確認を頼んでいた。
支部のほとんどはADEOIAという企業の支社としての機能も持ち合わせている。そのため標準的な防犯システムはあり、またそれ以外に魔術的な面での防災対策も複数施されている。もちろんここで言われる“災害”とは、DMFBのことである。
「となると、他の出口――」
九能は自身の横のはめ込み式の窓ガラスを見ながら言った。
「ここから出たってことになるわよね?」
「通風孔含め正規以外の通路は全て魔術的防衛措置を施されていますから、それを解除する能力がなければ窓ガラスを破って出たとしか」
通風孔などの外部と繋がっている通路となりうる場所には、DMFBの侵入を防ぐために魔術によるいわゆる罠のようなものが設置されている。沙夢濡のような魔術の知識に乏しい人間に突破できるとは思えない。なにより通過しただけで防衛システムが作動し通知が通信士へ行くようになっているため、それがない以上は可能性は排除してもいいだろう。
すると、もう一つの可能性が九能の頭に浮上してきた。
「唯利亜……?」
「まさか……。咲がついているはずですが」
それを聞いてすぐ、九能の判断は早かった。
「咲に連絡取れるか確認して、それと医務室にも向かってちょうだい。私は唯利亜の携帯にかけてみる」
「了解です。斥候大隊の協力も必要でしょうか?」
「できればね。大隊で動かせる人は全員動員してもらえるよう言っておいて。対象は後朱雀沙夢濡、後で唯利亜も追加するかも」
再び「了解」と残して未永栖は九能とは逆方向へ早足に向かった。九能は既に唯利亜が支部にいないことを前提に歩き出している。
ファントムに一騎打ちを挑むなどという暴挙をしでかした張本人である。あれで懲りたのではないかと思っていたが、もしかしたらその認識は致命的に甘かったのかもしれない。
それに加えて、九能にはもう一つの危惧があった。
ファントムの最期の言葉――『これで終わったとは思わないことだ。元凶はまだ、他にある』――
「……まさかね」
残念なことに、この支部にはまだファントムが3体も存在する。
◇◇◇ ◇◇◇
会長の携帯によって呼び出された俺は、後朱雀邸の正門の前に立っていた。
前にも散々抱いた感想だが、やはりひたすらにでかい。以前に俺が入ったのは裏門だったらしく、そちらと比べてこの正門は数倍にも感じるほどに巨大だ。この向こうにも広大な庭と純和風の邸宅があるのだと思うと眩暈すらするほどに。
さて、俺はこの正門を眺めるために来たわけではない。失踪しているはずの会長の携帯を持っている者からの連絡。これに応じないわけにはいかなかった。といっても、誰が持っているのかを知ってしまえば、容易に納得できてしまう人なのだが。そりゃそうだ、むしろこの人が持っていないとおかしい、もしくは困る。そう思ってしまうほどに当然の人だった。
「奈都海さま」
てっきり目の前の門が開くものだと思っていたせいで、真横から呼ばれた俺は情けなくもびくりと肩を跳ねさせてしまった。
「失礼しました。私たち使用人は裏口からの出入りを申付けられておりますので、正門の使用は許されておりません。……このたびは裏門でお待ちいただくよう申し上げなかった私の責です。どうか……」
こちらが恐縮するほど低姿勢なこの女性は、俺が後朱雀邸に泊まった際にお世話になった千恵蜜華さんである。
そう、この人が今の会長の携帯の持ち主である。
考えてみれば当然のことである。俺が会長の一度目の失踪、つまりファントムによる拉致に気付いたのは鳳霊の第二会議室。そこで拉致されたとすれば、会長の私物がまとめてそこに置かれていてもおかしくはない。そして拉致されている間、会長の身はファントムの手中にあったのだから、事情を知らない人たちからすれば行方不明という状況以外の何物でもない。そしてそこで、恐らくは仕事か何かで忙しいだろう会長のご両親に代わって蜜華さんが会長の私物を預かってもおかしくはないのだ。
その果てに、会長の携帯に届いた既知から着信。その希望にすがりたいと思うのも無理はない。蜜華さんは多分、俺に会長の居場所を聞きたいがために呼んだのだろう。俺はそう思っていた。
「ご足労いただきありがとうございます。……その、何から話せばいいのか」
『会長の所在についてですか』
メモ帳にそう書いて蜜華さんに示す。蜜華さんはそれを読むと、俺の第一印象と真逆の余裕のない表情に驚愕をにじませて俺に訊ねてきた。
「学園には風邪で休むとしか伝えていないはずですが……」
『俺も同じ件で連絡を入れさせてもらいました』
「そうだったのですか……、では、昨日の時点ではお嬢様の居場所を知っていらしたのですか?」
俺は答えに詰まる。具体的な行動としては、メモ帳にペンを走らせることができなかった。
確かにファントムに拉致されたと知っていた俺は、会長の居場所を知っていたと言ってもいいだろう。だがなぜ、さっきの流れでそのことがわかる? このことはあまり知られるとマズイのだが……
「お嬢様の行方がわからなくなったのは昨日のうちでも早い段階でした。学園に向かったはずのお嬢様が授業にも出席なされていないと連絡を受けましたので、その時点で急病で早退されたと教員の方には処理していただきました。奈都海さまにも同じように言われているはずです。それでありながらお嬢様の失踪をご存じであり、しかし連絡されたのが単なる病欠扱いとなっているはずの今日……、当初より存じておられ、しかしながら今日お嬢様が再び姿を消したがために携帯電話に連絡を入れたと、そう判断したために問わせていただきました。ご回答を」
「……」
マズイ、と俺は直感的に思った。蜜華さんは今、余裕がない。言い換えれば、会長を見つけ出そうと必死になっている。何を訊かれるかわからない、形振り構わなくなっているかもしれない、と俺は心中戦々恐々していた。
個人的な偏見ではあるが、蜜華さんはこんな風に問い詰めてくることはないものだと勝手に思っていた。しかしこの人も人間なのだ、追い詰められれば必死にもなる。家族が行方不明になって冷静でいられる人もそうはいない。
「違うのであれば、否、と――」
『言う通りではありますが』
再び蜜華さんが口を開くと同時にペンを走らせ、
『詳細は話せませんし』
蜜華さんが見ているのを確認しつつペンを進め、少し文字を大きくしすぎたかと思いながら紙を一枚めくってまた進める。
『今は俺も彼女がどこにいるかはわかりません』
「それは今も探していらしていることから存じ上げております。しかし、お嬢様がなぜお姿を消されたのか、それだけはお教え願えませんでしょうか?」
俺はまたも動きが止まって答えられなくなった。どうやら蜜華さんは俺のことを信頼してくれているらしく、会長がどこにいたのかについては訊いてこない。だが、その代わりになぜ失踪したのかは教えてくれ、ということなのだろう。
しかしどう言えばいいのか。誘拐されましたが俺たちが救出しました、とでも言えばいいのだろうか。事実と言えば事実だが、こんな警察沙汰そのものな内容を教えていいものかどうか。しかもその犯人は既に九能によって殺されているのである。
「どうか、お願いいたします」
何か、安心してもらえる材料はないか、それさえ話せれば蜜華さんも追及を止めてくれるだろうか。俺だってお世話になったしなんらかの形で答えたい。そういった思いもありながら、俺は頭を下げ続ける蜜華さんを前に何も書くことができなかった。
黙りこくる俺に、蜜華さんは拒否されたのだと判断したのか、30秒後に上げた彼女の顔には焦りと悲しみと、そしてごくわずかな諦めがあった。しかし、蜜華さんはその諦念に負けることなく俺への懇願を続けた。
「お願いします……。これまで、このようなことはなかったのです。お嬢様が私にも話されることなくいなくなることなど……」
俺には一切わからないから問うことなくただ考えているだけだが、会長と蜜華さんのような主従という形の関係はどうあるべきなのだろうか。友人のように、兄弟のように、恋人のように、家族のように……? どれも違うから、主従なのだろう。
「過去に一度だけお嬢様が旦那様に反抗なされた時には、私に言ってくださったのです。ただ出ていくの一言だけではありましたが確かに。しかし今回はありませんでした。……私はお嬢様に信頼いただいていると自負しておりますし、その自信が過剰だとも思ってはおりません。ただ、私も未だ若輩に変わりありません、至らぬ面は数多くお嬢様を一人で支えるには力不足だと自覚もしております」
こういうことを言う。他人に言えるだろうか、自分は家族に信じられていると、もしくは愛されていると? 相手を信じているから言えるのだ。主従とは互いの信頼で成り立っているのだということがよくわかる。それが本当に正しいかどうかは別にして。
「故にわからなかったのです。お嬢様は何をもって屋敷を辞されたのか。お嬢様は常より自らのことについては多くを語りませんから、ご存じでなければ推測、憶測でも構いませんのでどうか」
乞われたところで答えようがないことに変わりはない。ないのだが、やはり何か答えたい。そう思うのは俺が単純だからだろうか。こうして泣きつかれたから、俺は心を動かされて口にしてはいけないことを口走りそうになっている。言ったところで信じてもらえるわけがない……ということもおそらくない。こんな状況で話すことが冗談や妄言ではないことくらい、この人ならわかるはずだ。
……ダメだ。もはや自分ひとりではどうにもならない。誰か、助け舟かなにか出してくれないものか。例えば、俺の携帯がこの直後に鳴ってくれるとか。九能から情報は来ないのか。
外部からの干渉で解決しようとしている時点で、もうダメなわけだが。かといって俺にどうこうできるわけもなく、無意味に立ち往生する俺に対して蜜華さんはすがるような目で黙ったまま待ち続けるのである。
居たたまれなさ過ぎて時間の感覚が麻痺してくる。おそらくは5分も経ってはいないはず。体感時間は30分くらいあったが、こんな時くらいは願望が現実に反映されてもいいではないか。ともかく願望時間で5分ほど経過した時のことである。
これだけは希望的観測でもなんでもなく、切望していた通りに俺の携帯が着信音を発してくれたのである。
視線で出てもいいかと問うと、蜜華さんは目を伏せておそらく構わないというような意図を示してくれた。
この状況を打開してくれた救世主はいったい誰だろうと考えることも発信者の名前を見ることもなく、俺は画面中央で光る通話ボタンを押した。相手は案の定、俺の安心と信頼を一手に引き受ける九能――ではなかった。
『お、繋がった。あれ、でもこれ、どうやって意思疎通するのかな?』
相手はつい数十分ほど前に別れた由宇也だった。横に他に人がいるのだろうか、喋れない俺とテレビ電話を繋いでどうすればいいのかをレクチャーされ、しきりに頷いていた。
すぐに、由宇也の映る画面が一回り縮小され、下段にテキストチャット用の空白が出てきた。これで返答しろということだろう。宇類や真実と電話するときにもよく使う。電話自体をほとんどしないけど。
『これでそっちからも話せるよね? ……よし、早速だけど奈都海、今どこにいるの? 会長が探してたよ』
『いやどこって』
……――? なんだって?
それだけ入力したところで、俺は動きを止めた。由宇也は、誰が、俺を探していると言った?
「お嬢様を見たのですか……!?」
そして、聞こえていたらしい(聞いていたのかもしれない)蜜華さんは血相を変えて俺の携帯画面をのぞき込んだ。突然の見知らぬ闖入者に驚きながらも、由宇也は「お嬢様」という代名詞と俺の表情から察したらしく頷いて説明を始めた。
『ええと、生徒会室に顔を出して日誌とか書いて生徒玄関で神田さんと会ったから途中まで一緒に帰ろうってことになって』
ここまでは多分俺だけへの説明である。つまり横にいるのは愛燕か。
『で、校門あたりで会長……沙夢濡さんと会ったんです。で、奈都海の居場所を訊かれたので電話したんですけど。今日は風邪で休むって聞いていたものですから、ちょっと』
「今は……! 今はどこにいらっしゃるか、もしくはどこに行かれるかなどご存じありませんか!?」
由宇也の言葉をさえぎって問う蜜華さんの必死さに、由宇也も俺も少しだけひるむ。
『い、いえ……わからないと言ったらすぐにどこかに……。え……?』
由宇也が横の愛燕らしき人物の言葉に耳を傾ける仕草を見せる。俺と蜜華さんは、何か重要な情報ではないかと固唾をのんで待つ。
『そういえば……、あの、神田さんが言うにはバスに乗って行ったんじゃないかって。確かあのバスは――』
バス。確かに学園の目の前には鳳霊学園生徒御用達のバス停がある。そこから乗ったということか。しかしなぜ。バスまで使っていきたい場所とはいったいどこなのか。それに俺の居場所を訊いたその意図もわからない。会いたいのなら、支部で待っていればいいものを。
俺が思考を廻らせているその最中、由宇也は決定的な情報を口にした。
『――弓内方面行きだろうって』
それを聞いた瞬間、俺の目的地は決定した。
◇◇◇ ◇◇◇
後朱雀沙夢濡が目覚めた時、目の前には天使がいた。
三頭身の体躯と簡略化された翼に頭上で輝く小さな輪っか。まるで漫画の中からそのまま出てきたかのような姿だが、彼女にはこれがファントムだということがわかっていた。
しかし、不思議と恐怖はなかった。そして、そのことに疑問を懐くこともなかった。この状況に恐怖を懐いて然るべきという認識が、今の彼女にはなかったのだ。
その反面、自分がどこにいるのか、と自問する理性はあった。自分の寝ていたベッドとその横の点滴台を見て、病室だということを把握してから、次はなぜここにいるのかと自身の記憶を遡り始めた。
「……」
なんとなく。本当になんとなくとしか言いようのないレベルではあったが、今まで感じたことのないわずかな充足感と、それを掻き消すほどに巨大な喪失感があった。記憶を探ってもその理由は思い当たらず、何を得て、何を喪ったのかもわからず、ただその未知の感覚に戸惑うばかり。
記憶は、学校で学園祭のイベント構成について考えていたのを最後に途切れている。その後のことは一切、つい先ほど目を覚ますまでのことが思い出せない。
わからないのであれば、問うしかない。ないのだが、相手が目の前のファントムしかいないことに大きな失望感を懐く。これに訊いてまともな答えが返ってくるとは思えない。
「……あら。お目覚めですわね、お姫さま。おはようございます、ですわ。もうお昼ですけども」
ほらこれだ。これである。と、彼女は誰にともなく心の中で言い捨てる。表情も心中に沿ったものに歪められていたが、天使は文字通りそのものの笑顔を浮かべて飛び上がった。
「無理やり女王に祀り上げられた気分はどうでした? あぁ、あとは胎盤を初めて落とした感想もついでにおねがいしますわ」
沙夢濡は眉をひそめる。意味の分からない質問や、その後に続く趣味が悪いとしか言いようのない下種な求めよりも、女王というフレーズに引っ掛かりを覚えたのだ。
自分が女王として扱われたとはどういうことだろう。確かに後朱雀という特別な家に生まれたいわゆる名家の令嬢であり、日常的にお嬢様と呼ばれてはいるが、さすがに一国の頂点に立った記憶などない。それとも抜け落ちた記憶の間にそんな事態が起きていたとでもいうのだろうか。
「……そんなまさか」
「その通りですわ。お姫さま」
一笑に付すつもりで声に出したその言葉に、天使は笑顔の肯定で返した。
沙夢濡はあくまで冷静に首を傾げる。混乱しているというほど脳内は入り乱れていない。記憶と新たに取り入れた情報はきちんと整理できている。わかったことは、目の前の天使が何を言っているのかわからないということと、人の考えていることを見通せるということだった。
「あらあら。たしかにわたくし、魔術は使えますけどもヒトの考えを覗くなんてことできませんわ。ただ、表情やしぐさ、それとヒトの纏う魔力の質から何を考えているか推察しているだけで」
「同じことでしょう」
天使は笑みを深くするだけで言葉にして返すことはしなかった。
「それで……実はね、お姫さま」
「お姫さまって私のことなのかしら」
「お姫さまにはまだやってほしいことがいくつかあるの」
「やってほしいこと?」
無視されたことについては即座に気にしないことにした。むしろ言葉の通じていることが奇跡のようなものだと思うようにしたのだ。元々全く異なる種族だ、そういった考えでいても無理はない。
「ええ、とても簡単。ことを成した後は、他人に任せて処理してもらえば解決しますわ」
「解決って、なに……」
沙夢濡が言い切る前に、天使は笑みを消して言った。
「“あれ”の残していった“爆弾”――今すぐここで爆発させていただきませんこと?」
◇◇◇ ◇◇◇
ADEOIA中国支部の通信士室。
通信士が常駐しDMFBの索敵や監視を行う機器を扱うスペースで、ミーアも普段はここでDMFBの早期発見と発生規模、ランクの調査に尽力している。
だが、今日だけはまた別の用途に用いられていた。
「ミーア、どう? なんか見つけた?」
「んー……まだ何もないですねぇ。てゆーか、この探し方だと時間かかりすぎですよ」
ミーアの座る椅子の後ろに立って訊ねたのは未来小。ミーアによる精神崩壊必至の公開処刑のことは緊急事態につき一度忘却の彼方に放り投げ(後で報復しようとは考えている)、今のところは沙夢濡の捜索に注力しようと決意したばかりである。それに先立って、久宮よりも一足早く立ち直っている。とはいえ先の戦闘で体力を消耗しているために、今は外に出ず後方支援に回っていた。
二人の注視する画面に映っているのは、市内各所の監視カメラの映像。画面は4×6に区切られ、それぞれのマス目に映された映像が目まぐるしく切り替わっていく。
各地の監視カメラの映像データを魔術的な手段で転送させ、それを投影しているのだ。基本的に動画や写真にはDMFBは写りこまないため、ADEOIAでは監視カメラの類を全く信頼していないのだが、魔術犯罪の頻発する海外では、特にFASCAによって用いられる方法である。
「とはいっても、ちょちょいっといじれば簡単に映らなくなるしなぁ……。あの人ってそういう知識あるんです?」
「ないと思うよ? 咲ちゃん曰く、先祖が魔術師だっただけで、今は完全に魔術の世界からは離れてるってさ。魔力許容量はかなりあるみたいだけど」
だからこそ、彼女の存在の手がかりよりも彼女そのものを探している。ほぼ一瞬しか映らない映像から人の顔を見つけ出して自分の記憶の中の沙夢濡の顔と照合する、という作業を延々続けていく。
「やっぱり肉眼はきついですねー。なんとかなんないんですかね、これ」
「ねー。ファントムの時はめっちゃ探してたじゃん。斥候の人たち、今なにしてんのさ」
「いろいろやって探してるみたいですけどねー。ぜんぜん報告もこないんじゃ、なにやってんだって話ですよね。ファントムの件でつかれてるのはわかるんですけど」
不満を垂れるミーアに未来小は苦笑いと微笑みの中間のような表情になる。斥候大隊の隊員は階級にかかわらずミーアの上官ということになるのだが、彼女は果たして自覚しているのだろうか。
「それにしても、唯利亜ちゃんも探しに行ったんだろうね。あの二人、仲の良さがハンパなかったから」
「へー、そうなんです?」
「姉妹とか恋人とか、そんな感じ」
「それはそれは……。うらまやしいですねー」
「ん……、ああそだね」
ミーアの間違いを正そうかどうかと悩む未来小だったが、なんとなく可愛らしかったので指摘しないでおいた。実はツッコミ待ちなのかもしれないが、それはそれで放置するのも面白い、などと黒いことも考えている。
と、軽くじゃれあいながら沙夢濡の捜索を行っていると、インカムを装着したもう一人の女性通信士がおもむろに身体を二人のほうへ向けた。
「お二人とも、情報入りましたがいかがいたしますか」
「ほほー、今になって新しく? 役に立ちそうな情報ならいいけど」
未来小はそう言いながらその通信士の下へ向かい、ミーアにしたように座っている椅子の背もたれに手を置いて端末の画面をのぞき込んだ。
「情報ってどんな? 私たちをあの苦行から解放してくれるようなのだといいけど、望み薄かなぁ……」
「どうでしょう、その期待には添えられそうですが」
「お、もしかして見つかったとか?」
期待に目を輝かせて端末に新たに映し出される映像を待つ未来小。しかし、実際に映し出されたものを見て、未来小は思わず呆けてしまった。
「なにこれ」
「市内を走るバスの車載動画の一覧です。今から照合システムにかけますので、終わるまでは元の作業にお戻りください」
「えー……、まあ仕方ないかな。それで見つかったらもう終わりってことでいいんだよね?」
「そうですね。准将に伝えて、それで捜索そのものは終了します」
胸を撫で下ろす未来小は再びミーアの下へ戻り、さきほどまでより集中力を緩めて元の作業を再開した。
後朱雀沙夢濡の姿の映りこんだ車載動画は数分後に見つかり、すぐさまその情報は九能へと伝えられた。
敬語のセリフは書くのがめんどうですね
誤った敬語を書いている可能性もあるし…… いちおうサイトを見ながら書いたんですが




