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Silent Lyric  作者: 赤井呂色
第1章 誘惑する狂姫
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第1章#15 ‐絶対回帰‐


 私すら思わなかった、2か月もの放置。

 本当に申し訳ない思いでいっぱいです。


 これからも更新は月1回とかになりそうで、本当に申し訳なさがとどまりません……

 それでもがんばりたいとは思いますので、どうかよろしく





『やめろ……』


 奈都海の拒絶は届かない。声が出せず、ファントムを止め得る魔術を出すこともできない。普段から守られる立場にあったが、それに甘んじてきた自らを恨まずにはいられなかった。恨んだところで、何ができるようになるというわけでもなく、ただ、そこに在るだけの木偶でしかないことに変わりはない。

 奈都海の拒絶は、虚空にすら届かない。


「ぃ、いや……、ゃめ……」


 九能の懇願は黙殺された。想起された記憶は彼女の精神を蝕み、本来の力はほとんど完全に封じられてしまっている。元々強いとは言えなかった彼女の心を、ファントムは的確に攻めていた。圧倒的な能力を持っていても、それを持つ者が発揮できなければ意味はない。ただ、蹂躙されるのを待つだけである。

 九能の懇願は、ファントムを昂揚させる。


「あぁ……! クク、好悪に関係なく、魔女よ、その顔にはそそられるものがあるなぁ! 責める手にも気合が入るというものよ!」


 ファントムの蛇は、九能を締め上げながらその頭を特定の部位へと向ける。

 牙を剥いたその顎は、九能の纏う漆黒のコートを容易く噛み破り、その下の白い肌はファントムの前に晒される。その瞬間、九能は羞恥に顔を染め、自身を見るファントムの下卑た嗤いを直視できず、目を閉じていた。


「クハッ……! どうしたね、つい先ほどまで、私に肌を晒したとて気にするそぶりすら見せなかったというのに! クク……そうか、貴様の記憶はそれか! 確かにそれは女にとって忌むべきもの、思い出したくはなかろう……。だが、だがね、魔女よ! 私は容赦などせんぞ!」


 戦闘の中で衣服を失うことは珍しいことではない。特に、九能のような近接戦闘を主体にする場合、それ以外よりも衣服の喪失は頻発する事態でもある。故に敵に肌を晒しても気にすることはないし、常にスペアとなる服を魔術で圧縮して持ち歩いている。この服とて、肌を隠す以上にそれに備えられた干渉力による防御能力のほうに期待して用いられるのが通常である。

 しかし、今の九能はかつての幼い精神状態に退行していると言ってもいい状態である。胸も恥部も、普段であれば晒したところで無感情を貫ける戦士の精神も、今の九能には欠片も残ってはいない。


「やめて……やめてよぉ……」


 もはや言葉以外には抵抗する手段を知らない九能は、それすら黙殺され、脚に巻きついた蛇によってその股を無理やり開けられた。何匹もの蛇が、その間にある九能の恥部に狙いを定め、探るように舌をちろちろと出し入れしている。

 口を裂かんばかりに笑みに歪んだファントムの顔は、まさに九能の記憶の中にある、彼女を凌辱した無数の男のそれとまったく同じだった。

 九能の記憶が、さらなる鮮明さを伴って想起される。強烈すぎるトラウマは、その人間の魔力の指向性を強制的に変化させる――つまり、精神に強烈なブレを引き起こすだけでなく、その魔力が肉体にも作用する。

 記憶の光景が、肉体にも反映される。


「ひ……っ、ぁ、が……」


 自分の顔さえ覆うほどに大きな手が、身体をまさぐり、

 得体の知れないものに、喉を塞がれ、

 満足に濡れてもいないのに、無理やり股を引き裂かれ、

 欲望の塊を、唐突に体内に注がれる。

 ――繰り返された一連の記憶が、60年の時を経て、再び九能を襲った。




「――ッ――あ        ッ!!」


 声にならない絶叫が、江倉宮の頂上に響く。

 と、同時、蛇が頭を向ける先で、九能が潮を吹いた。




 ファントムは――嗤う。ただひたすらに、そのおかしさに頭が狂ったように嗤いに嗤う。


「ヒ――ククク、クヒッ……、素晴らしい!! こうも……狂ってくれようとはなぁ! いやぁ、素晴らしい! 女の裸体などと思っていたが、こうして見れば……、いやはや! 女のよがり狂う姿というのは、やはり、いつ見ても! まるで精巧な芸術のように破壊衝動と嗜虐心を呼び覚ましてくれる!」


 九能は満身創痍だった。顔は涙と鼻水に塗れ、股からは愛液が溢れるだけ。

 そんな九能を前にして、ファントムは心底愉しそうに叫ぶ。戦う対象として、本気で殺りあえる相手として、これほど好条件の相手もいなかった。それを今、自分は屈服させようとしているのである。昂揚せずにはいられないのだろう。


「さあ、魔女よ、仕上げだ! 壊すか? どう壊そうか? クク、方法はいくらでもあるがね、どれがよいと言われると困るのだ。最も貴様を辱めの中に、深く、深く、沈められるか、私は悩んでしまう。なぁ、魔女……、魔女よ、なぁ!」


 だが、そのかつてない昂揚に水を差す者がいた。


「いい加減に……」


「おぉ?」


 奈都海だった。ファントムという強大な敵を前にして、しかし九能という強力無比の味方がいるからまだ楽だった奈都海は、その九能が無力化され、為す術を失っていた。

 奈都海に、ファントムを打ち破る方法はない。あったとしても知らない。だから、と言うとそれだけが理由ではないが、奈都海はファントムの許されざる所業を、ただ見ていることしかできなかった。


「ああ、貴様か。そういえばいたか。何も手も口も出さぬから、貴様もこの魔女の姿を愉しんでいるものとばかり思っていたが。その趣味はないか?」


「聞こえたろーが。いい加減にしろっつってんだよ」


 だが、恋人を虐げられる光景を散々に見せつけられて、黙っていられる奈都海ではない。ついに、奈都海の中の怒りが理性や恐怖を上回った。

 恋人の窮地に立ちあがった奈都海に、九能は制止の言葉をかけようとしていた。


「な……なつ、み……」


「待ってろ。すぐに助け出してやる」


「美しいなぁ、人の愛情。さまざまに表現されうるからこそ、それは壊しがいがあるというものだが。さて、貴様はどうやってその愛とやらを守ろうという?」


「黙ってろ。黙って九能を解放しろ。痛い目ぇ見るぞ」


 怖気も躊躇も感じられない奈都海の言葉に、ファントムも意識をそちらに向けざるを得なくなった。正確には、ファントムである自分に物怖じしない奈都海に、興味が湧いただけではある。


「ほぉ? 私に刃向うか。黙って見ていれば殺しはしなかったのだが。どうだ、その怒りを呑み込み、私を許せ。貴様は殺さない」


「おもしろい冗談だな。爆笑モンだ。お礼に殺してやる」


 奈都海の不敵とも挑発的とも言えるセリフに、ファントムは新しい玩具を与えられた子どものようににんまりと嗤い、九能へ向けていた身体を奈都海のほうへ翻した。

 磔にした九能を背景に、ファントムは奈都海と対峙した。


「見たところ、貴様には魔女ほどの力はないようだが? さて、どんな手練手管で私を愉しませようと言うのかね?」


「……」


 奈都海を護っていた九能による干渉力の膜はもうない。奈都海の身を守るものは既になく、奈都海にもファントムという強大な敵を相手にできるほどの能力はない。九能を救う術もなく、彼はただ怒りのままにファントムと殺意の切先を突き合わせているだけに過ぎない。

 それでも、奈都海に退くという選択肢はなかった。ファントムが何であろうと、ファントムが何と言おうと、九能を見捨てる気はまったくない。それでは、唯利亜の二の舞にしかならないと考えていたから。


「私を許さないと言うのなら、宣言通り、殺すしかない。二言はないな? 安心しろ、急所は外さんさ。魔女のようにいたぶったところで、男では愉しみもない」


「俺にもその趣味はないんでね、殺すなら殺せよ。できるもんなら、な」


 奈都海はさらに挑発する。ファントムも自覚してかせずか、挑発に乗ってローブの袖からさらなる蛇の頭を露わにする。


「では――……っお望み通り!!」


 言い、ファントムは仁王立ちする奈都海へ、その蛇を20ほども矢の如く飛ばした。

 ファントムは、これで奈都海を殺せるとは思っていない。思っていないというよりは、何らかの方法でこの蛇を払い除けてくれるのではないか、と期待していた。

 九能は、自失する精神の中で、おぼろげながらも奈都海の蛮行を認識していた。心の中で、恋人を止める叫びがこだましていた。

 奈都海は、この時を待っていた。ファントムが蛇を展開してくれるのを。それを一網打尽にできる時を。

 奈都海は、“異なること”を許さない。


「……!」


 目を見開き、この空間に自身の魔力を拡散させる。そこには彼特有の性質が充満し、それは魔術発動の意思とともに一つの現象、魔術という形で、この空間に身を置く彼の限定した存在に作用する。

 今、彼が排除したい存在は――ファントムしかあり得ない。


「……ッ、グッ!?」


 ファントムが予想外の苦痛に呻いた。奈都海へ飛ばしていた蛇が、突如、骨や肉の砕ける奇怪な音とともに捻じ曲がり始めたのだ。

 それはファントムの肉体の一部。故に、存在を許されないファントムは許された存在になろうと自らの肉体を無理に変形させた。

 だが、ファントム本体の干渉力は、奈都海の魔術を容易く防いだ。奈都海の魔術はファントムの中でも干渉力の低い末端、蛇の部分にのみ作用し、その効力を現したのだ。

 ただ、奈都海にとってはそれだけで十分だった。奈都海を襲おうとした蛇と同時に、九能を縛めていた蛇も、その魔術によって排除されていた。宙に留まる支えを失った九能は地面に叩きつけられ、しかしその衝撃が彼女を現実に呼び覚ました。


「っ……ふぅ、後は頼んだ九能。俺は全力でこれだよ……」


 溜めた息を一気に吐き、後を九能に託す。

 奈都海は自分の持てる魔力を、この魔術に賭すつもりだった。結果的には肉体のストッパーが働いて、僅かな魔力を残してそれ以外を魔術に変換することになったが、それでも全力を出し切ったことに変わりはない。その疲労は彼を襲っていた。その上、自分の魔術でファントムの蛇を消しさることができると保障されていたわけでもなかった。ファントムを挑発していても、その心中は冷や汗だらけだったのだ。その精神的な疲労も、今の彼を苛み、今頃になって彼の顔は冷たい汗だらけになっている。


「ありがとう、奈都海。……あなたのくれた時間は、十分だったわ」


 反して託された九能は、まだ万全とは言えないまでも、ファントムに囚われる前よりは遥かに回復していた。蛇の再生に集中しているファントムの背後で、自らの脚で聢と大地を捉えて立ち上がり、腕に巻き付けていたチェーンの先端の巨斧を展開した。

 ズンッ、と鈍い音ともに、巨斧はその刃の半分を地下に埋め、柄を持ち主に向けて現れる。九能は、それを右手にとって再びファントムへ向けて構えた。

 ファントムは、まだまだ嗤う。


「クク……、どうしたね。我々の舞闘は、もうお終いか?」


「そうね……一方的な感情は好きじゃないの」


 九能は、当初と同じ不敵な笑みを浮かべる余裕すらあった。嗤いながら、ファントムはそこに不可解なものを感じ取った。肉体の異常な再生能力は既に目で見て確認しているが、それが精神にすら及んでいることに眉を顰めていた。

 精神を、魔力の指向性を無理に変えて、なぜまともでいられるのか。“戻る”という現象によるものだと知らないファントムは、そんな疑問の考察に終始している。――知識がある故に。

 九能は当然、目の前の戦場しか見えていない。


「せめて、相思相愛の舞台で踊りましょう? ほら、今ここに――」


 まるでわかるように、そうだと知らせるように、九能は巨斧を振りかぶり、脚に力を込め、ファントムに照準を定めている。


「殺意の舞台があるじゃない!!」


 言うが早いか、九能の身体は残像を残してファントムへ向けて疾駆していた。

 自分の身体すら巨斧の一部にして、振りかぶった巨斧に振り回されるように分厚い刃をファントムへ叩きつけていた。巨斧は小さなクレーターを形成し、土煙がそれを覆った。

 正確には、ファントムの元いた場所にそれはできた。ファントムはそれを難なく避け、仁王立ちで九能の鋭い視線を受けていた。


「殺意の舞台……素晴らしい響きではないか、なぁ?」


「これからあなたを殺せると思うと胸が高鳴るわ。どう殺そうか、脳内で今シミュレートしてるとこよ」


 お互いに快楽殺人者のように嗤い合う。そこには人間の持つ理性はない。倫理を捨てた衝動だけが、両者の脳内を支配していた。


「いいなぁ! 心が高鳴る! 互いに互いを想い、心の中を、意識を、相手のことだけでいっぱいにする! あぁ……痛い、胸が痛いぞ、魔女? 恋……恋の病が! 私の心を苛んでいる!!」


 ファントムは、蛇の中に埋まっていた醜く歪んだ腕で自らの胸を掻き毟りながら、瞼と口を限界まで拡げて叫ぶ。それは一見すれば九能に対する愛の告白だったが、この場においてそれは、自分の中の殺意・衝動を相手にぶつけるだけの、ただの獣の咆哮だった。

 九能はそれを


「気持ち悪い、消えろ、殺してやる」


 一蹴する。


「あぁ……あぁはぁ……悔しいなぁ、殺してやる!」


 互いに同じ言葉を紡ぎながら、それは衝突することでしか確認し合うことはできない。

 ファントムの右の蛇が束ねられ、一本の巨大な腕を作り上げる。ファントムはそれを振り上げながら九能へ疾走した。その速度、まさに疾風。視界のおぼつかない奈都海には、その残像すら捉えることができなかった。


「――ッ!」


 しかし九能は、その巨腕の一撃を、巨斧を振り上げるただそれだけの動きではじき返していた。

 渾身のアプローチを拒否されたファントムは、追撃しなかった。はじかれたことがショックなのではなかった。むしろその程度はしてもらわなければ興が冷める。反撃を警戒してのことではない。むしろ、反撃が来なかったことのほうが不可解だった。


「どうしたね? 魔女」


 何度となく言ってきた挑発の言葉。だが、今回だけはそこに挑発の色は薄かった。

 過剰に大袈裟に戦う九能が、ただ巨斧を持った腕を振るだけで攻撃をかわした。たった2,3度撃ち合っただけだが、それでもわかる。“巨斧の魔女”なら、そこにもう一つのアクションを加えることで次の反撃の一手に繋げるはずだ、と。

 だが、ファントムは考える。考えられる知能がある。故に、思い至った可能性を確認する行動が、彼の同胞によって行われた。

 九能は動かない。何かに耐えるように、立ち尽くしている。理由は、ファントムにはわからない。今、探っている最中である。奈都海は知った。小隊の繋がりが彼に事態を教えたのだ。


 ――結果、

 一つの可能性が肯定され、事実となった。


「……死んだか。二人……、いや、四人、か? ……ん? まあいい、殺せとしか命じていないのだから、それ以外は期待していない」


 九能が戦闘から意識を外した理由。それは、遠隔視用に産ませておいたDMFBを通して把握した。

 九能の部下数人が、DMFBに敗北した。つまり、死んだ。ファントムにとって、相手にもならない雑兵がいくら死のうが知ったことではないが、そのせいで相手となる魔女の戦意が削がれることなどあってはならない。

 しかし、そのファントムの懸念も、杞憂に終わりそうだった。


「笑わないのね」


「笑うものかよ、死人など。雑魚は雑魚。だが、奴らも戦った一人の魔術師。その死を笑っては、同胞の功績まで笑うも同然。私はそう考えるがね」


 九能が顔を上げる。俯いていた顔には、覚悟と決心があった。


「感謝するわ。高笑いなんてしてあの子たちの死を侮辱しようものなら、理性がぶっ飛んでたところよ」


「それこそ見たい魔女の姿だな。……が、これも叶わぬさだめ。来い、魔女。敗北の土の味を教えてやる」


 ファントムは気付いていた。九能の纏う空気が変質したことに。

 魔術師の纏う空気が変わったということは即ち、その放出されている魔力の質が変わったということである。それはひいては、使う魔術が大きく変わるサインでもある。これを読みとることで、次に撃たれる魔術を看破する能力を持つ魔術師が存在し、それを敵に悟られないことこそが優秀な魔術師であることの一つの証とも言える。だが、それは、使える魔術に大きな制限のある疵術師に対しては、全く無意味とさえ言えるスキルだ。

 だというのに、九能の纏う空気の質は変わっていた。疵術師に、魔術師のような複数の魔術を撃ち分けるような器用さはない。

 ――だが、ファントムは知っていた。疵術師が周囲の空気さえも変じるほどの変化を、自身に強いるその瞬間が、なんと呼ばれているかを。


「――実はね……、この戦い、すぐに終わるものだとばっかり思っていたのよ」


「ほう、なぜかね」


 ファントムは興味を惹かれたのか、来い、と言ったにも拘わらず九能の言葉に応じた。応じるだけならこの語り好きのファントムのこと、不思議でもなんでもないが、それまで取っていた構えを解いた時には、それを見ていた奈都海も驚いた。


「以前に戦ったファントムを、この状態で圧倒できていたもの。私だって強くなっている、そう確信していた」


「それで?」


「あなたは無理だった。今まで私が戦ったファントムの中で、最も狡猾で、一番賢くて、しかも強い。最凶で、最狂なのに、最強ですらある。私では勝てないと気付いたわ。……明らかに、遅かったけれど」


「これは恐悦至極に存ずる。“巨斧の魔女”からそんな言葉をかけられるとはな」


「それも、あなたの強さの秘密かしら。“巨斧の魔女”……なぜ、あなたが私をそう呼ぶのかが不思議でならなかったけど」


 今まで幾度となくファントムが口にしたその単語に、ついに九能から指摘が入った。

 しかし、ファントムは、実に不可解だ、とでも言わんばかりに首を傾げた。


「当然だろうが? 貴様は“巨斧の魔女”、それ以外になんと?」


 言い、ファントムは再び構える。右の蛇が束ねられ、再び巨腕を形作る。

 九能はそれを見て、目を細めた。何か意図のあってしたことではない。単に、彼女が嘘をつく時の癖が、それだったというだけのこと。

 九能は、嘘をついた。


「本気を出すわ」


 その言葉に、ファントムはにいぃっと、その口を限界まで頬の裂けるまで歪み開き、笑った。


「まだ上があるか!」


 その顔は本当に歪みきっていたが、確かに今までの嗤い顔ではなく、屈託の一つもない無邪気な少年のような笑顔だった。

 その笑顔のまま、ファントムは巨腕を掲げながら九能に突進する。示し合わせたように、その瞬間、九能の口がただ一言を紡いだ。




「“源破顕現”」




 瞬間、九能の周囲を旋風が覆う。それはもちろん、ファントムの驚異的な重量と干渉力を持つ巨腕の前には、物理的にも魔術的にも防ぎうる防壁にはならない。

 九能を護るのは、九能自身。そして、九能の持つ巨斧だけである。

 ファントムの超重量と超過速度の巨腕と、九能の神速で振るわれた超重量の巨斧が、衝突した。

 ――ただ、それだけ。二つの干渉力は斥力によって反発し合い、しかしそれを双方の持ち主に許されず、閉じ込められた衝撃は時間という時間もない直後に飽和、周囲に衝撃波としてその衝突の激しさを伝えた。

 二人はその衝撃波に木端のように吹っ飛ばされ、距離を離される。――と、奈都海が思ったその矢先に、二人は衝撃波に吹き飛ばされた木の幹を蹴って互いの敵へ一直線に突進した。

 再びの肉薄は、再び巨斧と巨腕を叩きつけ合う結果となった。

 ――直後、再びの衝撃波。だがそれは前のそれの比ではなかった。

 本当に目の前で爆弾が爆発したかのような衝撃波。刃と拳を爆心地にして広がる、破滅的なまでに破壊的な衝撃波。無理やり捻じ曲げられた空間は悲鳴の代わりに雷光を無造作に放り投げ、その歪曲に巻き込まれた物体物質は拉げて潰れて撹拌されて原型を忘れさせられた。

 球状の衝撃波は、その中で暴れまわる魔力を携えたまま、容赦なく拡がり続ける。呑み込まれたものは並みの魔術すら遥かに超える量と速度の魔力の暴走に、その形をこの世から消し去られた。

 ただの衝撃波ではなかった。空間すら歪めるそれは、強力な魔術同士がぶつかった時に発生する「空間の魔力の暴走」。自身の放った魔力だけでなく、大気中に漂う魔力にすら破壊力を与えてしまう。それは通常、魔術同士の衝突でのみ起こり得る現象として知られている。大気中の魔力に影響を与えられるのは、魔力でしかあり得ないためである。

 だというのに。この二人は自身の肉体と武器だけでそれを引き起こした。ファントムの肉体は魔力で構成されているものの、それはあくまで肉体、魔術のような流動的な形でなければ空間の魔力にこれほど大きな影響を及ぼすことはできない。ただ干渉力を与えられただけの九能の巨斧もまた、同じである。

 この現象の奇異さは、しかしこの場の誰もが理解できていなかった。死力を尽くしたこの戦いに、そんな些細な疑問を挟むのは野暮だとも言えよう。

 二人の撒き散らした災害は確かに酷かったが、当の二人には全くもってダメージになっていなかった。未だに目覚める気配のない沙夢濡はファントムに護られていたのか、彼女の周囲だけ変化がなく、奈都海も自分を中心に半径2m程度に“異なること”を許さない魔術を使うことで、大災害を避けることができた。

 しかし、奈都海は完全に防ぎきることができずに四肢のところどころに切り傷ができている。疲労した彼には、懸命にやってこれが限界だった。そもそも、精神的にも肉体的にも疲労した身で簡単にできるような魔術ではない。次が来れば、防ぐ自信がなかった。

 高揚しきった二人には、そんな奈都海のことなど眼中にはないのだが。


「死闘のなんたるかを知っている動きだ! 素晴らしい、何という素晴らしき日っ! これ以上ないほどに!!」


 先に着地した九能は、そんなことを喚き散らしているファントムに向けて巨斧を横薙ぎに叩きこもうとする。だが、ファントムは左の蛇も束ね巨腕を作り上げるとそれで巨斧を弾き返し、右の巨腕でカウンターをお見舞いした。

 自分よりも巨大な拳の一撃に、九能の矮躯はひとたまりもなく宙を舞う。が、弾かれた勢いで地面にその刃を埋めていた巨斧は違った。

 九能は右手から巨斧に延びるチェーンを手繰り、ファントムの無数の蛇による追撃を避けつつ着地することに成功した。同時に、その巨斧も九能の手の中に舞い戻っている。


「同胞を失ってもなお、この闘志! ……いや、なればこそ、か!」


 ファントムの言葉には応じず、九能は地面を蹴る。

 肉薄は一瞬。揮われる巨斧は超重量に神速。ファントムの掲げられた2本の巨腕に叩きこまれた巨腕は、それをぶった切り――むしろ砕いたという表現のほうが正しいかもしれない――、ファントムの巨躯を遥か上空まで打ち上げた。

 だが、そこに残ったのは巨腕を形成していた蛇の残骸。それが九能の周囲に漂っている。

 蛇の死骸は、ファントムの魔術の火薬となる。再びの爆裂、一度に凝縮された爆発と爆風と爆音は、九能の肉体と奈都海の鼓膜とを同時に脅かした。

 しかし、それもまた同じことの繰り返し。

 舞い上がる砂塵と木端を切り裂いて再度疾駆するのは、まったく無傷の九能。身に纏う漆黒のコートまで傷一つなかった。――そのことが何を示すのかは、今のファントムはまだ知らない。


「まだ……まだ、来るかぁっ!!」


 悲嘆にくれた末の絶叫ではない。喜悦に耐えかねた感情がひとりでにつむいでいた言葉だった。

 ファントムは考える。ここまで自分の力が通用しなかったことなどあっただろうか。これほどの絶望感はいつぶりだろうか。講じたあらゆる手段が、考え得る最大の攻撃が、通用しないと思わせる敵に出会えることなど、生前の身が朽ちても、あるいはこの身が何世紀生き永らえようともあり得ないと、ほとんど確信に近い諦めを懐いていたというのに。

 ――だというのに。眼前の巨斧を揮う少女は、自分の予想を、想定を、期待を、喜悦を、絶望を、戦慄を、いとも容易く覆してみせる。何度も何度も、飽くことなく覆してくれる。

 なんと……なんと――


「なんと嬉しきことかぁっ!!」


 こんな存在と出会えるとは。こんな敵と戦えるとは。昂揚せずにおられようか? 

 全力で立ち向かってみたくなるではないか。これほどの強敵……否、無敵の魔女。そう、この少女こそ無敵を冠するに相応しい。

 これを無敵と言わずして何とする。これ以上などあり得ない。この少女と相対して勝利の可能性を微塵でも確信できる者がいるとすれば、それは神か何かだ。地上に足を置く身でこの少女に勝とうとするなど、それこそ天上の神に矢を向けるに等しい暴挙に他ならない。

 そう。彼に勝つ気などない。“巨斧の魔女”に勝つという発想そのものが、彼の頭からは抜け落ちていた。

 九能と戦い続けて、ファントムは勝つという概念を徐々に忘れていった。そしてついに、忘れ去ることに成功する。勝つことにこだわっていては、全力の戦いなどできるはずもないからだ。今の彼は、既に何を忘れたのかすらも忘れ、そもそも何かを忘れたことを忘れてしまっている。

 無我の境地とはこのことかもしれない。今や彼は、ほとんど戦うという行為だけを遂行する機械と化している。

機械と違うところは、その戦いを心底愉しんでいることくらいである。


「決着が待ち遠しい! だが終わりは望まぬ。この矛盾は果たしてどうか?」


 幾度もの激突。星と星の衝突のような凄まじい衝撃波が辺りを襲い、光景を捻じ曲げていく。悲鳴を上げるのは空間だけではない。自身を守る術をほとんど失った奈都海も、飛んでくる岩の塊やら木の破片から逃れるのに必死だった。

 戦っている九能の心配をする余裕もない。むしろ、今やその九能が彼を脅かす存在となっている。


「いつまで続くかぁ!? 永久を切望したいなぁ!!」


「……っごめんだわ、そんなの」


 言いながら、幾度目か、巨斧と巨腕は再びの交叉。拡散することなく指向性を与えられた衝撃は、互いの腕を襲い、それを砕け散らせる。腕の中で暴虐の限りを尽くしたその威力は、有り余る力を解放させて全身を引き裂いた。


「ぬ、おぉっ!?」


「――っく」


 お互いに顔を歪ませる。が、その身体に変化はない。顕現の下の再生能力は、もはや傷がつくことすら許さない絶対防御の鎧と化している。

 だがそれは、肉体に限定した場合のはず。ファントムの纏うローブが再生しているのは、それが彼の存在を構成する一部であるだけに過ぎない。

 ――そのはず、であった。


「……なん、だ?」


 ファントムは違和感に気付いた。たった一瞬、ほんの瞬きの間とはいえ、彼の動体視力は九能の肉体、それの纏うコートが消し飛ぶのを見ていた。だというのに、それが未だに纏われているという違和感。

 違和感。しかしそれは、ある一つの可能性を考慮した場合、簡単に解消されるものでしかなかった。ただ、彼がそれを無意識のうちに禁句として無意識に封印していただけのこと。

 それが禁句だと、彼は知っていた。

 気付くと同時、呼応するように奈都海が叫んだ。


「九能っ!! 準備ができたって、咲からだ!」


「!!」


 咲がまず奈都海に告げたのは、頭に血が上った九能では《紅線》の通信に気付かないだろうと考えたから。そして、思惑通りに九能は奈都海の言葉には敏感に反応できた。

 疾駆。九能はファントムを標的に、音速で突進する。ただ、その手に巨斧は持っていなかった。

 その突進に、ファントムを攻撃しようという意思はない。向けられたファントムはそれを察知し、しかし、ならば一体目的は何なのかがわからず対処もできずに立ち尽くしていた。

 九能の姿は掻き消え、瞬きも許さぬ間にファントムに肉薄する。我に返ったファントムは両の巨腕を交叉させて防御を試みた。

 が、それは無意味だった。振りかぶっているのは巨斧ではなく、左腕だった。


「咲っ!!」


 その行為を訝しむ間すらファントムには与えられず、九能はここにはいないはずの部下の名を呼ぶ。そして、呼ばれた部下は、確実に、忠実に、求められた仕事を求められたタイミングでこなしてみせた。

 ファントムに突きつけられた九能の手刀は彼には一切触れず、その直前の空間に沈んでいった。水面に手を差し入れているかのように、九能の腕は中途で見えなくなっていたのだ。

 九能が行ったのはそれだけ。ファントムに攻撃を加えることもなく、それだけをして歪んだ空間から手を引き抜いた後はファントムの傍らを通り過ぎてすぐさま反転、またファントムと相対する構図に戻った。


「……何をした?」


 傍目には全く意味の見えない行為。ファントムも迎撃しようと思えばできたが、訝しむというよりは戦いの空気に横槍を入れられた怒りで手を止めてしまっていた。

 たとえ意味があってもなくても、九能の先の行為は極限まで張り詰めた戦場の空気を完全に腑抜けさせてしまうものだった。ファントムにとっては許しがたい悪行。他ならぬ現在進行形で戈を交える九能がそうしたことが、ファントムの怒りを一層湧き立たせていた。

 対して九能は、涼しい顔でファントムの射抜くような視線を受け流している。それが、怒りをさらに助長させた。


「何を……何を、したぁっ!?」


「うるさいわね。叫ばなくても聞こえてるわよ、やかましい」


 ファントムの怒りの問いは、九能に切って捨てられた。

 もはや九能の腕は下げられている。握られている巨斧は地面に投げ出されるように下げられ、全身に滾っていた闘志はその陰すらも感じられない。

 だというのに、ファントムはそんな九能の姿に恐怖を懐いていた。彼の喜悦を育てる肥糧としての恐怖ではなく、昂揚していた闘志も戦闘衝動も、すべてを枯らす除草剤のような恐怖だった。ファントムの怒りは、その恐怖を隠すために不自然なほどに激しくならざるを得なかったのだ。


「見ればいいでしょう? あなたにはその手段がある。でなければ、私の口から教えてもいいのだけど。ほら、動かせばいいのよ、あなたの同胞たる有象無象どもを」


 言われて、ファントムはそれが罠かどうかを考えることもなく、素直に視覚を同調させているDMFBと感覚を繋げる。この戦場に放った数は50近く。それら一体一体の視界を次々に切り替えながら、ファントムは九能の言う『異常』を探した。

 だが、大きな異常は見当たらない。九能の味方である疵術師がDMFBに追い詰められている光景が、延々と視覚に入ってくるだけで、それ以外のものはなかった。無駄な抗戦を続ける疵術師を前にして、ファントムは元の余裕を取り戻していった。同胞がこれだけの優勢を保っておきながら、目の前の魔女がどれだけのことをしようともそこには意味を為さない。やはり自分の今の立場は魔女よりも上だと再認識し――




 どん底に突き落とされた。


「な……、……」


 ファントムは今度こそ言葉を失った。

 同胞を通して彼が見た光景。その光景の中には、絶対にいるはずのない存在、生きているわけのない、あってはならないはずの、彼の同胞が殺したはずの――?


「見えたのね、見たわね? それは現実よ」


 逃避も許さない九能の言葉。

 これを九能が行ったことは明白。だが、だからといって、これを現実だと認めてしまうと、それは彼の知っているあらゆる常識を否定することでしかなかった。

 あり得ない。あり得るわけがない。あり得てはいけない。決してあってはならない光景、実現してはいけない現象が、今、彼の前で起きている。


「馬鹿な……な、これは、なぜ……?」


 疑問符を飛ばすだけになったファントムの思考。

 馬鹿な。本当に馬鹿げたことだった。

 愚かな。無知な。自分の立場が魔女よりも上と、そんな勘違いは既に忘却の彼方にある。何よりもまず、この魔女に勝とうということがどれだけの暴挙であるかと断じたのは、一体誰だったのか。

 ファントムははじめから、九能よりも遥か下の次元で這いまわっていただけだったのだ。


「ありえ……あり得ん……、こんなものがあり得ては……!」


「でも現実は非情ね。それは確かにそこに在る。実際に私の部下は――」


 それは、おそらく魔術に携わる者であれば一様に恐怖を懐くもののはずだった。

 言葉に出してはいけない禁忌の一つ。特級禁断子の名以上の禁忌。禁断術の代表格。生命の冒涜。神の所業。輪廻の崩壊。転生の妨害。

 一人の魔術師がかつて言ったのだ。「それは絶対にして不可侵である」と。それは真理だった。手を伸ばした者は遍く滅びた。目を向けた者はすべて滅ぼされた。実現した者は唯一破滅の末路を見せつけた。

 どんなに禁忌を見慣れていても。どれだけ禁忌に触れたことのある者であっても。唯一つ、それだけは忌避し、徹底的に遠ざける。

 人間の身で望んではいけない別次元の事象。しかし彼女が“魔女”であるが故に、不幸にも可能となってしまった破滅を目指す階段とでも言うべき禁忌。


「死者が生きて、そこにいる」


 つまりそれは、死者の蘇生。かつて多くの魔術師が目指し、しかし辿りつけず、そのために多くの犠牲を出した禁じられた術。唯一実現した魔術師も蘇生させたその想い人に命を奪われ、残したのは5000人という多大な犠牲と“魔女”という不名誉な称号のみだった。

 ファントムが見た光景とは即ち――


「なぜ……奴らが生きている……!?」


 死んだはずの未来小と久宮、そして深夜と天代が生きて戦っている光景だった。




◇◇◇ ◇◇◇




 未来小と久宮は、先ほどまでと同じように戦い続けていた。

 ……

 先ほどまでと同じように。彼ら二人に、自分が蘇ったという認識はない。なぜならば、彼らは『死んだ後に生き返った』わけではなく、彼らの時間が『致命傷を受ける前に巻き戻された』からである。

 ――なぜそんな現象が起こり得たのか?

 これが九能の持つ源破顕現の真価。本来は彼女の源血を以てしても実現し得ない時間の逆行が、この顕現によって魔術という形で現実のものとなる。自らにのみ影響する“戻る”という特性が“戻す”という普遍の現象に変じ、死者にすら時への反逆を強いるのである。

 特定の個体への作用で、かつ逆行限定とはいえ、時間の操作が魔術によって可能なのは、現在把握されている限りでもこの西園寺九能一人である。

 時間を戻せるというだけで、魔術を用いても不可能だとされてきた数多の人間の欲望が実現されることとなる。例えば、先ほど見せた死者の“蘇生”。擬似的な“不老”、そして“不死”。壊れたり劣化したりしたあらゆるモノの“修復”。年単位で戻せるというのなら、“若返り”も可能だろう。

 古来より人々が求めてきた賢者の石など必要としない。ありもしない蓬莱の薬を探すまでもない。蘇生術という禁忌に手を染めることもない。

 西園寺九能という疵術師は、生まれながらにして多くの魔術師の欲望を実現する万能の術を持っていたのである。




 深夜は天代に抱きかかえられ、DMFBの爪牙から必死に逃れていた。

 実際にDMFBの攻撃を避けているのは天代の翼だが、魔力の流れから予測と指示をしているのは深夜である。攻撃手段に乏しい二人ははじめから戦うことは諦め、ひたすら逃げることだけに徹することにしていた。

 この二人も九能の恩恵を受け、死ぬ前の状態に戻された。

 故に、死ぬ直前の記憶はない。なかったことになっている。久宮は未来小の死に際に交わした会話を憶えているが、当の未来小は憶えていない。天代もまた、死に際に見た者の記憶はない。

 自分が死んだという記憶すらないから、自分が死に向かう抗いようのない恐怖を引きずらないという利点になる分、想定されていた蘇生術よりも優秀である。

 だが、九能が蘇生を実現する能力を持つとはいえ、物理的に距離があればその恩恵を受けることもできない。そのために、その距離の制約をなくす役目を負うのが、咲だ。特定の状況下であれば、咲は距離という概念を完全に無視することすらも可能であり、別の戦場にいながらも九能が隊員を蘇生させられたのもこの能力故である。

 つまり、咲さえどうにかできれば、あとは時間に任せれば特殊遊隊を壊滅させることも不可能ではないのだが、当然だが蘇生という現象を目の当たりにするとそこまで思考が及ばない。




 ファントムも、死んだはずの者が生きているという光景に半ば絶望し、“どうやって蘇生させたか”ばかりに囚われ、“どうやって魔術の効力を届けさせたのか”にまでは考えが向かなかった。

 もう少し冷静であれば、と誰か言うかもしれない。だが、目の前で見せつけられたのは人間の蘇生である。魔術を知る者であれば尚のこと、その異常性、それが現実にあるということへの驚愕は大きい。魔術の限界に近いものであればまた、殊更に。

 戦いを愉しむという自身の本来の性質すらも忘却の彼方に在る。それどころか、これまでの戦いが茶番に過ぎなかったことを突きつけられても、憤りや落胆のない自分への驚愕があった。

 考えてみれば当然のことであった。人間の命すら思いのままにする存在に対して、怒りや落胆するほどの期待をすること自体が愚かしいからだ。

 それはつまり、神に対して期待したり憤ったりすることに他ならない。不毛だ。限りなく不毛だ。神に対するあらゆる感情と行為は、信仰という唯一つの行為を除いて、遍く不毛だ。無駄極まりない。だからファントムも、九能に対するすべての感情を封印してしまったのだ。

 ならどうするのか。目の前の少女が“魔女”ではなく“魔神”だとわかった時、ファントムは天罰の執行を待つばかりとなったわけだが、さて、彼はいったい何をすればよいのだろうか?

 言葉を失い呆然とする彼にはわからない。


「はっ……くく。あるのなら、はじめから使えばいいものを」


 乾いた笑いしか出ないファントムは、そんなありきたりな抗議だけを虚空を見つめながら呟いた。

 独り言のつもりだったのかもしれない。だが、九能には聞こえた。聞こえた以上は、無視できない。


「使わなくてもいいなら使いたくない類の能力なのよ。理由は聞かないで、面倒だから」


 九能の口調は、まるで友人に向けるそれだった。ファントムも既に闘志や覇気を完全に失い、見えるのは虚ろな表情だけとなっている。

 傍から見ていた奈都海にとって、この豹変は驚くべき変化だった。戦場の張り詰めた空気が、まったく弛緩してしまっている。奈都海が今まで見てきた九能の戦いとは異なる、異様とも言える決着に見えた。

 奈都海は隠れていた木の陰から出て九能に並んだ。本来であれば危険な行為だが、それを見た九能は何も言わなかった。九能もまた、戦いは終わったと判断したのかもしれない。

 戦いは終わった。だが、終わったのはファントムとの戦い、その一つに過ぎない。まだ終わらない、別の問題もあることを、九能は忘れていなかった。


「ああ、聞かぬとも。貴様の理由、能力の枷、それは私も聞き及んでいる」


「……なるほどね」


 九能には、一つの疑問があった。ファントムと相対してからずっと懐いていた疑問だ。

 “巨斧の魔女”。このファントムは九能をそう呼んでいた。そう呼ばれること自体は別段珍しい話でもない。むしろ本名よりも“巨斧の魔女”や階級で呼ばれることのほうがずっと多い。

 ファントムが“巨斧の魔女”と呼んだ、このことが、九能にとっての疑問点だった。九能が今まで出会ったファントムは、九能を“魔女”と呼んでいた。“巨斧の魔女”ではなく、“魔女”と。

 “巨斧の魔女”の略称として“魔女”と呼ばれることもままあることではある。だが、他のファントムに“巨斧の魔女”と呼ばれたことがないのは、ファントムが九能のことを“魔女”として認識していることに他ならない。ファントムが九能を“巨斧の魔女”と呼ぶには、それなりの理由があるはずだった。

 その理由が、先のファントムの発言にあった。「なるほど」とは、そういう意味である。

 九能の意味深な呟きにも、ファントムは無粋な茶々を入れなかった。ただ、気付いたことに対して少し不敵な笑みを向ける。


「私に課せられた枷を知っているのは、ごく限られる。私はあなたの生前の正体について知りたかった。そのヒントを、あなたが言ってくれた」


 まだ気付く要素はあった。九能のことを“巨斧の魔女”と呼ぶこと以外に。

 魔術を発動する際の、必要のない詠唱行為。蘇生という禁忌に対する、過剰なまでの拒否反応。それらは、このファントムの生前の姿を想像させるには十分すぎる要素だった。


「死ぬ前に一つ訊きたいの。あなたの正体と、もしそれが真実だった場合、なぜあなたがここにいるのかを」


「ああ、なんだ」


 ファントムは頷き、応じた。

 九能はずっと考えていた。今回のファントムは、今まで戦ったどのファントムよりも狡猾だった。もっと言えば、人間らしい。彼個人の欲望が優先され過ぎている。これは、奈都海も同様に懐いていた違和感の正体だった。


「あなたは魔術師ね。しかも、FASCAの。そんな人間が、なぜ日本にいるのかしら……?」


 ファントムの顔は、驚愕と納得が同居していた。





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