第1章#12 天使の暗躍
江倉宮台、その南南東の方角にも特殊遊隊の隊員はいた。
そこにいたのは、小鳥遊尊何と伊神未永栖。特殊遊隊の中でも九能に次いで長い戦歴と高い実力を持つ疵術師で、戦闘における信頼も厚い。
もちろん、魔術の威力、使い勝手、選択肢、その他諸々を考慮すると、彼ら二人よりも一般的に見て強いと言える疵術師は特殊遊隊にも多い。例えば、瞬間火力で言うならば久宮のほうが高い。実際に戦闘の中で取れる選択肢では唯利亜のほうが遥かに多いし、対多数戦闘においては奈都海や魅戈のほうに分がある。身体能力は未来小に劣り、九能とはあらゆる面で比べること自体が無駄、というレベルで隔絶がある。
それでもこの二人の実力が高いと評価されているのは、まさにくぐり抜けてきた場数の差故である。二人ともに、扱い方を弁えていれば優秀な戦力になる。それ故、戦地に投入されることも多く、必然的に経験を積む機会に恵まれていたのである。DMFBの集団を相手に戦ったことも、一度や二度ではない。
20代という若さにして、二人は既に対DMFB戦のエキスパートと呼べるレベルにまで熟練しているのである。
「狩れ」という九能の命令により、未永栖と尊何はDMFBの大群の殲滅を始める。
未永栖の今回の得物は、人間が持つには明らかに大きすぎる、航空機に積まれているような機関砲である。例によってMMMrsによって、実際に米軍の戦闘機に搭載されている機関砲をそのまま流用し、人の手で撃てるように改造、またDMFBを倒せるように銃弾に干渉力を付加する機構を搭載したものだ。全長は未永栖の身長を超えており、重量も軽量化されているとはいえ砲身だけで80kgを超える。重量もさることながら、元々人間が持つことを想定されていないために、発射時の反動などは疵術師でなければ全身がバラバラになりかねないほどに大きい。5mに及ぶ銃弾の連なったベルトは地面に放り投げられており、彼女が動く度にじゃりじゃりと地面を引っ掻いていた。
対する尊何は、武器の類は一つとして身に着けていない。己の身一つで戦うのが尊何であり、本来であれば己の身一つどころか己一人での任務しか任されてこなかったのが、小鳥遊尊何という疵術師である。その理由は、彼の目にある。源血が与える彼に許された唯一の魔術は彼の目から発せられ、その無差別性故に複数での任務に携わることができなかった、それほどに凶悪な魔術である。
たった今、この時より、未永栖と尊何による狩りが始まる。
「予想外の数というかなんというか……ねえ、少佐?」
「なに?」
二人の目の前には、未来小と久宮が相対したそれと同じように、一心不乱に斜面を駆けていく異形の群れがある。近づいてくる二人など、眼中にない。
「これだけの数は、さすがに見たことがないよねぇ?」
「そうね。骨が折れそうだわ。バルカンのほうも持つかどうか怪しいわね。換えの砲身、持ってきていないし。砲身がイったときは悪いけど、しばらく戦線を離れるわよ」
「了解、了解。なんだったら、最初から僕に任せてくれても?」
「そんな勿体ない事はしないわよ。獲物を全部あなたに譲るなんて、謙虚な私もそれだけはしかねるわね」
他の隊員であれば一様に懐く大群に対する恐怖や怯えは、この二人にはなかった。否、たとえあったとして、それを表に出さない程度には余裕があった。
この二人の作る陣形は、尊何が前に出て、未永栖は後衛からの援護に徹するという形だ。
尊何が前に進み出て、未永栖はその場に留まって開戦を待つ。既に他の隊員は戦いを始めており、そこかしこから爆音やら断末魔の切れ端が聞こえてくる。
まさに戦場の音だ。二人にとって、この空間に満ちる音は耳に心地よい。
「まるで夢みたいだね。こんな気分のいい戦いは久しぶりだよ」
懐かしげに目を細めながら、尊何は嘯く。いつのことを思い出しているのか、その表情は隊員の誰も見たことがないほどに優しさに満ちている。
だがそれは、直後に消え失せることになる。他のあらゆる感情とともに、尊何の顔から。
「さ、掃除の時間だ。――始めようか」
横仰な仕草で、尊何は指で両目の表面をなぞる。
――瞬間
尊何の前を駆け抜けようとしていたDMFBの一群が、砕けた。
断末魔や悲鳴もなく、ただ、肉が引き裂かれ、骨が砕かれ、血を撒き散らす音ともに、10を超える数のDMFBが尊何によって命を奪われた。
さらに、尊何がその目を廻らす度に、砕かれるDMFBは増えていく。
それは、尊何の視界がDMFBを虐殺しているかのように、DMFBの蹂躙は尊何の目が向けられた直線状に追従する。
再び指で目をなぞり、尊何は未永栖のほうを振り返った。
「討ち漏らしがあったらよろしく。少佐」
「言われるまでもなく……ねっ!」
答えて、未永栖は機関砲の砲口をDMFBに向ける。同時に、尊何もまた向き直り、DMFBの虐殺を再開した。
――尊何の扱う魔術。それは、一定時間以上、焦点を合わせた対象を砕くという魔術である。その対象は、生物であっても無機物であっても関係はない。ただ、尊何の目が焦点をそれに向ければ、その時点で憐れな獲物に成り下がる。敵と味方の区別もない。故に尊何は、魅戈同様、単独任務にばかり駆り出されるのである。
だが、それでは日常生活に支障を来す。かつては目を開けること自体が許されない身体だったが、魔力そのものを透過させないコンタクトレンズを目に装着することで、それを克服している。戦闘に際して指で目をなぞるのは、コンタクトを取り外すためである。
尊何の目がDMFBを次々に砕いていき、そこから逃れた幸運なものも未永栖の放つ20mm口径の弾丸が撃ち落とす。
尊何の音無き虐殺と、未永栖の喧しく耳朶に叩きつけられる銃声。硝煙が二人の嗅覚を刺激し、口を乾かす緊張が湧きでる唾液をより甘美なものにする。二人が感じ続けるこの風の肌触りこそ、戦場の喜悦と恐怖に溢れた最大の醍醐味であった。
「尽きないねぇ、本当に尽きないねぇ。どこまで殺せば君たちは満足してくれるんだい?」
尊何は目に見えるものだけに問いかける。だが、その途端に相手は砕かれて答える術を失う。
それは尊何にとって、かつて何度も経験してきた寂寥を呼ぶ因果だった。彼がどうしようもないほどに懐いた興味は、いずれはその対象を砕いてしまう。彼の好奇心が満たされることは、永遠にない。
だが、それはすぐに他の感情に置き換わって消え失せる。誤魔化しか、欺瞞か、尊何の中で大きくなりすぎた感情は、長くは留まれない。
尊何は、目を開けている間は常に魔術を行使し続けており、つまりは魔力を消費している。精神情報を含んだ魔力は常に放出され続け、それ故に感情には大きな揺らぎが発生する。
「そろそろ飽きてくるよねぇ……。少佐ー? どうかな?」
「こっちは最初っからうんざりしてるわよ! 10分でも愉しめてたあんたが羨ましいわ!」
故に、尊何はいつも一つの感情と人格で、移ろいやすい自分を覆い隠している。“使うこと”に長けた未永栖は、人間という複雑な存在を“使うこと”はできないが、その中でも尊何という男は、ひときわ解せない存在である。
「そうかなぁ? 戦いだからこそ、愉しまないとやっていけないと思わない?」
「そういう考えのできることが羨ましいって言ってんのよ。戦いほど胸糞悪くなる行為もないわよ」
本心、本性を隠すという点において、おそらく尊何を上回る者はいないだろう。それこそ、そういった方向性の源血の特性を持つ疵術師でもなければ。
だが、実のところ尊何の源血の特性を知る者はこの特殊遊隊にはいないし、知っている者を知っている者もいない。尊何自身も語ったことがないために、下手をすれば彼さえも知らないかもしれない。もはや、知ろうとして探る者もいなくなった。
「殺すという行為はとても寂しいことだと思わない? もし君と僕、世界にこの二人だけだとして、どちらかがどちらかを殺したら、それは孤独になってしまうのだから」
「孤独かどうかはそうなった人間が決めればいいのよ。死体と一緒だから独りじゃないなんて言い張る変態も世の中にはいるのよ」
未永栖が“使うこと”ができるのは、意思を持たない道具だけ。刀剣や銃火器、その他武器にならないものまでも熟練した達人並みに“使うこと”ができる。
常人ではない疵術師であっても好んで使わないだろうこの機関砲を使いこなしている時点で、未永栖の源血の強力さは窺い知れる。放たれる銃弾は的確に狙ったDMFBの肉体を食い千切っていき、尊何の脇をかすめることはあっても決して当てることはない。熟練のスナイパーが手に馴染んだ狙撃銃を扱うかの如く、毎分8000発の速度で発射される弾丸は、狙いを過つことはないのだ。
しかし、人にそれがシフトした時、未永栖は何もできなくなる。武器はいい。目的が破壊というその一点にのみ絞られている。だから使いこなせる。
「まったく……、少しは自重してほしいわ。途中で力尽きたらどうするつもりよ」
だが人は、その行動に複数の目的を持っている。目的すら手段にすり替わることもあるし、そもそも目的のない行動まであり得る。人間だけではない、生物全般が、自分すら含めて未永栖にとっては理解の外にある、いわゆる“解せない存在”となってしまっている。
だから、ある一人を除いて、未永栖は人間と接するということに関して不快感しか懐けない。自分さえ理解できない時、人は怒りや焦りを覚える。それが、未永栖にとっては不快でしかない。
それを忘れられる戦いは、確かに不快感から逃れられるという点においては普段の生活と比べれば遥かにマシだ。DMFBは生物だが、その目的が人間の捕食という一点に絞られている。わかりやすいのはいいことだ。
だが、だから戦いが愉しいのかと言われれば、それは別問題である。未永栖は、戦うことや殺すことが快楽に変わるような変質的嗜好は持ち合わせていない。
「自重……自重ねぇ。それこそ、少佐がするべきじゃないかな? 快と不快は表裏一体、嫌よ嫌よも好きの内? ……ちょっと違うかな」
だが、尊何はそんな未永栖の自覚を、事あるごとに否定する。
争うことに愉悦を求めない者はない。平和に安寧を求める者はあれど、そこに喜悦を見出す者はない。そう言って、未永栖の自覚に異を唱える。
「ほら、あれだよ。レイプと同じさ。気持ちの上では厭でもね、結局のところ脳は正直なものなのさ。どんなに嫌悪していても、気持ちいいものは気持ちがいいよね? つまりはそういうことなんじゃないかな」
「……発想が下劣ね。心底不快だわ」
未永栖が戦いに望んでいるもの。それは彼女とその生涯の伴侶にしかわからない。ましてや尊何などにわかるはずがない。
戦うことを快や不快で測ることこそが、おかしいのだ。だから未永栖は、尊何に決定的な答えを教えることは決してない。共有する基準からして違うのだから、何を言っても尊何とは何も通じ合うことはない。
「なーんか少佐が意地悪だなぁ……なにか厭なことでもあったかな?」
「いつものことだけど、あなたはわからないわね。いいからもう、黙って戦いなさい」
うんざりした未永栖はそう言って会話を打ち切り、再びDMFBの掃討に専念することにした。
尊何も同様にDMFBの相手しかすることがなくなり、以降、未永栖に話しかけることもなくなった。そうした中、尊何が気付く。
尊何の目が一撃で砕けるDMFBが、減ってきている。つまり、ランクの高いDMFBが増えてきている。未永栖も、つい先ほどまではスムーズに倒せていたDMFBが、タフなものに変わってきていることを手に持つ機関砲を通して実感していた。
何が変わっているのか。ランク――つまりそれを構成する魔力の密度だけではない。ここで生まれ来たDMFBは、内側へ向かうごとにその存在の密度、完成度、外観の洗練度までが、明らかに上がってきている。
まるで―― いや、それはないはずだ。浮かんだ可能性は、否定したくなるほどに馬鹿らしく、また取り返しのつかない最悪の事態だった。未永栖は自分の中で至った結論を自ら否定し、頭の中から排除しようとした。
――が、できない。その可能性がひどく現実的で、排除するにはあまりにもその事態が悪すぎた。もし事実であれば、本当に取り返しのつかないことになりかねないのである。
涼しい顔をしながら機関砲を撃つ未永栖の内心は、周囲に響く異形の断末魔のように荒れ狂う寸前だった。
◇◇◇ ◇◇◇
尊何と未永栖の真逆に位置する方角には、居川咲が単独で戦っていた。
もはや虐殺や蹂躙というレベルになるほどにDMFBを圧倒している他の隊員とは違って、咲だけは確かに傍目には戦っていると言えるレベルには対等な戦いであった。
だがそれもまた、傍目に見ればの話である。咲からすれば、この程度のDMFBにてこずるわけがないという程度の自負はある。伊達に特殊遊隊の主力の一角を担っているわけではない。
咲はDMFBと戦う時、その敵の肉体を“断つこと”で殺す。魔術師のように詠唱する必要がないので、同様に自らの肉体が武器になるDMFBと戦う際には疵術師のこの性質はメリットにしかならない。意識を向けて魔術を行使すると意識するだけで、咲は戦える。
また、咲の場合は他に武器を必要としないのも大きな利点だろう。九能や未来小のように武器の熟練が必要であるということもない。同じく武器を必要としない尊何や魅戈とは違って、咲の魔術は味方に被害を及ぼすようなこともないため、戦略的な価値は二人よりも大きく優れる。そもそもからして、咲の魔術は、唯利亜以上の選択肢を取り得るという点で、ほとんどの疵術師と比べて非常に大きな価値を持つ。
咲が傍から見てDMFBと互角に見えるのは、彼女が縦横無尽に動き回っているからであり、それを強要されているようにも見えるからである。つまるところ、余裕が見えない。
だがもちろん、咲にとってはこの戦い方こそが基本なのであり、余裕がないこと自体が咲にとってはアドバンテージそのものである。
咲は疲労の蓄積さえも“断つこと”が可能だ。戦闘後に襲う代償には凄まじいものがあるが、戦闘中においては常に最高のパフォーマンスを発揮することができる。咲の戦法の中に体力や魔力の節約という概念は存在し得ない。
さて、そんな咲がなぜ単独での任務についているのか。単独任務ならば、未永栖とともに戦っている尊何のほうが適任、というよりもそうでないことのほうが不自然なくらいである。
この編成にしたのは、彼女自身の要望である。変わり果てた唯利亜とともに支部に帰還した咲は、自ら九能に一人で戦いたいという旨を伝えていた。
理由はあるが単純ではない。そもそも、咲は味方のいる戦いを嫌う。それがたとえ自分よりも強い疵術師であっても、自分に劣る者であっても、である。
弱い疵術師はまず、論外である。足手まといにしかならないし、なにより守る手間ができる。死なれでもすれば最悪だ。そうなった時に自分の責任が問われるのは当然だから受け入れる。だが、自分の性格は外からの責めだけでは満足しない。内からの自責、後悔は咲自身を長期間に渡って苛むだろう。そうでもしなければ、咲は自分の失敗を許せない。
ならば強い者であればどうだろうか。守る必要がない。足手まといにもならない。確かにそうだろう。だが、だからこそ、そこに生まれる一つの感情がある。劣等感だ。幽閉時代に咲の中に深く根ざした絶対的な自信は、劣等感を許さない。自分が自分よりも下層の疵術師に懐いているものと同じものを懐かせているというその思い込みにも近い劣等感は、仲間を死なせてしまった時の自責と同じように自分を苛むのである。
こうして見ると、傍からはかなり性格の悪い人間として映っているのではないか、と咲は思ってしまう。単独任務が認められるのは咲の能力に一定の信頼を九能が置いているからであり、人格は考慮に入れていない。いつになっても疵術師としての力にしか評価の目が向かないのは、咲にとっては力に対する妄信を加速させる要因にしかならない。
だから咲は、一人で全力を振るう。孤高を誇ったり孤独を嘆いたりもしない。一人で戦えるなら、彼女は喜び勇んで戦場へ向かう。
居川咲という疵術師はつまり、他人との関係さえも“断つこと”で自身を守っている。
どこに向ければいいかもわからない咲の怒りが、数体のDMFBを同時に断ち切った。
◇◇◇ ◇◇◇
中国支部は、比較的平和だった。
中国支部の直轄地域での任務は、特殊遊隊が当たっているファントム討伐任務だけ。確かに任務の中では最大級の危険性を伴うが、この小隊は以前にもファントムを討伐したことがあるという実績がある分、支部の誰もが安心感と信頼感を持って彼らを待っていた。
ただ、治療小隊、その中でも唯利亜の治療に当たっている彼らは平和とは程遠い状況にあった。
唯利亜の負った傷は深刻で、当初は正視に堪えられないような状態だったが、治療小隊の尽力によってようやく人の形を取り戻したところだ。山場は既に超えており、致命傷になりそうな傷も一通りは治療し終えている。あとは唯利亜の気力次第で、意識が戻るのを待つばかりである。
そんな時に、治療小隊の前に現れたのは尋常ならざる最凶の存在だった。
「いいじゃありませんの。唯利亜さんはもう大丈夫なのでしょう?」
「……」
彼らの前でふよふよと浮遊しているのは、三頭身の天使。頭上の輪といい背の翼といい純白のワンピースといい長い金髪といい、その姿はまさに日本人が想像する天使の姿そのものである。
紙に描かれた絵がそのまま飛び出してきたかのような、現実味のなさすぎる存在感を持ち、その声は耳ではなく脳に直接響いてくる。つまり、人間ならざる存在、ファントムである。この支部での名は“ノエル”。ノクターン、シャトーと並んで、ADEOIAの支部に居座る唯三の存在として、この中国支部で疵術師とともに共存している。
だが、このノエルはノクターンやシャトーに比べて疵術師の前にほとんど姿を現さない。他の2体と同じようにこうして会話をすること自体が珍しいことだが、姿自体は頻繁に見かける2体と違って、ノエルは姿を隠していることが多い。
ただでさえDMFBと接触する機会に乏しい治療小隊が、敵ではないとはいえファントムを相手にした時の心中など、計るべくもなく知れることである。ましてやその相手が謎多き存在であれば、尚更だ。ノエルの問いに答えられる者は、治療小隊の中にはいなかった。
場所はICU。治療小隊にとってはホームグラウンドのようなものだが、ノエルが現れた途端に彼らはアウェーに放り込まれたような感覚に陥った。ファントムの存在感に竦んで、唯利亜の治療も忘れて呆然としている。
これで力をセーブしているというのだから、全力を解放した時のそれは計り知れないものがある。
「沈黙は肯定とお受けいたしますが?」
「……いや、その……まだ絶対安静だ。目を覚ますまでは――」
小隊長がようやく、責任感からか声を震わせながらも返答した。その声には紛れもない恐怖があったが、それを笑える者はおそらく、ADEOIAには一人もいない。
しかし、ノエルはその恐怖する人間に対しても文字通り天使のような笑みで、静かに恫喝した。
「この名に懸けて、彼と彼女を死なせはしませんわ。ですから――四の五の言わずにとっとと退いていただけます?」
「ッ!!」
表情は変わっていない。声音にも変化はない。ただ、彼女(?)が放出する魔力の質が、突如として禍々しいものへと変貌した。
字面だけではない、圧し掛かる魔力の圧力が急激に重くなったのも、彼らが慄いた原因だった。見た目のかわいらしさなど、このプレッシャーの前では、むしろその落差故に戦慄するだけである。
その気になればお前たちなど一瞬で消炭にできる――ノエルは、暗にそう言っているのだ。実際その通りだろう。ファントムの力をもってすれば、何の戦闘能力も持たない治療小隊の疵術師など、消炭だろうと挽肉だろうと容易にできてしまう。
生殺与奪を握られていることを改めて思い知らされ、思わず後ずさる隊員。だが、彼らの無意識に刷り込まれた自らの能力故の義務は、ノエルに道を開けることを良しとはしなかった。
それを見たノエルは、口の端を吊り上げ、笑みの性質を変える。
「フフ……その意気やよし、ですわ。この私に気丈にも立ち向かおうなんて、馬鹿げてはいても誇らしい。同じ城に住まう者として、強者に牙を剥く蛮勇に称賛を贈りましょう」
極上の娯楽を見せてもらったとでも言わんばかりの笑みで、そんなことを嘯く。
だが、当の治療小隊は困惑するばかりである。どうやら機嫌を取ることはできたようだが、特にそれを狙っていたわけではないし、この場を離れる気は相変わらずないようだ。
立ち往生するしかなくなった彼らは、やはりノエルと対峙する。ファントムの発言が理解できないのは今に始まったことではないが、それを目の前にすると、本当に反応に困るのだということを治療小隊はここではじめて経験した。……だからどうするというわけでもないのだが。
ノエルは普段の笑みに表情を戻し、翼を羽ばたかせる。舞い散る羽根の代わりか、可視化した魔力の粒子がふわふわと落ちていった。
それに一瞬魅せられた治療小隊は――
「――でも、さようなら」
ノエルのその一言を最後に、意識を失った。
彼らが目覚めたのは、ICUの目の前。扉は閉め切られ、彼らがどうあがいても開けることができない。
中では唯利亜とノエルが、まるで友人のように談笑している姿があった。




