第1章#9 嫌厭の親娘
ADEOIAという組織は、テンプル魔術団の中の一つの機関である。
テンプル魔術団は12世紀、ヨーロッパで数十名の魔術師によって組織された小規模な互助団体であった。
これを組織させたのは、その当時にローマから始まった真の魔術師を対象にした魔女狩りである。当時の魔術師の使う魔術は現在ほど洗練されておらず、中規模のものであっても、小動物や人の生血など、生贄を必要とするものが多かった。それ故に、当時の魔術は一般人の目から見て黒魔術という概念に入り、魔術師は畏怖、恐怖の対象とされていた。魔女狩りを始めたキリスト教会には、その威光を示すという目的もあったようだ。当時は魔力に耐性を持ち、魔術を知ることのできる一般人が多かったのも魔女狩りを支持することに繋がった。
当時の魔術には生贄などの手間がかかり過ぎる。故に、魔術によって処刑から逃れるのは、よほど優秀な魔術師でない限りは不可能であった。その当時、既に魔力による重複干渉の存在は、その仕組みを知らずとも魔力と記憶障害の因果関係は広く知れ渡っており、処刑執行人や異端審問を執り行う者らは、すべてが魔力に耐性を持つ者で占められていた。そのため、多くの魔術師は抗する術もなく無抵抗に処刑されていった。
その魔女狩りに反抗するべく立ち上がったのが、ソロモン・D・ハプスブルクという一人の魔術師。彼は魔女狩りという凶行から逃れた同志らに声をかけ、手を取り合ってこの魔術師全体に降りかかる窮地を脱しよう、とそう持ちかけた。ただ怯えるばかりであった彼らにとっては、願ってもない言葉だった。すぐに数十人の魔術師が集まり、一つの小さな互助団体を設立する。それが、今のテンプル魔術団である。
魔術師による組織は当時もいくらか存在していた。しかしそれらのほとんどは、大規模な魔術の実験、研究に複数の魔術師が必要であるが故に一時的に協力しているだけに過ぎず、それ以外の魔術師は基本的に単独で行動していた。
魔術という技術が、まだ複数の魔術師の間で共有できるほどの汎用性を持っていなかったこの時代、固有の魔術を他の魔術師に研究されるという事態は、アイデンティティを侵されるということそのものでもある。それを避けるために、魔術師は自分の手に収まるレベルであれば、一人で研究を行うのである。この「一人の魔術師」の部分を「魔術師の一家」に言い換えれば、現在の魔術界と大した変化はない。
だが、そのことが魔女狩りのエスカレートを許した。魔術師だと疑わしき者、自ら流布していた者、すべてが対象となって、孤独な魔術師は助けを求めることもできずに処刑されていったのだ。
当然、魔術師たちはソロモンに限らず危機感を懐いた。そこに現れた、テンプル魔術団という生えたばかりの藁。それに縋らない者はほとんどいなかった。
魔術団の影響はすぐにブリテンやスカンディナビアを除くヨーロッパ全土に広がった。結束を知った魔術師は魔女狩りに抵抗する力を手に入れ、徐々に魔女狩りを主導していたキリスト教会を押し返していった。
だが、教会もまたその威信を保つためには、屈するわけにはいかない。単なる虐殺が対等な立場の戦争に変わったのが、この時だった。テンプル魔術団とキリスト教会による戦争。魔術師と一般人が明確な勢力に分かれて戦争を行ったのは、これが最初で最後である。
この戦争に決着はなかった。時が経つにつれて戦いは散発的になり、あっても小競り合い程度。やがては自然消滅という形で戦争は終息した。
この間、魔術団では互いの魔術の研究内容を提供し合う魔術師が急増し、魔術の質は数段上がった。魔術が魔術を補い合うという性質をそこで初めて理解した魔術師たちは、積極的に自らの秘術を公開し、教えられ、この数十年だけで魔術師たちは、魔術を研究対象としてだけでなく、兵器として使えるレベルにまで進歩させた。産業革命ならぬ「魔術革命」とでも言うべき時代であった。もし戦争が革命期後半まで続いていれば、戦争はほぼ確実に魔術師の勝利に終わっていただろうとも言われているほどだ。
魔術団はその後、大航海時代を通じてヨーロッパから全世界にその勢力を拡げたが、そのことで派閥の発生を許してしまった。かつては敵として争ったキリスト教会、さらにスペインやローマといったヨーロッパ各国の国王・皇帝とも繋がりを持っていた魔術団は、急速な展開速度とは裏腹に内部分裂という爆弾を抱えることとなったのである。
そのそれぞれの派閥の中核を担っていたのは、魔術団でも幹部格にあった魔術師一族。結果、幾度となく繰り返された宗教戦争の混乱に紛れるように引き起こされた魔術団の分裂は、魔術師一族同士の紛争でもあった。この後、現在に至るまで、魔術師独自の魔術と言えば、その一族に伝わるものを指すようになった。つまり、魔術師の主な単位が個人から一族に変化したのである。
魔術団はその後も、分裂や統合を繰り返し、その度に所属する魔術師の数を増やしていった。
魔術団が現在の形になったのは、第二次大戦後、1950年代のこと。第二次大戦でも魔術師たちは枢軸、連合に分かれて、代理戦争のような形で戦った。もちろん、日本の魔術師も。
大戦後、国家の単位では冷戦時代と言われるように社会主義と資本主義が再び敵対したが、魔術師の世界では魔術団を中心に比較的団結できていた。かつての一次大戦、二次大戦と、魔術師は国家の戦力として巨大な戦争の中で戦うことで、多くの惨劇を引き起こし、多くの犠牲を出した。
このことを憂えた多くの魔術師は、もはや国家からは離脱して、魔術師だけで独自に活動していくべきだと悟ったのである。人々の記憶から自らの記憶を消して、魔術師たちは魔術団という旗印の下に結集した。
最高統率機関としての“枢密院”。魔術団の財政等を管理する“評議院”。公安機関としての“FASCA”。司法機関としての“大審院”。疵術師という異端を管理する“ADUIA”。そして、それらを統べる最高機関でありながら今や隠居職と化している“元老院”と“総長”、それら6人を総称して“賽の目”。さらに、細かく分かれたいくつもの下部機関。ADUIAがADEOIAに名称を変えるなどの変化はあっても、この構成そのものは大戦後からほとんど変えられていない。
ここまで厳密な機構を必要としたのは再びの魔術団の分裂を避けるためであり、この機構を現実のものとできたのは様々な国の中央に直に触れてきた魔術師だからこそできたこと。
だが、残念ながら、魔術団の誘いを蹴り、あまつさえ海外からの魔術師の来訪を一切拒絶する国が現れた。
日本である。
知っての通り、日本は第二次大戦において敗北した。1945年の夏、日本政府は降伏勧告を受け入れた。魔術師の方も同様で、連合側の魔術師と戦った結果、一流一族のほとんどを失った日本は魔術界でも敗北を喫したのである。歴史における敗北よりも1年以上早かった。
日本にまともに残った一流一族は、霞翅家のみであった。故に日本の魔術界は霞翅家が統率することになった。
世界的に見れば、魔術界は魔術団による再編が行われている最中であり、そこに国境などあってないようなもの。その中で、日本の霞翅家だけは日本という枠の中に閉じこもって外部からの干渉の一切を受け付けようとしなかった。
まさに、鎖国。魔術界に限れば、徳川政権終焉以来、二度目の本格的な鎖国である。
魔術団がこのような暴挙を許すはずはない。よもや再びの戦争になるのではないか、今度こそ日本の魔術師は絶えてしまうのでは――誰もがそう思った。
だが、魔術団の上層部は日本、より正確には霞翅家の動向を静観するに止めた。はじめから分裂の原因になり得る不穏分子を抱えるわけにはいかない、ならば霞翅家の言い分は認めてそれなりの距離を保っていればいい……そう考えたのである。鎖国の理由などは訊くだけで地雷を踏むようなものとして、徹底して無視するスタンスを取った。
だが、日本では現地の魔術師だけではどうしようもない問題が出現する。
DMFB。魔術団ではADUIAによって対処されていた異形である。DMFBは当然、日本でも発生し、戦後の疲弊した日本を襲い始めた。
魔術団はそこに目をつけた。やはり日本にも多少の影響はあったほうがいい。日本が禁断子の楽園となるのを防ぐためにも、他の様々な思惑のためにも、日本への繋がりを作ろうと画策していた魔術団にとって、この話は朗報だった。
すぐに魔術団は霞翅家に、ADUIAの支部を作ればDMFBに対処できる、と話を持ちかけた。自分から鎖国すると言いだした以上、魔術団に助けを求めることもできなかった霞翅家も、さすがに門前払いなどはしなかったが、支部の設立にいくつかの条件を求めた。
一つ、ADUIAの名称を変えること。軍(Army)という名称は好ましくない、という理由からだ。
一つ、支部を構成する人員の8割以上を日本人とすること。日本国籍を持っているという意味ではなく、四分の一以上日本人の血が入っている者だけを日本人とみなす、とした。
一つ、日本を出入りできるのはADUIAに所属する疵術師のみ。日本の疵術師もADUIAに所属することになるので、適用対象となる。
一つ、日本人疵術師の魔術師との婚姻は認めない。
主にこの4つ、これらを遵守するのであれば、ADUIA――代わってADEOIAの支部の日本での活動を認めると、霞翅家は魔術団と契約を結んだ。
こういった経緯から、日本で魔術団の影響下にあるのはADEOIAだけ。それ以外の魔術師は、ほとんどが霞翅家の配下にある。
つまり、ADEOIAは日本において非常に肩身の狭い思いをしているのだ。そんな理由があって、日本人疵術師はともかく、海外の疵術師にとって日本の支部への派遣は左遷と同義、日本は島流しの行き先でしかないのである。
◇◇◇ ◇◇◇
日本人でありながらも、アメリカの支部でエリート部隊として名を馳せた“巨斧の魔女の配下”の一人である雪川瀬井。
日本においてDMFBの大量発生という未曾有の危機に晒された中国支部の援軍として旅団長ともども遣わされたのだが、まさかこの支部に居座ることになろうとは思ってもいなかった。日本の支部にいるというそのこと自体が、瀬井の自尊心を少しずつ削っていくのだ。耐えられないほどではないが、それは未だ九能の配下にいるという自負があるためであり、この状況がいつまで続くか……
むろん、人生の大半を捧げてきた生涯の恩人、西園寺九能の意向に異論などあろうはずもない。彼女がここに留まるというからそれに従っている。が、もし彼女がここを離れようと言えば即座に随行する。
だが……中国支部には、瀬井にとって都合の悪い要素が多すぎた。
傍らの14歳の少女も、その一つ……いや、一人。
「顔が硬いですね、中佐。何か懸念でも?」
「あぁ……いや、そうだな。ファントムが近くにいると思えば、誰もが緊張もしよう。それを自分で探そうというのだ、プレッシャーも尋常ではない」
二人のいる場所は、支部から離れて笠良木市の東部、今は誰もいない夜の緑化公園。斥候大隊は、ここを拠点にファントムの捜索を行う。
現在、中国支部に残っていた斥候大隊所属の小隊は広域特科小隊と第02魔装通信小隊だけだった。この二個小隊と瀬井も含めた大隊本部の数名の疵術師、そして特殊遊隊からの援助人員である居川咲。合計32名で今回の任務は執行される。ファントムとの戦闘も考えられるこの状況では、明らかに少なすぎる。
咲は、この場に残って遠隔からの索敵に従事する疵術師たちを見て、再び口を開いた。
「確かに……ファントムの恐ろしさを知っていれば、無駄口を叩く余裕もないでしょうし。任務中であってもここまで静かだと逆に不気味でしょうけれど」
「なるほど、……お前は何も感じないのか」
瀬井が問う。その途端、咲は、特殊遊隊の隊員すら見たことのない笑みを浮かべた。
「私が、人間らしい感情を懐くとでもお思いで?」
だが、その笑みは嘲笑以外の何物でもなかった。疑問形のセリフも、どの口がそれを言うのか、と言っているとしか思えない。笑みを消してすぐにいつもの無表情に戻った咲は、瀬井から視線を外して問いの形を取った自分の言葉への返答を拒んだ。
だが、その子どもらしい幼いひねくれ方は、瀬井に容易に見破られた。
「不気味だ、と、つい先ほど口にしたばかりだろう。人並みの感情はお前にも理解できるではないか、安心していい」
「……ッ!」
咲は眉尻を上げて瀬井を睨む。その目には紛れもない憎悪が宿っていた。瀬井はその目を直視して全く動じず、何も応じない。ただ冷めた目で見返すだけである。
「意識が乱れているようだが。集中しろ、こちらの索敵にも支障が出る」
歯軋りの聞こえてきそうな表情で一睨みした咲は、それでも自分の役目に戻った。
咲の源血の特性は、“断つこと”。そして今回の役目は索敵の補助と護衛。広域特科小隊と魔装通信小隊には最低限の戦闘能力を持つ疵術師しか所属していない。戦闘に長けた小隊は小支部に派遣されることが多く、今回もタイミング悪くほとんど小支部に派遣されている状態だった。
瀬井をはじめ、大隊本部の疵術師も平均以上の戦闘能力はあるが、それだけではファントムの襲撃を受けた際に逃げ切れる保証がない。そこで咲という空間制圧力に長けた疵術師を特殊遊隊から借り受けた。咲の能力ならば、広範囲に散らばった隊員の護衛を一度に行える。
「私の能力は便利ですか?」
「……でなければ、准将がお前を呼ぶと思うか?」
咲の能力は“断裂”。空間の断裂によって物理的、魔術的に物質、物体の通過を妨げたり、時間の断裂によって一定範囲内での生物の体感時間を狂わせたり、それらを合わせて応用することで瞬間移動紛いのことさえ可能である。干渉力さえ上回れば肉体を断つこともできるため、DMFBとの戦闘も問題なく行える。むしろ、疵術師の中では随一と言える。
だが、咲の役目は護衛だけではない。索敵の補助も行う。無駄な情報が隊員らに入るのを“断つこと”で、索敵の精度を高めるのである。故に、咲が手を抜くと隊員が混乱する。はじめから咲の補助がなければ自分で情報の取捨選択をするために影響はないが、そうでなければ、いきなり予定にない情報が入ってくると集中が途切れてしまうこともある。かといって、情報の取捨選択まで彼らに任せると時間がかかり過ぎる。
「辛いか」
「……どの口が」
咲の能力の万能性。そして彼女自身の持つ天性の才能。それらが噛み合った結果が、居川咲という疵術師の実力。だが、それ故に咲は、疵術師としても稀有な辛さを知っている。
魔術団にとって強すぎる存在は脅威である。それがたとえ、魔術団に所属する魔術師であっても、例外ではない。もちろん、ADEOIAの疵術師も同じだ。強すぎる能力を持つ者は忌むべき存在、魔術団ではそれらは禁断子に指定され、自由を許すことはない。
咲は、その一人だった。幼くして才能の片鱗を見せていた咲は、僅か8歳で戦いに赴き、単独で6体のDMFBを討伐した。
疵術師の初陣としては、異常ともいえる戦果。これが、訓練を積んだ10代後半あたりの疵術師の戦果だと言われれば、さほど驚くこともないだろう。なかなかに優秀だ、と称賛されることはあっても、異常だと言われることはない。
だが、当時の咲は弱冠8歳。これがこのまま成長したら――魔術団にとって、いずれ脅威に育つだろう芽は摘み取っておきたい。
魔術団――その中でも禁断子の管理を任されるFASCAは、8歳という幼い少女に、両親との離別と不自由な幽閉生活を強いたのである。
それから4年間。雪川咲という無邪気で天真爛漫な少女は、表情と人への信頼を失い、戦闘に生きる居川咲という疵術師に変貌した。
4年間の幽閉が功を奏したのか、伸び代がなかったのか、咲の能力は魔術団が危惧したほどには成長しなかった。むしろ、DMFBを相手にするには優秀な疵術師になっていたのである。とはいえ、一度FASCAに幽閉された疵術師を抱え込むなど御免であると考える者は、依然、多い。そこに目をつけた九能が、第一特殊遊撃小隊に勧誘した。
「あなたが私を捨てなければ、ここまで辛くもならなかった……」
「八つ当たりも大概にしろ。この世界、大人にならねば生きてはいけんぞ」
「そうですね。大人ぶって耐えた挙句、私は准将に拾われましたよ。……あなたではなく、准将に」
咲が中国支部に招かれた時、その時が、咲と瀬井の親子の5年ぶりの再会だった。――もちろん、どちらも喜びなどあるはずもなかった。視線を合わせることもなく、よもやこの二人が親子などと誰が思っただろうか。今でも、中国支部で親子だと知っている者はかなり限られる。
支部の中で会っても、まるで他人であるかのように無関心を装っているという風でもなく、本当に言葉も視線も何も交わさない。事務的な会話だけはするから、余計に親子であるとは思われない。こうしてまともな会話をすることも、一体いつぶりだろうか。
「当たり前だ。親が自分の子どもを拾うなどと、そんな滑稽な話があるか?」
「一度捨てたものですものね、わざわざゴミの中に手を突っ込んでまで拾うはずがありませんか。これは失礼しました、中佐殿」
「卑屈だな。何があった?」
「いい度胸ですね、何があったかと訊きますか。答えてほしいですか? 代わりと言ってはなんですが、今のところ300ほど罵倒の言葉が思い浮かんでいますが」
だが、二人の間で“怒り”という指向性を持った魔力が衝突して、文字通りに火花を散らすまでに感情をぶつかり合わせるのは、この二人にとっては初めてだった。バチバチと音まで伴うために、瀬井の傍らに侍る副官は隊員らの集中を乱さないかと気が気でない。かといって、この二人の間に入れるほど、彼は気概があるわけでも人情深いわけでもない。諦めて静観することにした……のは、随分前の段階での話である。
とはいえ、上官の意外な一面が見られたのは、彼にとっては小さな収穫だったかもしれない。いつも泰然自若として、勝利に喜びもせず、部下の失敗に憤ることもなく、ただ淡々と任務を遂行する姿は仕える部下として少し不安だったからだ。人並み以下とはいえ人間味があるとわかれば、その下で任務に携わる者として安心もできる。――近いうち、彼はさらに瀬井の本性に近づくことになるのだが、それはまだ後になる。
◇◇◇ ◇◇◇
(――こちら、広域特科小隊、松原! ファントムと思しき魔力反応を感知しました!)
咲と瀬井の親子喧嘩(というには二人の心情には暗いものがあるが)が下火になった頃、斥候大隊の隊員と咲の頭に、女性の声でファントム発見の旨が伝えられた。
彼らが使っているのは、通信用の魔術、《紅線》。疵術師でも使える汎用性を持ち、子どもでも習得の可能な、単純な構成の優秀な魔術である。発動・維持を行う魔術師が魔力を供給する限り効果は持続するため、破壊の恐れのある携帯などの通信機器よりも信頼性がある。ホストとなる魔術師は安全な場所に隠れていればいいのである。
ともあれその報告を受けた瀬井に代わって、その副官が問い返した。
(場所の詳細報告を)
(北北西に約18km……干阿山の中腹……私の能力でわかる範囲は、ここまでです)
「中佐」
瀬井の副官は部下に必要以上は求めず、瀬井の判断を待った。このまま特殊遊隊に任せるのか、それとももっと近づかせて精度の高い情報を得ておくのか。
瀬井は、1分以上考えなかった。
「特殊遊隊に取得情報の伝達。我々は特殊遊隊到着前に詳細な位置を把握するために先行する」
「隊員はどうさせますか」
「まずは集まるよう言っておけ。接近は最低限に止める。一人でも先走って相手に勘付かれてはたまらん」
「は、ではそのように……」
副官が《紅線》で隊員に命令内容を伝えている間、瀬井は咲をどうするかと思案した。特殊遊隊に戻して伝達役とするのもいいが、できれば護衛として随伴させたい。大隊本部だけでは戦闘能力に不安がある。さすがの瀬井も、自分の力がファントムに及ぶとは思っていない。かといって、咲が加わったところで戦力に大幅な変化があるというわけでもないが、防御という一点にのみ集中すれば被害も最小限に抑えられる。咲にはそれだけの実力はあるのだ。
「咲、お前はどうする」
「行きますよ。支部に戻ったって二度手間にしかなりませんし」
「そうか。では、頼む」
悩むまでもなかった。咲本人が是とすれば、案ずる必要もない。
あとは、全方角に散らばった隊員が本陣に戻ってくるのを待つだけ。特殊遊隊への伝達は今、下副官が行っている。その表情に緊張が見られるのは九能を相手にしているからか。彼女はこの支部に転属になって斥候大隊に入ることになってからも、まだ長くはない。
初対面では自分ですら緊張したのだ……と、咲は2年前の自分を回想する。4年間という少女にとっては致命的なほどの長期間を幽閉されて過ごした咲でも、“巨斧の魔女”との対面は緊張を禁じえないものだった。
だが、実際に見てみると、その実態は拍子抜けと言ってもよかった。その実力を目で見て戦慄するまで、咲は西園寺九能という疵術師を侮っていたのだ。
上には上がいると思い知らされた。咲は、自分が隔離されなければならないほどの実力であると、自負していた。皮肉にもFASCAの取った幽閉という措置が彼女にそう思わせていた。確かに自分の扱いに対して理不尽な思いをしたことは、一度や二度ではくだらない。しかし、自分が特別な存在の中でもさらに特別で、魔術団という巨大な組織に危機感を与えているという優越感は、10歳前後と幼い精神にとっては心地よさしか生まない麻薬のようなものだった。
外界と隔絶された空間で感情が磨耗していく反面、咲の中の力に対する妄信はより深刻になっていった。自分の人生が才能の有無によって変貌したのだから、その裏付けたる力がすべてだと勘違いしてしまっても仕方のないことであった。
幼さ故に知らず、咲の目はただ一点を見つめることしかできなかった。大人のように、脇目を振るなどという発想はない。感情の磨耗とて同じ。感情をぶつける相手がいないのだから、それは内に閉じ込めて他の感情で削り殺すしかなかった。結果、咲は感情の表出方法を忘れた。
それでも怒りや憎しみという負の感情ははっきり自覚できるほどに残っているのだから――自分でも底意地の悪さを自覚しないわけにもいかない。
――短い回想を終え、意識を現実に戻す。
たった数分しか経っていないはずだが、任務に動員した隊員のほとんどは戻ってきていた。かなり広範囲まで展開していたのだが、やはり斥候大隊というべきか。偵察任務の際に強大な敵との接敵を避けて撤退する必要があるために、移動速度に長けた疵術師は多く所属している。逆に、並みのDMFBであれば故意に戦闘を引き起こして敵を一か所に纏めて逃げないよう拘束するための能力、主に回避や防御に特化できる疵術師も多い。そうして主力部隊の到着を待つのである。
つまり、どんな相手にしろ、斥候大隊は先行して敵を把握する必要がある。人ではなくDMFBという野生動物に近い存在が相手でも、その重要性に陰りはない。
さらに1分。咲も含めて26人の隊員が再び終結した。残りの6人の隊員は、目標とこの本陣を繋ぐ道中に中継するように立っているはずだ。
「では、行きましょうか、中――……中佐?」
瀬井の命令を待つ副官らに先んじて足を踏み出した咲だったが、同時に発した言葉に反応する気配のないことを訝しんだ。咲が見ると、瀬井は虚空を睨んで微動だにしない。その様子に不穏な気配を感じ取った副官が、瀬井に問いかけた。
「中佐、何か?」
問われ、瀬井ははじめて自分が聞いている《紅線》による通信が自分にしか繋がっていないことに気付いた。自分を中継地点として、隊員全員に声が届くようにもう一つ《紅線》を張った。
そこで、隊員らは驚くべき事実を耳にした。
(――さ! 中佐!? 聞こえていますか!? 松原です! もう一度繰り返します! つい先ほど、ファントムが何者かと交戦を始めました!)
隊員らの間にざわめきが走った。ファントムに関する知識を持っていれば、この報告だけで自分たちがどれだけの窮地に立っているかは馬鹿でもわかる。
(早急に特殊遊隊を――准将を! このままでは、ファントムが活動期間に入ってしまいます!)
ファントムの活動期間――それは、ファントムが真に覚醒することを意味する。
通常、ファントムは人間並みの知能を持っている。だが、それは同時に人並みに複雑な感情を併せ持つことも意味し、大抵のファントムは突然に与えられた魔力だけで構成された肉体に戸惑うことが多い。つまり、発生直後からしばらくは自分の肉体を上手く使いこなせないのである。
それが使いこなせるようになったのが、活動期間。時間が経てば慣れるものではあるが、ADEOIAではその前に討伐することを目標にしている。だが、時間以外にもファントムが活動期間に入る条件がある。
それが、戦闘。戦闘を行うことで、ファントムは自分の肉体の使い方を把握し、活動期間に入るまでの時間が大幅に短縮されるのだ。
活動期間とは、つまりファントムが自らに慣れることではあるが、人間のように徐々に上手くなるというものではない。ファントムが活動期間に入ると、戦闘能力が別次元に高くなるのだ。外から見られる変化は一切なく、いきなり大規模な魔術を使い始めたり、それまでなかった複雑な挙動を取ったり、肉体の干渉力そのものが急激に向上するという現象も見られる。ここで至ってはじめて、ファントムは天災レベルとも言われる能力を存分に振るうことができるようになる。こうなれば、大隊規模の疵術師で挑んでも一蹴されることさえ珍しくない。まさに化け物と化すのである。
(中佐! 中佐ぁ!!)
(聞こえている。ファントムと交戦している者の詳細はわかるか)
悲鳴のように瀬井を呼ぶ松原に、瀬井もさすがに耐えかねた。
ファントムと交戦しているということはつまり魔術師なのだろうが、それが疵術師かどうかで事態は大きく変わってくる。魔術師であればそれは霞翅家の管轄。迷惑どころではないが、こちらからは何も言えない。逆に、その魔術師が死んだとしてもADEOIAは一切関知しないが。
だが、相手が疵術師となるとかなりまずいことになる。中国支部の監督責任。戦死した際の戦力ダウン。それだけで済めばまだいいが、活動期間に入ったファントムがそれ以上の被害を及ぼすことなど火を見るより明らかだろう。
(まさか……斥候大隊の隊員ではあるまいな?)
(い、いえ……それ、が……)
瀬井はいつもと同じ調子で、しかし表情はほんの僅かに険しく問うた。自分の部下が先走ったというのなら、それは瀬井の監督責任……だけではなく、上司である九能の責任まで問われることになりかねない。自分ならともかく、九能の能力が疑われるなどあってはならない、もしそうなら由々しき事態、命で償っても許されざる最悪の事態である。
――だが
瀬井は、松原の返答を聞いて、ファントムの相手が自らの部下であったならと、そう思ってしまった。
(特殊遊隊の……幣原、唯利亜……の、ようなのですが……)
その時、瀬井は自分が膝から崩れ落ちたかのような錯覚に陥った。
だが、咲は本当に崩れ落ちた。その顔に絶望の陰を落としたまま口を戦慄かせて、咲は自失した。
約20分後、ファントムの逃走の際で、斥候大隊は血の海に倒れ伏す唯利亜を発見した。




