第1章#7 女王の近衛騎士
目を覚ましてはじめて私の五感が捉えたのは、頬に触れる冷たく硬質な感触だった。
次に、私の目に入ってきたのはコンクリートの床。手で触ってみてもわかるが、砂利のせいでざらざらとした感触があって、どうも掃除されている風には見えない。
起き上がって視線を廻らす。
暗い。1m先も見えないほど光のない空間だった。どこを見ても光源がないから、屋内だろうことだけは辛うじてわかる。ただ、窓があるかどうかすらわからず、外の様子はわからない。昼か夜かどうかも、まったく。
次第に目が順応してくると、ここがある程度の広さを持った空間だということがわかってきた。
工場……だろうか。そうだとしても、頭に“廃”がつくだろうけど。
上に目を向けてみる。単なる穴か、天窓なのか天井には一部分から空が見えた。数個の星明りが見える。
倉庫……? さらに目が慣れてくると、端のほうに何かが積み上げられているのがぼんやりと見えた。
ただ、どこに目を向けても私以外の人は見当たらないし、その気配もない。
……いや、
「目が、醒めたか」
男の声。しわがれた老爺のような、なのにどこか澄んだ声だった。空気ではない何かを振動させたような、この世のものとは思えない不可思議さを内包している。
およそ人のものとは思えないその声の聞こえたほうを向いてみると、そこには一つの人影。目を凝らして見ようとすると、その人影はこちらに歩いてきた。
近づいてはじめて、その体躯の大きさに気付いた。といっても、2m近いというだけで異常というほどではない。ローブのようなものを着ていて、輪郭がぼんやりしている。手を後ろに回しているからかもしれないが、どこが腕でどこからが足なのかもわからない。
私は、この人を知らない。こんな長身の人間には心当たりがない。……誰?
「まずは……そうだな、貴様に働いた非礼を詫びよう。仕える騎士でありながら、あの行為はあまりにも礼を失していた。すまない」
「……、……」
突然の謝罪に、私は一瞬だけ頭が真っ白になる。何を謝られているのか皆目見当がつかない。
というより。そもそも。
私はなぜここにいる? そんな今さらな疑問が今さらになって湧いてきた。
私がいるここはどこ? 私がここにいるのはなぜ? そして、この目の前の男は何者?
混乱した記憶も相俟って、私の頭は恐慌寸前にまで陥る。なぜ謝られたのかはこの際どうでもいい。それよりも私はここにいてもいいのかどうか、そちらのほうが大問題だ。
――いていいわけが、ない。逃げなければ。
「ふむ。どうにも混乱しているようだ。しばらくは考えろ、記憶を探れ。いずれは答えも出よう」
言われるまでもなく、ここから逃げようという結論に至っている。考える余地もなく、私はここから逃げなければならない。
「あ……? あれ……」
身体が動かない。身体が鉄にでもなってしまったかのように、首から下が他の誰かと入れ替えられてしまったかのように、自由が利かない。
戸惑う私の頭上から、男の声が降ってきた。
「考えろと言ったはずだが。女王の身体は衝動で動かせるほどまともではないぞ?」
「女、王……?」
どこかで聞いたフレーズ。いや、確かにありふれた、今やどこにいても聞く可能性のある言葉だけれど、もっと特別な場所で、特別な意味をもって聞いたはずだ。
いつだったろうか。どこだったろうか。そうやって記憶を探っているうちに、今朝の光景に行きついた。
唯利亜ちゃんと一緒のベッド。そこから起きて、竜樹も交えた朝食。竜樹より先に家を出て、唯利亜ちゃんの友達の神田さんと一緒に学園へ向かう。生徒玄関で別れて、監視はいるのかという唯利亜ちゃんの提案を断わって、学祭で催されるミスコンの要旨を纏めていて――
それで? そこからの記憶がない。
記憶がない。
「……! 私はあなたに……!」
「考えた末の答えがそれか。凡庸すぎて逆におもしろい」
思い出した。生徒会室にいる時、この男が突然現れて、それで――
「なんで……私、ここに……!」
なぜここにいるのかはわかった。この男に連れて来られたからだろう。思わず声に出てしまったのは、とにかく何か言葉を発していたかったから。
しかし、あの時の記憶が戻ってきたことで、私は“これ”が何なのかという推測ができた。人でないモノでありながら、人の形を取るモノ。
「私の正体が気になるか? だが貴様ならその己の疑問に答え得る知識を持っているはずだ。違うか? そうだろう? ――我が女王、後朱雀沙夢濡よ」
「ファントム……」
「明察通りだよ、女王。私はファントム、そして、貴様に仕える騎士だ」
本来であれば、私はここで恐怖しなければならないはずだった。ファントムという最上級の人喰いの化け物が私の目の前にいるのだから、私は恐怖に頭を真っ白にして身体も自由を奪われるくらいに震えているはずだった。
「……なんで?」
なのに、不思議と恐怖はなかった。その理由を考える余裕すらある。逆に、ファントムの言葉の意味は考えていなかった。
ファントムはただ私を見下ろしてくる。私が何を考えているのかを見透かしてくるかのような目で、無言で見下ろしてくる。が、それでもその目に対して何か感情が湧くこともなかった。
私に殺気や敵意を察知するようなスキルはない。けれど、このファントムが私を害することはないと、心のどこかでいつのまにかわかっていた。
質問すれば答えてくれる。そんな根拠のない確信もあったから、躊躇もなく知りたいことを問うことができた。
「ここは……どこなの?」
「貴様のいた学校から直線距離で20kmほどか……山の中のもう使われていない倉庫の中だ」
確信した通り、ファントムは簡単に答えた。だから続けて問う。
「帰して、ほしいんだけど……」
いくら怖くないとはいっても、この暗闇の中にいて不安にならないわけがない。この際、ここに連れて来られた理由はどうでもよかった。早く解放してほしい。
――だけど
「無理だ。それは私の本質に逆らう。女王を玉座に据えるのが私の役目。そして、その女王を守るのが私の宿命だ。女王は世俗に貶めてはならんのだ」
「どういうことよ……女王って……」
「言葉のままだが。女王は女王。民を統べ、国を治め、衆に崇められる存在だ。……抽象的すぎるか? だが、まだこれ以上教えられる段階ではない。まずは貴様が受け入れるまで、貴様は何も知ることはできない」
「な、なによ、そんな……わけわかんない……」
本当にわからない。このファントムはいったい何を言いたいの?
頭もまだ普段の冷静さを取り戻しているとは言いにくい。それでも、それを差し引いてもファントムの言葉は意味がわからない。
ファントムは人間じゃない。最強のDMFBで、私たち人間のことは食糧程度にしか考えていないはず。思考思想に隔絶があるのは当たり前だけど…… 元は人間のはずだ。言葉による意思疎通だってできている。なのにここまでわかり合えないものだろうか? それとも、私が人間とファントムの違いを上手く理解できていないだけなのだろうか?
なまじファントムが人の姿をしているせいで、人間に対する感覚で考えてしまう。
私はファントムを見上げた。表情は暗くてよくわからない。けれど、なぜか笑っている気がした。もちろん、見ていて気持ちのいい爽やかな笑いではないだろうけれど。
そんな風に私が見つめていると、ファントムが床に座りこんでいる私に視線を合わせるようにして、膝を折って中腰になった。
表情が見える。表情と言える表情はなかったが、私と視線を交わすと、その口の端を吊り上げた。
「女王にはしてもらいたいことがあるのだ。いや、してもらわねば私が困るのだが、な。後朱雀沙夢濡、貴様なら、それが容易にこなせる。故に連れてきたのだ」
「なら……すぐに済ませるから。早く帰らせて……」
理解できない何かと二人だけでこの暗闇の中にいたくない。その一心で頼み込んでいた。
しかし、ファントムは取り合わない。私の声が聞こえていなかったかのように、無視して自分の言葉だけを続けた。
「奴らは野性的な本能しか持っていないわけではない。ただ、幼いだけなのだ。故に導く者が必要になる」
ファントムの声は私の耳に入る。さらに脳に届き、侵蝕し、最低限の自我だけを残して私の意識を刈り取る。
私とファントムの視線はまだ合わせたまま。まるで見つめ合う恋人同士のように、ただ無心にお互いの目を見つめ続ける。
「しかし導いたとて従わねば意味がない。従わせる最も簡単な方法は何か? 人であれば、個人差はあれど自分を庇護する者には無条件で従うだろう。つまりはそういうことだよ、女王」
ファントムの手が私のあごに添えられる。顔は既に呼吸の息がお互いの鼻先にかかるほどに近い。
「母親になれば、それである程度は従うさ。自分が産みの親だと示すことで奴らを意のままに操ることが可能になる。どうだ、そうすれば――」
「――ッ!!」
何かが緩んだ。その途端、私は我に返って、反射的にファントムを突き飛ばしていた。ファントムは瞬時に飛び上がって、尻餅をつくという醜態を晒すことを避けた。
「なっ、なにを……あなたは……!」
なにを、などと訊かなくてもわかる。でも、その意図を訊かずにはいられなかった。
ファントムはそれでも嗤って、私を見下ろすだけだった。
「さすがの耐性だ。少し気を抜いただけでこれか。やはり、そう楽に屈服させてはもらえんようだ。これは骨が折れそうだな……ククク」
「なによ……女王だって言ったり、屈服って言ったり……」
「貴様はまだ女王ではなかろう? 何も従えていない、何からも敬われていないのでは、女王を名乗る資格もない。……まずは、私に屈服しろ、すべて私に委ねろ」
「死んでも御免よ、そんなの……!」
単純な、女としての嫌悪。好きでもない男に身体を……なんて、気持ち悪すぎて鳥肌しか出てこない。
鼻先にかかったファントムの息の臭いが鼻腔にこびりついていて、嫌悪感以上に吐き気が助長される。あごに触れたファントムの手、そのざらざらした爬虫類の鱗のような感触を思い出して、吐き気と鳥肌が収まらない。
「導かせるにはまず導く者から……いずれは屈するのが貴様の運命だ。素直に待て」
ファントムは睨む私を置いて、その場を去っていった。
姿は暗闇に融け、どこに消えたかはわからなかった。
◇◇◇ ◇◇◇
闇の中の孤独というのは、ひどく寂しいものだ。
たとえ人喰いの化け物でも、下衆な男(?)であったとしても、その存在が私の寂しさを少しでも紛らわしていたのかと思うと、異様に腹が立ってくる。人というのはこうも単純なものなのか、と。
視界のない暗闇で恐れを懐くのは人間であれば当然のこと。見えないことに対する原初の恐怖は誰しもが持っているものだ。……言い訳ではないけれど。
逃走は何度か試みた。けれど、逃げるどころかこの倉庫から出ることすら叶わなかった。携帯は鞄に入れていたからここには持ってきていない。
何をされるかわからない。そもそも生きて帰れるかどうかもわからないのに、私は簡単に逃げることを諦めていた。今だって端っこに積まれた箱に座って、ただ漫然と時が過ぎるのを待っている。何をするでもなく、たまに髪を弄ったりして時間を潰している。
図らずもファントムの言う通りに、素直に待っているのだった。
こうしていると、考える余裕が出てくる。
今は何時だろうか。記憶通りならば私は気絶させられてここに連れて来られたのだけど、その間にどれだけの時間が経ったのか。携帯もないし腕時計もしないから時間がわからない。辛うじて夜ということがわかるだけ。不安になる。
寂しい時、不安な時、どうやってそれを誤魔化せばいいのだろう。
昔から一人だったけれど、最近は周りに人が増えすぎた。誤魔化し方を忘れてしまったのかもしれない。そもそも――昔は一人でいるというだけで寂しさを感じるようなこともなかった気がする。
お嬢様なんて呼ばれて持て囃されて。教えることを教えたらすぐに帰ってしまう先生たちに、腫れものにでも触るかのように接してくる使用人たち。仕事で忙しいだけの両親。
とりあえず何かを与えておけばいいだろうという大人の安直な発想。それが知識であろうと忠誠心であろうと金品であろうと、受け取った子どもは一様に同じことしか考えない。
――また、これだけか
それで、今度は女王ですか。いくらなんでも飛躍しすぎでしょう。そんな風に吐き捨ててみたかった、この状況に。
でも、できなかった。
女王なんて大層な称号と立場を与えるだけなら、今度もまた受け取る側のことを何も考えずに与えるだけか、なんて言い捨てることもできた。
でも、あのファントムは違った。私に求めてきたのだ。
お嬢様故に与えられるだけだった私に、頭や見てくれの出来が他人よりいいばかりに求められるだけだった私に、彼は、与えた上で求めてきた。
私にとってそれは、蜜のように甘い誘いに聞こえたのだった。
――そんな自己分析ができたのは、すべてが終わった後だった。
◇◇◇ ◇◇◇
唐突に、私の周囲が淡い明かりに照らされた。
その明かりは私の頭上から降り注いでいる。光源を追って上を見上げると、天井の穴か天窓から月が覗いていた。その月光はとても弱く、私の周りに他の光源がないからやっと目立っている程度。それでも私にとっては待ちに待った明かりで、無意識のうちにその月をずっと見上げ続けていた。
首の筋肉が少しずつ疲れてくるのも気付かず、ひたすらに眺め続ける。ファントムはここが山の中だと言っていたから、そのせいで綺麗に見えるのかもしれない。市街地の中にいては見ることのできない月だ。
時間が経ち、その月が天井の穴なのか天窓なのか、その淵にかかって欠け始めた時だった。
「……?」
何かが、私の目の前を横切った。
目にも止まらぬ速さでというよりも、ひらひらと波打つように飛んで行ったそれは、すぐに視線で追いつくことができた。
「蝶……? なんでここに?」
私の前でひらひらと舞っているのは、蝶だった。大きさや暗闇に同化するかのような黒い翅は、カラスアゲハのものだ。この季節に現れるのは特に不思議でもなんでもない。
でも、なぜここに入ってこられた? もしかして、天井のあれは穴で、そこから入ってきた? それにしたってファントムが、蝶が入ってこられるような細工をするだろうか? 私が出られないのだって、邪魔が入らないようにすることも兼ねているだろうに。……その分野については教えられた知識があるだけで疎いので、考えるのはやめた。
そうこうしていると、その蝶は私の周りをくるくると回り始めた。私が手の甲を上に向けて胸の辺りまで上げると、蝶は私の手の甲に止まった。翅を休めるようにゆっくりと、少しずつ羽ばたかせている。
虫捕りしたことなんてあるわけがないから、こんな間近で蝶を見たのははじめて。翅以外には触角をゆらゆらと揺らしているだけで、飛び立とうとする気配もない。蝶ってこんなにもおとなしいものだったっけ?
――ふと、小さな違和感が、頭を掠めた。
そう、蝶が身動きもせずに人の手に止まり続けるなんて、普通なら考えられない。手乗り訓練した小鳥じゃあるまいし、いったいいつまで止まったままでいるのか。
まさか、と、ある可能性が思い浮かぶ。土曜日の夜、私の家で彼から聞いたこと。
曰く――蟲の姿をしたDMFBが最も多いのだと――
「もしかして……」
私が蝶を手に乗せたまま声を発した瞬間、
「……!」
その蝶が翅の一片も鱗粉すらも残さず、掻き消えた。
「見つけた」
蝶が消える、それと同時に、声が聞こえた。
聞き慣れた声だ。いつも学園で聞いている。少年らしさの皆無な、声変わりを無視した少女のような彼の声。
気付くと、私の横にファントムがいた。不思議と、その唐突さに驚きはしなかった。
「思った以上に早いな。今晩くらいは少なくとも持つかと期待していたのだが……どうもこの世の中、想定したほど上手くいくようにできてはいないらしい」
「……なにが?」
「貴様には聞こえなかったか? 万全ではないが迎え撃とうではないか。私には女王を攫おうと画策する魔女から貴様を守る義務がある」
聞こえなかったか、というのはさっきの声だろうか。ファントムにも聞こえていたということは空耳ではなかったらしい。だからといって……いや、さっきの声は、唯利亜ちゃんの声では?
なら、ここが見つかったということ。助けが来る、ということ……!
「助け? 違うな。魔女は救済という言葉を借りて女王という神聖な存在を拐かす。故に、魔女の呪文を見破れる存在が必要なのだよ。即ち私が、な」
「……」
心を読まれた……? 私は言葉に出していないはず。私が懐いただけの助けという言葉をそのまま使ったファントムのセリフは、心を読んだとしか思えなかった。
ファントムに問う前に、状況が動いた。
倉庫のどこかが、轟音とともに破られた。すっかり闇に慣れてしまった目では、もうもうと上がる土煙が見えた。誰が来たのかは、見えなくても十分にわかる。
土煙の中に、人影が見える。その人影が動く度に、ザリッ、と床を引っ掻く音がここまで聞こえる。
傍らのファントムは、心底楽しそうに嗤っていた。
「女王……ね。ここがお城だとしたらさ、かなり質素だけど大丈夫なのかな?」
少女のような声が、響く。私はそれを救いとして迎え、ファントムは滅ぼすべき敵として迎える。
「本当に守りたいならさ、自分からは遠ざけたほうがよかったんじゃないかな? 一番大切なものは近くにあるほうが守りにくいんだから」
煙が晴れ、姿が現れる。
ファントムより40cm以上も小さいその小柄な人影は、しかし厳然とそこにあった。魔術師でもない私にもわかる、彼の周囲には、赤黒い魔力が渦巻いていた。
怒りからか私を助けられるという興奮からか、どちらにしろ昂揚している。声も、どこか浮足立っていた。
「それでも自分の傍に置いておきたいのなら、もっと厳重に守る準備を整えておくべきだよ。物理的に隔離してしまうとか……ま、今さらだけどね。ボクのほうは助かったよ、簡単に見つけられたから」
ファントムは応じない。言葉の一つも返すことをしない。
はじめからそれは期待していなかったらしく、唯利亜ちゃんもただひたすらに言葉を紡ぐだけだった。
「さて、そろそろ――」
唯利亜ちゃんの周囲の光景が歪んで見えた。大気中の魔力が唯利亜ちゃんの感情に指向性を付与されて光を屈折させた――その時の私は、なぜかそう解釈した。できてしまった。
屈折した感情って、いったいなに……?
「ジャンヌさん、そろそろ帰ろうか」
◇◇◇ ◇◇◇
その山の中の倉庫で対峙するのは、幣原唯利亜とファントム。疵術師とDMFB。この世界で敵対し、ともに相手を天敵となす存在同士。
だが、お互いの意識には大きな隔絶があった。
「来たか……来たなぁ! 識りながらも偽る者よ! 待ちかねたぞ、魔女本人でないのは少々期待外れではあるが、それでも待ちかねた。魔女の配下か、それとも主か、どちらにしろ私にとって最高の宴、貴様は戴冠式の最高の見届け人となろう!!」
ファントムは彼を歓迎していた。戦闘を好むが故ではない。自らの為す偉業、自らの仕える女王の戴冠、そして即位という今まで誰もが為し得なかった偉業を見届ける自分以外の存在を欲していたからだった。
「早く帰ろう、ジャンヌさん。みんな心配してる」
「え……あ、の」
しかし、唯利亜はファントムなど眼中になかった。彼にとっての優先事項は沙夢濡の救出。それにファントムが立ちふさがるなら全力で潰すが、今のファントムは沙夢濡の横に突っ立ってわけのわかわないことを喚いているだけ。残念ながらそれは、唯利亜にとって立ちふさがるという範疇にない。
「ジャンヌさん。早くして?」
「え、ええ、その……」
沙夢濡は戸惑いつつ、唯利亜の呼びかけに応じて立ち上がる。唯利亜のほうへ歩きながら何度かファントムを振り返ってみたが、自分を止める素振りがないと見ると、歩みを小走りに変えた。
監禁されている間にファントムと交わした会話は沙夢濡の心に引っかかっていたが、それも日常に戻ればすぐに忘れるだろうと、その引っかかりは無視することにした。それよりも唯利亜たちと一緒にいる日常のほうが、彼女にとっては大事だ。たとえそれを構成する一員が異能の力を振るえる者だとしても、自分がそれを忘れてしまえばいい、ついでにファントムのことも同時に、沙夢濡はそう考えていた。
唯利亜の下まであと数m。そこまで迫った時、
――ヒュッ
と、沙夢濡の頬のすぐ横を何かが掠めた。実体のあるものが通ったその証として、沙夢濡の髪が少しだけ浮く。
何が?――そう疑問を懐くよりも先に、沙夢濡の目は現実に起こった現象を視覚情報として捉えていた。
「言ったはずだがなぁ……女王を謀る輩は排する、と」
殺意も露わに呟くファントムのその腕、そこから伸びる数匹の大蛇が、鋭利な槍となって唯利亜の身体を貫いていた。
「ひっ」
沙夢濡は腰が抜けて、その場に尻餅をつく。ファントムの蛇は、唯利亜の胸を的確に貫いている。心臓を破壊され、即死しているはずだった。
――はずだった。
「……!」
沙夢濡とファントムが驚きに目を見張るのは同時だった。
唯利亜の身体が崩れていったのだ。砂のようにさらさらと、しかしその粒は一つ一つが意思を持っているかのように宙を飛び交い始めた。
「なんだ……なにが」
沙夢濡の距離からは、それが、それまで偽りの唯利亜を模っていたものが何なのか、わかった。それは、視覚ではなく聴覚で、ブブブ……と、いつもは不快に思える羽音で判断された。
「蝿……」
無数の蝿が、模っていた唯利亜の形を崩して、バラバラになっていく。
しかし、それだけではない。その蝿はファントムの伸ばしている蛇に纏わりつき、それを辿って本体までさかのぼり始めたのだ。
本能的な危機感に任せて蛇を戻そうとするが、それに執念深く蝿もついてくる。
「ちっ……ぬぅん!」
判断は早かった。蝿の纏わりついた蛇を自分で切り落とし、ファントムは難を逃れた。
しかし、蝿はまだ残っている。集団で固まって黒い靄のような形態を作りだし、ファントムに向かって突進した。その大群は直系が3mにも及び、時折鼓動するように表面が波打っている。ファントムは再び蛇を伸ばして迎撃を図るが、蝿の集団に埋没するばかりでダメージはない。スピードを落とすことすらできていない。
迎撃に使った蛇も蝿に呑み込まれ、ファントムはまた自分で切り落とす。自分の身体で戦うのは得策ではないと判断して、ファントムは自身の中の魔力を練り上げる。
DMFBも魔術は使える。ただ魔術師たちとは発動原理が異なるだけで、特にファントムは頻繁に魔術を使おうとする。
だが、今回はファントムの魔術の発動よりも蝿の大群が到達するほうが速かった。魔力の放出を切り上げて、垂直の跳躍で上へ逃れる。
蝿はファントムが元いた場所で数瞬わだかまり、すぐに進行方向を真上のファントムに定めた。
「ちぃっ、面倒な……!」
蛇を下方の錆び付いた手すりに巻き付け、長さを戻して一気に地面へ戻る。蝿もそれを追うが、空いた距離はファントムが魔術を発動するのには十分な距離だった。
「燃え尽きろ……虫けらどもがぁ!!」
ファントムの至近で爆発が発生した。離れた沙夢濡にも爆風と熱風が届くほどの威力で、光は初めて倉庫の全体を照らした。
蝿はそれに自ら突っ込んでいき、次々に形も残らず粉々に砕かれていく。爆発は蝿が一匹と残らずに消えるまで続き、余波はファントムの周囲のすべてを吹き飛ばしていた。
壮絶な爆発の連続がやみ、倉庫に静寂と暗闇が戻ってくる。
「……」
静寂が続く。ファントムは動かない。
蝿を操っていた誰かがいるはず。だが、出てこない。
機を窺っているのか。しかしファントムは何かの気配も向けられる殺気も感じ取れない。
本当にさっきの蝿だけで終わりなのか…… ファントムは油断なく周囲すべてに注意を向ける。自らの腕から伸びる蛇の目も全方位に向けている。
だというのに、奇襲を受けた。
「――もらったぁ!!」
「な、――ッ!?」
ファントムの真正面から、矮躯が大鎌の一閃を伴ってファントムの懐に飛び込んでくる。
しかし、ファントムも寸でで反応し、かわした。大鎌は空を切り、お互いに距離ができる。
「貴様……先ほどの――?」
ファントムの目の前にいるのは、つい先ほどまで蝿の大群が模っていた唯利亜の姿そのもの。つまり、唯利亜が蝿を操って自身を模らせていたということになる。
だが、ファントムは外観ではなく、その中身、器に覆われた唯利亜の精神を見て、容れ物との整合性のなさに疑問を懐いた。言うなれば、実験器具であるはずのビーカーに玉露が入っているかのような……
考える暇も与えず、唯利亜はファントムに向かって疾走、一瞬で肉薄した。
「ちっ……小癪なぁ!」
「っふ!」
短く息を吐きながら、再び大鎌を横一文字に薙ぐ。先ほどの蝿を使った攻防によって、このファントムが近接戦闘が得意ではないことは把握している。上に避けても後ろに下がっても、唯利亜は追撃の準備ができていた。しかしファントムは避けることもなく、それに自身の蛇を絡ませた。
「、ッ」
「来い、偽識者!」
そのまま引き寄せられようとした唯利亜は、そうなる前に鎌を手離した。唯利亜の支配下から離れた鎌は元の魔力となって霧散する。
得物を失った唯利亜はやむなく飛び退って距離を取る。が、攻撃の手を止めるわけにはいかない。唯利亜は右手を地面につけて、その材質を“識る”。こうしてどう魔力を作用させれば操れるかを知り、自在に動かすことができるのだ。
今度は攻勢に転じようとファントムが伸ばした無数の蛇。その頭を、地面から伸びた槍が一つ残らず貫いた。
「なるほど……“識ること”とはそういうことか……!」
ファントムは歯噛みする。唯利亜は地面を隆起させた上で硬化させることで、鋭利な槍に変えたのだ。
近距離でも遠距離でも、さらに遠隔地からも攻撃できる。この柔軟性こそが、唯利亜の真価である。ともに戦う味方によって戦い方を変えられる。さながら魔術師のように切り替えられるため、疵術師の中でもその戦略的価値は非常に高い。
ファントムが蛇を伸ばせばそれを地面からの槍で貫き、接近しようとすれば広範囲で地面を隆起させて壁を作り上げる。唯利亜はどんな距離でも自分の土俵にしてしまうだけの能力を持っているのだ。
汎用性、柔軟性を強さの基準に入れるのなら、唯利亜はそれこそ特殊遊隊の中でも随一と言えよう。
だが、それは疵術師と比べた時の話。
そもそも、ファントムという強大な存在との一騎打ちで、柔軟性などという要素は優位に立てる絶対的条件にはなり得ない。
ファントムに関する知識の中で、たった一つだけ、唯利亜が知らないことがあった。
唯利亜が壁でファントムを囲み、さらに無数の槍をその内部に殺到させた、その時だった。
「っはあ!!」
ファントムの裂帛とともに、唯利亜の創り上げた壁と槍が、粉々に砕け散った。当然、ファントムには傷一つつけてはいない。
それまで破られなかった自分の技が破られた、そのことに呆然としてしまった。たった一瞬でも、それは致命的な隙だった。
ファントムが伸ばしてくる蛇。唯利亜はそれまでと同じように地面からの槍で迎え撃とうとするが、蛇は一匹ずつに拡散してその攻撃をやり過ごした。
そして、次の瞬間には収束。向かうのは当然、唯利亜。
迎撃を諦めて唯利亜は防御に転じた。地面が盛り上がり、唯利亜と蛇の特攻を隔てる壁となる。
「そのような脆さではなぁ!」
それまで防がれていた蛇は、唯利亜の創り出した壁を難なく突破した。桁違いの干渉力に、唯利亜は為す術もなく蛇の到達を待つしかない。
計26匹の蛇が、唯利亜の矮躯を貫いた。
戦いを見ていた沙夢濡は、それが再び蝿となって形を崩していくのを期待していた。
そうでなければ、唯利亜が死んでしまう。
「――ッ、ぐぶっ……」
だが、唯利亜の口から漏れる苦しげな声と地面に滴る何かの液体は、沙夢濡の希望を容赦なく打ち砕く。
蛇が頭を上空へ向け、唯利亜がそれに伴って宙に持ち上げられる。磔にされている聖職者のごとき姿。ファントムが蛇を抜くと、その勢いで唯利亜は数十mの距離を飛ばされた。
ファントムの意図したものか、それとも偶然か、唯利亜の身体は、沙夢濡の目の前に落ちた。べちゃっ、と肉塊が堅い地面に落着する音と、それが液体を叩く音が、同時に沙夢濡の耳朶に響いた。
「唯利、亜、ちゃん……?」
沙夢濡は唯利亜の下へ四つん這いで近づき、その顔を覗き込む。
暗闇のせいで詳しくは見えない。ただ、ヒューヒューと空気の抜けるような音が不規則に聞こえている。
「じゃ……ヌ、……」
名を呼ぼうとして言いきれず、代わりに唯利亜は口から何か液体を吐きだした。至近距離で見ていた沙夢濡の顔と手に、それがかかる。
沙夢濡は手を目の位置まで掲げて何なのかを確かめようとする。が、暗くてよくわからない。
奇しくもその時、倉庫に光源が持ち込まれた。この場所を探し当てた斥候大隊の疵術師だ。彼らは、この倉庫の状況を知るために、魔術で光源を創りだしたのだった。
当然の現象として、沙夢濡もその目で状況を知ることになる。目の前で倒れている唯利亜がどうなっているのか、自分の手についているそれが、いったい何なのかを
否応なく、知らされてしまった。
生温い血に塗れた真っ赤な自分の手。もはや原型も判断できない唯利亜の身体から流れ出る鮮血。吹き出る血潮。地面は血の海で、沙夢濡の足まで浸らせていた。
もはや、気付いていない振りも限界だった。
「あ……、あああああぁぁぁぁぁあああぁぁぁぁぁっ!!?」
正気を超えた絶叫が、沙夢濡の口腔から吐き出された。それまで極限状態にあって張り詰めていた精神が、不明瞭な現実に甘えて防衛本能を発揮していた精神が、誤魔化しようのない現実に打ちのめされて崩壊した。
倉庫に入ってきた疵術師は、ファントムを見つけるよりも瀕死の唯利亜に気付くよりも、まず沙夢濡の絶叫に注意を奪われた。
「いやっ、ぁ……ゆり、ぃ……ゆり、あちゃんっ……あ、やぁ……なんで……なんでぇ!?」
状況の意味がわからず、両手で顔中を掻き毟る。口から出る声は言葉の体をなしておらず、唯利亜の精神は狂乱状態そのものだった。
目を見開き、歯をガチガチと鳴らし、手が頬を引っ掻いていく。
既に五感も満足に働いていない沙夢濡の前に、ファントムが立つ。足がピチャ、と唯利亜の血を鳴らすが、ファントムは唯利亜そのものから関心を失っていた。
沙夢濡の五感の中で、視覚だけが唯利亜の惨状を捉えている。それだけが沙夢濡にとっての最悪の現実を見せつけ、彼女の心から正気を剥ぎ取っていく。
「ふむ……やりすぎたか。これでは戴冠どころではない。野次馬も増えるであろうしな。――さて、女王よ」
もはや恐怖に身体の自由を奪い尽くされた沙夢濡は、ファントムの言葉に応じることもできない。だが、ファントムは沙夢濡の身体に蛇を巻き付けて持ち上げながら、続けた。
「偽る者の死を乗り越えることは、そのまま貴様の糧となろう。だが、それまでは少しばかり時間がかかる。なれば、場所は移さねばならぬ。城はまだ先の話か」
震える沙夢濡をその手に抱いて、ファントムは唯利亜を置いて斥候大隊の前から消えた。




