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Silent Lyric  作者: 赤井呂色
第1章 誘惑する狂姫
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第1章#4 騎士の謁見


 翌日、月曜日。


 毎週恒例の月曜日特有の気だるさとともに家を出る。今日も九能は一緒だが、唯利亜は会長の家に泊まっているはずで、おそらく登校も一緒だろう。今日は別で登校することになる。愛燕には少し寂しい思いをさせるか?

 ということを考えるまでもなく愛燕はいつもの待ち合わせ場所にいなかった。唯利亜に居場所を聞いてそこまで行ったのだろうか。ここから会長の家まではかなりの距離があるが。というか場所はわかるのか。ここと言われても道がわからないと意味がない気がするが。

 さすがの愛燕もそこまでするとは思えないが、一応のメールは唯利亜に送っておいた。そして、数分経って返事が返ってきた。


「唯利亜、なんて?」


 横の九能が携帯の画面を覗きこんでくる。


『会長は先に学園に行ったらしい。生徒会の仕事が云々という話だが』


「ほんと? 唯利亜は?」


『唯利亜も一緒だ。ついでと言ったらあれだが、愛燕も既に学園にいるらしい。今は教室で雑談しているとさ』


 まあ、いつもの日常だ。唯利亜や愛燕が俺より先に学園に行くなんていつものことだし。

 しかし、九能はまだ安心できないのか、表情を少し険しくしていた。


「後朱雀さんは? 唯利亜、監視はしてるの?」


『訊いてみる』


 メール。唯利亜に、監視はしているのか、という質問を送った。

 唯利亜の監視というのは、あいつの得意魔術の一つを応用したものだ。唯利亜は表層だけではあるが見ただけでそのモノの本質を“識ること”ができる。人間であれば表層意識を読みとる程度で終わるが、自然物や本能だけで動いているような小動物ならどう魔力を作用させれば操れるかということまでわかるため、主に昆虫を操ってその視界を共有することで遠隔視ができるのだ。予めの準備が必要だが、精確性で言えば深夜のそれよりも信用できる。

 それを使った監視が、唯利亜に任された任務。学校の中なら蝿が一匹飛んでいても不自然さはないため、他の疵術師が監視するより簡単だ。

 果たして答えは――


「してない……って、何してるのよあの子は。護衛の意味がないじゃない」


『言っておくか?』


「お願い。致命的なことは起こらないと思うけど一応はね。唯利亜には報告書も書いてもらわないといけないし」


『了解』


 再びメール。なんでもいいから蟲を使って監視しておけ、と。

 しかしあの唯利亜が会長から目を離すとは思っていなかった。護衛が必要と言った時点で、蟲を使った遠隔視も自主的にしているものだと思っていた。なにせ唯利亜にとって愛燕と同じくらいに慕っている人だ、危険だと言われておきながら目を離してしまう理由がない。俺と同じように九能から心配ないと言われていても、万が一を考えて監視の蟲は置いておくはずだった。

 まあ……こうつらつらと考えていても意味はない。唯利亜は唯利亜で考えがあったのかもしれんし。

 さらに数分して、そろそろ学園に着こうかという頃に、唯利亜から了解した旨のメールが返ってきた。これで会長も安全、ということか。




 ――ただ、それは決定的に手遅れだった。




◇◇◇ ◇◇◇




 鳳霊学園、第二会議室。生徒会役員の言う、生徒会室である。

 そこに、後朱雀沙夢濡は一人で作業に没頭していた。作業と言ってもいつものような書類作業ではなく、鳳秋祭における生徒会企画ミスコンの内容を纏めていた。

 土日の内に生徒会の副会長及び書記を集めてしておく予定だったのだが、思わぬ事態に巻きこまれてそれもできなかった。自分一人でやるのも非効率極まりないが、さすがに朝早くに皆を集めるのは気が引けた。非常事態に巻き込まれたのが自分の責任だと少なからず思っているところもある。強すぎる責任感は時に大きな勘違いを生むのだ。


 一段落したところで、沙夢濡はイスの背凭れに背を預けて身体を伸ばす。と、その拍子に「んぃっ」と喉の潰れたような奇声が上がり、思わず周りに誰かいないかと見回してしまった。


「……ふぅ」


 誰もいないことを確認して溜息を吐く。いつも誰かが周囲にいることが多いために、こうして一人になると気が抜けてしまっていけない。お嬢様として振る舞うことに慣れていると自分では思っていたが、やはり素の自分はどうしても捨て切れないらしい。

 生粋のお嬢様。それは沙夢濡を表す言葉としてはある意味正しい。後朱雀家という貴族の末裔に生まれた一人娘。幼いころに礼儀作法から書、花、茶と他にも考え得る限りの習い事はさせられてきた。それをお嬢様と言うのなら沙夢濡は確かにお嬢様と言うに相応しい。

 だが、今の沙夢濡は取り繕った末の産物だ。言ってしまえば、お嬢様という存在を演じている。窮屈さを感じたことはないが、お淑やかだとか言われると何とも言われぬ虚無感に囚われる。外面しか見ていない相手に失望でもしているのかもしれない。そう思わせているのは自分なのに。同時に自己嫌悪さえしてしまうくらいだ。

 何がしたいんだろう。

 自虐的な考えを振り払って、沙夢濡は再びミスコンの構成に取りかかる。まずは募集方法、自薦か他薦か両方か。そして候補者の選出方法、さらに投票方式。どれも沙夢濡一人で決めていい内容ではないが、方法、方式の候補くらいは挙げておくべきだろう。

 沙夢濡は再び頭を抱えながら思考に沈む。考えて思考して思慮して、結果その脳パルス信号の海に溺れ始めたその時――


 カタッ……


「……!」


 物音。ごく小さな、周囲に音のないこの空間だからこそ聞こえた音。本当に気付けたのが奇跡なほどに、小さな音。

 沙夢濡はその物音がした方向へ――部屋の入り口へ目を向けた。

 しかし、この時間なら生徒の何人かは既に登校しているために物音があっても不思議ではない。実際、耳を澄ませば他の校舎から生徒の笑い声が微かに聞こえるくらいだ。

 だが、沙夢濡は不思議とその音が気にかかった。誘蛾灯のように、その物音は沙夢濡を引き寄せた。

 立ち上がり、入口へ向かう。ドアノブに手をかけて捻る――何の抵抗もなくその扉は開いた。


「…………」


 何もなかった。誰もいなかった。当然だ。朝にこの特別教室棟に用がある生徒は限られる。特に一階は、基本的に生徒会役員以外ほとんどの生徒が使う機会もなく卒業していく部屋ばかりが並んでいる。

 自分でも理由のよくわからない行動に溜息を吐き、沙夢濡は机に戻るために踵を返す。




 男がいた。


「っ!!」


 驚愕に固まった。次に驚愕は恐怖に変わり、混じり合って恐慌に変じる。

 表立って取り乱したりはしなかった。だが、精神的には思考を纏める余裕もなかった。あくまで心の恐慌を表に出さないだけの理性は残っていただけ。出せなかっただけかもしれない。

 ――男。この学園では見たことのない男だ。生徒にはもちろん教師にもいない。そもそも――人間ですらないかもしれない。そう思わせるほどに、その存在には現実味がなかった。

 その男の身長は2m近い。全身をローブに包まれており、一見すれば神父のようにも見える。だがその首に提げているのは十字架ではなく眼球を模したペンダント。充血した血管が浮き上がって見え、おぞましいことこの上ない。ローブの長い袖は彼の腕を完全に隠していたが、その袖の中からは蛇の頭部のようなものが見え隠れしている。ペンダントの眼球は沙夢濡の目を捉えて離さない。


――これは、なに?


 頭でそう思うだけで、身体が動かない。逃げねばと思っても、行動が伴わない。頭はこれは危険だと警鐘を鳴らすだけで、まともな思考をしてくれない。


「女王よ……迎えに上がったぞ。さあ、この手を取れ。私とともに来い」


 男の声。その姿形と同様に、そこにあるのに実感の湧かない奇妙な声だった。

 男は、腕を伸ばす。その腕は、蛇そのものだった。

 蛇の赤黒い口腔が目の前に迫ってきて、沙夢濡は後ずさった。上顎の長い毒牙からは透明な液体が垂れ落ちている。二股に分かれた舌が沙夢濡の頬を撫でた。


「ひっ……」


 腰が抜けて、その場に座り込む。歯の根が合わず目は見開かれ、恐怖のために身体中に力が入らない。

 それを見下ろす男は、その蛇の口腔と同じように赤黒い唇を開く。


「恐怖か。それは正しい反応だ。感情というものは人の行動を加速させることもあれば縛ることもある。恐怖は特にそれが顕著だ。貴様のそれは縛るものか。自らの在り様すら縛るその恐怖はまさに貴様の本質と言っていい。欺瞞こそが本質とはまた因果なことだな。むしろ根源そのものか?」


 沙夢濡に男の言葉はほとんど届いていない。その男の腕は無数の蛇の束でできていたのだ。明らかに人ではない。だが、沙夢濡にはこの男の存在を説明する知識があった。

 つまり、ファントム。人喰いの異形DMFBの中で最も強大な存在。それが今、沙夢濡の目の前にいた。

 恐怖だけが沙夢濡の理性を食い潰そうとする。

 判断ができない。目の前のものは脅威以外の何物でないのに、取るべき行動を判断できない。


「恐怖に感けるな、女王よ。欺瞞で自分を納得させるな。それは逃避に他ならない。縛るならば感情で縛ってはならない、自らの意思で縛れ」


 沙夢濡の耳に入ってくる、ファントムの声。それは沙夢濡の中に甘く響いた。

 どこか救いに似た言葉に、思考能力をほとんど失った沙夢濡は顔を上げた。視界に入ってくるのは、見下ろすファントムだけである。


「怯えか。救済を欲する怯えだ。怯えは停滞しか生まぬ故に新たな誕生には似つかわしくない。だが、何かを欲するその姿勢はおもしろい。欲望はあらゆるものを生む。古きも新しきも何物でも生む可能性を持つ。産み統べる女王には相応しい」


 細長い体躯が、沙夢濡に歩み寄る。

 恐怖はあった。ファントムを怖れる感情に変わりはない。

 なのに、沙夢濡はファントムに手を伸ばしていた。


「王はいない。王子も王女も不要。女王だけで世は事足りる。産めばいい。兵士は女王が産めばいい。僭越ではあるが、この私が女王の騎士を務めよう。心配はいらぬ、魔女の唆しは女王の聡明さの前では何の魔力も持たない戯言に過ぎない」


 沙夢濡の指先が、ファントムの腕である蛇に触れる。途端、沙夢濡の頭の中に何かが流れ込んできた。熱く、粘っこく、それでいて気持ち悪さがなく、欲望なのにどす黒さのない、純粋に受け入れる器を求めるそれは、沙夢濡の頭から離れ、身体の細部に至るまで廻り廻る。そしてやがて沙夢濡の下腹部に到達し――


「……っ、ぁ」


 未知の感覚に、沙夢濡は意識を刈り取られた。

 倒れ伏した沙夢濡を、ファントムは抱き上げる。




「産め、女王よ……」




◇◇◇ ◇◇◇




 唯利亜は担任教師に呼ばれて教務室まで向かっていた。おそらくはプリントか何かの類を届けてくれという頼みだろう。

 唯利亜は生徒会副会長という立場故に、こういったことを教師に頼まれることが多かった。生徒会に所属していることに不満はないが、こういう役回りが多くなることだけはどうしても面倒でしかなかった。自然と階段を上る足も鈍る。

 と、その階段の途中で声をかけられた。


「よ、唯利亜。またパシリか?」


 兄・奈都海の悪友、南坂宇類である。奈都海と宇類は小学生のころからの付き合いで、その関係で唯利亜も宇類のことは知っている。だが、宇類の彼女である鈴平鳴姫は通っていた小学校が違うこともあって、唯利亜は宇類と鳴姫の関係を知らなかったりする。逆に、奈都海は二人の関係に深くかかわるほどに知っている。


「宇類さんこそどうしたんですか? また女性関係?」


「またってなんだまたって。さすがにそう言う問題を学園までは持ち込まねえよ。ただちょっと進路のことで呼ばれただけだ。で、唯利亜はやっぱパシリか?」


「そうですよぉ。副会長になんかなったばかりに……」


「内申点の代償だな。ま、頑張れや」


 宇類はふざけてケケケと笑う。唯利亜はそれに頬を膨らませてご機嫌斜めであることを主張する。ちなみにまったく怖くない。

 頬を膨らませても睨んでも効果がないのを見ると、唯利亜はすぐに飽きて別の話題に切り替えた。


「でもそういえば宇類さんの進路って、もうほとんど決まってませんでしたっけ? ものすごい企業の御曹司なんだし」


「まあ……だからこそだな、呼ばれたのは。教師のほうはやっぱり大学に行かせたがるけど、あの人は実践派だからな、大学に行くくらいなら現場で学べって人だ」


 宇類の言うあの人とは、彼の父親であり世界的大企業の代表でもある人物のことである。そして、宇類はその御曹司、つまり後継ぎだ。いずれは父親の後を継ぐことが決められている宇類は、進路などと言われても選択肢がそもそもなかった。


「ここに通えてんのも我が儘みたいなもんだしな。ここ卒業したら即就職。しかも親父の会社に、だ。七光りも甚だしいね」


 再びケケケと宇類は笑う。ただ、そこには紛れもない自嘲が込められていた。


「まー、だからこそお前らと同じここに通えてるってこともあるんだけどな。学歴重視の親父だったら、それこそ総嬢院に行かせられてたかもしれんね。んなのは御免だけど」


 総嬢院は“総合嬢子育学院”の略。その大学及び付属校の総称として使われる。全国でもトップクラスの偏差値を誇る総嬢院であれば、学歴にも大きくプラスになるだろう。それでも宇類が総嬢院よりワンランク落ちるこの鳳霊学園に通えているのは、宇類とその周囲が学歴を重視していないからだった。

 それを言われるまでもなく知っている唯利亜は、宇類の言うことを黙って聞いていた。しかし、すぐに宇類も黙ってしまい喋らざるを得なくなる。


「……宇類さんも夢とかありますよね?」


 だが、よりにもよって言ったセリフがこれだった。宇類は目を逸らして曖昧に答える。


「ああ……まあな。あったんじゃないか? 忘れたけど」


「夢があるなら――!」


「唯利亜さ」


 唯利亜の言葉を遮って、宇類が強い調子で言った。唯利亜は無意識に口を噤む。

 宇類は怯えにも近い唯利亜の様子に気付いて、声を抑えた。が、それでも険しい表情に変わりはなかった。


「唯利亜、お前な、あんま人の中に踏み込むようなことするな? 最近そういうの多すぎるぞ、唯利亜」


「……っ!」


 唯利亜は思わず宇類を見る。図星だったからだ。唯利亜はその源血――他の生物でいう純性魔力の特性によって人間の表層心理を“識ること”ができる。表層だけとはいえ人の心を読むことができる唯利亜の言葉は、確かに他人にとっては踏み込まれているという意識を与えるだろう。


「まあ、色々喋った俺も俺だけど。地雷踏んだと思ったら無理やりでいいから話題変えろ。気まずいまま話進めるよりかマシだから」


 宇類はそう言って去ろうとする。唯利亜はそれを止めることもできず、ただ見送った。

 一人階段の踊り場に残された唯利亜は、軽く頭を抱えて唸った。


「う~……やっぱり人の心読むのやめようかな。しててもいいことないよね、これ。どうしたらいいと思うかな、姉さんだったら……?」


 この直後、担任に呼ばれていることを思い出して慌てて教務室へ向かった。






 担任に押し付けられたプリントの束を持って教室に戻ると、唯利亜の席には愛燕が座っていた。

 愛燕は別に唯利亜しか友人がいないわけではなく、唯利亜が教務室へ向かうと言った時も他の友人と雑談していたはずだが、なぜ唯利亜の席で唯利亜を待っていたのだろうか。

 そんなことを考えながら教卓にプリントを置いて、唯利亜は愛燕の下へ向かう。


「あ、おかえり」


「ただいま。どうかしたの、愛燕?」


 愛燕が席に座っているために唯利亜はその隣の席に座った。愛燕は机に頭を乗せつつ唯利亜を見る。


「別にー……、唯利亜がいなくて寂しかっただけー」


「それでボクの席を占拠してるの?」


「唯利亜の匂いが嗅ぎたかっただけー」


「あ、そう……」


 愛燕は机に人差し指でぐりぐりと円を描きながら「ぱふー」と息を吐いた。唯利亜は愛燕の反応に困る言葉に適当に返し、それから力の抜けたような行動を蕩けた目で眺めている。

 可愛いものには目がない唯利亜は、小柄で愛らしい愛燕をこうして眺めることがよくある。といっても、その二人の姿そのものが傍から見れば周囲の目を奪うほど可愛らしさに溢れているのだが。こうしている間だけは、この二人にその自覚はまったくない。


「そーいえばさ愛燕、世界史の課題してきた?」


「んー、してない。唯利亜は?」


「ボクも。いよいよとなったら愛燕に見せてもらおうと思ってたから」


「別にいいと思うよ。今日は世界史ないし。それより今日の英語、あたし当たりそう。予習してないや、どうしようか」


「さすがに予習はしておこうよ。ただでさえ英語はどこまで進むかわからなくて予習が難しいのに。単語調べるだけなら今からでもできるけど」


「めんどいからお昼にする。唯利亜手伝って」


「はいはい。愛燕ってば何でも面倒臭がって……」


「そんなことないもん。唯利亜と一緒にする時はメンドくさくないもん」


「はいはい……」


 他愛もない会話が続く。この二人にとってはこういった朝が普通で、いつもの日常風景。平日の日課。朝のホームルームまでは二人で雑談することが最も多い。他にも友人は多いが、それらの友人はこの二人の雰囲気にはどうしても介入できない、と声を揃えて言う。

 だが、そこに難なく足を踏み入れる者が一人いた。


「……退いてくれる? 邪魔なんだけど」


 と、冷たい声で言ったのは、鈴平鳴姫。


「あ……っと、ごめん」


 若干の威圧感すら込められていた声は、唯利亜に無意識の服従を強いた。唯利亜は席を立ち、離れる。鳴姫は一言「悪いわね」とだけ言って席に座り、鞄を机の横にかけてそのまま腕を組んで俯いた。

 居眠りでもするつもりだったのだろうが、それは愛燕が許さなかった。


「鈴平さん。邪魔っていうのはちょっと言い過ぎじゃないかな?」


 唯利亜が察知して止めるよりも、愛燕のほうが早かった。


「……」


 名前を呼ばれた鳴姫はさすがに無視するわけにもいかず、声の主である愛燕に視線を向ける。実は心中では無視すればよかったと大いに後悔しているが。

 その後悔が八つ当たりに変わって視線に呆れと侮蔑がこもる。


「もうちょっと言い方あると思うんだけど。邪魔は余計だったよね?」


「――で、なに?」


「なにって……」


「何をしてほしいの? 謝罪ならもうしているけど。他に何かしてほしいことでも? 謝ってもらうだけじゃご不満かしら?」


 鳴姫は親の職業や周囲にいた人間の関係上、難癖を付けられたりそれに近いことをされたりすることに慣れている。故に鳴姫は平然としていられるのだが、愛燕は当然ながらおもしろくない。

 唯利亜は既に止めることを諦めている。


「なにその言い方。喧嘩売ってるの?」


「先に売ってきたのはそっちでしょう? 転売してないだけ有難く思いなさいよ」


 事実上の宣戦布告だった。


「ここまで人に苛ついたのは初めて」


「それはよかった。挑発されて怖気づくような意気地なしが相手だったらどうしようかと思っていたところよ」


「ふーん。そこまで言って負けるとすごく格好悪いけど。勝つ自信はあるよね?」


「勝てない喧嘩を売る馬鹿は男だけよ」


 愛燕は薄ら笑いで、鳴姫は無表情でお互いに言葉を交わしているが、その腸が煮え繰り返っていることに変わりはない。

 唯利亜は当事者でありながらもこの応酬を傍観していたかったが、時間という逆らい難い流れに囚われ、二人の争いに介入せざるを得なくなった。

 愛燕と付き合っていると稀にではあるがこういうことに巻きこまれることがある。愛燕はその見た目や動きのない表情と声音からは想像できないくらいに喧嘩っ早い。そしてしつこい。今回は鳴姫が唯利亜に邪魔だと言ったことが気に喰わなかったのだろうが、そうだとしても普通は流すか軽く注意するだけで終わるものである。

 だが、愛燕だとそうはいかない。まずは突っかかって、しかも喰いつくとただでは離さない。具体的には相手が負けを認めるまで絶対に許さない。

 ただ、そこにも例外があった。唯利亜か奈都海が止めた場合である。


「愛燕、そこまで。時間だよ」


「時間? 関係ないよ、唯利亜。あたしは唯利亜のために戦ってるんだよ? 止めないで」


「頼んでないから。ほら早く自分の席に戻って。先生が来ちゃうよ」


 唯利亜は愛燕の腋に手を入れて担ぎあげようとするが、唯利亜自身も小柄なこともあって愛燕の身体はまったく上がっていなかった。それまでの険悪な雰囲気とは打って変わって微笑ましい光景に、傍観していたクラスメイトたちも表情を和らげる。

 が、それをよしとしない者がいた。


「……――」


 鳴姫がぼそりと言ったその呟きを、愛燕は耳聡く聞き取った。唯利亜の拘束を振りほどき、鳴姫の前に立つ。鳴姫も愛燕を睨みつけ、互いに視線が交差する。


「なんて言った?」


「あら、何か聞こえた?」


 とぼける鳴姫に、愛燕がついにキレた。


「ふざけんな……根性無しってさっき唯利亜に言ったでしょう!?」


「ああ、そうね。確かに言った気はするけれど。それがなに? なにか間違っているのかしら?」


「なっ……取り消して! 唯利亜はそんな風に言われるみたいに弱くない!」


「弱いなんて言ってないわよ? 私は単に挑発したのに無視されたのが腹立たしいだけよ。他人の喧嘩に横槍入れるなんて無粋も甚だしいと思わないの?」


 唐突に矛先を向けられた唯利亜は困惑する。が、愛燕を止めるためにもまずは喧嘩腰を崩さない鳴姫を宥めることにした。


「ごめん、鈴平さん。ボクなんかが喧嘩売られてるとは思ってなくて」


「挑発されている自覚がないなんて、ほんと救いようがないわね」


 即座に返した鳴姫の侮辱に、愛燕がまたも眉を吊り上げる。


「このっ……」


「愛燕、やめな。喧嘩は終わりって言ったでしょ。鈴平さんも、もうやめてくれないかな。終わる雰囲気だったのにわざわざ続けようとするのもさ、十分空気読めてないと思うんだよね」


「…………」


 鳴姫は黙る。唯利亜に言い負かされたというより、呆れに言葉を失ったというような表情だった。


「敵意には敵意で返してくれるかしら。迷惑だし鬱陶しいのよ、敵意を向けているのにそれ以外で応じられるのは」


「売られた喧嘩は買えってこと? 残念だけどそんな喧嘩が買えるほど、ボクも余裕がないしさ。そもそも好きじゃないし。見るだけならまだしも当事者にはなりたくない」


「それが嫌いだって言っているのよ。人の敵意を無視するようなタチは嫌いなの」


「嫌ってるのは鈴平さんの勝手。好きになってとは誰も言ってないしね」


 唯利亜と鳴姫の攻防。今度は愛燕がはらはらしながらそれを見るはめになった。

 このクラスにおいて、唯利亜がこうして険悪な雰囲気を自ら作ることは珍しく、また鳴姫が喧嘩とはいえここまで他人と話すのも珍しい。周囲も無視できず、沈黙とともに二人を見守る。

 そして――


「……もういい。あんたに何を言っても不毛だわ」


「ありがと。そう言ってくれると嬉しいな。……って、ありゃ」


 もうホームルームまで数分もないというのに、鳴姫は教室を去っていった。

 逃げた――と取れないこともないが、鳴姫が授業をサボることは多く、そう認識した者は多くはなかった。唯利亜ももちろん、勝ったなどとも思っていない。


「唯利亜ー……」


「愛燕、喧嘩はよくないからね? これからはちゃんと自重するように。……これ言うの何度目かわかんないけど」


「む~……」


 すっかり拗ねてしまった愛燕を、唯利亜は宥めながら席まで手を引いて連れて行った。




◇◇◇ ◇◇◇




「ちょっといいか、奈都海。いや、すぐ終わるから付き合え」


 一時限目の現代文が終わると、同じ教室で受けていた宇類によって、俺の頭はホールドされ近くの階段の踊り場まで連れて来られた。そして先ほどのセリフである。

 この校舎の端の階段故に利用者が少なく、授業終了直後のはずなのに人の気配はない。

 なんだろう。告白でもされるんだろうか。そっちの趣味はないんだが。

 宇類はらしくない神妙な顔で喋り始めた。


「鳴姫からなんか聞いてないか?」


『鳴姫から?』


 何が訊きたいのかわからず、持っていたノートを開いてシャーペンを用意する。


『鳴姫と何かあったのか』


 そう書いて宇類に見せると、「いや……」と俯いて床を見始めた。本当にらしくない。何か言いたいことがあれば即座に躊躇いなく言うのが宇類だというのに。


「別に具体的なことは何もないんだけどよ……なんつーか、最近のあいつ、なんか隠してる感じがして……」


『隠し事? 鳴姫がお前に?』


「なんか相談とか受けてないか? いや、もし受けて俺に何も言うなって言われてんなら言わなくていいんだけどよ」


『いや、なにも』


 書くと、宇類は再び黙って考え始める。

 宇類と鳴姫はかなり以前から、それこそ小学生のころから付き合っている。俺たちみたいなただの友人ではなく、恋人のさらに一段階上にある結婚を前提にした付き合いだ。

 宇類は世界的大企業の御曹司。鳴姫は表向きは普通の企業、裏では武器の密輸を中心に活動する暴力団の頭領の一人娘。この二人の結婚は二人の親が決めたことで、その裏にどんな思惑があるのかは俺にもわからない。ただ、この二人が昔からお互いに同じ想いを懐いていたことは知っている。この二人が付き合い始めた原因にも俺は関与しているし、だから二人に何かあると俺も少なからず気になってしまう。


「まぁ……そうか。俺だからこそ言えないことってのもありそうだしな……。もしかしたらこれからあるかもしれないから、そん時はよろしく頼む。別に俺に知らせる必要はないけど」


『本当に何もなかったのか?』


「あぁ、むしろ何もないのが問題っつーか。最近二人だけで会えてないんだよな。どうしたらいいと思う?」


 いや、そんなこと訊かれても。そのことに関しては浮気ばかりしてきたお前のほうが経験値あるだろ。それとも逆に鳴姫に対する態度がわからなくなったとか? だとしたら自業自得、ざまあみろとしか言えない。


「そりゃお前らしくもなく殺生な答えだな」


『一途じゃない奴は等しく罰を受ければいいと思っている』


「ケッ、よく言うぜ。生徒会の先輩に抱きつかれて喜んでたのはどこの誰だよ」


 失敬な。喜んでいたわけじゃなくて困惑していたんだ。九能というものがありながら、どうして亜美あみさんに抱きつかれたくらいで喜ばねばならんのか。

 と、そういうことを書いておいてから、笑う宇類にもう一度書いて見せた。


『それより自分の心配をしろ。鳴姫に何かあったらどうする』


「百も承知。そろそろ俺も遊んでばっかじゃいられないしな。なるべく二人でいられる時間を作るようにするつもりだ。あいつは厭がるだろうけど」


『どうだろうな。案外あいつも同じことを思っているかもしれない』


「あん? どういうこっちゃ」


『鳴姫のほうもそろそろデレたほうがいいかもしれない、とか』


「いや、ないない。あいつがデレんのはベッドの中だけだ」


 へー、としか言えなかった。でもなんかいやだなー、などと思ってしまう。女友達の夜の顔とかベッドの中がどうとか考えたくない。

 というか自分で言っておきながらなんだけど鳴姫がデレるってどんな感じなんだろう。すごく気になる。鳴姫は基本的に罵るか憎まれ口を叩くかくらいしかしないし。いや、もう長い付き合いになると本心で何が言いたいのかおぼろげにもわかるようにはなるんだが。


「まぁ、ともかく訊きたいことはそれだけだ。悪いな、手間取らせて」


『いや、お前らのためなら何でもするさ』


「くっさいねぇ。助かるけどさ」


 そう言って宇類は階段を上がり始めた。教室は下だというのに。どこに行くつもりだ。


「次の授業サボるわ。センセには適当に言っておいてくれ。んじゃ」


 宇類は屋上に続く階段へと消えていった。それだけで宇類が何をしたいのかはある程度予想できたが、俺はこいつの学園生活までサポートしてやろうとは思っていない。

 次の生物の授業では、宇類はサボっていると担当教師に言っておいた。





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