6 姉の話をする。
さて、再び夏休み中の山盛高校、二階の東端にひっそり佇む委員会室。
引き続き食券に判子捺し中である。
「よく似ているんだね、お母さんと」
私は山のように偉大でもなく、怖くもない。そう説明するために、私の母と言う人物を紹介した。母は目の前に娘がいればとりあえずからかってにやにやするような人である。「君が生まれた理由は条件が揃ったから」「この世に君は存在しない」などと言って小学生の子供に衝撃を植えつけ、私はいつも煙に巻かれからかわれにやにやされる。真に山のように泰然自若であれば、私は母の言動になんぞに動揺を見せないだろう。
自分の反応で母を面白がらせてやるのは癪に障る。何ごとも動じず、冷静な人間になりたいものだ。 と、俊也に語ったのである。
ところが、ふむふむと聞いていた俊也の反応は「よく似ているんだね」ときた。
「私の言わんとすることを聞いていたか?」
「はい、聞いてました。森園さんは家ではお母さんにからかわれている」
「他人からそう言われると、非常に癪に障るな」
「いや、何なんすか」
ナンバーを振る判子は通称ナンバリングと呼ばれる。捺すたびに版面の数字が回っていき番号が加算されていく、機械のような判である。捺すたびにガショっと音がする、優れものだ。
呆れたような顔をする俊也は、ガショっとナンバリングを食券に捺す。
「似ていると思いますよ。ばっさりはっきり言うところとか。森園さんも子供に向かって『君』とか言い
そうだもん。藍場先輩にさあー、委員みんなの前で『そんな悪習捨ててしまえ、馬鹿が。記録用ノートを用意せよ!』って言い放ったの、忘れないよー俺。あれは衝撃的だった、ちょっと良い気味だと思ったけど」
「・・・似ているものか、子供をからかってにやにやしているような人間と」
「えー。似ていると思うなぁ」
ぽん、ガショ、ぽん、ガショ、とリズムの良い判子捺しの音が続いた。
その後。
「実は親類一同からもよく似てると言われる」
「やっぱり?」
やっぱり?
やっぱり、癪に障るな。
「姉にも言われるが」
「お姉さん?どんな人?」
*
姉の話をする。
姉、森園深閑は極端に寡黙である。気が小さくて、優しく、引っ込み思案で恥ずかしがりや、金平糖と猫と花をこよなく愛する、可愛らしい心の持ち主である。「朔羅ちゃんはお母さんとよく似ているよね」とにこにこして言う一人である。ああそうそう、現在は嵯峨野の姓を名乗っている。去年結婚して、幸せに暮らしている。
「名前の通り、静かな人だね」とよく言われる。本人に向かってではなく、私や母や父に。まるでこそこそ秘密の話をするように、姉の印象の感想を言われる。思わず静かになってしまう気持ちは解からないでもない。「深閑」という名はうちの母の命名だが、姉といい私といい、「名前の通り」になっているのは言葉の持つ魔力か。母は「子供って大体五月蝿いじゃない、五月蝿いの嫌だったから、静かで慎ましい子になって欲しかった」と言う。希望通りになったということだ。母は魔女か。
母の希望通り、静かで慎まし過ぎる人物になった姉だが、それゆえ母と姉は意思の疎通が上手くいかないことが多い。自分は他人を会話で煙に巻いて楽しむような人間なのに、子供に利己的な要求を当て嵌めた報いであろう。
「良い子なんだけどね、言いたいことが解からないのはちょっと困ったね」
母談。
ちなみに私の「朔羅」という名前については
「桜の季節に生まれたから。そのままだね。ただの桜じゃつまらないから、漢字は変えたけどね。良い名前でしょ?」
とのことだ。お陰で変わっているといわれる。
姉は前述したように、極端に寡黙であるため、学校等の共同体でそれはよく不利に働いた。小さな声でぼそぼそ喋ったり、頷いたりという超低空飛行的コミュニケーションはするものの、口で何かを説明しようとすると言葉が喉のあたりで絡まり、結局上手くものを言えない姉を嘲笑う者は多かった。特に、小学生というのは無知な代わりに純心で残酷だから、姉の顔が可愛いのもあったのだろう、姉はよく苛められた。より一層姉は静かになって、孤立し、コミュニケーション下手になってしまった。
しかし、姉が陰惨な性格になったり、捻くれたりしなかったのは、金平糖と猫と花に愛を注ぎ、妹に愛を注いだからである。好きなものを愛するという平凡な行為によって、惨めな気持ちや傷付いた心を自分で守った。それは姉の美点である。姉に愛され世話を掛けて貰った私が、姉の言いたいことをよく理解できるという特技があるのも頷ける。
好きなものを愛し、大切にするということは、人を尊いものにする。
この世のあらゆるものは自分を傷付ける可能性と裏切る可能性がある。何かを好きになり、愛することは、それに傷付けられたり裏切られたりしたときに大きな損失になる。しかし好きなものを愛するときは幸せである、そして愛されたらもっと心は安心する。愛し、大切にする。その平凡な行為はときに醜かったり、裏切られることが恐ろしかったり、変質的であったりするが、決して愛することを辞めることなかれ。
この世のあらゆるものとは厖大。この世に愛せるものが全くない可能性なんて、極小。
傷付けられても裏切られても好きであり愛することもあるそうだ。
それほど強い力を持つ、平凡な行為を、忘れることなかれ。
姉の生き方とは、まさにこの平凡な行為に溢れている。
幸い、姉は金平糖に裏切られることなく、猫にそっぽ向かれても可愛く思い、猫に好かれることも多々あり、花を愛す心は花を綺麗に咲かせた。
小学校の時分に朝顔の鉢を育てたら、姉の鉢は素晴らしく元気に育ち蔓を校舎まで伸ばしたので、先生や用務主事に苦笑されたらしい。大概小学生は観察用の植物なんぞ一度種を植えたら忘れて当番の水遣り以外ほったらかしにしてしまうが、姉は毎朝登校したら鉢に挨拶し、休み時間に無言で鉢の側に佇み、帰りに鉢に挨拶して下校するような塩梅であった。一貫して愛である。その朝顔は沢山の蕾をつけ、青や紫の花を沢山咲かせた。そして沢山の種を残し、今でもその子孫は我が家の庭や壁の支柱にはびこる。姉は偶に朝顔に寄り添ってにこにこしている。会話をしているのかと思う。
そして、そんな姉に愛された私はシスコンである。解かり易く言うと、シスターコンプレックスである。姉の愛は大概、温かく受け容れられ、何かに影響したということである。
そんなわけで、姉は頗る良心的な人物に成長する。平凡な行為で心を満たし、妹に愛され、母と接触不良を起こしつつも不仲に陥ることはなく、ときにいわれない攻撃を受け、ときに良心的だったりお節介だったりする人間に助けられた。特に私は姉の危機となればすぐさま察知し馳せ参じた。私は通訳にもなったし姉に害をしようという人物は撃退した。騎士たる者であった。
周囲の人間からも、徐々に理解されていった。元来、無害で良心的な人間であるため、苛める理由はない筈で、理不尽な苛めはあっても性格的に嫌われることはなかったのである。地元で小、中、高の学校で過ごしたので、その性格、性質が周囲に認識され段々浸透していったのは自然なことであった。中学校に上がる頃には苛めはなくなっていた。