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15 そして条件が揃った。

 ここからは、母視点である。


 母が待ち合わせ場所の大学の正門前に立っていると、気まずそうに父がやって来た。

 母は寄り掛かっていた壁から身を起こして、黙って歩き始めた。父は横に並んび、二人は離れて歩いた。

 大学から少し歩くと、学生があまり行かない喫茶店があって、母と父はそこをよく利用していた。品の良い年配の男性が経営していて、少しコーヒーの値が張り、静謐で礼儀を重んじるような雰囲気の喫茶店なので、学生が騒げる場所ではなかったのだ。静かに議論をするのにもってこいな店なのである。

 母と父の足は自然とそちらに向いていた。最後の場所としてその喫茶店を選ぶのは当然であった。

 何を言おうか、互いに歩きながら考えていたに違いない。一歩一歩につき別れのときが近付いていたのだ。

 ところが、喫茶店に着いて二人は一枚の貼り紙に出くわした。


 『本日私用につきお休みさせて頂きます。』


 母と父は無言でそれを眺め、顔を見合わせる。定休日以外にオーナーが店を休みにするなんて珍しい。

 タイミングを外していささか間抜けである。気を取り直して、母と父は別の喫茶店に向かった。

 次に向かった喫茶店は学生でいっぱいで騒がしかった。どうやら運動系のサークルが懇親会をしているらしい。こんなところ入れないと二人はまた別の店へ足を向ける。

 しかし、どこに行っても定休日だったり、予定外の休日だったり、満席だったりして、母と父は店に入れなかった。近場の喫茶店やファーストフード店やカフェに、母と父はたらい回しされていったのである。

 丁度学年末の試験が終了したあたりだったので、学生が集まって親交を深めているのはよくあることである。しかし、満員の店の原因はそれだけではなかった。何件か目の店舗で、母と父は近くの大ホールで人気バンドのコンサートがあり、いつもより更に人出が多いことを知った。(ことごと)く手頃なファーストフード店やカフェは、学生かファンで普段より割り増しだったのである。


 近場の店をしらみつぶしに覗くが、結局座れる場所さえなく、二人は漂流していった。

 あっちを覗けば知り合いの学生が馬鹿話をしている。

 こっちを覗けば衛生管理上、保健所が入ったらしく業務停止している。

 猫カフェは父がアレルギーなので入れない。

 人気バンドのファンが三十人以上集まって懇親会をしていて店を占拠している。

 俳句が団体入賞したらしい大学サークルが祝賀パーティーしてて貸し切りになっている。

 本日定休日。

 『当店は○日をもって閉店させて頂きます。長年のご愛顧のほどありがとうございました。』。

 開店記念で関係者以外立ち入り禁止。

 人気バンドのファンらしきグループが二組睨み合っていて剣呑な空気で入れやしない。

 就職が決まったらしい学生たちがまだ時間が早いのに祝杯を挙げていて知り合いなので酔った勢いで巻き込まれかねない。

 『インフルエンザのため本日から暫くお休みさせて頂きます。』。


 まあ、色々事情があり理由があり、どんな店にも入れなかった。


 ようやく手頃なカフェに入ったのは、店を三十軒以上見て回った後で、待ち合わせた大学からも大分離れていた。

 全国にチェーン展開している今風のカフェで、人も多かったが、いい加減座るだけで良いからとりあえず中に入ろうということで入った。

 飲み物を乗せたトレーを持って、空いている席を探して、ようやく向かい合って座った。二人同時に溜め息をついた。

 改めて母と父は顔を見合わせ、やがて同時に笑い出した。

 あれだけ頑張って店を見て回って、(ことごと)く入れず、こんなところに流れ着いた。あんなに沢山店を見たのに入れないなんてことあるだろうか。なんだか馬鹿馬鹿しくなって、おかしかった。別れ話はうちの店ではお断りですと言わんばかりだ。

 笑いが治まると、母はにやと笑って言ったらしい。



 一年後とかも辰彦(たつひこ)さんとこうしている気がしますね。



 父は笑って、そうですねと言った。



 ある意味、今日は縁がないのです。目の前の蓮華さんとのご縁を大切にしたいものです。



 二人とも別れ話をしようだなんて思いはなくなっていた。


 その二年後、母と父は結婚した。


   *


 ひとつひとつはよくある理由で店に入れなかっただけだ。それが重なったのは、驚異的な偶然の一致というべきか。

 小学生低学年の私に、母はこう言った。


「お父さんとお母さんが別々に生きたら、君は生まれないのだよ。一個人は恐るべき量の条件が揃ったから存在するのさ。

 もしそのとき、オーナーの娘さんの結婚式ではなかったらオーナーは店を開けていて、私とお父さんは本当に別れていた。次に行った喫茶店で学生たちが懇親会をしていなければ、やっぱり別れていた。あれだけ沢山のお店を回った後だったから、お母さんとお父さんは馬鹿馬鹿しくて別れ話をする気がなくなったんだからね」


 けけけと母は笑う。


「その日に悉く入店が不可能でなければ、その後のお母さんとお父さんは存在しないわけなんだから、君は生まれない。

 その前に、もし私がお父さんがいる大学を選ばなければ、学部が一つ違ったら、お父さんと出会わない。出会っていても私とお父さんが言葉を交わさなければ、深い仲にはならなかったろうね。

 もっとそれ以前に、お母さんがこの世にいなければ、お父さんがこの世にいなければ、お母さんの両親がいなければ、お父さんのご両親がいなければ、深閑ちゃんも朔羅ちゃんもこの世に生まれない。

 君が生まれたのは、沢山の偶然や、必然や、出会いや、出来事が重なって、それらひとつひとつの条件が揃ったからなんだ。過不足なく。私とお父さんが利用していた喫茶店一つ違ったら、また全然違ったかも知れないんだ。

 私の全てと、お父さんの全てが繋がって、君はここにいる」


 そして、こうも言った。


「条件を作るのは人なんだよ。

 人が生きて行動するから、条件がどんどん積み重なって、何かが成立する。

 お母さんとお父さんという人間を通してみたから、休んでいた店も、その当時の大学生諸君の集まりも、バンドのファンの子たちの集まりも、一筋の『出来事』になるけれど、それぞれは個々に事情があっただけだね。

 お母さんとお父さんのことなんて、その人たちは全然関係ないことだったろうね。自分が見も知らない場所で、自分の行動が何かに繋がる条件になっていたんだよ。

 お母さんとお父さんは良かったけど、それは、いつでも良いことになるとは限らない。自分が関係する誰も知らず解からない形で成立するから、必ずしも良いものになるとはいえないね。

 だけどね、行動することを恐れてはいけないよ。

 沢山行動して、沢山人と出会いなさい。行動すればその一つ一つが何かに繋がって、それが何かを生む結果になる。

 自分が全く知らないところで、誰も君のことを知らないところで、何かが生まれて成立するかも知れない。

 または、君が生きる先で何かが咲くかも知れない」


「君の存在と行動は、何かの存在と行動を支えている可能性がある」

「お父さんとお母さんの全ては、君が生まれたときのエピソード」


 小学校低学年の私にとってはいささか難しい。この世の偶然によるカラクリや出会いをどう理解せよというのだ。

 しかし、今なら解かるのだ。

 世の中が恐ろしく複雑な幾何学模様で出来ているような図が頭に浮かぶ。一つ一つは独立しているかも知れない。隣同士だが知らんぷりしているかも知れない。

 しかし、模様の一つが動けば、連動していって、思いもよらないところに行き着き、影響を及ぼすかも知れないのである。


   *


 母と父がよく利用していた喫茶店のオーナーがその日、娘の結婚式のために休業していなければ。

 次に向かった喫茶店で運動系のサークルが懇親会をしていなければ。

 近くのホールで人気バンドのコンサートがなければ。

 ところどころで知り合いの学生が馬鹿話をしていたり、就職が決まって祝杯を挙げていなければ。

 保健所が入って業務停止していなければ。父が猫アレルギーでなければ。カフェに猫を取り入れようという人がいなければ。人気バンドのファンがほうぼうの店を埋めてなければ。ファンのグループが睨み合っていなければ。祝賀パーティーをやっていなければ。その日が定休日でなければ。閉店していなければ。開店記念で関係者以外立ち入り禁止でなければ。店を経営する夫婦がインフルエンザを引いていなければ。

 全ての条件が揃っていなければ、母と父は別れていたのである。

 そして、その全ては人が行動したゆえであった。喫茶店のオーナーの娘が結婚し、結婚するには色々あったに違いないし、運動系のサークルは懇親会を開き、それには色々働きかけがあったのだろうし、人気バンドはホールでコンサートをやり、それまでに色々あったに違いないし、コンサートのためにファンは集り、ファンは一人一人ファンになった経緯に色々あったに違いないし、集ったファンの中でまた集り、その集い出会いにも色々あったに違いないし、大学の文芸サークルは俳句入賞のために色々あったに違いないし、学生たちは馬鹿話をしたり就職が決まって祝杯を上げ、そういう出会いも経緯も色々あったに違いないし、保健所は衛生管理のため店を業務停止させ、閉店し、開店記念のために関係者だけ招いて祝い、店を経営する夫婦がインフルエンザを引いた、それにも色々あったに違いないのである。

 おそらくこれらの人々は、普通に生活し生きていただけなのである。

 自分たちの行動でひとつのカップルが破局を免れたなんて微塵も知らないだろう。

 微塵も知らなくても、彼らの行動が、私が生まれる条件のひとつひとつなのだ。


 人間一人は、恐るべき厖大な偶然や必然や出会いや出来事の上に成立しているのである。

 人生とは、途方もない連鎖なのだ。


   *


 煙草を吸っていた父が、急に煙草を揉み消して背をしゃんと伸ばして立ち上がった。

 うちの中ではルールがある。

 母の前では煙草を絶対に吸ってはならない。

 台所の入り口で、仕事終わりの母がにっこり笑っていた。


「辰彦さん良い姿勢してたねぇ」

「だらしがないってまた言うんでしょ」

「勿論。早く老けるね」

「怖いこと、いうなぁ」


 目を合わせない父を母は暫くにやにやして眺めると、私に言った。


「さ、買い物に付き合いなさい。新たなる生産者となるのだ」


 そうして、母が私を引っ張って行き、私は父を引っ張って買い物に出かけた。


   *


 母の仕事場で休憩時間に金平糖を食べながら話し、台所でだれて煙草を吸っていた父と話し、三人で夕食の買出しに出かけたのは、昨日のことである。


   *


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