8 続皇后の岬
重郷は紅梅姫の白く細い華奢な手を掴み、小路を下り海へと降りて行く。
途中で他の供の者にも待つように言いつけ、二人きりになっていた。
紅梅姫は小石だらけの足元を見るのが精一杯だった。小路を転がっていくのではないか、と錯覚するほどで、海へ着いた時には髪は乱れ、顔は蒼白になっていた。
「姫、此処まで来れば誰も居らぬ。いつも供が付いておる、姫と二人きりになるのは、一苦労だな」
重郷はそう言って、笑った。紅梅姫とは十以上も年が離れており、重郷はもっと大人だと思っていた。しかし、今の彼の表情は少年のようだった。
「……殿、わたくしは驚きました、若橘にあまり語気を荒げられたので、何かお気に召さぬことでもあったのかと……」
「ああ、有るとすれば若橘が姫から離れぬことだな……」
「そのような……」
「ところで若橘は大内家からの侍女なのか?」
重郷の顔が俄かに険しくなる。
「……いいえ、生家で幼き頃より姉妹のように育てられました、それが何か……」
「いや、そうであったか、それで良く呼吸が合っているのか……」
「はい、若橘の家の者は祖母の橘の代から仕えております……」
「……分かった、若橘がどれ程尽くしているかは、見ていれば良く分かる……それより、向こうに薄っすら霞んで見えるのが、二島と呼ばれておる……」
重郷は指差した。紅梅姫は視線を其の指先へと移す。
「まあ、小島の向こうに大きな島が二つ……そのままのお名前ですこと」
其れを聞いて重郷は大声を出して笑う。
「……?」
「今まで気付かなかった……確かに、其のままではないか、面白いのう姫は、正直な方じゃ」
そう言って重郷はまた笑った。
「……そうお笑いにならないで下さい、恥ずかしゅうございます」
「いや、良かった、姫が素直な方で、欲しい物があれば何でも取り寄せよ、京や博多の商人が出入りしておる、不自由な事があれば直ぐに申されよ」
「……いえ、わたくしは何も欲しい物はございません、実家は公家と謂えど名ばかり、殿の其のお言葉だけで十分でございます、嬉しゅうございます」
小路を下って来たときより少し顔色も良くなり、頬をほんのりと桃色に染めていた。
時折、強く海辺を風が吹きぬける。
其の風に紅梅姫は均衡を崩し、ふらつく。重郷は其れを両手で上手く支える。
重郷の胸の中へ飛び込んだようになり、紅梅姫は抱きしめられた。
塩の香りと共に重郷の香りがする。紅梅姫は瞬間、身を硬くした。
「大丈夫だ……姫の良い香りがする……」
紅梅姫は何も言葉にする事無く、重郷の腕の中で呼吸すら止めていたようだった。
「早く、婚礼の儀を行おう……」
重郷はそう言うと、其の手から紅梅姫を離した。
途中で置いて来た供の者達と、沢村と若橘が待つ場所へ重郷と紅梅姫が戻ってくる。
若橘は安心したように紅梅姫の元へと駆け寄る。
しかし、さっき小路を下って行った時とは紅梅姫の表情は、明らかに違っていた。
少し頬を桃色に染め、何処か弾んでいた。行く前は重郷を警戒していたようであったが、今は其れが感じられない。馬に乗るのも、重郷が其の身を支える。
若橘が手を出そうとしたが、紅梅姫の目は重郷しか見ていなかった。
「其れでは屋敷へ戻ろう、姫、ゆっくり参ろう」
「はい……」
紅梅姫は重郷の斜め後ろを着いて行く。
若橘は紅梅姫の変化もさることながら、沢村のほうが気になった。この先の対処を考えなければならない。沢村は何も無かったように若橘の前を行く。
一行は来た道を戻って行く。
次第に民家が見え始め、気がつくと屋敷まで戻っていた。
そして重郷は供の者と共に、それから直ぐに城へと戻っていった。
「姫様、如何でしたか? 殿はお優しい方でございますか?」
「ええ、若橘、心配には及びません、お優しい方です。京より離れ遠い処ではありますが、此処へ来て良かったと思っております」
「其れは、ようございました」
若橘は紅梅姫の笑顔が輝いているのを、見逃さなかった。既に重郷に心を奪われている。
ただ、姫が側室であることを忘れてはならない。男には見えない、女の戦が始まるのである。
……そう、沢村の言葉が甦る。若橘は頭を振った、如何しても沢村の誘いには乗れない。まだ、他の方法が有る筈だ。ましてや、素性も分からない今は、此方の方が不利だ。
「如何しました? 若橘、疲れたのでは有りませんか?」
「いえ、大丈夫です……それより誰ですか? 其処にいるのは」
若橘はきつい口調で、障子の向こうの人物を叱咤し、障子を開け放った。
「も、申し訳ありません……立ち聞きするつもりはありませんでした、お許し下さい」
其処には侍女の志乃が両手を突いて、頭を床に擦り付けていた。
「如何いうつもりですか!!」
若橘の何時もとは違う様子に驚いていた。
「……白湯をお持ちしようと……」
「……若橘、如何したのですか、貴女らしくない、そのように大きな声を……」
紅梅姫まで驚いている。
二人の様子に若橘はハッとしたように、頭を下げた。
「申し訳ありません、姫様……志乃も許しておくれ、今日は下がらせてください」
「……若橘、そうなさい、わたくしには、貴女だけが頼りです」
志乃は白湯を置くと直ぐに下がっていった。
若橘は自室に戻り、涙を堪えながら「……婆様……」と一言だけ、漏らした。