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66 恋歌

 何時までも見送る若橘の顔を、横で見ていた沢村はふっと笑った。


「……少し、寂しくなったのではないか?」

 

 若橘の顔を覗き込むように尋ねた。若橘は首を横に振り、着物の袖で涙を拭った。


「では、屋敷へ帰ろう。もう直ぐ、夜が明ける……城は、紅梅姫様が花姫様に乗り移り、柏井の方を襲った事件で、大騒ぎの筈だ……」

「そうですね、まだ、終わってはいないのですね……」


 少し落ち着いたのか、ゆっくりと沢村を見上げた。

 其れを見て、沢村はもう一度笑った、今度は少し、口の端を歪めて。この様な時の沢村は、得てして何か悪巧みを考えているものだ。

 若橘は背中にぞくっとしたものを感じた。


「……早く、屋敷へ帰らねば、登城に間に合わぬぞ」

「……?」

「皆まで言わせるな……」

 沢村は若橘を抱き寄せ、性急に唇を求める……





 気が付き起き上がると、沢村は既に登城していた。

 廊下で、初の元気な声がする。何時もの元気な初がいる。

 翌朝に床から起き上がれず、沢村が登城してから起きる事がしばしばあった。


 その度に、初から笑われ、穴があったら入りたいほど、恥ずかしかった。穴が無ければ、掘ってでも入りたいところだ。


「まあた、だんな様、奥様が起き上がれないような事をなさって……」

 初の大きな声が屋敷に響く度、恥ずかしさで赤面する。だが、こんな時が来ようとは、想像した事も無かった。

 そして、紅梅姫を思い出し、涙を流すのである。


 



 その紅梅姫の汚名も何とか、晴らせそうだった。

 柏井の方は花姫、いや、翔太に襲われてから、三日三晩、苦しみ続け、その間に自分の悪行の数々を全て白状した。そして、黄泉の国へと旅立って行った。

 一番ほっとしたのは、重郷かもしれない。




 其の日、重郷は皇后の岬で人を待っていた。其の日は初冬を思わせる厳しく冷たい風が、打ち寄せる波と共に、岬に吹き上げていた。入り江とは謂え、外は玄界灘の荒海である。

 

 紅梅姫と初めて外出したのが、此の岬であった。何時も、もう一度行ってみたいと重郷に言っていたのを思い出す。あの時の柔らかい、ふわりとした紅梅姫の香の香りを今でも重郷は忘れられなかった。

 如何して連れて来なかったのか、やはり、悔いが残る。

 そして、今考えれば、紅梅姫の心は何時も自分に向かっており、けっして揺らぐ事など無かったのだった。

 其れを裏切り、信じる事が出来なかったのは、自分であると、其処でも又、後悔の念に苛まれるのだった。

 

「……との、殿……」


 不意に、背後から紅梅姫に呼ばれたようだった。だが、声の主が違う事に直ぐに気が付き、振り返ると、其処には若橘が立っていた。


「沢村様から、殿が今日、此方へお越しと聞き、参りました」

 若橘はお辞儀をする。

 暫く会わぬうちに、随分年をとったようだった。髪に白髪が混じっているようにも見える。何となく、哀れさえ感じる姿だった。激しい風が、重郷の髪を乱す。まるで、重郷の心の内を見るようだった。


「殿、実は今日は紅梅姫様の遺品をお持ち致しました……」

 

 若橘の遺品という言葉に、重郷は一瞬、眉を顰めた。だが、若橘はそんな重郷に微笑み返した。


「此れを……」

 胸に大切に抱いている冊子を差し出す。

 其れが何であるのか、重郷は首を傾げた。


「此れは、姫様が書写致しておりました、古今集でございます。丁度、恋歌に差し掛かったところで、途中になっております。此の、恋歌の続きは、殿に書いて戴きとうございます……」


 差し出された冊子を、おずおずと手を出し受け取ると、重郷は中を捲り目を通す。

 確かに、紅梅姫の筆跡だった。

 他の者に宛てた手紙と勘違いした、手紙の筆跡と同じものだった。


「……若橘、此れを、わしに?」

 不安げな表情で、若橘を見る重郷の手は小刻みに震えていた。


「……はい、姫様が綴ろうとしておりました恋歌は、殿のものでございます」


「……そうか、今度はわしが綴る番であるということか……」

 と、此処で重郷は詰まったが、直ぐに続けた。

「分かった、姫の為に綴ろう……もう直、わしは城主でなくなる。隠居する。岡垣に沢村が良い屋敷を見つけてくれた、沢村も付いて来てくれるそうだ。そなたも来るのであろう?」


「……はい、沢村様の妻でございますので……」

 消え入りそうな小さな声で、恥ずかしそうに答えた。


「それから、わしは地蔵を作ることにした。紅梅姫の魂を安らかにする為、紅梅地蔵尊を作ることにした。城主としてのわしの最後の仕事だ」


 重郷は少し、以前のような誇らしげな顔をしてみせた。

 昔、紅梅姫が笑って、そんな重郷を見るのを楽しみにしていた。いや、今でも見ているかもしれない。

 重郷と若橘の間を風が吹きぬけていく。

 

「殿、其れは姫様が大変喜ばれましょう。殿の思いはきっと、姫様に届きます」

「……本当に届くであろうか?」

「ええ、届きます。思いとはそうしたものです。姫様は、現実が幻で、思いは確かだとおっしゃいました。其の意味が、漸く、わたくしにも分かったような気が致します……」

「……そうであったな、姫はそう申しておった……」


 重郷の目から零れ落ちた涙を、海から吹き上げる風が、飛ばしていく。


「……殿、姫様を思って下さい、そうすれば、姫様はきっと殿をお守り致しましょう」


 若橘は重郷にお辞儀をすると、馬の傍で待つ沢村の元へと戻って、もう一度、重郷に向かって、お辞儀をした。

 

 此れで、全てが終わった。

 だが、紅梅姫の恋歌は何時までも、重郷を思い、綴られていくことだろう。


                                       





 川で笠を被り、一人の男が釣りをしている。

 其処へ、一人の老婆と、もう直ぐ臨月を迎えるくらいの大きな腹をした女の二人が弁当を抱え、釣りの男の元へと急ぐ。


「……若橘、そんなに急いで走ってはいけない!!」

 

 沢村は急ぎ足の若橘のほうへと、釣竿を置くと駆け寄る。


「全く、如何してこう、手間ばかり掛けるんだろう、この奥様は……」

 初は呆れ顔で、二人を見ている。


「……如何ですか? 釣れましたか?」

 若橘の問いに、沢村はにたりと笑った。


「ああ、釣れた。後で、殿のところへも持って行こう」

 そう言うと、沢村は若橘を其処へ座らせ、若橘の大きくなった腹を撫でた。すると、腹の中でぴくりと赤子が動いたようだった。


「動いたのう……」

「ええ」

「……女の子であろう……」

「……生まれてみませんと、分かりません」

「いや、女の子だ……名はもう決めてあるのだ……」


 若橘は自分の大きな腹に手を当てた沢村を見た。

 沢村は今度は口の端を歪めて笑った、何時ものように背中がぞくりとする。


「……梅にしようと思うておる」

「でも、男の子かもしれませんよ……」

「いや、女だ。男は次に産んでくれ……」


 沢村は若橘の肩を抱いた。若橘は沢村に寄り掛かり、沢村の手を握った。

 若橘の髪は漸く、結べるくらいに伸びていた。

 その髪を沢村は愛おしげに撫でる。


 若橘はそっと大きな腹を撫で、「梅、早く生まれておいで。皆があなたを待ちわびておりますよ……そして、人を思いなさい……人を思う時、漸く、人は人になるのだから……」と愛おしそうにまだ見ぬ腹の子に語った。

 


 

                                            (了)


 

 

 




 

 

 


 



重郷公によって建立された、紅梅地蔵尊は北九州市に現存致します。


漸く、書き終える事が出来ました。

長い間、お付き合い頂き有難うございました。

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