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5 飛幡の浦

 翔太が言った通り、それから二日後には出立の日取りを伝えられた。漸く、筑前へと下る準備が整ったらしかった。

 

 紅梅姫は博多の商人の船で筑前へと下る事となる。瀬戸内海を下り、関門海峡から飛幡の浦を目指す。

 瀬戸内海は穏やかであったが、関門海峡付近へ来ると船の揺れは次第に強くなる。

 交通量も多く、船の数も必然と増えてくる。

 

「この辺りが関門海峡ですか?」

「はい、姫様、船酔いは有りませんか?」

「……確かに、揺れてはいますが、今暫くの辛抱でしょう……」

 

 紅梅姫は船酔いの為か、緊張の為か、京の大内の館を出てからは、非常に口数が減っていた。

 都を堕ちていくかのごとく、若橘の口も堅く閉ざされ、其の表情は曇っていった。


「此処は平家が滅びた海なのですね……二位の尼が安徳天皇を抱かれ入水されたと……」

 紅梅姫は感慨深げに目を閉じる。

「はい、何とも悲しげなお話でございます」

 

 若橘は平家物語より、船が揺れるのが怖かった。其れこそ、海に投げ出されれば一溜りも無い。

 二人の思いを知ってか知らずか船は何事も無く飛幡の浦へと寄港し、大内の家臣と共に其処で降ろされた。


 飛幡の浦は万葉集に


 ほととぎす飛幡の浦にしく波の しばしば君を見むよしもがも(万葉集巻12 三一六五)


 と歌われた処である。

 

 此の歌のように何度も会えない二人、打ち寄せる波のように何時も会っていたいと思うのは恋人の当たり前の気持ちで、何時も会えるようになったら如何なのだろうか、と若橘は紅梅姫と重郷に重ね合わせ思いを巡らせる。


 船を下りると、白い砂浜が広がり見事な根上り松が群生している。入り江に打ち寄せる波は穏やかで、春の日差しに波頭がきらきらと光り、海鳥が遠くで鳴いている。塩を含んだ海風が砂浜をさっと駆け抜ける。

 其れこそ万葉の世界を思わせる素晴らしい眺めだった。


 紅梅姫と共に若橘は大きく息を吸った。

 狭い船から降りた開放感、そして目にする景色の美しさは、長旅の疲れを癒してくれる。


「良い眺めです、来て良かった」

「はい、美しい眺めです」


 紅梅姫は久し振りに美しい笑顔をみせた。旅の疲れなど感じさせる事無く、其の笑顔は輝きに満ちていた。

 一方若橘と謂えば、船内で窮屈な思いをしていたのと、今後への不安で心から笑うことが出来ないでいた。そんな中、紅梅姫のおっとりとした屈託の無い性格にどれ程救われたことか。だが、本当に紅梅姫を守りきる事が自分に出来るのか、自問自答する日々が続いていた。


「遠路遥々、ようこそお越し下さいました、私は麻生家の家臣、沢原市衛門と申します。紅梅姫様をお迎えに参りました。」


 迎えに現れた男は年の頃は三十二、三といったところか、人は良さそうだが気遣いが無さそうだ。

 特別に気の利いた言葉を口にする事も無く、ただ其処に立ち、姫を輿へと案内する訳でもない。

 

 紅梅姫は大内家の家臣から麻生家の家臣へと引き渡され、用意された輿へ乗った。

 其れはまるで人質の引渡しにのように、若橘の目には写った。

 船を降りた時の開放感が薄れていく。

 一行は飛幡の浦を後にする。この後の行き先は告げられぬままである。


 花尾城は皿倉山より一段低い花尾山の頂上に、築かれていた。

 皿倉山は神功皇后がこの山に登り国を見た、という伝説が残される由緒ある山である。花尾城から見る皿倉山は壮大で大変美しいと、重郷が曲水の宴の後に紅梅姫に自慢していたのを若橘は思い出した。


 一行は花尾城へ直接向かう事無く城下の、ある屋敷の前で止まった。

 それは重郷が城下に用意させた、紅梅姫の屋敷だった。

 花尾山の東側に建てられた、京風の建物だった。庭は美しく整えられ五月が満開を迎え、時鳥の鳴き声が響き渡る、趣を感じる屋敷だった。


「殿は暫くこのお屋敷で旅の疲れを取るようにと、仰せられております。婚礼の儀式の日は後日お知らせ致します。何かありましたら、私にお尋ねください」


 然したる感情も表さず、沢原は礼儀正しく頭を下げると、供の者を引き連れ城へと戻っていった。


「姫様、お疲れでございましょう、旅の疲れを癒しましょう」

「……殿には何時会えるのでしょうか、直ぐに会えると思っていましたのに……」

「明日にでも、わたくしが沢原様にお尋ねして参ります。婚礼の前に一度お目にかかりたいと、申し上げて参ります」


 若橘は紅梅姫の落胆する姿を見て、憤りを感じていた。せめて、重郷自身が迎えるくらいの配慮があっても良いものではないか、遥々、京から来たのである。紅梅姫の不安を思うと、若橘は重郷を恨んだ。

 

 得心のいかぬ紅梅姫を説き伏せ、紅梅姫の隣の部屋へと入った。

 新しい屋敷ではあるが、待ち受けていた侍女や調度品も新しいものである。其れに慣れるには紅梅姫も若橘も今少しの時間が必要だった。


 夜の闇に紛れて、若橘の部屋に誰か入ってくる。

 賊は後ろから若橘の口を塞いだ。

 すかさず若橘は身を捻ったが、賊の力が強く身動きが取れない。


「油断すんじゃねえの! 此処は物騒だ、簡単に忍び込める」

 聞き覚えのある懐かしい声だ。


「……」

「隣の部屋の姫様に聞こえたらまずいからな……」


 口を塞ぐ力が抜ける。


「翔太!!……驚かすんじゃない……」

「若橘、泣いてんのか?」

 からかうように、翔太は若橘の頬を指で突いた。


「……泣いてなんか無い! 脅かすな!」

「……涙だろ?……まだ、何も苛めてなんか無いぞ……」


 翔太は若橘の涙を指で拭った、しかし、涙は次から次へと溢れ出す。

 心細い気持ちがそうさせているのだろうが、みっとも無い姿を翔太には見られたくなかった。

 だが、翔太は何も語らず後ろから若橘を抱きしめた。翔太の温もりが着物越しに伝わる。

 何時までそうしていてくれるだろう、若橘の心が緩んだ。


「……おまえ、危ねえな……油断しすぎだ、気持ちが緩んだんじゃ、使い物にならねえぞ……」


 しかし、翔太はその手を緩めない。

 旅の疲れと翔太の温もりで得た心地よさは、若橘を眠りに誘った。

 眠った若橘に夜具を掛けると、翔太も部屋の隅に座り込み膝を抱えて眠る。

 

 筑前での初めての夜は更けていった。


 

 


 






 

 




 

 


 


 

 


 



 

 

 

飛幡は現在の北九州市戸畑区にあります

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