57 続々虫の音
沢村の屋敷から近くの竹薮へと沢原と綾の二人を運び出し、若橘は経を読んだ。其の横で沢村は手を合わせ、二人に別れを告げた。
二人は寄り添うように静かに眠っている。二人を見たとき、若橘は自分と沢村を思う。もしかしたら、自分達にも此のような終わりがくるのかもしれないと……
宗右衛門は自分が筑前に残ることを許してくれるだろうか、許されない時、沢村は如何するのだろうか。
あの時沢村が、仲間と里へ帰れと言ったのは、本心からだったのだろうか……
様々な思いが若橘の頭を駆け巡る。
悪い事に、経を読むときにはいつも考え事をしてしまい、そのせいで何処まで読んだ分からなくなる。
結局、意識を集中できず、俗世から離れられないのだ。
「相変わらず、下っ手な経だな……此れじゃあ、あの世が分からずに、迷って出て来ちまうぜ……」
翔太は両手をぶら下げて見せる。
だが、若橘には翔太の冗談に付き合うだけの余裕は無かった。
居合わせた者も皆、翔太の冗談には乗ってこない。
翔太は面白く無さそうに、天を仰ぐ。
翔太は翔太なりに、人の死に向き合っていたのだ。翔太に涙は似合わない。
どんな理由があろうと、沢村は沢原を殺したくはなかった筈だ。そして、沢原が死んだとき綾が自害する事を予測できただけに、せめて、綾だけでも救いたいと思った筈なのだ。
若橘はそんな沢村の苦しみを少しでも共有したかった。彼らは心中として処理をされるだろう。ただ、今村と飯合が今度の事を、どう理解するかが問題だった。
兎に角、急がねばならない。急いで柏井の方の決着をつけねばならない。
翔太は終始面白く無そうだったが、沢村は気付かない振りをしていた。
だが、そろそろ翔太の堪忍袋の緒が切れようとしていた。一言も無しに、翔太が此れで終わる筈は無かった。
「おい、沢村! 此れは如何いうことだ? 沢原は俺が殺ると言った筈だ! 少し、早すぎる、今日、初めて紅梅姫様の幽霊が出たんだ。もう少し時が必要だ」
「……分かっておる。しかし、沢原は俺の竹馬の友だ。其れに、綾との事もある。沢原の様子からして、此れくらいが限界だ。あのまま死なれては私の寝覚めが悪い」
沢原は悪びれた様子もなく、自分の思いを述べた。だが、それで治まらないのが翔太だ。
「こっちだって、寝覚めが悪い! 仕損じたようなものだ。おまけに、若橘を狙いやがって……」
と此処で、何か気付いたようだ。
「……てめえ、其れかよ! こいつを狙ってるから、早く始末しやがって!!」
翔太が突っ掛かろうとするのを、隼人が止める。
「何度言ったら分かるんだ? 本当に学習能力の無い奴だ。お前のほうが、分が悪い……若橘は沢村の味方だからな!!」
「……沢原とは話がしたかった。だが、追い詰められて何も見えてはいなかった……綾も可哀想だが、沢原も可哀想だ……だが、俺が一番、醜いのかもしれない」
沢村の自嘲するような笑いに、翔太は悪態をついた。
「そうだ、格好つけやがって……お前は酷い奴だ!」
「……翔太」
若橘は思わず翔太を止めた。
「もう、そのくらいにしてやってくれ。沢村様が一番辛いのだ。私は……此のまま、沢村様の傍に居る……」
「だが、直に終わる。其の時は何があっても、お前を里へ連れて帰る……」
だが、若橘は笑みを浮かべて涙を流し、首を横に振った。
「……悪い、翔太。決めた、わたしは決めた……沢村様を愛し続ける。紅梅姫様と綾様から、人を愛する事を私は学んだ……」
翔太はそれに抵抗するのではないかと思われたが、以外にもあっさりと笑った。
「なら、還俗しろ、若橘。お前の経じゃあ、皆、成仏はしねえぞ……なあ」
たぶん、最初から答えは分かっているのだ、しかし、それを心の何処かで諦めきれずにいた。若橘は里には帰らない。たとえ、命を奪われたとしても、沢村の傍に居る。
翔太は軽く片手を上げると、一人で引き上げていく。堪えられない寂しさだったのだろう。翔太は振り返ることは無かった。
隼人は直ぐに翔太を追いかけようとしたが戻って来て、
「……沢村様、後の始末はお願いします……それから、こいつの事も……」
そう言って若橘の頭を鷲掴みにしてお辞儀をさせると、翔太を追いかけ闇に消えていった。
二人を見送った若橘は沢村の顔を見る。
「申し訳ありません、勝手に一人で決めてしまって……」
「……綾に言われたよ。人を心底、愛しませと。其処から何か見えるかもしれないと……私は今まで逃げていたのかもしれない。綾が私を慕っていたのは知っていた。だが沢原が綾を好いていて、二人がそういう関係になったとき、私は結果的に綾を守らなかった。切り捨てたのだ、勝手に沢原と恋仲だと決めて……そうすれば、自分が楽になる。私は卑怯な事をした……」
しかし、若橘はそんな沢村に何の言葉も出なかった。安易な言葉は慰めどころか、彼を傷つけてしまうだろう。沢村自身が乗り越えるべきものであって、若橘はそれを見ているしかなかった。
だが、どんなに辛くとも、沢村を見守るのが今彼にしてやれる、若橘の唯一のことだった。
「帰ろう、若橘。そなたは今日から、私の屋敷へ来なさい。もう、そなたを離しはせぬ……たとえ、翔太や隼人と斬り合いになろうとも……」
本当にそんな日が来るのだろうか、翔太と隼人が沢村と対峙する日など。ぼんやりとしか想像できなかった。
漸く、東の空が少し明るくなってきた。もう直ぐ夜明けである。
名残り惜しそうに虫が鳴く。
もう暫く虫たちが、綾と沢原の野辺の送りをしてくれることだろう。
屋敷に戻ると、茂二と初が綺麗に掃除をしてくれていた。
血などの痕跡を残さぬよう、気を配り、初が忙しそうに働いていた。
「だんな様、風呂が沸いてるよ。早くなさらないと、お城へ行くのが遅くなっちまうよ」
初は夜通し働いた割には、元気だった。
沢村は風呂へ入り、朝餉を摂ると着替えを済まして、城へと出かけた。
若橘も初と共に、沢村が出かけられるよう手伝った。
「良いな、けっして屋敷の外へは出てはならんぞ。翔太や隼人の所へも、一人で行ってはならん。如何しても用事があるようなら、茂二を使いに出しなさい」
沢村は何度も繰り返し、若橘に注意をした。何度、返事をしても足らないらしく、初が自分がついているからと、漸く納得させて城へと追い出した。
翌朝、遺体が発見され、沢原と綾は心中という事で処理をされた。
今村が地団太を踏んだが、今更、如何しようもないことだった。たとえ今村が疑おうと、表だって沢村を責めることも出来ず、娘の不始末で恥をかくのは今村のほうだった。
そして此の心中事件は益々、柏井の方の恐怖を煽った。
屋敷には紅梅姫の幽霊が出て花姫は発狂寸前であるというのに、事件に関わった者の心中事件である。柏井の方の怯えようは尋常では無かった。
機が熟すのも時間の問題だった。




