56 続虫の音
自分から離れぬ若橘を沢村は笑った。
「そなたには、敵わぬ……」
だが、若橘は尋常でない沢村を感じ、笑うどころか笑みさえ浮かべずに子供のように沢村の胸にすがっていた。
水を入れた桶を抱えて、初が戻ってきた。初の表情は険しく、慌てていた。
「さあ、だんな様、傷の手当を……」
初の声を聞いて、若橘は黙って初から桶を受け取った。そして沢村の傷を洗い、油紙に塗った薬を傷口に貼ると包帯を巻いた。思ったより、沢村の傷は浅かった。少し安心したが、若橘は終始無言で傷の手当をした。伏し目がちに沢村と目を合わせぬよう、坦々と行った。
何となく気まずいので、目を合わせることを躊躇った。
初も無言だった。其れが、日常で無い事だけは誰もが知っている。初でさえも、うろたえていたのだろう。
茂二は二人が傷の手当をするのを、かまどの近くで、ただ、じっと立って見ていた。
誰もが沢村に理由を聞かずに見守っていた。大変な事が起こったのであろうという、予測がつくだけに、聞くことが憚られた。
傷の手当が終わり、漸く、沢村自信が口を開いた。
「茂二、翔太と隼人を呼んできてくれぬか」
「……へい」
茂二は自分が役に立つことを喜んだように、返事をする。茂二の返事を聞いて、沢村は続けた。
「……私の屋敷で、沢原を斬った。そして……綾が自害した……」
其処まで沢村が話をしたとき、若橘は大きく息を吸った。驚きと恐ろしさで、呼吸が出来なくなりそうだった。紅梅姫の自害を聞いたときと同じで、呼吸が止まりそうだった。少しずつ、顔色が蒼ざめていく。
沢村はそんな若橘に目を遣ると、
「だから、そなたを遠ざけようとしたのだが……」
と言って沢村は若橘の手を握り、自分の膝の上に載せた。
沢村の体温が彼の膝から伝わってくる。少しずつ、呼吸が楽になるようだった。
若橘は俯いて、「申し訳ありません」と詫びた。
沢村に手を握られて初めて、沢村の心労を知った。沢村の手は、目には見えないが、まだ小刻みに震えていたのだ。人を斬るという事が如何いうことなのか、若橘は初めて知ったような気がした。沢村は其れを平常心で受け止めようとしていた。
若橘は自分の甘さを恥じ入るばかりだった。
沢村は手を握ったまま離さずに、茂二に説明を加える。
「二人の遺体を心中として処理したい。なので、手伝って欲しいのだ……その旨、悪いが、話をして頼んできてくれないか」
沢村の命に茂二は直ぐに、家を飛び出して行った。
初も水の入った桶を抱えて、家の外へと出ていった。初は入り口の所で振り返り、沢村を見る。
ゆっくり話をすると良い、といった目をしていた。
初が出て行くと、
「……さあ、そなたは庵へ帰りなさい」
と沢村は若橘を案じて、そう言った。
だが、沢村の言葉に若橘は首を横に振った。此のまま離れてはいけないような気がした。自分が沢村の気持ちを支えたいと思った。
沢村は握った若橘の手を手繰り寄せ、若橘の体を抱き寄せた。
「……さっき、沢原を斬った。私が斬られても不思議ではないのだ。ただ、沢原が少しだけ、死に急いだだけだ……綾も自害した……しかし、私は其れを止められなかった……誰が死んでも不思議ではない……そなたを巻き込みたくは無い」
沢村の目に薄っすらと涙が滲んだ。何時もの沢村より、心が乱れている。此のまま、沢村から離れるなど、考えられない。
若橘は沢村の腕の中で、沢村の顔を見上げた。そして、自ら沢村の首に手を回し唇を重ねた。最初は戸惑っていた沢村だったが、次第に、若橘のほうが沢村に翻弄される。今まで押さえていたものが溢れ出るように、熱く若橘を掻き乱す。
そういえば、宗右衛門に庵での生活を許されてからというもの、同じ屋根の下には居たが、けっして触れようとはしなかった。若橘はそれが、寂しかった。
漸く落ち着いたのだろうか、沢村は若橘の唇から離れる。
「……悪い女だ。私がどれほど我慢していたと思っているのか……墨染めの衣で、此のような事をしては、御仏に叱られる……そう、其れに私は人を斬った。此れでは地獄行きだな……」
「……沢村様はわたくしがお守り致します。地獄へなど、お一人では行かせません」
「……地獄まで付いて来てくれるのか?」
「ええ、勿論です……わたくしをお嫌いになられたのかと案じました……もう、わたくしは里には戻りません……それから、翔太とは何もありませんから。今更……酷うございます」
若橘は沢村の胸に顔を埋め、拳で沢村の胸を叩いた。
如何しても、翔太との事は疑われたくなかった。何故、此処まで愛しているのに、理解して貰えないのか、それが腹立たしかった。
沢村は若橘の手首を掴んだ。
「……翔太の事は私が悪かった。此れでは私も殿と同じだな。だが翔太とそなたが、ああして仲良くしている姿は堪える。私もそなたを離したくはない……だが、さっき人を斬ったばかりで、体の震えが今だ治まらぬ……」
そう言って、もう一度若橘に唇を重ねた。それは、さっきまでの出来事を打ち消すように、激しく絡み合い、若橘のほうが頭の中が白くなり始める。此のまま、沢村に抱かれたいと思った。
だが、今宵はまだ、仕事が残っていた。
「……今から、二人をあの世とやらに送ってやりたい。沢原は綾を昔から好いていた。其れを知っていながら、私は娶ったのだ。私のほうがずるいのかもしれない……だが今では、綾も沢原を愛していた。其れがせめてもの、救いだ」
沢村は震える手で若橘をその胸に抱いた。
沢原は今村に潰されたようなものだった。無理矢理、綾を自分のものにした沢原も沢原だが、今村も大層な狸親父だ。
昼行灯の振りをして、遂には紅梅姫を貶めたのだ。
其の怒りは若橘の胸に、収めきれるものではない。
何の為に、人は人として生まれてくるのだろうか……もしかしたら、心を揺さぶられる為に生まれてくるのかもしれない。喜怒哀楽を繰り返すうち、大切なものだけが心に残る。きっと、其の為に心を揺するのだ。余計なものが削ぎ落とされた時に残るものを、見る為に……
沢村の胸に抱かれながら、ぼんやりと考え始める。
だが、その若橘の思考を現実が阻む。
「そなたは、此処に初と居なさい。遺体など、見るものではない」
「……ですが、経など読みましょう……わたくしで宜しければ」
「……!? おう、そうであった、尼であったな。忘れておった……経が読めるのか?」
「……!! 酷うございます!! 毎日、読んでおるではございませぬか!! 沢村様!」
若橘はおどける沢村の胸を、また叩いた。沢村の胸は大きく、若橘を安心させる。
沢村もまた手首を掴み、今度は短い口付けをした。
「もうすぐ、翔太たちがやってくる……」
土間には何時の間にか、迷い込んだ鈴虫が其の美しい音色を響かせていた。




