55 虫の音
翔太は夕暮れから用意を始め、闇に紛れて隼人と共に、花の屋敷へと向かった。
「……どんな気分だ? 翔太……」
近くの茂みに隠れた隼人は、化粧をした翔太に感想を聞く。
「……って、俺に聞くか? そんな事を……最低な気分だ、それより……」
「如何した?」
少し考え込んだ翔太を隼人は訝しんだ。翔太は元々、感情の起伏が激しい部類に属する。腹を立てると何をするか分からないところがある。
女装をしたからといって、腹を立てている訳では無いのだろうが、隼人には其の理由が思い当たらなかった。
闇の中、虫の音が煩いくらいに奏でられ、二人の気まずい間を埋めていく。そして翔太はふつふつと湧き上がる思いを、吐き出すように言った。
「……さっきの沢村の態度が気にくわねえ!」
「さっき?」
そういえば、若橘に翔太の化粧を任せていたときに、沢村が訪ねてきたことを、思い出した。
「沢村の奴、何処か信用ならねえ! 違うか? 隼人!!」
黒装束の頭巾の下に鬘を被って化粧をしており、その姿で怒るのだ。幽霊として出るときに、紅梅姫の内掛けを、黒装束の上に羽織る事になっている。
隼人は思わず、噴出してしまった。
「翔太……可笑しすぎる、その格好……」
「此の野郎! 人が真面目に言ってるのに、如何して笑うんだよ!!」
翔太は隼人の首に左腕を巻きつけ、右手の拳で頭をど突く。
「……分かった!! 降参だ!!」
直ぐに隼人は翔太に両手を上げ、おどけて見せた。
「……あいつ、何か企んでやがる。若橘があんな艶っぽい目で見ても、動じなかったからな……」
「……其処かよ!」
翔太があまりにも真面目に話しているので、つい、からかってみたくなるのだ。だが、翔太の直感は侮れない。
「……翔太、そろそろ刻限だ。小夜の情報によると、暫く、見回りが来ない」
「分かってるよ、その辺だな……」
翔太は黒装束のまま、すっと塀の上に上がり、乗り越えていく。勝手知ったる何とやらである。つい此の間まで、毎日のように忍び込んでいたのだ。隼人のほうも、翔太に続き、屋敷へと入って行く。
潜入している小夜によると、花姫は深夜の決まった時刻に起きて、御手洗に行くそうだ。其れに合わせて、中庭に立てば良いことになる。
隼人は人魂の用意だ。用意した包みの中から若橘が作った人魂を取り出すと、さっと火を点け、棒にぶら下げた薬品部分に点火する。
其れは青白い炎が上がり、ゆらゆらと風に揺れる。たしかに人魂だ、上出来である。
程よい間合いで、寝衣を纏った花姫が、小さな灯りを持った小夜に付き添われ、しずしずと廊下を歩いて来た。
中庭では、人魂が青白く照らす中を、翔太が恨めしげに手をぶら下げて立っている。声など出さずとも、元は紅梅姫の屋敷なので、紅梅姫の幽霊に見える。声を出せば、台無しだ。
其れを確実なものとする為に、小夜が腰を抜かした振りをして大声で叫びながら、手にしていた灯りを吹き消した。辺りが一気に暗くなり、人魂の青白い炎に照らされた翔太の紅梅姫だけが、妙に庭に浮かび上がった。
「きゃー、こ、こ、紅梅、ひめさ、まあああああああ」
その声に煽られるように、花姫が小夜に抱きつき震える。
小夜が盛る薬が利き始め、最近では少しの音にでも敏感になり、怯えるようになっていた。
世間の噂では紅梅姫が馬に乗り姿を見せるなど、花姫を怯えさせ、幽霊を信じ込ませるには十分だった。
小夜は合格だというように、小さく頷いた。
其れを見て、花姫が後ろを向いた隙に、翔太と隼人はさっさと引き上げていった。
こんな所に、長居は無用だ。
此れで、屋敷に紅梅姫の幽霊が出るという噂が流れる……
「翔太、上手くいったな……明日、もう一度、出てみるか?」
「……そうだな、何度か出るうちに、もう少し弱るだろうな……花姫様には申し訳ないが……」
「ああ……まだ、飯合達の始末も残ってるからな……」
「……隼人は、其れが本命だからな……志乃の仇だ!」
「……」
隼人は其れには何も言わず、闇の中を黙々と走る。隼人の心の傷は今だ癒えてはいない。仇を討てば、心の傷は癒えるのだろうか……
翔太は埒も無い事を考える。
宗右衛門の家の裏木戸に来た時、二人は戸を覗き込むようにしている人影を確認する。
一瞬、隼人も翔太も身を硬くした。だが、其れが茂二である事に気付くと、ほっとしたように声を掛けた。他に人の気配は無い。
「如何したんだ?」
翔太は怪訝な顔をした。やはり何かあったのかと、翔太は茂二を睨んだ。
「兎に角、中へ入れ……そして翔太、その白粉を取ってくれ、可笑しくて仕方がない……お前、化粧は似合わないな……」
「お前らが、やれって言うから、やってんのによ!!」
怒る翔太を無視して、隼人は木戸を開けた。直ぐに翔太は井戸へ顔を洗いに行く。隼人に笑われるのが、癪に触るようだった。
其の間に隼人は、茂二に事の次第を聞いた。
茂二は沢村が沢原を斬り、綾が自害したことを、簡単に掻い摘んで説明した。
そして、二人の遺体の処理を手伝って欲しい、と言った。心中に見えるようにすれば、後は其れで押し通すということだった。
井戸で顔を洗い、黒装束のまま頭巾を取って二人のところへやって来た翔太は、溜息をついた。
「……こんな事じゃないかと思ったよ。夕刻に沢村が来たとき、嫌な予感がしたんだ……で、今、若橘は如何しているんだ?」
「へい、家に居られます。旦那様とご一緒に……」
茂二は恐縮したように身を縮めて、翔太の顔色を伺った。
「沢村の奴、抜け駆けしやがって……沢原は俺が殺るって言っといたんだが……」
翔太は口惜しそうに拳を握り締めた。
其れを見て、茂二は怯えたように言った。
「家の奴が、旦那様のけじめだと言ってましたが……」
「……初が?」
翔太はそう言って、にたりと笑った。
「初にしては気の利いた事、言うじゃねえか……仕方ねえな」
「……」
茂二は苦笑いをする。翔太に誉められたんじゃ笑うしかない。
「行くぞ、翔太」
「……え? 俺も行くのかよ?」
誘う隼人に翔太はごねた。何となく若橘に会いたく無かったのかもしれない。夕刻に会ったとき、若橘が泣いたことを思い出した。
沢村から離れられる筈はないのだ。もし、許しもなく仲間を勝手に抜けるとすれば、若橘を斬らねばならない。若橘の顔を見るのが辛かった。
「翔太、行くぞ。一つ一つ、きちんと片付けていかねば、何処で尻尾を捕まれるか分らねえ」
隼人は翔太とは違い、慎重だ。物事を冷静に見極めなければ、動かない所がある。
茂二と共に翔太と隼人は、茂二の家へと向かった。
家の外で、ごとりと音がしたので、初はそっと戸を開けた。
其処には右腕から血を流した沢村が立っていた。
初の顔が俄かに厳しいものとなる。
「だんな様、入って下さい」
家の奥には若橘が居た。若橘は沢村が怪我をしているのを見ると、直ぐに駆け寄る。
「初さん、桶に水を……そして、此の前のわたくしの薬を……」
直ぐに初に命じた。初は返事する事無く、桶を抱え水を汲みに井戸へと走る。
「何故、そなたがここに居るのだ? 何故、庵へ帰らなかった……」
責める沢村に若橘は
「もう遅うございます。たとえ死んでも構いません……もう、わたくしは沢村様から離れません……」
と言って、沢村の胸にすがった。
初が慌てて飛び出したときに、開け放った戸の隙間から、虫の音が聞こえてくる。
哀愁のある、寂しげな虫の音は若橘の胸の鼓動と共鳴して、美しい音曲を奏でているようだった。
沢村は若橘の法衣を纏った細い腰に、傷ついていない左手を回した。




