54 続夕暮れ
夕餉の惣菜を持って、初がやって来た。
「だんな様と喧嘩でもしたのかね?」
沢村は初には伝えていたのだろう、若橘の分しか持って来なかった。
「……初さん、沢村様は綾さんのところへお帰りになったのですか?」
若橘の問いに珍しく、初は答えなかった。きっと、沢村に口止めされているに違いなかった。そうでなければ、初が何も語らないのは不自然だ。
初から受け取ったどんぶり鉢をその場に置き、若橘はぼんやりと初を見た。
初は見かねたように、話し始める。
「……此処だけの話だが、綾奥様のところへは行くようだが、屋敷に帰りはしないようだよ。家に泊めて欲しいとおっしゃったから……」
「でも、如何して……」
「少なくとも、だんな様はご自分の感情で動くようなお方ではないから……ただ、あんたが斬られた事を、とても悔やんでおられた」
そういえば、沢村は自分の胸に抱き寄せたとき必ず、若橘の傷を着物の上から無言で擦った。其の時の沢村の表情は若橘には見えない。沢村の胸の鼓動が聞こえるだけだ。
斬られた話は若橘にはけっしてしなかった。あの日、出かけた事を翔太から責められたからだと思っていたが、自分の思い違いではないかと、初の話を聞いていて、ふと思った。
「初さんとは、そんな話をなさっておられたのですか?」
「ああ、あんたには言えないとおっしゃってねえ。あんたが思い出すと怖がるから、言いたくないと……」
其処まで聞いて若橘は両手で口を押さえた。口から漏れる嗚咽が、己の愚かさを責めているようだった。其の上を涙が零れ落ちていく。
若橘は立ち上がり、草履を履こうとした。だが、初が其れを止めた。
「あんた、本当にだんな様を好いてなさるなら、だんな様に男のけじめをつけさせてやっては如何だい?」
「……けじめ?」
「本当に鈍い人だねえ……だんな様のあのお顔を見れば、あたしには分かる。あんたより、だんな様とは付き合いが長いんだ。だんな様はお命を掛けてるよ」
「……!!」
慌てて草履を履こうとする若橘に初は怒鳴った。いくら、言葉が荒い初でも、怒鳴ったことは今までなかった。
「何で、だんな様の邪魔をするんだ!! あんた、だんな様の邪魔をしに行くのかい!?」
初の怒鳴り声が、若橘の動きを止めた。そして、初は俯いた若橘の顔を覗きこむようにして、優しく言った。
「……何かあったら、私が呼びにいくから……」
庵の上がり框で、膝をつき、若橘は伏して体を震わせ泣いた。
今、紅梅姫の元の屋敷は、花の屋敷と呼ばれていた。
翔太が花の屋敷に忍び込み、紅梅姫の幽霊に扮するとすれば、隼人も人魂の用意があり、其れに付いて行くはずだ。
沢村は初の家で一息つくと、自分の屋敷へと向かった。
綾が其処には住んでいる。そして、最近では、不届きにも沢原が出入りしているようだった。
沢原が屋敷に入って行くのを茂二に確かめさせ、沢村は自分の屋敷に戻って行った。
「茂二、自分の家に帰っていなさい。何があろうと、私が呼ぶまでは此処へ来てはいかん、良いな」
茂二は、一瞬、戸惑ったが、「へい」と答えた。
沢村は草履を脱がず、自分の家へと無言で入って行く。
奥の部屋に、綾が居た。
綾は沢村の只ならぬ様子を察し、大声で叫んだ。
「あなた!! 逃げて!! 早く!!」
沢村は綾が見た方向を見る。其処は裏に井戸が有る。沢原は井戸に居たのであろう、沢村は奥を進み、裏へと抜けて行った。
其処にはやはり、沢原が居た。
「……沢村、久し振りだな。女房を寝取られた気分は如何だ?」
沢原は皮肉を言って、一瞬、横を向いた。
「何故、戻って来た。如何して出奔して、綾と幸せにならないのだ?」
「何故だと? 他国で如何やって、生きていくというのだ。しかも、右腕はもう使い物にならん……」
沢原は獣のような目を見開いた。
「お前には分かるまい……出世できぬこの俺の気持ちがお前に分かるか?」
「出世など要らぬ。綾と自分の子がおれば、良いではないか?」
「……子は死んだ。流行病で死んだ……」
沢原は左手で刀を抜いた。
沢原は元来、両刀使いであり、彼の剣は非常に重い。其れに加え、利き腕の右は使えぬので、太刀筋が定まらない。対戦する相手のほうも、予測がつき難い。片腕とはいえ、気を抜けば持っていかれれる可能性がある。
沢村も誘われるまま、刀を抜く。
漸く追いついた綾が、柱の影から怯えたように見ていた。
沢原は異常に低い体勢で、体を開いている。だが、けっして隙がある訳ではない。右腕が思うように動かず、均衡を保つ為にこのような体勢をとるのだろう。
沢原とは常に互角であった。だから、右手でなくとも気を抜くことは出来ない。
沢村は大きく息を吸い、呼吸を整える。
沢原を斬りたくはなかった。竹馬の友である沢原を斬ってまで、己を守る必要は無かった。
しかし、今は、沢原を生かしてはおけない。沢原は若橘を斬った。今度、襲うときには若橘を仕留めるだろう。
「もう一度言う、出て行くんだ……あのような卑劣な事をして、関わった者たちは皆、生きてはおれんぞ!」
「手紙を落とし、飯合様に拾わせたのは俺だ! 引っ掛かる殿が悪いのだ!」
「何時からお前は、そんな卑劣な奴になったのだ?」
「……お前に言われる筋合いは無い!」
沢原の一瞬の乱れを沢村は見逃さず、斬りかかる。
沢村の刀の切っ先が、沢原の着物の袂を切り裂く。沢原はぶら下がる袂が邪魔になったのだろう、袖を引きちぎり、捨てた。
まるで、死霊と戦ってでもいるような感触だ。髪はぼうぼうとし、着物も古びて色が褪めている。
目だけが、徐々にぎらぎらと不気味な輝きを増していく。
沢原は我慢しきれないといったふうで、沢村に斬りかかってきた。隙がある、脇が甘かった。
沢村はすれ違い様に、沢原の腹から脇へと斬りつけた。
見事であった。
振り切った刀が伸びた時、沢村の後ろでばさりと沢原が倒れた。
隠れていた綾が沢原に駆け寄る。
そして、沢村を睨みつけた。
「……沢原は可哀想な人です。如何して、あなたは何時もご自分の尺度で、全ての出来事を計ろうとなさるのです!」
目を赤くして、綾は沢村を責める。
「わたくしは、静馬様、あなたをお慕い申し上げておりました……なのに、沢原に無理矢理……」
「わたしは……その様な事は聞いたことは無い、ならば、何故言わぬ!」
「わたくしの腹の子が沢原の子だと知り、貴方は沢原とわたくしが恋仲だと勝手に思われたのではございませんか! 確かに沢原の子でございました。しかし、わたくしは、あの当時はまだ、貴方を好いておりました……なのに……沢原に邪魔をされ……沢原の子を身籠り、そんなわたくしが、貴方に愛される筈は無いと諦めました……」
綾はその場に泣き崩れた。勝手の良い言い草ではあろうが、綾には此れが事実であったのかもしれない。
ならば、何故、良く聞いてやらなかったのかという思いが、沢村の中で沸き起こる。
綾は、懐剣を取り出した。そして、沢村に向かって、懐剣を振りかざした。沢村は、其れをかわしたが、綾ということで何処か油断をしていたのだろう、腕に懐剣の先が触れたようだった。
沢村の腕から、血が流れる。
「綾、止めなさい! もう止すんだ」
「……でも、何時しか、沢原を愛していました。どこから始まった愛であるのかは、関係は無いのかもしれません」
綾は懐剣を自分の首に当てた。そして、幸せそうに笑みを浮かべ、
「……静馬様も、心底、人を愛されませ……そうすれば、何かが見えてくるかもしれません……わたくしは沢原を愛して幸せでございました……」
「止すんだ、綾……」
沢村の声が夕闇に響き渡る。
手を伸ばす沢村の目の前で、綾は自害をした。




