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50 秋のはつ風

 山から採ってきた薬草を干して粉にし、隼人が京より持ち帰った薬と混ぜる。

 秋の初風がふっと抜けていく。何時しか、ひぐらしの声も聞かぬようになっていた。

 

 若橘は其の粉を舐めてみて、味を確かめた。

 たしかに、味はしない。此れで、小夜に渡せば徐々に柏井の方と花姫は気鬱になっていく筈である。

 

 若橘には、少しだけ躊躇いがあった。

 いくら、復讐の為だとはいえ、花姫まで巻き込みたくはなかったのである。きっと、其れには紅梅姫も同感だろう。大きな溜息を一つついた。


「……如何した?」

 不意に背後からふいに声を掛けられ、若橘ははっとした。


 昼間の庵を訪れるのは、初くらいしか居なかったので、気を抜いていた。

 突然、帰ってきた沢村に、若橘は驚いて振り返った。今日は城へ出仕したので、夕刻まで帰らない筈だった。


「……びっくり致しました。今日はお帰りがお早いのですね……何処かお加減でも悪いのですか?」


 若橘は沢村の早い帰りが、腑に落ちないようだった。


「……いや」

 沢村はそう言うと、腰の刀を抜き奥へと上がり、座った。


 気まずい空気が流れる。しかし、これ以上の質問出来る雰囲気ではない。若橘は作った薬を半紙で包み、それを油紙に包む。そして、其の包みを匂い袋に入れ紐を引く。此れで準備は出来た。


 若橘は沈む沢村の表情を見て、思わず尋ねてしまった。 

「お城で何かあったのでございますか?」


 沢村の城での立場が悪いのは、聞かなくても分かることである。

 城では飯合が幅を利かせ、柏井の方が睨みを利かしている。其の中、重郷といえば、次第に沢村を遠ざけるようになっていた。

 隼人が時折、城の様子を探り教えてくれる。



 沢村は後ろから若橘の首に手を回してきた。

 

 よほど辛いのかもしれない……余計な心配が若橘の頭を過ぎる。


 若橘は回した沢村の手を取り、

「……沢村様……此のまま、わたくしを抱いてくださいませ……」

 と言ってしまった。

 

 自分でも如何して、そのような事を言ってしまったのか、分からなかった。だが、沢村と毎日過ごすようになって、次第に影を帯びるようになった沢村を、自分の力で元の沢村に戻したかった。しかし口にした後で、出た言葉がどのくらい沢村を侮辱していたものだったか、悔いた。其れは、自分の驕りであったと思った。


 だが、沢村はその若橘の落ち度を見逃さなかった。

 

 沢村は若橘から離れると、

「……そなたは如何して其のような事を言うのだ! わたしを哀れんでおるのか? それとも、遊女にでもなったのか!!」

 と罵った。今までに見たこともない、恐ろしい顔だった。


 若橘はその場で手を突き、謝ろうとした。

 しかし、沢村は直ぐに刀を手にすると、慌てて草履を履き庵を出て行った。


 若橘の頬を止めどなく涙が流れ落ちる。

 さっきの言葉は、庵に二人で住む時に、宗右衛門に許しを請いに行った沢村の気持ちを、無視したものだった。沢村が自分をどれほど大切に扱ってきたか、今頃それを思い知る。

 悔いても悔やみきれない、軽はずみな言葉が沢村を傷つけていた。


 夜になっても沢村は戻らなかった。

 初に聞いても、綾のところに居る様子はなく、何度も聞くと不審がられた。

 

 翔太も沢村と二人で暮らし始めて、あまり庵には来なくなった。沢村への遠慮があるのだろう、隼人も同じだった。それに、飯合達の目がある。近くの沢村の屋敷には綾が見張っている。そうそう出入りをして、怪しまれては元も子も無い。少し慎重になっていた。


 出来た薬をここ二、三日の間には翔太か隼人が取りに来る筈だった。

 若橘は一人、庵で沢村の帰りを待っていた。

 

 すると、入り口でかさっと音がしたようだった。


「誰?」

 声を掛けるが音の主は入ってくるが様子は無い。

 若橘は燭台の灯りを吹き消し、懐の懐剣を構えた。


 翔太は音などさせない、ましてや沢村でも無い。灯りが消えると、やはり荒々しく戸を壊して黒い影が入って来た。

 進入してきた男は、当然斬りつけてくると分かっていたようで、身を軽々と翻した。


 其の時、若橘が見たのは、沢原市衛門だった。

 沢原は左の手に刀を握っており、まるで腹を空かせた猛獣のようなぎらぎらした目をしていた。


 若橘は斬りつけてくる沢原を如何にかかわすと、入り口とは反対の、小川に接した障子を体当たりで壊し、外へ逃げる。

 女ならば利き手でなくとも、れるとでも思っているのか……

 沢原は若橘をやすやすと、追いかけてくる。

 若橘は身軽でもないが、走るのも早くはない。

 沢村が居ない、こんな時に限って襲われるとは……若橘を狙っていたということになる。

 

 裸足で庵を飛び出し、小川伝いに走る。必死に走ったが、土手を這い上がったとき、沢原に追いつかれてしまった。

 沢原の刀が若橘を襲う。沢原の剣は既に其の型を失っており、只々、人を殺めるためだけの剣と化している。若橘は執拗に襲ってくる沢原の刀を何とか、かわし続ける。


 しかし、それにも限界がある。汗で短い髪は顔に張り付き、足は裸足で小川を駆け抜けたので、切り傷だらけで血まみれだった。今頃になって、足がずきずきと痛む。


 沢原の刃をかわした、と思ったとき、若橘の背に痛みが走る。物凄い衝撃だった、鈍器で打たれたような衝撃だったが、其の後の痛みで、斬られたのだと自覚する。

 思わず、尻餅をついて正面を見たとき、刀を振り上げた沢原を見た。

 そして、目を瞑った。斬られ転倒した時に、握り締めていた懐剣を落としてしまった。もう、自分で成す術はなかった。


 沢村の顔、紅梅姫の顔が交互に瞼に映る……


 しかし、沢原の刃は、飛んできた鎖に巻き取られた。


「てめえ、まだ、こんな事をやってたのか? 今度こそ、命を取ってやる!!」


 聞き覚えのある、声だった。

 翔太の声を聞いたとき、生きていると実感する。


 沢原は刀を取られては勝負にならないと、逃げて行った。


 翔太は追いかけようとしたが、若橘が怪我をしているのを見て、断念する。

 そして急いで若橘に駆け寄ると、傷を見た。


「大丈夫だ、傷は浅い。なんとか、除けたんだな……あいつの剣は重いから、女じゃ受けきれないんだ」


 翔太は、意識が遠のいていく若橘を負ぶって、初の家の戸を叩いた。

 驚いて出て来た初に、湯を沸かさせ、若橘の傷の手当をする。そして、茂二を隼人のところへ使いに出し、薬を持ってくるよう、伝えさせた。

 ほどなくして、隼人が傷の薬を持ってくる。


「よし、此の薬があれば、傷が開くことはない。それから、此の飲み薬を飲むんだ。熱が出るからな」


 若橘は頷いただけだった。傷の痛みと熱で声が出ず、意識が朦朧としていた。


「……沢村は如何したんだ? 薬を取りに来たら、戸が壊れてるから、何かあったと思って、捜したんだが……」


 横を向いた若橘の目から涙が零れ落ちた。


「……喧嘩でもしたのか?」


 そのとき、初の家に沢村が入って来た。

 

 沢村の顔を見ると、翔太はいきなり頬を力一杯、拳で殴った。

 沢村は尻餅をついたが、無言でそのままの格好で動こうとしない。

 

 その後の翔太の言葉を、まるで待っていたようだった。

 

「何で、こいつを守ってやらなかった!! もう少しでられるところだった。酒なんぞ飲んで帰ってきやがって……あいつらに、見張られてるんだ、分かってんのかよ!!」


「……翔太、もういい……私が悪いんだ、沢村様を責めないでくれ……」

 熱で魘されながらも、必死で声を出そうとする若橘を見て、沢村は漸く立ち上がった。


 そして、若橘を抱き締め、涙を流した、

「若橘……若橘…………」と呼びながら。

 其の沢村の顔を見たとき、若橘は少し微笑み、安心したように意識が遠のいていく。


 邪魔だと思ったが、翔太はその沢村の肩を叩く。

「おい、如何でもいいが、傷が開く。後は直ってからにしてくれ……もう大丈夫だから」


 そんな翔太を振り返った沢村は、照れたように笑い、若橘を寝かせた。

 

 そして、にたりとして、急に歌い始めた。

「紅梅姫様あ 馬の鈴鳴らして 天を駆け…………」

「おい、それは……」

 翔太は驚いた顔をした。

 だが沢村は続きを歌い終えて、こう言った。

「ああ、酒場でもみんな歌っている、大人にも好評のようだ」と。



 次第に準備は整いつつあるようだった。


 

 





 

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