47 続夕立の頃
皆で夜に若橘の庵に集まり、此れからの話をしようという事になっていた。
宗右衛門の許しが出た隼人は小夜を里から伴い、やってくる手筈だ。
翔太は勿論のこと、宗右衛門、沢村も含め、今後について話を練ることになっている。
若橘は初にも頼んで、朝から掃除をしたり、料理をしたりと大忙しだった。体を動かしていると、泣いてばかりいた若橘の顔も自然と綻んでくる。
「何時になったら、料理や掃除が上手く出来るようになるんだろうねえ?」
初は小言を言いながら、何でも自分でやってしまう。なので、若橘もつい、甘えてしまうのだ。
「此れじゃあ、だんな様は任せられないよ……」
「……では、初さん、お願い致します」
「仕方ないねえ……」
といった具合で、夕立が降り始める頃には料理も終わり、洗濯物の取り入れまで終わっていた。
夕立が上がると、沢村が城から帰って来る。
「悪いね、初さん、後は私がやるから、もう良いよ……」
沢村の言葉に初の目がきらりと光る。
「ああ、だんな様、駄目だよ。此の人を甘えかしちゃあ……それから、忘れないでおくれよ、仏門に入った尼さんなんだからね……」
初のふて腐れた言いように、沢村は呆れ顔で、
「まあ、尼さんと間違えが起こったときは、お経でも読んで貰って、閻魔様を誤魔化すとするよ」
と言うと、初は眉間に皺を寄せる。
「仕方が無いだんな様だ。此の人の何処がいいんだか……じゃあ、私は帰るとするよ」
初は沢村と若橘にぺこりと頭を下げると、直ぐ近くに見える家に帰っていった。
「本当に初さんは口が悪い……あれでも、そなたの事を気に入っているのだ」
「……分かっています」
若橘は自然に微笑んだ。そして、漸く、沢村が自分の事を貴女ではなく、そなたと呼ぶ事に気付いた。
どの位の間、沢村を直視していなかったのだろうか。紅梅姫が自害してからの記憶が断片的にしか無いことに気付く。
ふと止まった若橘の体を横に立つ沢村の腕が抱いた。
その瞬間、若橘の中で時が動き出す……全ては此れからだと……
庵に来た隼人は長い時を掛け、紅梅姫の位牌に手を合わせた。姫を守りきれなかった思いは、皆にあったが、隼人には志乃を失った悲しみも大きい。他の者より、心が受けた痛手は大きかった。
小夜も隼人に続き、紅梅姫の位牌に手を合わせ、線香を手向ける。其の小夜の横顔が、何処かしら志乃に似ていた。
其れも其のはず、志乃とは遠縁に当たるらしい。あまり、志乃を伺わせる顔立ちだと間者であるとばれはしないかと、心配だったが、小夜はそんな心配を一笑に付した。
「此れでは如何ですか?」
さっと後ろを向き、振り返ったときには、さっきとはまるで違う顔に見える。
「そう、若橘様、此れです」
と言って、小夜は右目の下の泣き黒子を指した。
ほんの小さな黒子一つで、此れほど変わるものなのだろうか?
其処が、目の錯覚だった。良く使う手だが、大きな変装をしなくとも、別人になれる訳だ。
小夜は若橘が持って来た急須を抱え、
「さあ、白湯を入れましょう……」
といって皆の前で急須から白湯を注ぐ。
出された白湯を飲んだとき、若橘の顔が変わった。妙な顔をする。
「流石、若橘様、お気づきですね?」
「……ええ」
頷き合う二人に、翔太が首を捻る。
「如何したんだ? 此の白湯が如何かしたか?」
其れを聞いて、隼人が白湯を噴出した。
そして、
「もう、お前、死んでも良いぞ……」
「……?」
「毒を盛られたんだよ……相変わらず、薬の見分けは下手だな」
隼人は翔太の肩を叩いた。
「……!? よくもてめえ、若橘、俺が邪魔だからってよ……」
そう言いかけて、漸く若橘でないことに気付く。
「そう、私では無い! 急須に白湯を入れたのは私だが、急須から湯呑みに注ぐ時に盛ったんだ。あまり器用で、早かったので分からないだけだ……やっぱり、翔太、お前は死んでも良い! だが、此れは毒では無いぞ……翔太、今夜は眠れぬぞ……」
若橘が顔を赤らめそう言うと、其の場にいる全員が声を出して笑った。
「何だよ、何の薬だ?」
「独り身には辛い薬だ!! 何処かの遊女でも買うか?」
隼人まで、顔を真っ赤にして笑う。
「……流石だ、小夜。そして、よく微量の薬を利き分けたな、若橘……」
宗右衛門の顔が緩み、若い者達の成長を壮年の親方は喜んだ。
宗右衛門は日焼けをし、着物から出ている部分だけでも、筋肉質の体であることは分かる。十分に鍛えており、まだまだ翔太や隼人でも敵わない。
「小夜は、仕込みが専門だ。家の組は今、仕込みが居らんので、里の仁兵衛に借りて来た……小夜、宜しく頼む」
宗右衛門の言葉に小夜はにこりと笑った。たしかに、黒子に目がいき、志乃を思わせることはない。
「毒で殺っちまうのか?」
今度は薬の入って無い白湯を飲みながら、翔太は宗右衛門をちらりと見た。
「いや……隼人、薬は持って来たか?」
「ああ」
隼人は背負って来た、薬の行商箱を取り出した。
京から夫婦の薬の行商人に変装して、筑前へと来たのだった。
箱の中の仕切りを取り外し、二重になった奥から、油紙に包んだ薬を取り出す。
売り物とは、別の薬である事が分かる。
「若橘、開けてみろ……」
隼人は神妙な面持ちで、若橘に手渡す。
若橘は外側の油紙を取り、半紙に包まれた塊を取り出す。半紙を開くと、其処には白っぽい粉が入っていた。
若橘は小指に着け、舐めてみる。
「……此の薬は? もしかしたら?」
「そうだ、此の薬を飲むと、幻想を見るようになる……」
宗右衛門も小指に着けてなめ、妙な顔をした。
「そう、ただ、此の薬は此のままでは味で分かってしまう。此れは、混ぜると味を中和出来る薬草が有るんだが……」
若橘は隼人を見た。まだ、何か出る筈だが……
「其れが、京で捜したが、見つからないんだ。少し、時期が遅いらしい。筑前なら、暖かいのでまだ有るのではないかと謂う事で、其の薬だけ、運んで来た……」
隼人は申し訳無さそうに、そう言った。
若橘は溜息をつく。
山の薬草採りには、恥ずかしい思い出がある。
其れを察してか、沢村が直ぐに名乗りを上げる。
「大丈夫だ、私が付いて行こう。山の事なら、安心しろ……」
だが、其れでは翔太が黙ってはいない。
「若橘とは、俺が行くぜ。お前は城へ行かなきゃな……」
「翔太! 其れには及ばんぞ、お前にはまだ、他の仕事が有る」
宗右衛門がにたりとして、翔太を阻む。
「そうだ、翔太、お前に打って付けの仕事だ!」
隼人もにたりと笑う。
翔太は背中がぞくっとした。
「……!?」
「翔太、お前は、藤田辺りで紅梅姫様が姿を見せるという、噂を流すんだ」
宗右衛門は翔太に命じる。
「あ~あ、そういう事かよ! 格好悪すぎだよお、なあ、隼人」
「噂を流すのは、重要な仕事だ。上手くいけば、城一つ、噂の流しようで取れるというものだ。出所が分からぬよう、気を付けろよ。今日は、遊女買いだな……遊女との寝物語に丁度、打ってつけだ」
隼人はそう言うと翔太の肩をぽんぽんと叩いた。
「……うるせえ!! 誰が遊女なんか買うもんか!!」
翔太は顔を真っ赤にして、怒った。
人を信じさせるのが如何に重要か、騙されるのが如何に危険か、情報を操る事に長けた彼らに敵うものは無い。
戦は武器ばかりで無いことは承知はしているものの、沢村は、少し空恐ろしい心持ちになっていた。
忍びが薬の事に長けていたのは、謂うまでもありませんが、噂は城取りする際などにも使われ、嘘の情報を流したりなど。けっこう合戦以外にも頭を使って、いろいろやってたようです。




