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46 夕立の頃

 小川の水の音が涼しさを運んで来る。

 若橘が幾ら泣いても、小川は昨日と変わらず、ちょろちょろと流れていく。

 夕立が降れば、水かさが増し水が濁る。


「……元気か?」


 いつの間にか、翔太が後ろに立っていた。

 翔太の気配にすら気付かぬほど、若橘は一尺(30センチ)ほどの観音像の横に置いた、紅梅姫の位牌に手を合わせていた。

 

 振り返った若橘を見て、翔太は息を呑む。

 髪を下ろし尼となった若橘は、帽子もうすを被らず、青白い顔で憂いを含んだ表情をしている。其れがかえって、今まで無かった、彼女の色香を漂わせていた。


 翔太は思わず抱き締めたくなる衝動を抑えた。

 そんな事で、ぽっかり開いた若橘の心の穴は塞がる筈も無く、翔太には如何する事も出来なかった。


「沢村は毎日、来るのか?」


 口をついて出た言葉は自分の意思とは真逆の言葉、沢村の事だった。


「……ああ……」

 少し開いた口から、空気が漏れるほどの返事だった。

 

 ふいに翔太は若橘との距離を縮め、近付こうとした。若橘は涙を浮かべた潤んだ瞳で、翔太を見つめる。

 

 ……まだ立ち直っていない……


 触れてはならない……

 触れてしまえば、全てを壊してしまう、自分の理性のたがなど吹き飛んでしまう。

 翔太は若橘の頬に伸ばした手を、引いた。


 瞬きした時、若橘の目から大粒の涙が零れ落ちる。

 手負いの雌鹿のような怯えた瞳に見つめられ、翔太は足が竦んだ。きっと、沢村も同じだろうと察した。こんなに弱った女に手を出すほど、落ちぶれてはいない。


「おい、早く還俗げんぞくしろよ……尼になんぞなったんじゃあ、面白くないだろう?」


 翔太は悪態をつくことで、その場を凌ごうとした。


「お前、今村の話を頭っから信じてねえだろうな? あいつの話は信じられねえ……お前に覚悟が出来たら、俺達は手伝うぜ。もう直、隼人も帰って来る。漸く、石頭の宗右衛門殿の許しが出た」


「……隼人が、帰って来るのか?」

 若橘の顔の翳りが少しだけ、取れたようだった。


 其処へ、初が入って来た。相変わらず騒がしい婆さんだ、翔太は如何も苦手だった。

「ああ、またあんたかい? こんな女の何処が良いんだか? でもね、家のだんな様がいなさるんだよ!! 少しは遠慮しておくれよ!」


 初は野菜の煮物の惣菜を若橘に置いて行く。

 翔太を見ると、何時ものことだった。だんな様の恋敵だと、初は本能で嗅ぎ分ける。


「何時もありがとう、初さん……」


 若橘は初に礼を言った。

「何時までも、辛気臭い顔して位牌ばかり拝んでたら、あんたまであの世とやらに行っちまうよ!」

 そして、翔太にもう一度釘を刺す。

「あんた、仕事の途中だろ? 宗右衛門の親方に言いつけるからね、何時も此処でさぼってるってさ!!」

 

 初は元気良くそう言うと、忙しそうに庵を出て行った。


「どんな婆さんだよ! 口が悪すぎるよ、沢村もあれじゃあ、嫁はこねえな……」


 翔太は笑いながら、若橘の顔色を伺った。

 相変わらず冴えない顔だ。翔太の冗談に少しだけ付き合って、口の端を上げた。

 

 翔太は声の高さを変え、少し改まって言った。

 

「もう少し、遣ることは残ってる……此のままじゃ、治まりはつかねえ……」


 そして翔太はまた来ると言って、姿を消した。

 昼間なので、例の黒装束ではなく、薄汚れた小袖に小袴で、仕事の途中で抜けて来たようだった。


 まだ遣ること……

 翔太が言いたいことは分かっている。紅梅姫が自害したのも本当か如何か……今村の話は信用出来ない。そして、不義密通の汚名を返上せねばならない。

 問題は山積していた。此のまま引き下がることは出来なかった。


 隼人が京から帰って来るならば、尚の事、都合が良いというものだ。


 少しずつ、若橘の目から涙が乾いていく。

 その代わり、如何しよもない怒りがふつふつと沸いてくる。此のままでは終われない……此のままでは京には戻れないと……


 

 今日も暑い日だったので、夕立が降り、夜は凌ぎやすく涼しい。

 其の夜、沢村が若橘の庵へとやって来た。何時もなら、夕刻に現れるのに今日は忙しかったのだろう、すっかり日が暮れていた。


 沢村は徳利に入れた酒をぶら下げて、やって来た。

 

「如何なさいました? お酒など持ってみえられて……」

「……いや、一人で飲むのも侘しい……今日は茂二が腰が痛むとかで、初さんが早く帰ってしまってな……惣菜は、若橘のところへ持って行ったというので、来たのだ」


 そう謂えば、翔太が来たとき持って来た、あの惣菜であろう。

 若橘はかまど近くの棚から、煮物が入ったどんぶりを持って来る。


「ああ、ついでに湯呑みで良いから、持って来てくれ……盃を忘れた。酒が注げぬ……」


 若橘は言われるまま、湯呑みを出す。たしかに、此の庵には酒器は無い。

 そして、「お注ぎ致しましょう」と言って、沢村に酒を注いでやる。

 沢村は酒を一気に煽った。そして、若橘にもう一杯、要求する。

 

 若橘はそんな沢村を見て、微笑んだ。久し振りの若橘の笑顔に、沢村の心は踊る。


「如何した? 私が酒を飲むのが可笑しいか?」

「いえ……何だか、とても不思議な気分です……」

「……?」


 沢村も不思議な気分だった。いや、沢村のほうが不思議な心地になったろう。

 尼に酌をして貰って酒を飲むなど、妙な具合だった。

 此れで、若橘が尼でなければ、夫婦気分だ。だが、今の若橘の姿はあまりにも痛々しく、口数が少なくなってしまう。


「どうだ? そなたも飲まぬか?」


 沢村の差し出した湯呑みを見て、若橘は首を横に振った。

「いえ……わたくしは……」


 消え入りそうな声で答え、沢村を潤んだ瞳で見た。まだ心の傷が癒えない、苦しそうな瞳だった。

 

「そうか……」

「今日は何時もより、遅うございましたね……」


 酌をしながら、若橘は沢村に問うた。

 その問いに沢村は少々、戸惑いを見せた。だが、仕方がないといった風で、もう一杯酒を煽ると、重い口を開いた。

「例の紅梅姫様の屋敷だが、手直しが終わり、やはり柏井の方様と其の姫君の花姫様がお入りになるそうだ」


「……そうですか」

 若橘は何の感情も表わす事無く、そう言った。


 紅梅姫が自害した部屋を改築し、二人が屋敷に移るという噂は知っていた。


「……で……だ。宗右衛門殿に一人、其の屋敷に潜入する女中を頼まれた……」

「……女中?」

「ああ」

 

 若橘の目に涙が浮かぶ。その理由が沢村には分かるので、此の話をしたくなかったのだ。

 ずるい話だが、酒の勢いが欲しかった。だが、酔いが回り、余計、自分の節制が効かなくなりそうだった。以前のように抱き締めてやりたのだが、尼となっては憚られる。

 

「そうか……志乃を思い出すか……」


 若橘は頷いた。墨染めの衣の袖で、涙を拭う。

 沢村は、手酌で湯呑みに酒を注ぐ。構おうとした若橘に、大丈夫だと謂うように片手を上げた。


「私が推挙したのでは、まずいので、例の斉藤に頼んだ。」

「……何時かの、同朋のお方でございますね」

 

 少し、若橘の様子が落ち着いてきた。沢村はほっと胸を撫で下ろす。

 尼の姿が色っぽく見え、酒はまずかったと反省する。稚児のように短く切った髪が顔に掛かり、其れがかえって艶っぽく見えるのだ。たまに、どきりとする。


「斉藤の遠縁の娘という事で……京の屋敷の女中であったという事にしている」

「宗右衛門殿も、翔太も何も言わないので……」

「そうか、そなたが元気がないので言いにくかったのだろう。里の女で小夜と謂うそうだ。隼人と明日、此方へ来ることになっておる」


 宗右衛門が何か仕組もうとしてる、此れからが本番なのだろうか……

 若橘は何時までも涙ばかり流していてはいけないと、自分に言い聞かせる。

 此れからが、自分たち草の本番である。紅梅姫の死を悼むばかりでは、あまりにも悲しすぎる。

 

 少し、若橘の目の輝きが変化したことに、沢村は気付く。 

 表で働けない分、闇での働きは彼らのほうが一枚上手なのかもしれないと、酒を飲みながら此れからの事を考えた。





 








 

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