44 続岩清水の落つ
若橘は沢村と共に馬に乗り、紅梅姫の屋敷へ急いだ。
若橘から血の気が失せている。馬が何処を如何走っているのかさえも分からない。
早く……帰らなければ……
こんなことなら、出掛けなければ良かった……
きっと、自分だけ、沢村に会いに行った、ばちが当たったのだ……
幾ら後悔してもしきれない、胸が痛くて上手く呼吸が出来ない……
何時も呼吸をする時は、如何やってしていたのだろうか?
……気が遠くなりそうだった。
沢村の屋敷に着いた時には茂二は居なかったが、何処からか息を切らして帰ってきた。
裏口で茂二が大声で叫ぶ。
「だ、だ、だんな……だんな様あ……紅梅姫様がぁ……」
あまり大きな声で叫ぶので、沢村と二人して奥から茂二の声がする、厨を兼ねた裏口へと来てみた。
茂二の急ぎように只ならぬものを感じ、沢村は水瓶から柄杓で湯呑みに一杯の水を汲み、渡した。其の湯呑みを掴むや否や、茂二は一気に水を飲み干し、手の甲で口を拭った。
此の暑い時期に、よほど急いで走ってきたのだろう。茂二は汗だくだった。
「落ち着いて、ゆっくり言いなさい……」
沢村の言葉に茂二は一呼吸置いて、話を始めた。
「家の初が玄関に不審な男物の草履を見つけて、紅梅姫様に尋ねたところ、『誰も居ない』と申されたそうです。『用が有れば呼ぶ』と申されたので、厨で大根を洗ってると、今村様が来られて、『紅梅姫様がご自害なされた』と言ったらしいんです……」
「……ご、ご、ご、じが、い?」
震える声でそう言葉を放つと、若橘は其の場で気を失った。
茂二が何か言っているようではあったが、覚えてはいない。
沢村が、倒れていく体を抱いてくれたようだった。
「茂二、若橘の事は良い、早く、続きを話しなさい!!」
沢村も動揺を隠せない。沢村はその場に座り、若橘を膝にのせたまま、茂二に訊ねる。
「へえ……何処まで話しましたか?」
「今村殿が紅梅姫様がご自害したと言ったところまでだ……」
「……そうでした、で、初が部屋に行ったところ、懐剣で喉を突かれて亡くなられたらしく、喉から血が流れていたそうです」
「……だが、如何して今村様が居られたのだ?」
「はあ、其れが、玄関の草履は今村様の物だそうで……」
茂二の話に合点がいかない沢村は、直ぐに馬を用意させる。
そして、着替えを済ませると、気を失っている若橘の頬を軽く二、三発、叩いた。
すると、「ううん……」と唸り声を上げ、若橘が目を覚ます。
「目を覚ましたか?」
沢村の顔が目に飛び込んでくる。
「紅梅姫様……」
若橘はごそっと起き上がり、立とうとするが、如何も腰が抜けたようで上手く立ち上がることが出来ない。
「……良い、無理をするな。今、茂二に馬を用意させておる。一緒に乗って行こう……」
沢村はそんな若橘を伴い、紅梅姫の屋敷へと向かった。
若橘は気が動転したのだろう、体の震えが止まらない。沢村は馬から落ちぬよう、自分の前に座らせ後ろからしっかり支えた。
屋敷へ戻ると、初が飛び出して来た。
「だ、だんな様、若橘様……申し訳ございません……」
初でさえも突然の出来事に混乱しており、裸足で飛び出してくる始末だった。
沢村の後ろに隠れるように、若橘は屋敷の中へと入っていった。
紅梅姫の部屋は屋敷の中でも奥のほうに位置する。中庭を一周しながら廊下を歩いて行く。
中庭には小さな池が有った。その池の周りには、岩が積まれ、その隙間から如何にも岩清水が流れ出るような細工がしてあった。
ちょろちょろと涼しげな水の音に、暑さが和らぎ心地よかった。
紅梅姫の部屋の障子は開け放たれていた。
紅梅姫の打ち掛けの裾が、先を行く沢村の足元の隙間から目に入る。思わず、若橘は目を背けた。
だが、沢村は無言でずかずかと部屋の中に入り、座っている今村を見つけると胸ぐらを掴み、拳で顔を力一杯殴った。
今村は吹き飛ぶように倒れ、口の端から血が流れる。
だが今村は何も言わず、少し口を開き、流れ出る血を指で拭った。
そして太太しい笑いを浮かべ、
「沢村、何の真似だ? 俺は何もやっておらんぞ!」
と言って胡坐をかいてその場に座った。
あまりの事に、若橘はもとより初でさえ声が出ない。
その座った今村の横に、紅梅姫の亡骸が打ち掛けを掛けられ、横たえてあった。まだ、顔には白い布も掛けられていない。
流れた血などは初が掃除したものと思われる。その場には其れを伺わせるようなものは、無かった。
紅梅姫は眠っているようだった。
美しい顔で……まだ生きているかのように、少し微笑んでいる。
何か語りかけてくれそうで、死んだとは思えず……
余計に、若橘の涙を誘った。
「……ひ、ひ、ひめさ、ま? 姫様あああ!!」
這うように紅梅姫に近付いた若橘は、姫の亡骸にしがみつき大声で泣き始めた。
もう誰にも止められない。
だが、沢村は若橘の両肩をしっかりと掴む。
「若橘! しっかりせぬか!! 泣いておっても、事は運ばぬ!!」
沢村の厳しい声が若橘を叱りつける。
若橘はその沢村を振り返り、胸にしがみついた。
「姫様があ、姫様があああああ」
と沢村の言葉など若橘の耳には届いてはいなかった。
沢村は若橘の長い髪を慈しむように撫でた。何を言っても聞く筈もなく、主人を自分の居ぬ間に失うほど、後悔するものはなかろう。
「……今村殿、一体、何をされたのだ!!」
沢村のきつい言い方に、今村は相変わらず堂々としていた。
「何をしただと? 何もしておらん!」
「ですが、わたくしが屋敷を出るときは、姫様は何時もの姫様でした。別段、思い詰めた様子はございませんでした!!」
若橘は沢村の腕から離れ、涙声で訴えた。
「……此れだ……」
今村は懐から書状を取り出し、沢村へ投げた。
沢村は素早く其れを拾い、広げて読み始めた。
其の書状には、直ぐ此の屋敷を明け渡すよう書かれ、丁寧に重郷の花押まで記されてあった。
沢村の手がわなわなと震える。そして、其の書状を破り捨てた。
「……な、何をするのだ! 仮にも殿の書状であるぞ!」
今村は慌てて、腰を浮かせた。
「何が書状だ! こんな物で姫様を追い詰めたのであろう!! そして、お前は紅梅姫様を斬り、自害に見せかけたのであろう!」
「ち、違う! 沢村、落ち着くんだ、姫様は書状を読まれても、顔色一つ変えられなかった……私の方が、驚いたくらいだ……私は姫様を殺してなどいない、刀を調べて貰ってもいい……」
今村の声は震え、少しづつ小さなものになっていった。
「嘘だ!! ずるいお前のことだ、簡単に信じる訳にはいかん!」
沢村は思わず、刀の柄に手を掛けた。刀を抜かねば、此の腹立たしさは治まりそうも無かったのだろう。
「嘘ではない! と、兎に角、聞いてくれ! 頼む!! 此の通りだ……」
今村はその場に両手を突き、土下座をして凌ごうとした。
沢村に刀を抜かれては、今村など一溜りもない。此処で、今村を殺し、紅梅姫の殺害の下手人としても、此処にいる全員が口裏を合わせるだろう。沢村が斬ったのは、下手人だ。何ら差し障りの無い事となる。
いくら昼行灯の今村でも、其の位の知恵は回るらしい。
「なら、如何したというのだ!! 説明して貰おうではないか」
沢村は腰に挿した刀のつばを、カチャリと云わせ何時でも抜ける体制を整え、
「嘘をつくと、其の首、飛ぶぞ!!」
と今村を見据えた。




