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43 岩清水の落つ

 漸く祇園会も終わり、太鼓の音が聞こえてこなくなった。

 そして盆を迎えても、重郷が訪れることは無かった。

 盆には麻生家の盆の供養が盛大に行われ、城は賑やかだったと翔太が教えてくれた。


 しかし、其れに反し紅梅姫の屋敷は静まりかえっていた。

 巷では井戸水に冷やした桃や胡瓜を天秤に入れ、売り歩く声が聞こえる。町は町で賑やかだった。


「姫様、桃など求めましょうか?」


 若橘は団扇で扇ぐ手を休め、紅梅姫に問うた。

 しかし紅梅姫は首を横に振った。


「いえ、何も要りません……それより、山へ行きたいのですが。そう、岩清水が落ちるような所へ……」


 若橘は首を捻った。あまり山奥へ行かず、適当な所を考えねばならない。

 

「茂二に相談致します。茂二の案内が無くては、山は危険でございます……」

「……そう、危険でした。何時かの貴女のように猪に追われては、大変ですものねえ……」

 

 紅梅姫はにこりと笑う。また、山で道に迷った時の恥ずかしい思いが甦る。


「姫様、其れはご勘弁下さい」

 両手を挙げ、振ってみせた。


 本当に以前と変わらない笑顔をした紅梅姫が、其処に居た。

 

 姿見の池で重郷に会ってから、益々出かけることが多くなった。馬に乗り、様々なところへ行くようになった。

 待つのではなく行動する、紅梅姫の強い意思が伺われた。 

 

 其れに比べて自分は……

 そう謂えば、いくら盆の準備に追われていたとはいえ、最近は沢村が余り来なくなった。

 重郷は来ることはないだろうが、沢村くらいは城からの帰りに寄ってくれても良さそうなものを、初と茂二に任せ、顔すら見せようとしなかった。


 やはり紅梅姫が重郷に疎まれているので、この屋敷に来ることが憚られるのかもしれない。


 当たり前のように会っていた、あの頃に戻りたいと、つい弱気になってしまう。もしかしたら、沢村は己の為に自分と関係を持とうとしたのかもしれない。そして利用価値が無くなったので、捨てたのかもしれない。

 様々な憶測が頭の中を駆け巡り、不安で仕方なかった。

 だが……何より、沢村に会いたかった……


「……若橘、若橘?」

 紅梅姫の自分を呼ぶ声にはっとし、現実に呼び戻される。


「如何したのですか? 何か辛そうに考え事をして?」

 少し意味有りげに紅梅姫は首を傾げた。


「い、いえ、何もありません」


 慌てる若橘の様子を見て、紅梅姫は笑った。

「茂二のところへ相談しに行って下さい……沢村様のお屋敷へ」

「……?」


 何時もなら初を使いに出すのに、若橘に行けという。紅梅姫の計らいだった。


「だ、だめです。駄目でございます、姫様。沢村様にご迷惑が……」

「……沢村様に会いたいのでしょ?」

「……その様な我儘は申せません」

「貴女くらいは幸せになりなさい……わたくしに遠慮など要りません。初が居りますから、わたくしは大丈夫です。沢村様に会って来なさい。貴女まで不幸にする権限はわたくしには有りません」


 紅梅姫は明るい表情ではあったが、厳しい目をしていた。

 若橘の目から忘れかけていた涙が零れ落ちる。


「如何して泣くのですか? 早く行きなさい。今日は居られると初が申しておりました。朝早く、惣菜を届けたとき、そう申して居られたそうです」


 此処まで云われると、若橘の完敗だ……


 



 若橘は沢村の屋敷へ向かった。

 通りを歩いていると向こうから今村が歩いてくる。

 若橘はすれ違い様にお辞儀をした。


「おう、此れは若橘殿ではござらぬか、何処へお出掛けかな?」

 今村は皮肉な笑いを浮かべた。


 だが若橘は其れには動じず、

「いえ、姫様の使いでございます」

 とだけ答えた。


「そうであるか、ごゆっくりなされよ。沢村は屋敷に居るぞ」

 今村は若橘の行動を見抜いたように、にやりと笑う。


 だが若橘は其れには反論せず、静かにもう一度頭を下げた。

 悔しいが、今村に関わっている暇は無い。できるだけ早く沢村の屋敷へ行き、紅梅姫の元に戻りたかった。


 今村は「ふん」と鼻を鳴らし、通り過ぎていった。





 若橘は沢村の屋敷の裏へ回る。

 まずは茂二に会おうと思った。いきなり、沢村に会うのは憚られた。


「もし……もし……」

 裏口で呼んでみるが、誰も居ないようだ。

 暫くすると、奥から茂二を呼ぶ沢村の声がする。


 だが茂二が返事をする様子が無い。

 仕方がなかったのだろう、沢村は、

「なんだ、茂二は居らぬのか?」と言いながら、裏口へやって来る。

 そして若橘の顔を見たとき、茂二を呼ぶのを止めた。

 沢村と目が合い、若橘は思わず俯いた。心臓がどきどきと鐘を鳴らしたように大きな音をたてる。だが沢村から次に発せられた言葉は、若橘の期待するものとは異なっていた。


「如何したのだ? 初さんを使いに出せばよいであろう……」

 沢村は驚いたようにそう言った。


「……やはり……お邪魔でございましたか……」


 落胆したような若橘の反応に、沢村はたじろいだ。若橘は逃げ出そうとする。紅梅姫の使いで来た筈なのだが、沢村の顔を見たとき、全てが吹き飛んだ。

 もうどの位会っていないのだろう……いや、どの位触れられていないのだろうか。


 沢村はふいに、背を向けた若橘の手首を掴むと其のまま引き寄せ、後ろから抱き締めた。


「……何故、そなたを邪魔に思うのだ。私は一度もその様に思ったことは無い……」

 沢村の熱い吐息が若橘の首筋に掛かる。

 だが若橘は沢村に背を向けたまま、己の心に反する言葉が口を突いて出る。


「……ならば、如何して会いに来て下さらないのですか? わたくしは会いたくて……会いたくて……」

 

 若橘の言葉を遮るように沢村は口付けをする。息さえ止まる程の後ろからの口付け、涙が溢れて止まらない。長く深い口付けの後、沢村の唇は若橘の涙の跡を辿っていく。そして首筋も容赦なく柔らかくその道筋を辿る。若橘から艶のある声が漏れた。


「もう、お会いしてはならぬと思っておりました……」

「如何して会ってはならんのだ? 今日とて紅梅姫様が使いに出したのではないのか?」

「そうではございますが……」

「……私も会いたかった……」


 もう一度、沢村は熱い唇を重ねてくる。そして後ろから回した手を着物の胸の合わせに滑り込ませようとした。若橘の塞がれた口から「あっ」と声が漏れ、若橘は身を捩って沢村の侵入を阻止しようとする。すると、沢村は襦袢の上からそっと胸を撫でていく。若橘の体の芯に火が点いたようだった。

 だが、そうしていても何処かでこれ以上は駄目だという理性が働き、沢村の腕を逃れようとする。

 すると、

「駄目なのか……」

 と沢村が耳元で囁いた。

 若橘は無言で頷く。紅梅姫が苦しんでいる時に、自分の幸せなど考えてはならない。

 沢村に会えただけで、十分だった。 

 




 初は玄関の隅に、男物の草履を発見した。

 茂二はこんな立派な草履など履かないし、ましてや玄関から出入りはしない。

 

 若橘はさっき出かけたばかりだ。沢村の家に行ったのだから、暫くは帰ってこない筈である。若橘とて玄関からは出入りしない、ましや男物の草履である。


 だが、誰かが入って来た様子は無かった。

 玄関からは声は聞こえなかったし、いくら奥に居ても気付く筈である。

 

 初は小首を傾げた。


 少し変だとは思ったが、紅梅姫は奥の自分の部屋で古今集の写しを書いていた。

 何かあれば、大声を出すはずだった。


 朝、掃除をした時には無かった草履である。


 初は紅梅姫に尋ねてみようと、部屋の前に座り障子越しに声を掛ける。

「姫様、誰か入ってこなかったかね?」


「いえ、誰も来ませんよ……用が有れば呼びます……」

 

 何時もと変わらぬ紅梅姫の声が聞こえる。


「分かりました……」と初は何の疑いもなく、言った。

 

 そう、此れが最期の言葉とも知らずに……




 


 





 




  

 

 

江戸時代(此の作品は室町時代の設定ですが)などは天秤に井戸水で冷やした桃や胡瓜などを、売り歩く人達が居たようです。現代人はアイスクリームやかき氷などですが……

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