42 続姿見の池
午後に急いで城に上がった沢村は、重郷のご機嫌を伺う。
「殿、今日は午後から馬に乗って、涼みに行かれませんか?」
誰も居ない隙を見て、重郷を誘ってみる。
沢村のまだ何か言いたげな様子をみて、重郷は小さく頷いた。
「分かった、馬を用意させよ……何処へ行くのだ?」
「……それは、お楽しみでございます」
沢村は意味ありげににたりとする。
「ならば、そなたと二人が良かろう……」
重郷は何かを察したようで、沢村の提案をすんなりと了承した。
沢村は恭しく頭を下げ、馬の用意をする。
今日は柏井の方が娘の花姫を伴い、近くの寺に紫陽花を見に行っている。やはり梅雨の晴れ間を待っての見物だった。
飯合も今村も其の供で出掛けている。
重郷は沢村の後ろを無言で、馬に揺られていた。
祇園舎を通り過ぎ暫く行った時、沢村は神社の下で止まった。
「おう、久し振りじゃのう。姿見の池か……」
そう感慨深そうに言った重郷の視線の先には、笑顔の紅梅姫が居た。
「……沢村、こういう事か……」
重郷の表情が厳しいものに変わっていく。
沢村は先に馬を降り、其処へ座り手を突き頭を下げた。
「申し訳ございません! しかし、此のままでは余りにも紅梅姫様がお可哀想でございます」
重郷の双眼から発せられる視線は紅梅姫の笑顔を射抜く。
その重郷の姿を認めた紅梅姫の顔は強張り、引きつった。
だが怖気ながらも、紅梅姫は丁寧にお辞儀をした。
漸く重郷の存在に気付いた若橘も、恭しく頭を下げた。
「殿、紅梅姫様にお声を掛けられて下さい」
しかし重郷は馬からも降りずに、紅梅姫を見つめている。
其の様子を見た紅梅姫は沢村に自ら歩み寄り、俯いたまま、
「沢村様、殿と二人きりにして頂けませんか?」
と言った。
そして、
「殿、わたくしと神社にお参り致しませんか?」
と問うた。
強張った表情をしたのは、重郷を見たほんの一瞬だけだった。
今は何時もの落ち着いた紅梅姫に何ら変わりは無い。
重郷は声は発せず、小さく頷き馬を降りた。そして神社の石段の方へと歩き出す、その後ろを紅梅姫は付いて行った。
沢村は二人の後姿を無言で、じっと見ている。
「沢村様、有難うございます。どうなる事かと……」
若橘はそう言い掛けて、沢村の浮かない表情を見て言葉を呑みこんだ。
「……さあ、紅梅姫様をお許しになると良いのだが。何とも上手い手であったからな……事前に密通の噂を流し、其れを私は否定して仲直りさせた。そして、今回の事だ。幾ら、嵌められたといっても紅梅姫様を信じるには時間が掛かる」
沢村は立ち上がると袴の裾に付いた泥を手で払った。
何時もとは違い、厳しい表情を崩さない。
そして、さっきからの出来事を怯えるように見ていた茂二に、声を掛けた。
「茂二、大変だが頼むぞ」
茂二は一瞬、ぴくりとしたが、
「……へい」
と短く答え、紅梅姫の馬を厩へと引いていく。
紅梅姫の馬の鈴が物悲しそうに聞こえた。
「沢村様も何時もの沢村様では無いようです……」
二人きりになった時に若橘は沢村に恨み言めいた一言を浴びせた。
何時もなら冗談を言いながら、若橘に触れてくる。其れを心の何処かで期待していた自分が恥ずかしく、はしたないと思った。しかし今更、沢村を慕う気持ちを捨てきれずに、持て余している。
「……何故そのような事を言うのだ、此れは重大な事だ。此のまま、柏井の方様に権勢を振るわれては、何れ、殿が立ち行かなくなる……」
やはり、若橘には何時もの沢村で無いような気がして、恐ろしかった。
そう今日の沢村は、現実を見る男の姿になっていた。
重郷と紅梅姫は長い石段を無言で上がって行く。階段の途中で重郷が紅梅姫を振り返ることは無かった。だが、其れは紅梅姫にはせめてもの救いだった。
重郷の射抜くような視線に晒されたとき、あまりの強烈さに心臓が破裂しそうだった。
階段の先には小さな素朴な社殿があり、誰も居なかった。神の聖域を感じる。
紅梅姫は手を合わせ、神に祈る。
重郷も其れに習った。ゆっくりと静かな時が流れる。
目を開けると、紅梅姫は重郷に頭を下げた。
「殿、申し訳ございません……」
重郷は暫く間を置いて問うた。
「……本当に誰かと不義密通を致しておったのか?」
力の無い、ぼそりとした声だった。本当は聞きたくないのだろうが、紅梅姫が今、謝ったのでそう訊ねるしかなかった。
「……殿は本当にそうお思いなのですか?」
「……分からぬ、如何しても分からぬ……そなたが本当にその様な事をしておったのか……」
「そうですか……」
「何故、直ぐに否定せぬ? なら何故、今謝ったのじゃ、あの手紙はそなたが書いた物では無いと如何して謂わぬ?」
のんびりとした紅梅姫の調子に、重郷は苛立つ。
だが、紅梅姫はそんな重郷を恐れる様子は無い。
「……わざわざ、此処までお越し頂いたので、お礼のつもりで申し訳ございませんと申し上げました。そして、手紙は確かにわたくしが書いた物です……以前にもそう申し上げました」
「あの夜、確かに聞いた……」
重郷が肩を落とすのが、横に居る紅梅姫にも伝わる。
「わたくしが手紙を書いた相手は殿でございます。そして、今村が渡すと言って持って行きました。其れも申し上げました」
「……確かに其れも聞いた。だが、如何しても信じきれぬ。もしかしたら、と思うのじゃ」
紅梅姫は少し笑みを浮かべた。けっして、重郷を責めるような言い方はしない。
「わたくしは十八年生きてきましたが、今までに殿以外に恋したことはございません。天地神明に誓って嘘はございません」
「……」
しかし、重郷は答えなかった。
信じる気持ちが有るのか無いのか、紅梅姫に恋しているのかいないのか。
答えは二つに一つしかない。
「殿、急ぎはしません。何が本当なのか、良く考えてください……」
「……其れで良いのか? そなたは其れで良いか?」
「わたくしは待つ事には慣れております。お待ち致します。殿が信じて下さるまで……わたくしの気持ちは京で殿にお会いしたあの時から、変わってはおりません」
静かではあったが、凛とした張りの有る声だった。
何も疚しいものは無い、紅梅姫の気持ちは揺らいではいなかった。
揺らいでいるとすれば、重郷のほうだ。
「でも殿? 時に人は嘘に巻かれるのも宜しいのでは有りませんか? 人を恋うる気持ちには形がございません、目には見えぬもの。だからこそ、恋うる気持ちでさえ全て嘘なのかもしれません……あまり真実ばかりを追い求めますと、苦しゅうございますよ……」
「其れでは、そなたが嘘をついているようではないか?」
「でも、殿はわたくしを信じれぬのでございましょう? ならば、其れは其れで良いではございませんか? わたくしは、その様なもので殿を縛りとうはございません……もう、此のままお捨ておき下さっても良うございます」
紅梅姫は少し寂しそうな表情を浮かべた。
死ぬほど焦がれた相手が、自分を信じることが出来ないのであれば、相手はその嘘を信じても良いと思っていた。
自分が恋した事だけが真実であるならば、他は全て夢か現か幻であっても構わないと思う事で、自分の気持ちの逃げ道を作りたかったのだろう。少し虫の良い話かもしれないと、紅梅姫は自嘲する。
女は恋という幻を見、男は手に取ることの出来る現実を選んだ、其処が全ての分岐点であるかもしれない。
重郷が二度と自分の元へ戻らなくとも、己だけは裏切りはしないと心に誓う。
そうで無ければ、自分自身を裏切る事となろう。其れが紅梅姫の内に秘めた強さであった。
漸く、二人が神社の階段を下りて来た。
沢村は直ぐに馬を用意した。
そして、重郷も沢村も無言のまま、帰っていった。
「若橘、わたくし達も帰りましょう。次に沢村様に会った時には、今日のお礼を言っておいて下さい」
「……姫様、殿とは……」
聞きにくい話だったが、やはり気になった。
「どうでしょう……殿は哀れなお方です。余りにも現実ばかりを見ようとしておられる。だから、周りの者達の策に嵌るのです。この世でさえも信じれぬ幻であるかもしれぬというのに……」
紅梅姫の不思議な言葉に胸騒ぎを覚えた若橘だった。




