39 山時鳥の鳴く
紅梅姫は締め切った薄暗い部屋で、臥せっていた。
身体中が痛み、熱が出ているようだった。
重郷が帰った夜から、水も喉を通らず、勿論、食事は出来ずにいる。
若橘は城へ誤解を解きに行くといって出かけたまま、帰って来ない。
夜具の中で、紅梅姫は涙した。
まさか、重郷に宛てた恋文を、他者に宛てたものだと重郷が誤解するとは思わなかった。あまりにも理不尽な話だった。今村に裏切られるとも知らず恋文を書き、渡したことを後悔していた。
けっして重郷を独占しようと思った訳ではなく、会えるのが只々、嬉しかった。
だが、其れが柏井の方の怒りに触れていることも重々承知していた。
しかし重郷を受け入れたい気持ちを抑える事は、出来なかった。重郷と茵を共にせずにはいられなかったのである。
何時しか、重郷は自分を信じているという、愚かな気持ちがあった。
密通を疑われた時の苦しみを乗り越えたのだから、という過剰な自信が気の緩みを生じさせた。
今回の事はきっと重郷を独占した自分への罰であると、思っていた。
何れ、離れねばならぬ運命であったとさえ、思うのである。
「姫様、葛湯を作ってみたんだが、如何だね?」
初という老女がじわりと遠慮がちに障子を開け、入ってくる。
侍女達にまで暇を出され、今村も来ない。
もう殿が此の屋敷に訪れることは無いという、暗黙の了解だった。
胸の奥から込上げる感情が枯れるほど泣いた涙腺を、また刺激する。
目から涙がはらはらと、零れ落ちる。
「駄目だよ、そんなに悲しんじゃあ。だが、此れは時が必要だね……」
初の投げやりな言い方が、紅梅姫にはせめてもの救いだった。
若い侍女であったなら、必要以上に紅梅姫の世話をしようとするだろう。
しかし初は違った。
「泣きたいんなら、思いっきり泣いたほうがいいよ」と言って食事を持って来るとき以外は、そっとしていてくれた。そして無理に食べることを勧める事も無い。
「姫様、でもそろそろ障子を開けるよ。薄暗い部屋にばかり居たら、誰だって気鬱になるからね」
初は障子を開ける。すると薄暗い部屋に太陽の光が、差し込んでくる。
紅梅姫は眩しそうに目を瞬かせた。
食事もまともに摂らず臥せっていたせいか、以前より痩せてやつれ、白い肌は青白く透き通るようで、瞼は泣いてばかりいるので少し腫れていた。
だが余計なものを全て削ぎ落としたような其の姿は、消え入りそうで、思わず手を伸ばしたくなるほど美しかった。重郷が紅梅姫のそんな姿を見れば、ぞくっとするに違いない。重郷には妙な癖があり、紅梅姫が困る姿を楽しむところがあった。
今回もそうであれば良いのにと、心の何処かで期待していた。
どんなに重郷から恥ずかしい姿にさせられようと、重郷が満足するならば其の羞恥心にも耐えてきた。
「ほらね、あんまり泣いてるからお日様が眩しいだろ?」
そう言うと紅梅姫が座るのを手伝った。そして自分が持ってきた葛湯を持たせる。
湯のみから白い湯気が上がり、生姜の香りがする。少し冷まして持って来たのだろう、手にしてもほんのりと温かく、心地良い。
「初さん……と申されましたね……」
若橘は出掛ける前に初を連れ来て、詳しい事は言わずに名前だけを伝えた。
そして初は沢村家の女中であることを、自ら明かしたのである。
「ああ……はい。行儀なんてろくに知りもしないから、お姫様の面倒なんて見れないって、言ったのにね。あの女、よっぽど、急いでいたんだね。聞きゃあしないんだよ」
老婆ではあるし、けっして美形ではないが、彼女には優しさが溢れていた。体格も良い初だが、其れもその筈、田畑の世話もしていると初自信が話してくれた。
そんな元気な初を見ると、また涙が零れ落ちる。
「本当に困ったね、そんなに泣かれたんじゃ……」
「初さん、若橘が帰って来たら、沢村様のお屋敷に戻るのでしょ?」
「……まあね、でもあの女一人で食事の用意や掃除洗濯なんて出来るのかね? 今までやった事
無いだろ?」
「……」
紅梅姫は押し黙った。
そういえば京に居た頃も下働きの女中が居たし、此処へ来てからもそうだった。
自分はおろか、若橘でさえも其の様な事はやったことが無かったのである。
裏口のほうから、人の声がする。
「あっ、あれは、うちのだんな様だよ! お帰りだ? でも如何して此処へ来たんだろ? 呼んでるようだから、姫様、一人でも大丈夫だろ?」
「ええ、早く行って差し上げて……」
紅梅姫はぎこち無く笑った。
何日振りだろう、顔の筋肉が笑う事を忘れているようだった。思わず、顔が強張る。
此れでは女としてだけでなく、人間として如何なんだろうかと思ってしまう。
そう、此処から抜け出さねば……
何時かは此の誤解が解ける時が来る筈である。どんな事があろうとも愛し続ける覚悟は出来て居た筈なのに。このような事態になると、つい気後れしてしまう自分の意思の弱さが疎まれた。
初の葛湯を一口飲んでみる。
生姜の辛味が口に広がり、後からほんのり甘味がくる。乾いた体に沁みこんでいく。
初の元気までもが少しずつ、紅梅姫の中に浸透していくようだった。
庭では山時鳥が鳴き、緑が梅雨の訪れを待っていた。
裏口に初が駆けつけると、沢村が負ぶった若橘を上り框に降ろすところだった。
其れを初が手伝う。
「悪いね、初さん。だが、なかなかのお手柄だ」
沢村は口の端を歪めて笑った。
「何がお手柄だよ、わたしには姫様の相手は向いてないよ……」
そう言って初は若橘に目をやった。
「また、だんな様に負ぶって貰って、秋にもそうやってだんな様は帰って来たんだよ……あんたを負ぶって」
初の呆れた言い方に若橘は俯いた。
そう、何時も沢村に迷惑ばかりかけている……
恥ずかしくて穴があったら入りたかった。
「……でもね、そんなあんたに、だんな様は惚れておられる。隙が無くて完璧は、良くないのかもね」
初は日焼けした顔で豪快に笑う。初には本当の優しさがあった、だからこそ周りの者は太陽にでも照らされるように、心から暖められるのである。
「初さん、足を漱ぐから……それから食事も作って欲しいのだが……」
沢村は苦笑いをしながら、若橘の草履を脱がせる。
「いえ、もう自分で致します……」
若橘は立ち上がろうとしたが、やはり足がおぼつかない。
「もう良いよ、だんな様にやって貰いな……」
初はすぐに桶に水を汲んで来る。
沢村は無言で若橘の足を丁寧に洗い、拭いてやった。
「歩けるかい?」
初が抱えようとするのを、沢村は制して自分が肩を貸す。
「……わたしが部屋へ連れて行こう。初さん、姫様はお目覚めかな?」
「ああ、もうお目覚めだよ。少し元気は無いが大丈夫だ、心配は要らない」
初はてきぱきと答える。
「そうか……悪いが初さん、暫く此のお屋敷に奉公して貰えないだろうか?」
「……でも、それじゃあ、だんな様がお困りだろ?」
「いや、私は茂二に来て貰う」
「うちので大丈夫かい?」
「大丈夫だよ、猟の時も茂二にいろいろ世話になっているが、良くやってくれる。次の女中が決まるまで、居てやって欲しい。頼む、初さん」
「まあ、だんな様の頼みなら聞くしかないが……」
「良かった、良かった」
初はまだ完全に了承していないようだが、沢村はさっきのようににたりと笑った。
流石の初も、沢村には敵いそうもなかった。




