38 続後の恋文
沢村が、若橘が待つ部屋へと廊下を歩いていると、向こうから今村がやって来る。
沢村は道を空けた。
今村は沢村の横まで来ると、
「此れは沢村殿、大内からもうお帰りでございましたか? よほど急いでおられたようにお見受け致す。まだ、旅支度のままでございますな……」
今村はぬけぬけと沢村を挑発してくる。
しかし其れには応じず、沢村は落ち着いていた。
「今村殿こそ、紅梅姫様のお屋敷は如何なされたのですか?」
「もうお世話するに及ばずとのことで、致しておりません。そのうち、お屋敷変えが有るやもしれませんな」
「……致すに及ばずとは? 侍女は如何しております?」
「はあ、侍女も全て暇を出しました。今は若橘様お一人ですが、其の若橘様もご自分の立場を良くご存じないご様子。城の門の前などでいくら座り込みをなさいましても、殿はお会いにはなりません」
今村は皮肉な笑いを浮かべた。
あれほど昼行灯で通していた男が、これほどまでの変わりようとは……如何した事か。
押し黙る沢村に今村は、鋭い目を向ける。
「貴公が私をこうしたのだ、私から綾を奪いさえしなければ、此のような事は無かった」
言い掛かりだ……
綾を傷付け、沢原との事を認めようとしなかったのは、自分ではないか!
だが沢村は無言で頭を垂れ、今村が通り過ぎるのを待った。
今村と今更話をしても、関係が元に戻る筈は無いのだから。
沢村は若橘が待つ部屋の前へ来ると、一つ溜息をつき、障子をそっと開けた。
若橘は薄暗い部屋の中で、一人正座をして待っていた。
沢村の顔を見上げると、きりりとした表情を浮かべた。彼女の侍女としての公の顔だった。
そして手を突き頭を下げる。
「申し訳ございません、ご無理を申しました」
「……いや、私こそ悪かった。ああは言ったものの、柏井の方様が居られて、貴女を殿に会わせる約束が取れなかった……本当に悪い」
「……分かっていたことです、殿にお会い出来る筈はございません」
若橘との約束を破った自分を、彼女が罵倒するのではないかと、覚悟をしていたのだ。
当然ではないか、其れをまた押し込めようとしている。
沢村はそんな若橘の手を取り、自分の大きな両手で包んだ。
自分の心を閉じ込めようとする若橘に、これ以上耐えられない。
沢村の手の温もりに硬くなった若橘の心が解けていくように、目に涙が溢れ彼女の感情が迸る。
沢村の手に若橘の大粒の涙が、ぽつぽつと落ちてきた。
「……わたくしが如何かしていたのです……殿のお怒りはご尤もでごさいますが、しかし、あの手紙は紅梅姫様が殿に心を込めて書いた手紙でございます……殿にお分かり頂けないのは、口惜しゅうございます……」
若橘は怒りと苦しみで身体が小刻みに震え、沢村は漸く自分に心を開く若橘に安堵した。
しかし、沢村には若橘を抱き締めることしか出来なかった。
これ以上の安易な言葉は、余計、若橘を傷つけてしまう。
若橘が落ち着くのを待ち、沢村は問うた。
「ところで、紅梅姫様をお一人にして、大丈夫なのか? さっき今村殿に会った。姫様の世話役を解かれ、しかも、侍女たちまで暇を出したというではないか……貴女が此処に居ては姫様の世話は誰がしているのだ?」
沢村の心配は尤もなものだった。
若橘は沢村の腕から逃れようとするが、沢村は其れを許さなかった。
今手放せば、崩れてしまいそうだった。
「……申し訳ございません、それが……姫様のお世話は初さんにお願いして来ました。丁度、沢村様が大内様へ行って居られましたので……」
良く気が付いたものだと、沢村は思った。しかし若橘には沢村への遠慮が有ったのだろう、言葉がすんなり出てこない。
あえて沢村は若橘を安心させるよう、にこりと笑った。
「良いところに気が付いた。初さんならば、少々遣る事は荒いが安心だ」
「……良うございました、沢村様からお叱りを受けるのを覚悟で、初さんにお願い致しました」
若橘はやはり、ほっとしたようだった。
「だが、此れから如何するのだ? 侍女に暇を出しては、全て貴女が遣る事になる。其れでは、貴女の身が持つまい……」
沢村は暫く考えていたが、何か思いついたらしい。
「……其のまま、初さんに通って貰いなさい」
「でも、其れでは沢村様がお困りになるのではございませんか?」
「大丈夫だ。私のほうは、初さんの夫の茂二に来て貰う事にするから。どうせ男所帯だ、大丈夫だよ」
沢村はさらりと言って退けた。
若橘はそうなると余計、心配してしまう。沢村が無理をしているように思ってしまうのだ。
「本当に大丈夫でしょうか?」
「其れより、此のまま屋敷を変えるような事まで言っておったぞ、今村は」
少し間を置いて、若橘は
「……はい……」
と答える。
沢村は怒りを抑えきれず、其れが言葉の端々に出る。
今村殿と言うべきところを、今村と呼び捨てにした。
若橘は周りの圧力を思い出したのだろう、思わず沢村の腕の中で俯いた。
「……そうか、しかしそうなっては、殿がもう紅梅姫様の元へは通わぬと宣言されたに等しい事になる。其れだけは避けねばならん。それから、侍女も暫くは初さんに頼むとするが、落ち着いたら、他の者に頼もう。其の話は私がつけるから、心配しなくてよいぞ」
「……ですが、これ以上、沢村様にご迷惑をお掛けする訳には参りません」
「どうせ飯合殿や柏井の方様に今更、媚を売っても始まりはせん! だが、此のままでは許さん……此れが仕組まれた事だと分かった時には、大内様のお顔に泥を塗ることになる。其れが如何いう事なのか、殿はお分かりなのだろうか! 騙されてはならぬというのに。殿にも困ったものだ……そうでなくとも、本家は殿を引き摺り下ろそうとするだろうに……」
沢村には沢村なりの算段が有る。
紅梅姫との縁談を仕組んだのは、先の城主の麻生弘家だった。其れにより、少しでも大内との繋がりを強固なものにしようとしていたのである。
だからこそ、柏井の方からすれば、扱いに困ったのかもしれない。
かなり手の込んだ事をしてきたものだ。
「……若橘、歩けるか?」
自分の腕の中で、手負いの小鳥が怯えているようだった。
沢村は紅梅姫も心配だった。
若橘でさえ、此の状態だ。たぶん、紅梅姫は臥せっているに違いなかった。
だが其れを初に任せた若橘の判断は、正しかった。
「屋敷に戻ろう、姫様が心配だ。此方の事は私が何とかするから、貴女は姫様に付いていてあげなさい」
「……ですが、沢村様にご迷惑が……」
「まだ其のような事を言っているのか? 此処では不謹慎だからと遠慮していたのだが……」
沢村は腕の中の手負いの小鳥に、優しく熱い口付けをした。
そして若橘は沢村の執拗な熱い口付けを、大人しく受け入れたのだった。




