35 続恋文
翌日、翔太は朝から忍んでいた。
紅梅姫の手紙を探す為である。
今村は、昨夜は部屋から一歩も出なかった。
有るとすれば、今村の部屋かもしれない。天井裏に忍び、部屋に誰も居ないことを確認すると、身軽に部屋に忍び込む。
まず手始めに文箱の中を見るが、何も入っていない。
部屋の中は他に目ぼしいものは、置いていなかった。箪笥などの家具は無く、小さな葛籠に着替えが少量入っているだけだ。
翔太は諦めて屋根裏に戻り、厨の様子を見に行く。
満と弥生が朝餉の片付けに追われていた。
其処へ今村が現れる。
「満、今日は殿がお越しになる。其のつもりで用意をしてくれ」
「はい……ですが若橘様は何もおっしゃっておりませんでしたが……」
「ああ、まだ伝えてはおらん。そなたから伝える必要はないぞ、私が若橘様には伝える」
今村は厳しい表情を見せた。
翔太は天井板の隙間から見ていたが、天井板を元の通りにすると、今度は天井裏を通り若橘の部屋へと入っていく。
「今日は本当に鼠だな……」
誰にも聞こえない独り言を呟いた。
障子が開き、若橘は部屋へ戻ってきた。翔太に収穫があったか聞く為である。
「……如何だった?」
若橘は疲労困憊しているようだ。顔色が冴えない。
「……駄目だ、やはり今村が持っているか、既に飯合の手に渡っているかだが……」
「如何した?」
まだ何か言いたげな翔太の様子を見て、若橘は鋭く聞き返した。
「ああ、今日、殿が来るぞ……」
「……!? 私は知らんぞ。誰が言ったのだ」
「今村だ、満に若橘には言うなと口止めしていた……今夜、何か仕掛けてくるかもしれん。沢村も居ないし……如何するつもりだ?」
若橘は唇を噛み締めた。
此のまま、如何することもできないのだろうか。
「若橘、俺は城を見てくる。収穫があるか如何かは分からんが……」
「頼む。宗右衛門殿には許可を貰っているのか?」
「大丈夫だ、宗右衛門殿は志乃が殺られてから、少し慎重だ。後で宗右衛門殿の所へも行ってくる。何か掴んでいるかもしれん」
翔太は若橘の頭を撫でる。
笑みを浮かべる翔太とは対照的に、若橘は怪訝な顔をした。
「翔太、私は子供じゃないぞ!」
しかし、翔太は其れを見て照れたように、
「だが……若橘、やっぱりお前が可愛い……」と言った。
そして、其の後で寂しげな笑みを浮かべた。
翔太が去ってからも今村は重郷が来る事は、一言も言わない。
若橘は紅梅姫が古今集の写しを始めたので、紙などを整える。
不安で息が詰まるようだ。
「若橘? 今日は如何しましたか? まだ風邪が良くなりませんか?」
紅梅姫は筆を置いた。
紙には姫の美しい文字が万葉仮名を交え、絵巻物のように生き生きと書かれている。
「だ、大丈夫です」
と短く答えた。
紅梅姫の漆黒の潤んだ瞳を見ていると、つい正直に答えてしまいそうだった。
「……殿はお見えになるでしょうか?」
溜息混じりに紅梅姫は若橘に訊ねる。
「……さあ」
としか答えられない。
午後、部屋に戻った若橘を、翔太が待っていた。
「今日の供は飯合だ。飯合の屋敷には若い連中が大勢いる」
「飯合の屋敷も見て来たのか?」
「ああ、腕の立つ奴が付いて来るだろうな」
「……そうか……」
気の抜けた危うげな若橘の返事に、翔太はしかめっ面をした。
「おい、しっかりしろよ! 姫様をお前が守らなくて誰が守るんだ! 其れから此れは宗右衛門殿からの預かりものだ!」
翔太は若橘に懐剣を手渡した。
鞘に装飾は施されず、黒の漆だけで仕上げられている。
若橘は鞘から刀を抜き、翳してみた。
懐剣は鋭い光を放ちながら輝いている。上等な鋼だ、手入れが行き届いている、宗右衛門が研いだものだろう。
「立派な懐剣だ……此れを私に?」
「宗右衛門殿が、くれぐれも気を付けるようにと……実は其の懐剣は橘の婆様の物だ。宗右衛門殿に研ぎに出していたらしい……だから、此れはお前の物だ」
「……わかった……今夜は何があっても姫様を守らねばならんな……」
若橘は其の懐剣を、懐に忍ばせた。
冷たく重い懐剣が橘の婆様の思いと共に、若橘の不安を少しだけ和らげた。
若橘は厨へと向かう。
厨では満と弥生が夕餉の支度を始めていた。
「満、姫様の夕餉にしては多くはありませんか?」
満は言葉に詰まった。何と答えようかと、満の目が泳ぐ。
「何故、答えないのですか?」
しかし、其れには背後から今村が答えた。
「殿がお見えになられるそうです。夕餉の支度を私が命じましたが」
「ほう、わたくしには一言も告げられてはいませんよ……如何いうことでしょう?」
「さっき聞いたばかりでございますから、致し方ございません。後ほど、若橘様には申し上げようと思っておりました……ですが、殿がお見えになるとご都合がお悪いことでもございますか?」
「……? 悪いも何も、知らせるのが当たり前です」
若橘は怒りを顕にした。
幾ら今村でも、横暴というものだ。朝から分かっていた事ではないか。
しかし、其れは言う事が出来ないので、飲み込まざるをえない。
「出来上がったものは、運ぶ前にわたくしが毒見を致します」
若橘は強い口調で言い放った。
毒は入れないにしても、眠らされては大変である。
今村は顎を突き出して満に指示する。
満が困惑した表情で膳に盛り付けた料理を持って来た。
若橘は其れを一口づつ確認する。
薬は入っていない。
丁度其の時、重郷が飯合を伴いやってきたようだった。
玄関のほうが騒々しい。
今村は急いで、重郷を玄関へと出迎えに行った。
「満、料理は運んで宜しい、ただし酒はわたくしが取りに参ります」
若橘は満を牽制すると、紅梅姫の支度を手伝いに行った。
何時もの部屋に通され、重郷は喜んでいる。
紅梅姫を抱き寄せ、庭を楽しむ。
美しい重郷の顔と粗野な性格の差は、若橘には違和感が残る。
料理が運ばれ、若橘は酒を運んでくる。
「姫、梅雨が明ければ、今年も祇園会が有るぞ、また姫の席を用意させよう」
紅梅姫に酌をさせながら、上機嫌の重郷である。
紅梅姫は小さく頷き、「楽しみに致しております」と答える。
細く白い指が酒を注ぎ、其れを重郷が上手そうに呑む。
飯合も同じ部屋の下座で料理を食べ、酒を飲んだ。
沢村が供をしていたときと変わりは無い。
漸く、日が沈み辺りが薄暗くなる。
若橘は燭台に火を入れた。
燭台の火が紅梅姫の注ぐ酒を神秘的に写す。
重郷は満足したのだろう、何時ものように湯殿を使い寝所へと入って行った。
厨の片付けも終わり辺りが静かになった頃、翔太は厨の裏で或る男と対峙していた。
其の男は翔太と歳はあまり変わらないようで、まだ若い。
男は頭巾など被らず、素顔をさらけ出してした。
月の光がぼんやりと男の顔を照らす、細面で華奢な印象を与える。
しかし身体はがっしりとしているようだ。
手は、指は長いが太くしっかりして大きかった。
日頃から鍛えている証拠だ。
「お前の相手は俺だ、待っていたぞ」
男は左の足をぐっと引き腰を落とし、刀の柄に手を掛ける。隙が無い。
そして、にやりと不気味に口の端を引き上げ、笑って見せた。
翔太は得体の知れない笑いに、じわりと汗をかいた。




