34 恋文
翌日、重郷と沢村が帰った頃、漸く顔の腫れが引いた。
紅梅姫の部屋を訪れる。
部屋では紅梅姫が穏やかな顔をして、庭の障子を開け放ち古今集の写しを書いていた。
若橘が部屋に来たのを見て、紅梅姫は筆を置く。
若橘が部屋へ来るのを、待っていたようだった。
変わりの無い紅梅姫を見て、若橘は胸を撫で下ろした。
部屋の中の様子も変わりは無い。
「もう良いのですか? 風邪をひいたようだと、今村が言っておりましたが」
何時もの姫だ。静かな声で優しく接してくれる。けっして姫を悲しませたりなどしたくは無い。
紅梅姫は溜息をついた。
其の様子からして、さっきから困っていたようだった。
「此の歌に合う紙は無いかしら?」
と若橘に訊ねる。
今書いているのは古今集の恋の歌だった。何時も、歌に合わせて紙を選び一字一字丁寧に書いている。
書き上げたものを綴じて冊子にするつもりだった。
「其れでしたら、文箱にわたくしが京で作りました継ぎの紙がございます」
若橘は立ち上がり、姫の後ろの棚から蒔絵を施してある文箱を取り出し、箱の中を捜す。
しかし金箔まで貼った紙が見当たらない。
暫くして
「もしかしたら、あの紙かしら……」
と紅梅姫は小首をかしげた。
「淡い梅茶に灰桜色がぼかしで入り、継ぎを致しました。所々に金箔を施してございます」
若橘の説明に、思い当たる節があるのだろう、
「まあ、あの紙でしょ! 綺麗な紙でしたものね。昨日、手紙を書きました」
紅梅姫は顔を紅潮させ、漆黒の潤んだ目を幸せそうに輝かせた。
若橘は紅梅姫のはしゃいだ姿が、不自然だと思ったので訊ねてみる。
「どなたに書かれたのですか?」
「……殿にです」
紅梅姫は消え入りそうな声で答えた。
確かに綺麗な紙を選んで書くのだから、殿しかいないのだろうが……
何故?
でも嬉しそうに頬を染める紅梅姫が、初々しく可愛らしかった。
何時もの落ち着いた姫からは想像出来ない。
殿から密通を疑われていた頃の姫は沈んでいて、見ていることが出来なかった。
だが、最近では良く笑うようになられた。
「で、其のお手紙は如何なさいますか? 殿に直接お渡しになられるのですか?」
「いえ、今村が持って行きました」
紅梅姫は何の疑いも無く答えた。
ならば何の疑いも無く渡したのだろう。
一番危険な男に。
「姫様? 何故今村様にお渡ししたのですか?」
「手紙を考えたのも今村ですから、なので今村に渡しました。今村が折を見て殿にお渡しすると言いましたよ」
折とは何だ? 悪い折に決まっている。
そして今村は何故紅梅姫の手紙など欲したのか、何か理由が有る筈だ。
だが、姫を深く追求するより、今村から其の手紙を取り返すことのほうが重要だった。
若橘は姫の部屋を後にして、急いで今村を捜す。
目的は何であろうと、姫の手紙を今村が持っていることが問題だった。
今村は決して味方ではない。
満に聞くと城へ行ったという。
午後になり漸く戻って来たところを捕まえる。
「今村様!」
待っていた若橘を見て
「若橘様、恐ろしいお顔をなさいますなあ」
とそ知らぬ顔で答ええた。
余裕を見せる今村が尚の事いまいましい。
「姫様のお手紙、如何なさいました?」
「何のことでしょう? 突然、聞かれましても。私は手紙など知りませんよ、何の話ですか?」
今村は明らかに、知らぬ存ぜずで通そうとしていた。
「姫様から聞きました。知らぬでは通りません」
簡単に返す筈も無く、予想はしていたが若橘は苦慮した。
「姫様が貴女様に何と言われたか知りませんが、私は知りません」
翔太に頼んで、盗んで取り返すか……
何れにしろ、取り合えず沢村に相談するしかない。
ところが其れを見透かしたように、今村はしたり顔をした。
「沢村様は居りませんよ、明日の早朝、殿の使者として大内へ行かれます。二、三日は帰って来られませんから」
今村の姿が喜んでいるようにさえ見える。
……計算している?
何か魂胆がある筈だった。
何処かでこの負の連鎖のような悪循環を断ち切りたかった。
此処のところ今村や飯合の手中で動いているという感覚が、拭いきれない。
「若橘様、沢村は居りませんよ」
今村はもう一度にたりと笑って、繰り返した。
何かある……
若橘は確信を持った。
若橘は夜になるのを待った。
夜には翔太が来る。
姫も休んで漸く自室に戻り、若橘は部屋の燭代に火を入れた。
部屋の中が薄ぼんやりと明るくなる。
昼間のように鮮明に見えない夜は、忍びの草には行動し易い。
「……翔太」
若橘は部屋の隅を捜した。
翔太は黒装束で何時もの隅に立っていた。
「沢村様が……」
「知っている、明日から大内へ行かれる。お前を沢村が呼んでるぜ……」
柱にもたれ掛り、落ち着いている。
「……でも、外へは出られない……」
「中庭から行け、見回りの時間は決まっている。もう半時もしたら暫くは中庭には誰も近付かない。外に出たら、沢村が待ってる筈だ」
「……翔太、ありがとう」
「沢村も会いたがってたぜ。何か奴らが企んでるんだろ? 満くらいなら、俺が欺いてやるよ。お前みたいにドジは踏まねえ」
「あっ、そんなこと言って、何時、私がドジを踏んだのよ」
「……其の調子だ、若橘。志乃が死んでから、元気が無かったから心配してたんだ。橘の婆様に会わせる顔がねえや」
翔太は明るく、呆気羅漢としている。
やはり翔太の此の調子は若橘にとって心地良いものだった。
翔太が言うように中庭からだとすんなり出ることが出来た。
塀を越えるのに少々、苦労したが。
忍びは落第だと自分で反省している。
真面目に訓練を受けておくべきだったのだが、如何しても好きにはなれなかった。
ただ、薬の知識に関してはすんなり頭に入った。
そして剣術や闇の中での目利きなど、そこそこの腕前なのだが、もともと身軽さには欠けていた。
沢村に笑われても仕方がない。間抜けな忍びだ。
何とか外へ出ると、沢村が若橘の腕を掴み、藪の中に引き込む。
「……沢村様」
沢村の胸に飛び込む。
不謹慎にもこんな時でも、沢村の胸に抱かれるのが嬉しい。
「大内へ立つ前に貴女と話がしたかった……」
「はい、わたくしもです」
沢村の腕の中で答える。
いくら翔太が取り繕うとはいっても、限りがある。
長い時間は取れない。
「何か変わったことでも?」
直ぐに沢村は何か言いたげな若橘の気持ちを察する。
「はい、姫様が恋文を書かれ、其れを今村様がお持ちのようで……お返し願いたいと申しましても、返してくれません」
「ああ、其の恋文で殿を揺さぶろういうのであろう、とんでもない。此の前の密通の話を蒸し返すのではあるまいな……殿のお名前など、きちんと書かれたのだろうか、姫様は」
「……まさか、そういえば何も詳しくは話して下さいませんでした」
「ならば、気を付けねばならん。其れに貴女が心配だが、一人で大丈夫か? 夜は翔太が居るので安心だが……今度の大内への使者だが、飯合様に仕組まれた。少なくとも私はそう思っている。だから、必ず何か起きる。良いな、必ずだぞ」
若橘は沢村の腕の中で小さく頷いた。
何故か緊迫した時が流れた。
別れ際に沢村は若橘の唇に軽く唇を重ねる。
「くれぐれも気を付けて……」
「沢村様もお気を付けて……無事のお帰りをお待ち致しております」
若橘の目が涙で潤む。
沢村はもう一度、若橘をきつく抱きしめた。




