33 続々花橘の香
若橘は顔を見られまいと、俯いた。
しかし沢村は若橘の顔の腫れを見逃さなかった。
「如何したのだ!?」
慌てて掛け寄り両腕をがっしりと掴み、顔を覗き込む。
そうされては身動き出来ない。顔の痣を隠そうと横を向く。
「見ないで下さい……転んだのです……」
「嘘をつくのが下手だ、誰に殴られた?」
「……」
若橘は下唇を噛み締めた。
頑な若橘の様子に、沢村は彼女の身を揺すった。
「殿と来てみれば、今村殿が貴女は用で出かけたと言うが、姫を一人にして出かけることは無い筈だ。志乃が居ない今、心配性の貴女が姫様をお一人にする筈が無い……如何したのだ?」
泣きたい気持ちだった。
飯合に抵抗出来なかった無力な自分を恥入る気持ちと、沢村に会えた安堵感が若橘をどっと襲う。
「……翔太が見れば激怒する……如何したのだ、私にも言えぬことか?」
沢村もなかなかの知恵者だ。翔太の名を出されると謂わぬ訳にもいかない。翔太は直ぐに激昂する傾向がある。
「今日、飯合様に会いました……」
「飯合様にやられたのか?」
若橘は無言で頷いた。少しずつ目に涙が込上げてくる。
「酷い事をなさる……どれ、見せてみなさい……」
しかし、若橘は顔を上げない。心の隅まで沢村に見透かされそうで上げられなかった。
「如何した? 何かされたのではあるまいな?」
「いえ、大事はございません」
其れだけはしっかりと答えた。
「そうか、ならばよく冷やそう……」
沢村は釣瓶を手繰り桶に水を汲み直し、若橘が手にしていた手拭を濡らす。
「さあ、顔を上げなさい……」
沢村はふっと笑った。
「何時かのようだ、あの時も冷やしてあげた……」
沢村は優しいのだ、いや優しすぎる。
山で迷った時にも優しかった。
顎を指で持ち上げられると若橘はぴくりとした。
「大丈夫だ、此のくらいの腫れなら直ぐに引く……」
沢村は若橘がぴくりとした理由に気付いていない。
「……沢村様、人に見られます」
困ったように若橘は横を向いた。
「もう今村殿には睨まれておるわ、ついでに飯合殿にもな。だが、あのお方達が正しいとも限らん。私は殿にお仕えしておるのだ、あの方々にお仕えしている訳ではない」
そう言うと、何時もの皮肉な笑いを浮かべ、若橘の口元に手拭を当てた。
井戸から汲み上げたばかりの水で濡らした手拭は思いの他、心地良かった。
其処へ背後から声が聞こえる。
「……仲の良いところを申しわけないが、沢村殿、殿がお呼びだ」
後ろには今村が立っていた。
沢村はきつい表情となり、今村の顔を睨みつける。
「今村殿、貴方という方は……若橘に何をされた? 手を縛って何処に連れて行ったのだ!」
沢村は若橘の手首の痣を見ていた。思わず着物の袖に手首を隠そうとする。
「此の女に関わって、如何するのだ! 柏井の方様や飯合様に疎まれるだけだ。綾の事は如何するつもりか!」
娘の事を心配していのだろう、何時もの今村ではない。感情的になっていた。
「綾の事はすまないと思っております。しかし、綾の方が私を捨てたのです」
「ああ、知っておる、綾の子は沢原の子だ。だが、お前に綾を託した。沢原の家ではつり合わぬ」
「……其のような事で、綾をあのように追い詰めたのですか! 名ばかりの妻では綾は納得はしません。沢原を慕っております」
今村はいまいましそうにしかめっ面をした。
だが沢村は怯むことは無い。口の端を吊り上げにやりと笑った。
「今村殿、綾を沢原と夫婦にしてやって下さい」
「……もう居らぬわ! 綾は沢原と他国へ逃げ出しおった。沢原は此の前しくじりおって、腕は使い物にならん……全て、お前たちのせいだ。やっと、飯合様に頼んで沢原を取り立てて貰ったのだ!」
「またですか、貴方はご自分の尺度でしか人を計る事を知らぬ、沢原は刺客などせずとも武勲をたてる腕を持っておりました。沢原を潰したのは貴方だ! 如何して皆が不幸になるようにしか、動くことができないのですか。貴方がご自分の事しか考えないからではないのですか?」
「……」
今村は其れには答えず、
「若橘様、早く姫様のところへ行って下さい」
と厳しい口調で言った。
若橘は俯いた。此の顔では紅梅姫には会えない、いらぬ心配をかけるばかりだ。
其れを察したのか、沢村が口を開いた。
「今村殿、都合よく言い訳をすることですね、此れでは姫様の前には出ることはできませんよ。私が部屋に送ります。貴方にも責任の一端は或る筈だ。もし、そうでないなら殿に申し出て貴方の責任の有無を問うても良いが」
沢村の尤もな話に、今村は閉口した。
沢村は今村の表情を見て満足した様子で、若橘を促した。
「大丈夫か? 部屋へ参ろう。後の事は今村殿にお任せした。安心だ」
今村への牽制を忘れる事は無かった。
若橘の部屋へ入ると沢村は若橘を抱き締め、一言だけ漏らした。
「貴女が無事で良かった……」と。
若橘もさっきまでの恐怖が甦り、背伸びをして沢村の肩に手を掛け、胸に顔を埋めた。
何時までもこうして居たかった。
此れからの不安が若橘の頭を過ぎる。
沢村はゆっくりと顔を寄せ若橘の唇に自分の唇を重ね、若橘の中に分け入っていく。
長い時をかけじっくりと。
次第に沢村の唇は若橘の頬、それから耳へと移っていく。
熱を帯びた沢村の吐息が若橘を翻弄する。
「……これ以上はお許し下さい……」
若橘は沢村から身を離そうとする。
「いや、許せぬ。貴女は私を心配させた。其の侘びをして貰わねばならん……」
若橘が逃れられないよう抱く手に力を入れた。
「ですが、殿がお呼びではありませんでしたか?」
「……ああ、そうであった。行かねばならん……」
にやりと笑って若橘を離した。
もう暫く沢村の腕に中に居たかったが、周りの事を考えるとそうもいかない。
「そろそろ翔太も戻ってきたようだ」
沢村の視線の先には、部屋の隅に翔太が立っていた。
何時の間に入って来たのか気付かなかった。
さっきまでの行為を見られたかと思うと、若橘は赤面した。
「沢村、てめえ、俺が此処に居たことを知っててやってるだろ?」
「そう怒るな、其れより何処か分かったんだろ?」
「ああ、奴らの塒は分かった、落合の妾の家だ。芸の無い奴らだ、よくもまあ堂々とやれるもんだぜ」
「……そうか」
沢村は軽く頷き、深くは聞かなかった。
柏井の方様のおぼえ愛でたい飯合に逆らう者は、珍しいからだ。
堂々とやっても文句をつけるものは居ない。
「ただ、屋敷には腕の立ちそうな侍が大勢いるようだったが」
「だろうな」
翔太は若橘を送ってきた輿をつけて行ったようだった。
「其れより殿が呼んでたぜ、あんまり待たせると切れちまうぜ、あんたのご主人」
今度は翔太のほうが分が有るようだ。
沢村は名残惜しそうに若橘から離れた。
「翔太、手を出すなよ。若橘は俺の女だ」
余裕のある沢村に翔太はむっとしたようだった。
「約束は出来ねえな、若橘が俺が良いと言えば、俺が貰うぜ」
「そうは言わんさ、若橘は」
沢村は口角を少し上げ、何時もと同じ自信家の顔になる。
「相変わらずだな、お前だけは。だが、奴らは何を始める気だ?」
「其れは俺にも分からん、だが、前の侍女二人を此の屋敷から去らせ、志乃を殺して、若橘と紅梅姫様は孤立無援となる。私が居なければ、お前達とて表立っては動きが取れまい」
「遣りにくいのは確かだ」
「今日のように、今村に急に動かれては対応が出来ん。若橘一人では、此の状態だ」
「まあ出来るだけ俺も忍び込んで居るようにはしているが、宗右衛門殿の仕事もある。隼人もまだ京だしな。此処は若橘にもう少し、しっかりして貰わねばならん」
翔太は子供にするように、若橘の頭を撫でた。
若橘は翔太の手を払いのける。
「翔太! もう、私だって一生懸命やってるんだから……」
若橘は拗ねるが、翔太は笑っていた。
沢村も笑っている。
皆、優しい。
若橘の目がつい潤む。
此のまま何事も起こらずに穏やかな日が続くことを、若橘は願っていた。




