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31 花橘の香

 長い夜が過ぎ去り、もうじき朝が来る。

 沢村の同朋の男は急遽、今村の留守を守るよう命じられたようだった。

 だが、そのおかげで何とか事無きを得た。

 明け方近く帰ってきた若橘を中庭から人目に着かぬよう、部屋へ入れてくれた。


 若橘は部屋に戻ると、寝衣に着替え夜具に潜り込み声を殺して泣いた。

 もう泣かぬと沢村とは約束をしていた。

 しかし、如何にも我慢が出来なかった。あれほど泣いたのにまだ涙は枯れることなく、流れ出た。

 

 志乃の事は知らぬ存ぜずを通す、という事で話は出来ている。

 若橘には一切、関わりの無い事だ。

 橘の事もまだ京より知らせが来ていない。此れもまだ極秘だ、紅梅姫には言えない。


 暫く泣いていたが泣き腫らした目を疑われぬよう、目を冷やそうと厨の裏の井戸に水を汲みに行った。


 まだ辺りは薄暗かった。

 井戸の所に人影が見える。若橘は近くの木にそっと身を隠した。


「……変わりはないか?」

「はい、若橘様はお部屋に居られたようでしたが……」


 声の主は満と今村だった。


 沢村が心配したように、やはり見張られていたようだ。

 昨夜屋敷を出るとき、沢村の同朋の男に上手く誤魔化して貰うよう頼んでいた。

 

「如何かの? あの男、余り信用できぬでな。沢村と剣術仲間であったのを忘れておった。まあ良かろう、今後もしっかり見張ってくれ」

「分かりました。其れで、ご首尾のほうは?」

「……何とか上手くいった、おぬしの心配には及ばぬ。此の件が片付けば、おぬしの父上もご出世なさる。飯合様と柏井の方様にお頼みする故、しっかり働いてくれ」


 満の肩に軽く触れ、今村は満足したように屋敷の中へと消えた。


 一度辺りを見回し確認すると、満も屋敷の中へと入って行く。


 若橘は二人が戻って来ないのを見て、井戸から水を汲んだ。

 冷たくて泣きはらした顔には、極上の湿布薬だった。


「志乃……婆様……」

 濡らした手拭で顔を覆うと、二人を小さな声で呼んだ。


 もう二人には会えない、胸が苦しかった。

 そして其れ以上に、今聞いた話が重くのしかかる。

 

 志乃が居ない今、紅梅姫を守るのは自分一人になっってしまった。此の現実を如何受け止めるのか、若橘は寝不足の頭を働かせようとした。

 昨晩の出来事が夢のようである。夢であるならどれほど良いことか、だが、体中の水分が涙となって流れ出たようで、頭がぼうっとしてすっきりしない。

 現実からの逃避を許してはくれないようだった。


 さっきの話からしても明らかだが、今村は昨晩の志乃の一件に関わっていたのだ。だが屋敷を留守にして昨夜は何をしていたのか。

 直接手を下し、志乃を葬ったのは飯合のはず。

 隼人が剣を交えたのは本当に橋本という男だったのだろうか?

 沢村を疑う訳ではないが、若橘の中に釈然としないものが残った。


 心地良い風が、泣き疲れてだるい若橘の身体を撫でていく。

 長い黒髪がふわりと揺れた。

 気持ちの切り替えをしなくてはならない、姫に知られる事は許されなかった。


 


 志乃は里下りの期日を過ぎても戻っては来なかった。

 

 城には、病死の届け出が京菓子屋の名で出されたようだったが、当然の事だが全て偽りである。

 京菓子屋の夫婦はあの夜、筑前から姿を消している。

 今村と飯合が隠蔽したのだろう。

 間者を紅梅姫の侍女につけていたとあっては、今村とて其の責を負わねばならぬだろう。

 

 よって、予想はしていたが今村は若橘に志乃の事を聞くことは無かった。

 若橘にとっては、幸いであると言えばそうなのだが、志乃の事で責められたほうが今村の真意を探り易かった。だが、此処は穏便に遣り過ごし、相手の出方を見るしかない。




「若橘、若橘?」


 紅梅姫の呼び掛けに気付き、若橘は現実に引き戻される。

 紅梅姫は古今集の写しをしながら、若橘を見ていた。


「……はい、姫様」

「近頃、元気が有りませんよ……志乃の事が辛いのでは有りませんか?」


 紅梅姫は美しい顔に憂いを見せた。

 

 誇り高い姫ではあるが傲慢では無く、周りの人々に気を配る。身分などを鼻に掛けるような姫ではなかった。若橘の気持ちの流れも手に取るように分かるのである。

 いや、人の心を理解しようとしていたのかもしれない、其れが紅梅姫の優しさだった。

 だからこそ、重郷も心が安らぐのである。


「本当に志乃の事は残念でした……若橘、でも貴女が元気を失うのを志乃は望んではいませんよ」

 

 紅梅姫の優しさが心に沁みる。

 本当に病死ならば良いのだが、真実を語れないことの罪悪感が若橘を苦しめていた。

 現実は余りにもむごいものだった。

 志乃の死は詮索される事無く、闇に葬られる。

 悲しい事に皆、其れを望んでいる、敵も味方も。きっと志乃自身もそうだろう。

 それだけに仲間はまた、心穏やかで無いのも事実だった。

  

 そしてまだ紅梅姫は橘の死を知らない。

 若橘は秘密を持つ事で後ろめたい気持ちはあるものの、紅梅姫が其れを知った時の悲しみが分かるだけに、永遠に知る事が無ければ良いのにと下らぬことを考えてしまう。

 

 秘密というものは口にする事で少しでも心が軽くなる。

 ふと沢村の事を思った。

 彼も世間に対して秘密を持っている。どれ程苦しい思いを抱えているのだろうかと。

 自分に話をした時の沢村を思い出した。やはり秘密など持つものではない。

 

 若橘が草の者であると知って、翔太に抜けさせて欲しいと言ったことがあった。

 あの時は驚いたが、あれは沢村の本心だと思っている。

 沢村は若橘の秘密を知って、本当の意味、理解しようとしてくれている。

 だが、全てを知る事が本当の幸せなのだろうか。


「若橘、貴女はわたくしに何か隠し事があるでしょ?」


 紅梅姫は古今集を写す手を休めて、眉をひそめた。


「……」

 紅梅姫に此のような顔をされては、若橘は思わず目を逸らすしかなかった。


「やはり……何か隠していますね?」


 今度は少々、紅梅姫にしては強い言い方だった。

 此処が限界なのだろう、隠し事は苦手だ。特に紅梅姫には昔から隠し通すことは出来なかった。

 思い切って言うしかない。京からの知らせは何時来るとも知れないのだから。

 せめて紅梅姫に関わることくらいは、正直でいたかった。


「……申し訳ございません……橘の婆様が亡くなりました……」


 若橘は静かに言った。

 其れを聞いた紅梅姫は筆を置き、横を向いて袖を押し当てるようにして流れ出る涙を拭いた。


「貴女に悪い事を言いました……貴女が一番苦しかったでしょう……でも、橘はわたくしの婆様ばばさまでもあります……教えてくれてありがとう……」


 紅梅姫は声を上げまいと必死で堪えている。

 其の姿に泣いてはならぬ若橘までもが、また涙した。


 そして聞き取れぬほど小さな声で紅梅姫は呟いた。

「……懐かしい……京が懐かしい……」と。


 其の言葉に紅梅姫の思いが凝縮されているようだった。

 重郷の愛は重くて歪んでいる。

 其れを受け止めていかねばならない、気負いのようなものが紅梅姫を苦しめていた。


 時に恋の駆け引きとは楽しいものなのだが、相手が重郷となると勝手が違う。

 政の駆け引き半分、歪んだ恋の駆け引きが残りを占める。


 庭では時鳥が鳴き、花橘の香りが部屋にまで漂う。

 初夏を思わせる暑い日が続いていた。

 





 

 

 




 





 

 



 



 

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