30 続春の嵐
沢村は自分の羽織を脱ぎ、志乃の遺体に掛けてやった。
其の志乃を隼人は負ぶって京菓子屋まで運んでいく。
生きた人間と違い相当な重さであるにも関わらず、隼人は沢村に指一本触れさせなかった。
血の跡を残さぬよう細心の注意を払いながら。
沢村はもし隼人の立場であったなら、やはり同じことをしただろうと思う。
誰にも触れさせたくない隼人の気持ちが痛い程よく分かる。
此れがもし若橘であったならと想像し、理不尽にもそうでなかったことに胸を撫で下ろす。
そんな自分が呆れるほど人間らしいと思った。
沢村は隼人の後ろを付き従いながら、辺りに気を配り歩いていった。
尾行はされていないようだった。
既に隼人の目に涙は無かった。志乃を失った現実のみを受け止めていたようにみえる。
京菓子屋へ着き、沢村は若橘に知らせようと紅梅姫の屋敷へと向かった。
隼人が京菓子屋に志乃を運び込むと、京菓子屋の夫婦は変わり果てた志乃の姿に驚いた。
亭主は腰を抜かし、その場にへたり込む。
だが、草の女である女将は気丈だった。動揺はしたものの、泣き崩れる事無く直ぐに隣の宗右衛門を呼びに行く。
蒼ざめた顔をした宗右衛門が直ぐに現れる。蒼ざめてはいるが、彼もまた泣いてはいない。
宗右衛門は寝かされた志乃に手を合わせた。其れはあくまで淡々とこなされた。
ただ役目とは謂え、余りにも冷徹だった。
「志乃……殺られたか……隼人、直ぐに志乃の遺体を埋める用意をするんだ。女将、あんた達も用意を」
「ああ、分かってるよ……宗右衛門さんは如何するんだい?」
女将の目には漸く涙が溢れ出した。
「今暫く、此処に居るつもりだ。まだ、はっきり分かった訳じゃない。悪いが、あんた達は志乃の身元引受人だから、仕方ねえが」
「ああ、私たちのことは心配いらないよ。一足先に京へ戻ってるよ。でも宗右衛門さん、あんた達まで疑われないかね?」
「まあ、様子をみて動くとするよ……其れより、隼人!」
厳しい宗右衛門の声が響いた。
「志乃が尾行されていたことは分かっていたんだろ?」
「……志乃を狙っていたとは思ってなかったし、まさか殺られるとは思ってなかった。分かってたら、俺が志乃を守った!」
普段穏やかな隼人からは想像も出来ないほど、強く反発する言葉が飛び出した。
隼人はそれでも治まらないらしく、荒々しく頭巾を取る。
露になった隼人の顔に涙が乾いた跡を、宗右衛門は見逃さなかった。
隼人の肩をぽんと一つ叩く。
「隼人……辛いか……だが、お前に愛された志乃は幸せだった筈だ……」
女将のすすり泣きが夜のしじまに響く。
宗右衛門は思い直したように、言った。
「隼人、お前、女将達を京まで送ってやってくれ、明け方までに出立しろ」
「……宗右衛門さん、それじゃあ隼人が可愛そうだよ」
女将が涙を流しながら言った。
しかし宗右衛門の厳しい表情は変わらなかった。
「俺達はそういう者だ。死ぬ時は人知れず死に、最初から存在しなかったように跡形も無く、痕跡を残してはならん。隼人も其れは分かっている筈だ。紅梅姫様のことも有る、姫様に何かあってからでは遅い」
「今、沢村様が若橘を呼びに行っている……」
隼人の口からとんでも無い言葉が出た。
「……馬鹿な、如何して呼びになど行かせたのだ! 此れは無かったことだ!」
「……!? 意味分かんねえよ! 人が一人死んだんだ、無かった事に出来るかよ! 殺ったのは飯合だ、此のまま黙ってられねえよ!!」
枯れた筈の涙が隼人の目に浮かんでくる。
「明日、翔太が京から帰って来る。お前が女将達を送って行くんだ、変更は無い……志乃を早く埋めてやらなくては」
宗右衛門は感情に流されない、使命を全うする為の強い意思を持っていた。
隼人は懐から小刀を取り出すと志乃の傍へ行き、小声だが良く聞こえるようはっきりと言った。
「志乃、少しだけ待っていてくれ……俺はお前を忘れない……無い事になんか出来ねえ!」
と言うと小刀で志乃の髪を一房切取り懐紙に巻き、懐に仕舞う。
そして「志乃、何時までも一緒だ」
と言って苦しそうに志乃の冷たくなった唇に、口づけをした。
其れは隼人の志乃への別れの儀式だった。
志乃にしてやれるせめてもの手向けとして、女将は志乃の唇に紅を塗ってやった。
重苦しい空気が流れて暫く経ったとき、沢村が若橘を連れてやって来た。
若橘を見たとき、宗右衛門は若橘を平手で叩いた。
倒れる若橘を沢村が支える。
「何をする!!」
沢村は怒りを顕にした。
しかし若橘は沢村の腕から離れ、頭を垂れた。
「……申し訳ございません……宗右衛門殿に叱られるのを覚悟で参りました」
目からは涙が止め処なく溢れていた。
嗚咽ともつかぬ声を振り絞り、若橘はその場に泣き崩れた。
「……志乃……わたしが悪かった。如何でも、お前を引き止めるべきだった。帰るのは明日の朝でも良かったではないか……」
「若橘……」
沢村に慰めの言葉は出なかった。安易な言葉で癒されるものでないことは分かっていた。
その場に居合わせた全員が、志乃の死に対して其の責任をそれぞれに感じていたのだ。
「若橘、今村は如何した? 屋敷に姫様一人にしてお前は何をしているのだ?」
余りにも冷静な宗右衛門の声が、不気味に響く。
「……」
答えぬ若橘の代わりに、沢村が答えた。
「宗右衛門殿、私が若橘を連れてきたのだ。今村は今日は所用が有り、屋敷には明日しか帰らぬ。今日の屋敷の警護の者はわたしの存知よりの者だ。姫様は大丈夫だ。若橘に志乃を会わせてやりたかった……」
「……ならば良いのだが。此の始末、上手くやらねば後々尾を引くかもしれん」
志乃を葬る用意が出来た時、静かに翔太が入ってきた。
翔太は只ならぬ場の雰囲気に驚いた。
「如何したんだ……志乃が殺られたのか?」
突然の事に翔太は驚き、頭巾を取った。
其処には伏し目がちに、疲れきった翔太の顔があった。
翔太は志乃の亡骸にゆっくりと近付き、手を合わせた。
そして若橘を振り返り、手拭を懐から取り出し若橘に差し出した。
若橘は翔太の神妙な様子から察しがついたのか、その手拭を震える手でゆっくり開けた。
若橘の泣きはらした目が翔太を見つめる。
「……翔太? 此れは? 此れは……」
手拭を持つ手がわなわなと震え、翔太の答えを待つ。
「……ああ」
翔太は短く答えた。
手拭の中には灰色の毛髪が包まれていた。
「……婆様あああ……」
大きな声を上げ、若橘は遺髪を握り締め泣き崩れる。
横に居た沢村は若橘の肩を抱いた。
「悪いことは続くものだ、此の前京へ帰ったとき婆様は病で里下がりをしていたんだ。だが、お前に知らせるなと言われた。知らせても帰る事は出来ないからと……若橘、婆様からの最後の言葉だ『姫様を守れ、お前なら出来る』と。最後まで気丈な婆様だった。そして安らかな顔だった……」
翔太の目は真っ赤だった。
明日帰る筈だった所を、昼夜を問わず走り続けたのだろう。
体中、泥まみれだった。
「……ありがとう、翔太……わたしは……わたしは、如何したら良いのか?」
「若橘、泣け、涙が枯れるまで泣くんだ。今晩一晩付き合おう……」
沢村が若橘を腕で包み込んだ。
若橘は沢村の胸で泣いた、しがみつくように沢村の着物の胸元を握り締め、子供のように泣いた。
姫の前では泣くことは出来ない。
此処で全てを終えなければならない。
夜明けまでに皆で穴を掘り、戸板に志乃を乗せ葬り、墓標の代わりに大きな石を置いた。
其処には名も無い小さな花が手向けられた。
此れが草の者の最期にふさわしかった。
京菓子屋の夫婦は隼人と共に夜明け前に、京へと去っていった。
菓子屋は其のままに、もぬけの殻である。
若橘は橘の婆様の遺髪を懐に、憔悴しきっていた。
沢村は寂しい笑みを浮かべ、無言で若橘の手を取った。
そして若橘を屋敷へと送った。
今村が屋敷へ帰るまでに戻っていなければならない。
沢村は屋敷の護衛の男と口裏を合わせるよう、手筈を整えていた。




