29 春の嵐
今回は残酷な描写が含まれます。
苦手な方はご遠慮下さい。
じりじりと黒装束の隼人は、刀を構えたまま横へ動く。相手の呼吸にはまだ余裕が有る。
頭巾の男は次第に隼人との間を詰めて来る。
きらりと光った刀は隼人を目掛けて振り下ろされるが、寸前のところで隼人は身を交わした。隼人の頬をじっとりとした汗が流れ落ちる。
相手の男はもう一度構える。今度もさっきと同じ構えだ。
だが今度は呼吸が短い。隼人は相手の攻撃を交わすだけで精一杯となる。
隼人の呼吸が乱れ始めた。
相手は呼吸一つ乱れる事無く、刀が不気味に光る。
振り下ろされた刀を隼人は自分の刀で受けた。物凄い衝撃と共に火花が散る。
(重郷の家臣である事は間違えない。たぶん飯合の命令で動いていることも……とすれば……!?)
あれほど宗右衛門から戦いの最中に考え事をするなと言われているにもかかわらず、如何しても思考が迷走する。
其の瞬間、振り下ろされた刀が隼人の脇腹を掠める。
除けた心算だが着物を切り裂かれ、僅かに其の切っ先が脇腹に達した。
じわりと血が滲み、痛みが走る。
だが隼人は斬られたことで、以外にも落ち着きを取り戻し呼吸を整えた。
此処で焦っては相手の思う壺だ。
腕は相手と互角か自分の方が多少劣る程度だ。決して勝てない相手ではないと、自分を鼓舞する。
劣勢には変わりないが、相手の攻撃を交わし距離をとる。
そのとき「何をしている!!」と背後から大きな声が聞こえた。
相手は怯み、刀を鞘に納め逃げていった。
声の主は沢村だった。
少しばかりの血を流し、その場に崩れるように膝を折った隼人に沢村は駆け寄った。
「隼人だな……」
頭巾で隼人の顔は明らかではないが、沢村には分かったようだった。
「……あんたか……」
「大丈夫か?」
「ああ、大丈夫だ」
「……少しやられたようだな、あれは飯合の配下だ。あれほどの腕の持ち主は沢原と橋本しかおらん。沢原は此の前、翔太にやられたからな。あれは橋本という事になる」
「だが、如何してあんたが此処にいるんだ?」
隼人は苦しそうに顔を歪めた。
「ああ、昨日の詫びにと若橘を訪ねて紅梅姫様の屋敷へ行ったのだ。すると若橘が心配しておったので来てみたのだが」
「……そうか……じゃあ、奴らの狙いは……」
「そうだな、この様子じゃあ……志乃だ……」
沢村は立ち上がろうとする隼人に手をかそうとした。
だが隼人は沢村の手を跳ね除ける。刀を杖に、何とか自力で立ち上がった。
「……いや、大丈夫だ。此れしきの事は慣れている……それより志乃を」
隼人の声が上擦り、動揺している。
奴らの目的は志乃だ。隼人を引き付けておいて志乃を襲っているに違いない。
志乃がいくら腕がたつとはいっても、所詮は女だ。
武器は懐に短刀しか携えていない。侍に勝てる筈は無いのだ。
振り切って逃げていれば良いが、と隼人の頭を嫌な予感が過ぎる。
「ああ……兎に角、志乃を捜そう……」
流石の沢村も只ならぬ様子に混乱しているようだった。
人通りの無い竹薮の道で呼び止められた其の声に、志乃は聞き覚えが有った。
素早く振り返る。
「……飯合様!?」
其処には腕組みをした飯合が立っていた。
志乃が持つ提灯が飯合の顔をぼんやりと映し出す。
飯合は着物に隠した手を袖から出し、無言ですっと刀を抜いた。
刀が鈍い光を放つ。
飯合は刀を鞘から抜いたものの、構えはしない。
志乃は提灯の火を消し、竹薮に投げ捨た。そして懐から取り出した短刀を逆手に構える。
「やはり普通の女では無いな、大内の間者か? お前の仲間は他にもおるのか?」
飯合は獲物をじっくりと追い詰めるように訊ねる。
志乃は声を上げない。きっ、と真一文字に結んだ口はその意思の強さを表している。
飯合は素早く志乃に向かって刀を振り下ろすが、志乃は軽く身を翻した。
一つに束ねた志乃の髪が後ろで跳ねる。
其れを見て飯合は皮肉な笑いをした。
「やはり、草か……では、若橘も草か?」
志乃は無言でしっかりと相手を見据えた。答えは無用だ。
「謂わぬか……謂わぬなら謂わぬで良い、若橘に聞けば良い事だ……」
緩やかに甚振るように志乃へ刀を繰り出し、志乃に精神的な圧力を掛ける。
振り下ろされた刀を志乃は短刀で受けるが、飯合は力で志乃を押してくる。
飯合の剣を受ける度、志乃から苦しい声が漏れ、息が乱れる。
竹の根がごつごつ出て足元が悪く、余計に体力を消耗し、志乃には不利だ。
「きついようだな……もうそろそろ決めようか、どうせ捕らえても口を割りはしないだろ?」
言葉の後、振り下ろされた刀を短刀で受け止め、跳ね返した刹那、
飯合の横一文字に動かした刀が志乃の腹の辺りを切り裂いた。
ゆっくりと志乃の身体が地面に崩れ堕ちてゆく。
次の瞬間、どさっという鈍い音がして志乃は地面に倒れた。
地面には志乃の血が次第に流れ出し、辺りを赤く染めていく。
「うっ」と声をあげ、志乃の指は地面を掴もうとするが力が入らず、指が微かに動いただけだった。
目は見開いてはいるが遠くを見ていた。
飯合は刀の血を振り払い鞘に収め志乃を見下ろすと、何喰わぬ顔でまた腕組みをした。
「志乃、お前は今村が嫁入りの話をしたときに辞めるべきだったな……」
飯合は非情とも謂える笑みを浮かべ志乃に言うと、其のまま立ち去った。
飯合と入れ違いに隼人と沢村が志乃を捜しに来た。
竹薮で倒れる志乃を見つけた沢村を、隼人は押し退けた。
「……志乃ぉ……しっ、しの?」
隼人は志乃を抱き起そうとする。
隼人の声に気付いたらしく、志乃は静かに目を開けた。
「は……はや……と?」
もう既に志乃の顔は土気色をしていた。大量の血が刀傷から流れ出ており、その傷の深さを物語っていた。
「志乃、助けてやるからな……」
だが志乃は力無く、少しだけ頭を振った。
「……もうだめ………助から、ない……其れより……め、めしあい……」
苦しそうに喘ぎながら、其れでも志乃は声を出そうとする。
「やったのは、飯合か? もういい、志乃、しゃべるな!」
隼人は志乃をしっかりと胸に抱く。
志乃は隼人を虚ろな目で見て微笑んだ。
「……は、はやと……好きだったよ……はやと……」
志乃の目から涙が一筋零れ落ちる。
涙はきらきらと輝きながら、志乃を抱きこす隼人の手に落ちた。
志乃は静かに目を閉じ、身体から力が抜けていく。
「し、しの? 志乃? しの、しのぉ……しの!!」
何度も叫ぶ隼人の声が虚しく辺りに響いた。
しかし、志乃が目を開けることは無かった。だが隼人は志乃を呼ぶ、声を絞り出すように……
幾度も、幾度も。
冥土に届かぬように、もう一度この世に帰って来るようにと祈りながら。
だが、志乃はもう二度と目を開けることは無かった。
闇の中で苦しそうに喘ぎながら泣き叫ぶ隼人が居るだけだった。
沢村は其の場に立ち尽くしていた。
隼人に掛ける言葉は無い。
どんな言葉も其れは、隼人にとって虚しいだけのものであるのだから。
沢村は涙が零れ落ちぬよう、天を仰いだ。
だが、其れでも沢村の頬を熱いものが流れ落ち、沢村は手で涙を拭う。
竹林を春の風が嵐のように、ざわざわと笹の葉を逆撫でするように駆け抜けていった。




