23 続秘密
若橘はゆっくりと目を開けた。首の後ろに激痛が走り、頭を動かすことが出来ない。布団に寝せられているようだが、上を向いた体勢を崩すことが出来なかった。
「だんな様! 目を開けたよ、早く来て!」
若橘の横にいる老婆が叫ぶ。
「漸く目が覚めたか……」という沢村の声が聞こえて、此方へやって来るのが分かる。
という事は、此処は沢村の家なのだろうか。
翔太を平手で叩いたところまでは覚えているが、其の後の記憶が無い。首の後ろの痛みからすれば、翔太に失神させられたのだろう。其れにしても、手加減というものを知らぬ奴だ、此処までやら無くてもいいものを。しかし、其れほど翔太は若橘に惚れていた。
翔太の気持ちは分かっているつもりだ。だが沢村に出会い、彼を愛おしく思い、其の気持ちに気付いた今、翔太の気持ちに応えることはない。
起き上がろうとするが、頭まで重く感じて首が支えきれずに動くことが出来ない。
「無理をしてはいかん……初さん、悪いが水を持って来てくれぬか」
沢村は若橘の枕元に座り、其の横に侍っている老婆に命じた。老婆は命じられるまま、水を取りに部屋を出て行く。
「此処は私の家だ、今、水を取りに行ったのが通いで世話を頼んでいる初さんだ。安心しなさい」
「申し訳ありません、沢村様……其れより翔太は? 翔太は如何しましたか?」
「翔太なら、貴女が摘んだ薬草を志乃へ届けに行った。姫様のことは志乃に頼むよう言ってある」
沢村は優しく笑った。若橘には沢村の表情が何時もより穏やかに見えた。重郷の側近くに勤める沢村の顔には何処かしら冷たさがある。いつも周りを冷ややかに見ているようだった。
だが、昨晩からの沢村の表情にはそんな処は微塵も無く、其れどころか若橘を気遣う献身的なものだった。
もしかしたら、自分の沢村に対する見方が変わったせいなのかもしれないと若橘は思った。
初が湯のみに水を汲んで盆に載せて、戻って来る。
「ありがとう、初さん。此処は私がやるから」
「そうかい? 若い娘さんの面倒をだんな様で見れるかね? 無理だと思うがね」
「はっ、はつさん、厨の用事を済ませなくていいのかい?」
慌てる沢村の様子が若橘には微笑ましかった。沢村にもこんなに人間的な部分があったのだ。
いつも重郷の機嫌を伺い自分の感情を押し殺している、そんな沢村の心象が若橘にはあった。
「……? ああ本当だ、朝餉の用意をしてるところだったよ」
初は重い腰を上げ、部屋を出て行った。
「良い人なんだが、どうも、気付かない事が多すぎる」
「さあ」と言って沢村は若橘を抱き起こそうとする。沢村の広い胸に顔を埋め、若橘は胸が高鳴るのを感じる。若橘は沢村の首に手を回し、起き上がろうとする。其れを沢村はくるりと向きを変えさせ、自分の身体にもたせかけた。
沢村の素早い動きに若橘は驚く。
驚く若橘の顔を見て沢村はにたりと笑い、初が運んできた湯のみの水を自らの口に含ませ、後ろから若橘に覆いかぶさるようにして口の水を移す。若橘は上半身を動かすことが出来ず沢村の成すがまま、水をこくりと一口飲む。
水を飲んだのに、体中のほてりが止まらない。さっきよりも一層、身体の芯まで熱くなる。気付かぬうちに若橘は沢村の膝の上に載せられ、彼の首に手を回していた。
丁度其処へ急須を抱えた初が戻って来た。障子を開けた瞬間、初は奇声を上げた。
「ひゃあ! だんな様、飲ませにくかろうと急須を持って来たんだが、もう飲ませちまって……まだ朝だよ、仲が良いのは分かるけど年寄りには少し過激だよ」
初は急須を盆の上に置くと、そそくさと部屋を出て行った。慌てていたのか障子は開け放たれたままだ。
若橘は沢村の膝の上で耳まで赤くして俯いた。
「やっぱり初さんは気遣いが足りない……」
沢村はもう一度口に水を含むと若橘に飲ませる。若橘が水を飲むのを確認するように、口づけをする。沢村の口づけに若橘は抵抗しなくなった。寧ろ、求めているようにも見える。何時に無く艶っぽい若橘が自分の腕の中で解けてしまうのではないかと思うくらい、熱くなっていた。
だが其れは甘く切なくこれ以上進めない。いやこれ以上進めば壊れてしまいそうな若橘が沢村はなおのこと愛おしかった。周りに気を遣い、自分の気持ちを押し殺そうとしている若橘は自分の境遇と似ていて、沢村には其の苦しみが痛いほど分かるのだ。
急に唇を離し、苦しそうな顔をした沢村を若橘はいぶかしむように見上げた。
「……沢村様?」
「ああ、悪い。貴女に本当の事を話すために此処へ連れて来たのだった……」
若橘は首を横に振った。
「……もう、そのような事をおっしゃるのはお止め下さい。わたくしは本当の事など如何でも良いのです。其れより、許されるなら此のまま沢村様から離れたく無い……」
「……其れはできぬ。貴女にきちんと話をしなければ、あのような誤解をされたままでは……」
「翔太が言ったことですか? 奥様と子供がいらっしゃると言ったこと……わたくしは此のままでも構いません……わたくしにはもう此れで十分です、わたくしは……わたくしは……」
と其処まで言って、若橘は少し息を吸って小さな声ではあったが丁寧に告げた。
「……沢村様をお慕い申し上げております」
若橘の突然の言葉に沢村は震えた。
きっと今まで自分が一番聞きたかった言葉だったに違いない。
だが其の言葉がこうもあっさりと聞けるとは思ってもみなかった。予想外の若橘の言葉に、沢村はじわじわと込上げてくる喜びを噛み締める。
「わ、若橘……本当に私を好いてくれるのか? 本当に……」
沢村は腕の中の若橘を強く抱き締める。何時もとは違う沢村の態度に若橘のほうが戸惑う。あの自身に満ち溢れ、強引な沢村の姿は其処には無かった。そもそも幾度も部屋に忍び込んで来たのは沢村なのに、沢村は自分の気持ちを大切にしていてくれたのだ。そう思うと胸がいっぱいで此れ以上、言葉にならなかった。
「あっ、そうであった。本当の事を語らねばな……」
また其処へ初が入って来る。障子はさっき初が開けたままの状態なので、若橘を膝に抱いたままの沢村を見て、初は呆れたようだった。
「だんな様、お城から御使いの方がおみえです……其れにしても朝っぱらから、だんな様、如何にかなってしまったんじゃないだろうね? 女遊びもほどほどにしてくれなきゃ……」
「初さん! 失礼だよ。此の女人は私の大切な女人だから……女遊びだとか言うと、また勘違いをするから、これ以上話をややこしくしないでくれ」
沢村は若橘を布団の上に下ろして着物の乱れを直し、城からの使いに会う為に部屋を出て行く。
「まったく、しょうがないだんな様だよ……」と言いながら初も部屋を出て行った。
初の後姿に若橘は京の橘の婆様を重ねていた。




