18 秋雨
稲の刈り入れが終わる頃、豊前との国境で水の利権に関する争いが起た。其の為、重郷は城で政を行い、今までのように紅梅姫の屋敷を訪ねることが出来なくなっていた。
「どうしました? 若橘」
紅梅姫は古今集を写しながら、落ち着かない若橘を見た。
「いえ……殿が……」
「仕方が有りません、お忙しいのですよ。殿は器用なお方ではありませんから、一つの事に捕われると、其処から離れられず、上手くいかないのです」
そう言うと、美しい指先で巧みに筆を操りながら、続きを書き始める。
「それより若橘、この墨、少々薄いのではありませんか? それとも、あなたは沢村様を案じているのですか?」
紅梅姫は筆を置き、そ知らぬ振りで今度は墨を手に取り、硯の上を滑らす。
「……姫様」
「顔が赤いですよ、ふっ、ふっ、ふっ」
紅梅姫は着物の袖で口を隠し、目を細めた。
「わたくしは姫様のことを案じているのです、殿がお見えにならないのでお寂しいのではないかと……」
「ちっとも寂しくなんてありません、どうせ、其のうち大声を上げていらっしゃいます。『良いであろう、良いであろう』と言われて、何か土産を持ってみえられます」
確かに、重郷は紅梅姫が無用だと言っても土産を持参し、『良いであろう、良いであろう』と自慢するのが癖だった。いくら姫が何も要らないと言っても、聞こうとはしなかった。だが、紅梅姫も重郷のそんな子供じみたところが好きなようだった。
「姫様、殿がみえられなくても、良いのですか?」
「たまには良いのではありませんか? 戦に赴くのなら心配ですが、今はまだお城においでです」
「ですが、戦になるかもしれません」
「若橘……あなたが其のように心配していては、わたくしが落ち着きません。逆さまですよ、あなたがわたくしを案じるものです」
此れには若橘のほうが、一本取られた。元来ゆったりとした性格だったが、近頃では、少々のことには動じなくなった。若橘のほうが、紅梅姫から励まされることが有るくらいだ。
「……少し、疲れました、休みましょう……もうすっかり、秋ですね」
庭の紅葉が赤く染まり、落ちては池を漂う。其れもまた、風流であった。京に居た頃の秋の紅葉狩りを思い出すように、うっとりと庭を眺める紅梅姫の姿は、絵巻物のように輝いている。
紅梅姫は庭を見ながら、一つ咳をした。暫くすると紅梅姫の美しい顔から血の気が失せ、真っ白になる。
少し苦しそうだった。
「姫様、少し冷えて参りましたので、閉めます」
若橘は急いで、障子を閉める。
だが、紅梅姫の咳はいっこうに止まる事無く、次第に激しくなる。
「姫様、薬師を呼びます……」
「大丈夫です、例の薬を下さい。殿に無用の心配をかけたくは有りません。政の邪魔にはなりたくは無いのです。若い側室のところへ行って政に支障が出たと有っては、御正室様にまた何と言われるか……」
幼い頃から、紅梅姫は季節変わりに熱を出す。そのときに用いる薬があった。
「薬を見て参ります。あの薬なら、早めに飲めば大丈夫ですから」
若橘は志乃に紅梅姫のことを頼み、京より持参した荷物の中を探したが薬の袋は見つからない。
仕方が無いので宗右衛門を訪ねようとたが、あいにく翔太と共に豊前との国境の偵察に行ったと志乃が教えた。
姫は持病とまでは謂わないが、この時期に風をひくと熱が下がらず、湿疹が出たり、身体が痛んだりするのだ。其のときに使う薬を京より持参したつもりであったが、如何しても見当たらなかった。
頼みの隼人も、宗右衛門の用で京へと上っている。
考えた末、若橘は山へと向かった。こうなったら、山に薬草を探しに行くしかない。
志乃は心配したが、「これでも草の端くれだ」と見栄を張った。だが其れが仇となった、と山に入ってから後悔した。慣れない山は若橘を拒絶するようだった。しかも不都合なことに、いのししに追われ道に迷ってしまったのだ。
一応、懐剣で木に目印はつけてきたが、其れが見当たらなくなった。
皿倉山は福知山へと繋がっているので、慣れない者が行くには奥深く、難しいところだった。
「もう、如何なっているのだ。とうとう、迷うてしまった、同じような処ばかりだ」
やはり秋は天気の移り変わりが早く、しかも山だ。屋敷を出たときは、あれほど天気は良かったのだが、雨がぽつぽつ降り出した。そして、次第に暗くなっていく。
若橘は薬草を探しながら、山奥を彷徨った。
ちょうど其の頃、沢村が屋敷を訪ねていた。
重郷に城の帰りに紅梅姫の様子を見に行くよう、命じられたようだった。
志乃が事の次第を話すと、沢村は顔色を変える。
「よくもまあ、お一人で行かれたものだ、あそこはいのししが多い、危険ですよ。それに、ほら、山のほうにだけ雨雲が掛かっている。あそこはそういう処なんです」
「……如何しましょう、若橘様はお一人で行かれました。少し山に入れば見つかると謂われて」
「分かりました、わたしが捜しに行きましょう」
「……それなら、沢村様、このような印を木につけて行く筈です」
そう言って、志乃は厨から薪を持ってきて小刀で印をつけて見せた。
山へ入る道は大体決まっているので、他からは入らないだろうと、沢村は屋敷から一番近い入り口に見当をつける。
其処にはやはり若橘の馬が繋がれ、木につけた目印が有った。
沢村も馬を降り、若橘がつけた目印を追いながら、次第に山の奥深く入っていく。
若橘がつけた印は、沢村をいのししによって踏み荒らされた処へと導いていった。
「若橘ぁ」と何度も声を上げるが、其処には若橘の姿は無く、次第に日が暮れていく。沢村が焦り始めた頃、小川の近くで若橘の姿を確認した。
「若橘!! 大丈夫か?」
沢村は倒れている若橘に駆け寄り、肩を起した。
「……どうして、沢村様が? 本当に沢村様ですか?」
「……しっかりしろ? どうして一人でこんな処へ入って来たのだ、志乃も心配しておったぞ」
「此れを姫様に煎じて差し上げようと……お苦しいようだったので」
若橘は手にした袋を沢村に見せた。
「分かったが、立てるのか?」
「それが、其処から滑り落ちて、足を捻ったようで……」
沢村が着物の裾をはらおうとすると、若橘は着物の裾を手で押さえた。しかし、沢村は其れに構わず、彼女の足を引き出してみる。若橘は悲痛な顔をした。
「……痛いであろう、こんなに腫れていては歩くのは無理だ」
「申し訳ありません……こんな事になろうとは」
「わたしのほうが信じられん、草ではないのか? 全く、こんな者もおるのだな」
「……もともと姫様の侍女ですから、情報集めと姫様をお守りするのが仕事ですから……でも、情けないのです、自分でも……」
「本当に情けない奴だ……背中に乗れ」
沢村は若橘に背中を向ける。若橘は戸惑い、動こうとはせず沢村の背中を見つめた。雨も次第に強くなってくる。
「貴女らしくもない、さあ、行こう。こうして何時までも此処に居たら、また、いのししに襲われるやもしれん」
にたりと笑って振り返った沢村を見て、若橘は首を振る。いのししだけは駄目らしい。
「そうであろう? 此の辺りはいのししが多い、牡丹鍋は美味しいのだが、生きたいのししはちょっと勘弁してほしい。確か、この先にいのししの猟師小屋がある。まだ、猟の時期には少し早いので、其処へ行ってみよう。もう、日が暮れるし其の足では長い距離を歩くのは無理だ。暫く冷やすと良い……さあ」
沢村に促され、若橘は仕方なく沢村の背中に乗った。徐々に雨足も強くなり、日も暮れ薄暗くなってきた、直ぐに山を降りるのは容易ではなかった。
現在でも、皿倉山にはいのししが居るそうです。




