17 続薄野《すすきの》
部屋を出て来た若橘に、志乃は頭を深く下げた。
「申し訳ございません、隼人さんが参りまして、もうすぐ翔太が来るはずだから若橘に教えろと言われました……」
「……そうですか、分かりました。ありがとう」
隼人が気を遣ったのだ。全てお見通しだということだ。
と謂うことは、いくら目の当たりにしていなくとも、翔太に分からないはずは無い。
若橘は志乃と共に厨へ向かう。案の定、其処には翔太が腕を組んで柱に寄り掛かり、立っていた。
「なあ、若橘、おまえは如何したいんだ?」
今、会いたくない男だった。ましてや顔など見られたくないと、若橘は思った。
いくら闇の中といえど、彼らの目は効く。
さっきまでの沢村との事を思い出し、若橘は闇の中で翔太から目を逸らした。
沢村を求める顔を、翔太には見られたくなかった。
「奴を信用するのか? おまえは里の人間以外の男を信用するのか?」
「……怖い、人を信じるのは怖い……だが、この気持ちはもう如何しようも無い……なあ、翔太、教えてくれ、如何したらいいんだ?」
「……バカ、俺に聞くな! 俺は知らん!」
翔太は顔を真っ赤にして怒っている。
自分でも愚かだと思った、翔太に聞くことでは無い。
紅梅姫が重郷を思い、苦しんでいたのを見て分かるつもりでいたが、其れがどれほど苦しいものか、今頃知った。心から血が流れ出るようだった。
ならば、失う時の悲しみは如何なのだろうかと、もっと苦しいだろう。
手に入れる前から後のことを心配するのは愚かだが、其れでも不安なのだ。
だから、沢村に踏み切れない、頭が拒絶する。いずれ、沢村は嫁をとるはずだ。紅梅姫の侍女であり、しかも裏の顔を持つ自分と釣り合うはずも無く、若橘は苦しんでいた。
求められて応じても、其れだけで終わる。いや、終われない、もっと求めてしまうに違いない。
だが、もう気持ちを押し殺すのが限界にきていることを、若橘は感じていた。
「若橘、俺はおまえが欲しい、それも心ごと欲しい。沢村を本当に愛しているのか?」
「……もう聞かないでくれ、そして、わたしが如何なろうと、関わらないでくれ」
「無理だな、俺達は殿様の恋愛ごっこに付き合っているわけじゃない、情報を探り売る、武力が必要とあらば、其れを使う。今は大内の殿の為にやっている、姫様のご実家も大内を頼みとしている公家だ、だから、おまえも此処まで着いて来たんだろ? 恋愛ごっこをしに来たんじゃないだろ!」
「もう良い、翔太、今日は帰ってくれ」
「おまえが、そんなんじゃ、心配だ。姫様もこのまま上手くいけばいいが、大友の方も油断は出来ない。此れから農閑期を迎えるからな、国境のいざこざが増える。殿も今のように暇は無い」
「翔太、もう其のくらいにしろ。若橘も、もう少し頭を冷やすんだな」
隼人の声がする。闇の中に隼人も立っていた。
「隼人、格好つけてんじゃねえよ! おまえだって、志乃のこと如何すんだよ。宗右衛門殿を怒らせたら、怖えぞ!」
翔太は隼人に八つ当たりする。
「翔太、おまえも一緒だ、若橘に手え出したら、睨まれるぞ」
「うるせえ! こいつは、沢村にいかれてる、ああ、腹が立つぜ」
隼人は闇の中で、分かったと謂わんばかりに翔太の肩を叩いた。
だが、今日の翔太は簡単には引かなかった。
「おまえは、どっちの味方なんだ! 何で沢村の味方なんかすんだよ、如何しても許せねえ!!」
翔太は寄り掛かった柱から身体を起こし、隼人の胸ぐらを掴んだ。
「お前に殴られるほど柔じゃない、お前は人の気持ちも読まず短絡的に事を運ぼうとする癖が有る、止すんだ、若橘が苦しむだけだ」
「おう、よく言うよ、じゃあ何か? 若橘が沢村に抱かれるのを指をくわえて見てろって、そう言うんだな? お前だって、志乃が他の男に抱かれるのを見てられるのかよ!!」
翔太は拳を振り上げ、隼人に殴り掛かろうとした時、志乃が翔太の手首を掴む。
「翔太さん、もう止めて下さい、若橘様がお可哀相です……もうこれ以上、揉めるのは止めて下さい」
「何だよ、これじゃあ俺が一番悪いみたいじゃねえか」
翔太の力が抜けていく。
だが、隼人は
「……いや、みたいでは無く、お前が一番、悪いんだ! 如何してもっと早く、若橘を自分のものにしておかなかった!」
と言って、翔太の顔面を力いっぱい殴った。
流石の翔太も尻もちをついて倒れる。
口から流れ出る血を手の甲で拭うと、翔太は其のまま笑い出した。
「みっともねえな、俺も隼人も……隼人だって、女の手え借りて俺を殴ってやがる!」
自嘲的な笑いが虚しく響く。
「ごめん、翔太、本当にごめん」
若橘は翔太に駆け寄り、翔太を起こそうとする。
翔太は若橘に体重を預けた。
若橘は翔太の体重を受け止めきれずに、逆に翔太が馬乗りになった状態になる。
上から若橘を押さえ顔を近づけたが、とっさに若橘は顔を背けた。
「……冗談だよ、まったく、面白くねえな」
翔太は若橘から離れる。
其れを見て志乃が駆け寄り、若橘は身を起こした。
「翔太さん、皆、翔太さんのこと好きですから……そんなの、翔太さんには似合いませんから」
志乃が見かねたように言った。
「志乃、隼人とは仲良くしろよ、お前らくらいは上手くいってくれ……なあ、若橘」
「ああ……」
「何だよ、気の無い返事だな」
「翔太さん、若橘様の事はわたくしがお守り致しますから、大丈夫です」
「志乃、おまえ強くなったな、女はやっぱり男が出来ると強いな……」
「翔太さん、そんなところに感心しないで下さい、恥ずかしいです! 若橘様も翔太さんのお気持ちは分かっておいでですから」
志乃は闇の中で笑った。
仲間だけが信頼をおける存在で、他を信じきることは出来ない。何時、覆されても不思議でない時代、其の中で真実を見つけながら、一つ一つ拾い上げ、確認するよう育てられた。そんな悲しい運命を彼らは背負っていた。




